『幻の女』|【名作長編 祟られ屋シリーズ】

『幻の女』|【名作長編 祟られ屋シリーズ】洒落怖・怖い話・都市伝説 祟られ屋シリーズ

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『幻の女』

149 :幻の女 ◆cmuuOjbHnQ:2008/11/30(日) 07:42:22 ID:???0

どれくらい眠っていたのか、その時の俺には判らなかった。
だが、「ねえ、そろそろ起きない?私、もう行かなきゃいけないんだけど」と言う声で俺は眠りから覚まされた。
声の主は多分、アリサだったと思う。
頬に手を触れられる感覚で、朦朧としながらも俺は目を開いた。
眩しい白い光が俺の網膜を突き刺す。
徐々に明るさに慣れてきた俺の目は見知らぬ天井を見上げていた。
目が回り、吐き気が襲ってくる。
体が異常に重く、全身の筋肉が軋んで痛む。
状況が飲み込めずに呆然としていると、ベッドの横のカーテンが開き、見覚えのある女が俺の顔を覗き込んだ。
2・3年ぶりに見た顔だったが、姉に間違いなかった。
霧のかかった俺のアタマでは姉が何を言っていたのか判らなかったが、慌しい人の気配を感じ、俺は再び眠りに落ちて行った。

ヨガスクールの事件が終わり、マサさんと飯を食った後、俺はその足でアリサのマンションを訪れた。
インタホンを鳴らし、エントランスを通ってアリサの部屋まで上がると、アリサは俺を歓待した。
手土産の花とケーキの箱で両手が塞がった俺にアリサは抱き付いた。
「お仕事は終わったの?」
「ああ」
「う~、女の人の臭いがする・・・」
「えっ?!」
「・・・嘘よw」
リビングのソファーに腰を下ろす俺に紅茶とケーキを出すと、アリサは寝室へと引っ込んだ。
寝室から戻ったアリサはラッピングされた箱を俺に渡すと「ハッピーバースデー」と言った。
すっかり忘れていたのだが、俺が山佳京香ヨガスクールに潜入している4ヶ月弱の間に、俺の誕生日は過ぎていた。
箱の中身は、俺がその時使っていたものと同じカスタムペイントの施されたバイク用のヘルメットだった。
このペイント・・・マサさんが、俺の行き付けのショップを紹介したのだろうな・・・
俺はアリサに「ありがとう。大事に使わせてもらうよ」と礼を述べた。

俺の言葉に「うん」と答えたアリサの表情は浮かなかった。
こういう時は殆どの場合、彼女は厄介事を俺に隠していた。
そして、彼女の厄介事とは、まず間違えなくストーカー関係のトラブルだった。
俺が彼女と知り合う切っ掛けとなったのも、彼女の知人経由で悪質なストーカーからのガードを依頼されたことからだった。
アリサには強い霊感と共に、人を惹きつける不思議な吸引力があった。
それがある種の男達を繰り返し惹き付けた。
アリサに惹き付けられた男達は、一様に彼女に対し強い嗜虐心を煽り立てられるようだ。
だが、アリサがストーカー被害を相談できる相手は、ごく少数の者に限られていた。
警察に相談すれば?と言う疑問もあるとは思うが、ニューハーフだった彼女はストーカー被害を警察に相談して余程屈辱的な扱いを受けたのだろう。
彼女は警察を全く信用しておらず、相談の相手は俺や、以前働いていた店のママなどに限られていた。
俺は、ママに言われたからではなく、アリサを守ることは俺の仕事・・・そう心得ていた。
だが、俺のストーカーに対する「制裁」が苛烈すぎたのだろう。
アリサはギリギリまで俺に隠して自己解決を図ろうとした。
自己解決・・・ストーカーが諦めるのを待って、ただ耐えるのが「解決」と言えればの話だが。
そもそも、ストーカー被害を第3者の力を借りずして解決するなど、まず不可能な事なのだ。
俺はアリサを問い詰めた。
アリサが俺に語った話は意外なものだった。

俺の不在中、案の定アリサはストーカーに付き纏われていた。
アリサはキムさんの「表」の仕事関連の事務を請け負っており、その関連で彼女のストーカー被害がキムさんの耳に入った。
自宅と事務所の往復は事務員の男性の申し出で、彼の通勤の車に便乗していたようだ。
だが、それだけでは心許なく、キムさんはかつて行動を共にしたことのある権さんをアリサのガードに付けた。
以前、「裏」の仕事に協力してくれたということで、キムさんの計らいによるノーギャラでの警護だった。
ストーカーの正体は意外な形で明らかになった。
犯人は北見という男だった。
北見は以前にもアリサに対してストーカー行為を働き、俺の手による「朝鮮式」のヤキで一度目は「電球」を、二度目は尿道でポッキーを喰わされた男だった。
北見のアリサに対する異常な執念は恐ろしいものだったが、そんな北見がアリサのマンション近くの路上で刺されたのだ。
北見の怪我自体は重傷ではあるが、命に関わるものではなかった。
警察は治療が終わり北見の意識が回復すれば、本人から犯人に付いての供述を得られると考えていたようだ。
しかし、麻酔から覚め、意識を取り戻した彼は心神喪失の状態にあり、何かに激しく怯えるばかりで供述を得られる状態では無かったようだ。
捜査は難航し、犯人は捕まらなかった。
だが、北見が再起不能になって、アリサへの嫌がらせはピタリと止んだ。

北見を刺した犯人は捕まらなかったが、アリサへのストーカー被害が止んだ以上、そこから出来る事は殆ど無かった。
しかし、依然アリサは自分に向けられる「監視の視線」と尋常ではない「悪意」を感じていた。
アリサの様子に権さんも何か感じる所が有ったのだろう、キムさんに「普通」の事案ではないかもしれないと報告した。
キムさんから話を聞いたマサさんは、俺が不在の間、アリサの相談を聞いていたようだ。
北見を刺した犯人は依然逮捕されておらず、アリサは不安に怯えていた。
キムさんの「有給休暇扱いにしてやるから彼女に付いていてやれ」との言葉で、俺はアリサの警護に付く事になった。
俺は、アリサの自宅と事務所の往復に付き添うと共に、事務所に詰めることにした。
アリサの事務所には先代所長の頃からの事務員の女性と、国家試験受験生だと言う根本と言うアルバイト事務員の男がいた。
この根本が、北見によるストーカー被害が始まって以来、アリサの送迎をしていた男だった。
俺は根本と机を並べて事務所の雑用をこなしつつ、自宅にいる時間以外はアリサと行動を共にしていた。
根本はアリサに対して恋慕の感情を抱いていたようだ。
決して悪い男ではなかったが、アリサの送り迎えは彼にとって貴重な時間だったのだろう。
「受験勉強の邪魔になっては悪いから」というアリサの言葉によってだったが、彼の貴重な時間を奪った俺の存在は面白くなかったようだ。

俺がアリサのガードに付いて2・3週間、特に変わったことは無かった。
アリサは怯えていたが、俺にはアリサの言う「悪意」とやらは感じることが出来なかった。
キムさんやマサの元でそれなりに場数を積んだ俺には、危険に対する嗅覚が備わっていた。
力のない俺が何とか無事にやってこれたのは、危険な空気や自分の手に余る危険を嗅ぎ分ける「嗅覚」のお陰だった。
だが、ある月曜日の朝、状況は一変した。
事務所に到着した俺は、一見いつもと変わらない事務所の空気の中に「殺気」を感じていた。
「殺気」はアリサではなく、俺に向けられたものだった。
普段と変わらぬ態度で必死に隠してはいたが、殺気の主は根本に間違えなかった。
俺がアリサの送り迎えをするようになってからも、根本がアリサのマンション近辺に遠回りして通勤している事に俺は気付いていた。
それでも俺の中で根本はストーカーとしてはノーマークだったが、この敵意は彼のストーカー行為を如実に表していた。
堅い商売であるアリサの体面も考慮して、俺は以前のような泊まり込みの警護はしていなかった。
北見のこともあって、アリサを監視するストーカーは、ターゲット本人ではなく、近付く異性に敵意を向けるタイプと俺は踏んでいた。
厄介なタイプだが、俺はアリサから離れたタイミングを狙ってストーカーが俺に向けてアクションを起す事を期待していた。
だが、俺は大きな読み違え、計算間違いをしていたらしい。

その前の週末、いつも通りにアリサを部屋に送った俺は、そのまま帰ろうとしていた。
そんな俺にアリサが『たまには寄って行きなさいよ』と声を掛けた。
結局俺は部屋に上がり込み、久しぶりのアリサの手料理に舌鼓を打った。
久々に口にしたアルコールも手伝ってか、そのまま俺達はベッドに雪崩れ込んだ。
寝物語の中でアリサは盛んに『いっそこの部屋に住んじゃいなさい』とか『危ない仕事は辞めて、このまま事務所に勤めてよ』といった言葉を繰り返した。
結局、俺は日曜の夕方までアリサの部屋で過ごしたのだが、そんな俺の行動やアリサとの会話を「聞かれていた」のなら根本の俺への敵意にも納得が行く。
後日、俺はキムさんのボディガードの文の伝で簡易検出器を借りて、勤務時間中に事務所を抜け出してアリサの部屋を調べ上げた。
案の定、アリサの部屋から3個の盗聴器が発見された。
俺は根本を挑発する為に、盗聴器をそのままにして、アリサの部屋に泊まり込んでの警護に方針を変えた。
目論見通り、根本の俺に対する敵意や殺意は日毎に強まっていった。

そんなある週末の事だった。
深夜、俺は異様な気配に目が覚めた。誰かに見られているような気配、強烈な「悪意」。
根本が来ていると悟った俺は、アリサを起さないようにベッドから抜け出て服を着るとマンションの外に出た。
人通りはなかったが「気配」を感じる。
盗聴電波の受信範囲から考えて、そう遠くない場所にいるはずだ。
俺は根本を探して付近を歩き回った。
少し先の公園前の路上に見覚えのある青のプジョーが止まっていた。根本の車だ。
エンジンキーは挿しっ放しで、助手席には受信機だろう、大き目のトランシーバーのような形状の機器が無造作に置かれていた。
そう遠くには行ってないはずだ。
俺は携帯でアリサに電話をすると、俺が戻るまで誰が来てもドアを開けないこと、コンポに入っているCDを掛けてくれと頼んだ。
助手席の受信機から伸びるイヤホンを耳に刺し、電源をいれ周波数調節のツマミを回した。
直ぐに受信機が音を拾った。アリサが好んで聞いていたクラナド、いや、モイヤ・ブレナンの曲が聞こえる。
盗聴器を仕掛けた犯人は根本に間違いないようだ。

俺は暗い公園の中に入って行った。
テニスコートの先の遊戯場のベンチのそばに人が倒れている。根本だった。
切創などは無かったがダメージは深そうだった。
見た所、「柔らかい鈍器」、ブラックジャックやサップグローブを嵌めた拳で執拗に打ちのめされた感じだった。
俺は救急車を呼び、アリサに連絡を入れた。
根本が病院に搬送されて2時間程して根本の両親とアリサが姿を現した。
アリサのストーカー被害の話は根本の両親も知っていたようだ。
根本の両親はアリサや俺に食って掛かった。
俺は根本の車の中にあった受信機を示して、アリサの部屋に盗聴器が仕掛けられていたこと、状況から犯人が根本である事を説明した。
根本の両親は衝撃を受けた様子だったが、それ以上にアリサのショックは大きかったようだ。
アリサは病院の待合室の床に力なくヘタリ込んだ。
北見の事件のこともあり、根本の回復が待たれたが、意識を回復した根本もまた、何かに怯えるばかりでまともに言葉を交わすことは不可能だった。

北見と根本、アリサに付き纏った二人のストーカーは何者かの手によって完全にぶっ壊された。
その意図や目的は判らないが、相手が只者でない事は確かだろう。
アリサの落込みや怯えは只事ではなかった。
アリサは「何で私ばっかり・・・もう嫌・・・」と嘆いた。
俺の発した「全くだ。次から次へと、何度も何度も。俺もいい加減うんざりだ」という言葉にアリサは更に俯いた。
「大体、何度も頭のおかしい連中に付き纏われてるくせに、懲りずに一人暮らしをしているのが良くない。
問題があるのはお前の方かもしれないな。お前、一人暮らしはもう止めた方がいいよ」
「・・・」
「また変なヤツに付き纏われても面倒だから、俺がお前を監視する。俺の部屋には大して荷物もないし、明日にでも早速な」
アリサは「えっ?」と、一瞬呆けたような顔で俺を見て、それから首を縦に振った。
こうして、俺とアリサの同棲生活が始まった。
新生活は暫くの間、平穏に続いた。
ある休日、俺達は近くのショッピングセンターに買出しに出かけた。
女の買い物ってヤツは無駄に長い。
連れ回されて少々うんざりした俺は「ここで待ってるから」と言って、ベンチに座って書店で買った雑誌を読んでいた。
そんな俺に声を掛けてきた女がいた。

一瞬、『誰だ、この女』と思ったが、直ぐに思い出した。
高校生の頃に付き合っていた「ノリコ」だった。
久しぶり、どうしてた?といった取り留めのない話で俺とノリコは盛り上がった。
ノリコと暫く話をしていると、アリサがカートを押しながらこちらに向ってきた。
アリサは俺たちの前に来るとノリコを一瞥して、俺に「どなた?」と聞いた。
いつも人当たりが柔らかく、おっとりした雰囲気のアリサには珍しく、その視線や声には険があった。
女の勘ってヤツは怖いな、と思いながら俺はアリサに「彼女はノリコ。高校の同級生。偶然にあって声掛けられちゃってさ」
ノリコには「彼女はアリサ。俺たち、今一緒に暮らしてるんだ」と紹介した。
俺はノリコに「俺達、これから飯を食いに行くんだけど、一緒にどうよ」と儀礼的に誘ってみた。
ノリコは「今日は遠慮しておくわ。また今度ね」と言って、俺達の前から去って行った。
帰りの車の中でアリサは無言だった。
俺が「どうしたの」と聞くと、アリサは「なんでもない」と答えたが、その声は硬かった。
ノリコの事を気にして機嫌が悪いのかなと思って、俺はアリサの手を握った。
握り返してきたアリサの手はビックリするくらいに冷たい汗でべったりと濡れていた。

その晩から、アリサは毎晩悪夢にうなされるようになった。
大量の寝汗をかきながら、苦しそうに呻くアリサを揺り起した事もあった。
どんな悪夢を見ているのか、アリサは語ろうとしなかった。
だが、ぎゅっと抱きしめて「ずっとそばにいるから、安心して寝な」と言うと安心するのか、やがて寝息を立てた。
アリサが毎晩悪夢にうなされている以外は、ストーカーの影も無く、生活は平穏そのものだった。
俺はキムさんの仕事に復帰した。
そんなある日、俺の携帯に見知らぬ番号から着信が入った。
電話に出ると、女の声がした。ノリコだった。
再会を祝して飲みに行かないか?という誘いだったが、アリサの調子が良くないからと言って俺はノリコの誘いを断った。
電話を切って、アリサの待つマンションへ向けて車を走らせていて、俺はふと思った。
『あれ?俺、ノリコに携帯の番号教えたっけ?名刺も番号交換もなかったよな・・・?』

帰宅して玄関のドアを開けると、部屋の中は真っ暗だった。
いつも夕食を用意して待っているアリサの姿がリビングにもダイニングにも見えない。
俺は寝室に向った。
寝室のドアを開けると、ベッドの上で毛布を被ったアリサが膝を抱えて震えていた。
只ならぬ様子に俺はアリサに駆け寄って聞いた。「どうした?何があった?」
アリサは俺に抱きついて、震えながら「判らない。でも、誰かに見られてる、強い悪意を感じるの。怖い」と言った。
俺は部屋中の明かりを点け、ダイニングの席にアリサを座らせて夕食を作り始めた。
作りながら俺は考えた。
絶対におかしい。
アリサの怯え方は普通じゃない。
だけど、アリサがあれ程までに怯える「視線」や「悪意」なら、俺にも何か感じられるはずだ。
アリサの恐怖は本物だ。だとすれば、俺の勘や感覚がどこかで狂ってる。
不味いな・・・

俺は自分の「嗅覚」に確信が持てなくなった。
アリサを、いや、自分自身の身さえ守れる確信のなくなった俺は極度にイラ付いていた。
そんな俺にノリコから誘いの電話が頻繁に入るようになった。
怯えるアリサを放置する事は出来ないし、俺自身が北見や根本を襲った襲撃者の影に怯えてピリピリしていて、そんな気分ではなかった。
そんな俺の神経を逆撫でするように、ノリコの電話の頻度は上がり、誘い言葉も際どくなって行った。
我慢できなくなった俺は「いい加減にしろ!」と一喝して、ノリコの番号を着信拒否にした。
ノリコの電話を着信拒否にして、俺のイラ付きの原因は1つ取り除かれた。
しかし、アリサのうなされ方は夜毎に酷くなっていった。
その晩もアリサは酷くうなされていた。
神経過敏になっていた俺は眠れずにいた。
だが、悪夢にうなされていたアリサが突然目を開け、上体を起き上がらせた。
アリサが起き上がったのとほぼ同時だった。
バイブレーターにしてホルダーに刺してあった俺の携帯が鳴った。
俺の背中にゾクッと悪寒が走った。
この悪寒は危険を知らせる俺の「嗅覚」そのものだった。

俺は携帯の方を見た。
有り得ない事に、着信拒否にしたはずのノリコからだった。
あれほどしつこかったノリコの電話もアリサと一緒の時には掛かって来た事は無かった。
まずい、この電話に出てはいけない・・・そう思った瞬間、アリサがホルダーから俺の携帯を取り上げ、電話に出た。
電話に出たアリサは真夜中にも関わらず大声で叫んだ「アンタなんかに彼は渡さない、この人は私が守る!」
そう言うと携帯を投げ捨てて、俺に抱きついて子供のように声を上げて泣いた。
俺はアリサを宥めると、表示されたノリコの携帯の番号に電話をかけた。
しかし、帰ってきたのは「この電話番号は使われておりません・・・」というアナウンスだけだった。
俺の背中に冷たいものが走った・・・
俺はアリサを伴ってマサさんの許を訪れた。
だが、マサさんやキムさんにも、俺やアリサに向けられた呪詛や念、祟りといったものは感じられないと言う事だった。
キムさんが「私の方で調べてみる。何かあったら直ぐに知らせろ。いつでも人を行かせられるように手配しておく」と言って、俺達は別れた。
北見や根本は「物理的」に暴行を受け傷を負っている。しかし、その後の魂を抜かれたような精神状態は霊的・呪術的なものを感じさせた。
俺にはもう、訳が判らなくなっていた・・・

アリサは悪夢の中で何を見たのか、電話でノリコに何を言われたのかを俺に話そうとはしなかった。
問い詰めた所でアリサは話さないだろうし、話さないのには彼女なりの理由があったのだろう。
聞いた所で、こちらからノリコに接触する術がない以上、俺にはどうしようもなかった。
ただ、キムさんの知り合いの「女霊能者」が作ってくれたと言う護符のお陰か、アリサの悪夢はどうやら収まった様子だった。
俺は、俺とアリサのために動いてくれている、キムさんの結果を待つしか成す術が無かった。

キムさんの連絡を待ち続けて何日経っただろうか。
恐ろしいほど静かな晩だった。
暗闇の中で俺は何者かの視線を感じて目を覚ました。誰かが俺を呼んでいる?
激しい敵意、殺気が俺を押しつぶさんばかりに部屋に満ちていた。
濃密で強烈な「害意」だったが、アリサは全く反応していなかった。
俺はベッドから抜け出し服を着替えた。
ジャケットの下には、権さんに渡されたイスラエル製の防弾・防刃チョッキを着込んだ。
スーツの下に着ても目立たないほど薄手だが、38口径の拳銃弾も貫通させないと言う優れものだ。
手には愛用のサップグローブを嵌め、鉄板入りの「安全靴」を履いた。
俺は部屋を出た。
ドアが閉まり、施錠の音が止むとマンションの廊下は空気が凍りついたかのように静かだった。

エレベーターで1階まで下り、エントランスを出た。
冷たい空気が肌を突き刺す。
俺は辺りを見回し、駐車場へと足を運んだ。
誰もいない、そう思った瞬間、背後から人の気配と足音が聞こえた。
振り返った瞬間、どんっと激しい衝撃を受けた。
男がナイフを腰だめして体当たりしてきたらしい。
ナイフの先端がチョッキを僅かに突き破り、腹の皮膚を裂いたようだ。
鈍い痛みと流れ出る血の感触を俺は感じた。
防弾・防刃チョッキを着込んでなければ一撃で終わっていただろう。
刺された瞬間に放った右フックが男の顎を捕らえたようだ。
サップグローブの重い打撃に男も吹っ飛んだ。
だが、男の手にはまだナイフが握られていた。
脳震盪でも起していたのだろう、フラフラと立ち上がろうとした男の右手首を俺は安全靴の爪先で狙い澄まして蹴り抜いた。
男の手からナイフが吹っ飛んだ。手首の骨は完全に折れていただろう。
俺は畳み掛けるように男の顎を蹴り上げ、男の腹に踵を踏み下ろした。
男は海老のように丸まって悶絶した。

俺は蹴り飛ばされたナイフを拾って男に近付いた。
ナイフはダガーナイフ。ガーバーのマークⅡという、名前だけは聞いたことのあるものだった。
右前腕の手首に近い部分が僅かに曲がっており、骨折は明らかだった。
右腕の骨折と腹部のダメージに俺は油断していた。
男の顔を見ようと近付いた瞬間、ヤツの左手が横に動いた。
俺は咄嗟に避けたが額に引っ掻かれたような『ガリッ』という衝撃を感じ、流れ出る血に俺の左目の視界は完全に塞がれた。
逆上した俺は今度は顔面を踵で無茶苦茶に蹴り付けた。
コンクリートに頭のぶつかる鈍い音が聞こえた。男はピクリとも動かない。
殺してしまったかもしれない・・・
俺は血でヌルヌルとした手で携帯電話を取り出し、キムさんの事務所に電話を掛けた。
駆けつけた車で俺と男はキムさんの事務所へと運ばれた。
俺の腹の傷は深さ1cm程だったが、切られた左額の傷は骨まで達していた。
カランビットと呼ばれる特殊な形状のナイフだった為に、思いのほか深く食い込んだようだ。
男のダメージは激しかったが、命に別状はないようだった。
呼びつけられた医者が俺の傷を縫い終わると、殺気立った徐と文が男にバケツで水をぶっ掛けた。

水で血が流されると、鼻は潰れ、前歯の殆どが折れて痣だらけだったが、それでも男がかなり整った容姿をしているのがわかった。
「鬼相」とでも言うのか、怒りとも憎しみとも言えない険しい表情がなければ、人の目を引く「美形」と言えるだろう。
色白で特徴のある女顔・・・似ている。。。
「・・・いいナイフを持ってるじゃないか。辻斬りの真似事か?
俺の仲間は運良く助かったが、殺る気満々だったようだな。お前、コイツに何の恨みがある?
お前のやり口には躊躇いってものが無い。何故この男を殺そうとした?」
文がそう言うと、横にいた徐が男の腹に蹴りを入れた。
男は背中を丸め呻いたが、その目には怯みや恐れは無かった。
むしろ、狂った眼光にその場にいた者は圧倒された。
「北見と根本を襲ったのもお前だな?・・・お前、星野 慶だな?」
俺が男にそう問うと、男は血の塊と言った感じの唾を吐き捨てた。肯定ということだろう。
文と徐は『?』な顔をしていた。
「こいつはアリサの、いや、星野 優の実の兄貴だ。実の『弟』に虐待を加えていた鬼畜の変態野郎だよ」
「何故今更姿を現した?逆恨みか何かか?」
すると、慶は気でも狂ったかのように馬鹿笑いを始めた。
「今更だと?俺はお前がアイツと知り合う前から、そう、女になる前からアイツの事を見ていたんだよ。何故だか判るか?」

「・・・まさか、守ってたとでも言うのか?」
無言で答える慶に徐が口を挟んだ。
「待て、待て、待て!それじゃ話の筋が通らねえだろ?
俺が言うのも何だが、あのネエちゃんを手前がぶっ殺されそうになっても体張って、ここまで守ろうってヤツはコイツしかいねえぞ?
お前が、あの女をクソ共から守りたいと言うなら何でコイツをぶっ殺さなきゃならねえんだ?」
慶は苦笑しながら答えた。
「お前らには判らないだろうなぁ。それはな、この男のせいでアイツが死ぬからだよ」
「ふざけるな!」と食って掛かる徐を制して俺は慶に尋ねた。
「それは、ノリコの事か?」
「その女が誰かは知らないが、アイツを手に掛けるのはお前自身だよ。俺達兄弟には判るんだ。
『勘』と言うよりはもう少しハッキリした感覚だ。アンタにも有るんだろう?
そうでなければ、俺はアンタを確実にブッ殺せていたはずだ。
アンタ自身、信じられないかも知れないが、アイツを殺すのはアンタだよ。
アイツは生まれた時からどうしようもないクズ共や、色んな不幸を呼び込んで来た。いや、生まれてきた事自体が不幸といえる疫病神だ。
酷い目や危険な目に嫌になるくらい遭って来て、そういうものに対する勘は俺やアンタより数段鋭いはずだ。
判ってるはずだよ。アンタが自分にとってどれだけ危険な存在か。アイツはこっちに向ってる。本人に聞いてみるがいい」

文と徐は顔を見合わせた。
事務所に詰めていた二人は俺に呼び出され、俺達を事務所に運んで医者を呼んだが、アリサに連絡はしていなかった。
しかし、5分ほどするとインターホンが鳴り、権さんがアリサを伴って現われた。
室内に入ってきたアリサは慶の姿を見て凍りついた。
かつてアリサは、兄である慶の手により、かなり酷い虐待を日常的に加えられており、兄の存在はトラウマとなっていた。
以前、俺に伴われて郷里に戻った折には、実家に近付いただけでパニック障害と言うのだろうか?過呼吸の発作を起していた。
それ程までに慶の存在は恐怖の対象であり、その実物が目の前に現われ、アリサはショックを受けていた様子だった。
今にもへたり込みそうな身体を権さんに支えられたアリサに俺は「大丈夫か?」と声を掛けた。
声に反応して俺の方を見たアリサは、血塗れの俺の姿を見て一瞬、貧血でも起したのか膝がガクッと折れた。
また過呼吸の発作でも起していたのか、小刻みで苦しそうな息をしながら、権さんの腕を払ってフラフラと俺の方に歩いて来た。
アリサは膝を着き、涙を流しながら俺の両頬に触れると「酷い・・・兄さんが、やったの?私のせい?」と言って、俯いたまま黙り込んだ。
重い空気の室内に聞こえるのはアリサの苦しそうな呼吸だけで、誰も口を開こうとはしなかった。
やがて、アリサの呼吸は落ち着いてきた。
アリサが俺の頬から手を離したので『大丈夫か?』と声を掛けようとした瞬間、彼女はボソッと何かを呟いてフラフラと立ち上がった。
立ち上がり、テーブルの上に並べられた慶の所持していたナイフの一本を取り上げると、般若の形相で「殺してやる!」と叫んで慶に襲い掛かった。

徐と文が慌ててアリサを取り押さえた。
ナイフを取り上げられてもアリサの興奮は収まらず、履いてたパンプスを慶に投げつけた。
傷のせいか、医者に注射された薬のせいかはわからないが、熱に浮かされたような状態になっていた俺は重い身体を引き摺るように、座っていたパイプ椅子から立ち上がった。
俺は、徐に後ろから捕まえられ、慶から引き離されたアリサの頬に平手打ちを入れた。
「俺は大丈夫だから、落ち着け!」、そう言うと、アリサは子供のようにわんわん声を上げて泣き始めた。
アリサが泣き止んだ所で、「10年振り?いや、もっとか?久々の再会だろ?言いたい事があったら言ってやりな。コイツもお前に言いたい事があるらしい」
熱が上がってきたらしく、緊張が抜けて立っていられなくなった俺は床に座り込み、壁に寄りかかった。
慶とアリサの会話は暫く続いたが、意識が朦朧としていた俺には話の内容は届いてこなかった。
暖房を入れ、権さんが毛布を掛けてくれていたが、それでもひたすら寒かった事だけを覚えている。
やがて、話が終わったのだろう、権さんが俺の肩を揺すって「おい、大丈夫か?」と声を掛けてきた。
文が俺に「コイツはどうする?」と聞いてきた。
俺はアリサと慶を見た。
慶は「煮るなり焼くなり好きにするがいい。覚悟は出来てる」と言った。
俺は権さんの顔を見てから「二度と俺達の前に現われるな。警察に出頭するなり、逃げるなり勝手にしろ。次は無い」と言った。
徐が慶の手足を縛めていたタイラップを外すと、慶はヨロヨロと立ち上がった。

アリサと慶が何を話したのかは判らなかったが、アリサはもう怯えてはいなかった。
慶のアリサを見る目も穏やかだった。
去り際に慶が言った。
「優・・・いや、アリサ。お前は、自分に降りかかる悪意に抵抗する事も無く、ただ流されてきた。
さっき、俺にナイフを向けたのが自分でした初めての反撃だろ?
お前が、自分自身の力で立ち向かわなければ、お前自身だけじゃなく、その男も死ぬぞ」
そう言うと、何処にどうやって隠していたのか、一本のナイフを取り出し、『餞別だ』と言ってアリサに投げ渡した。
ナイフに詳しい文の話では、ラブレスの「ドロップハンター」、ブレードの両面に裸の女が表裏刻印された「ダブルヌード」と呼ばれるナイフマニア垂涎の珍品らしい。
骨まで達した顔面の傷が膿み始めていた俺は高熱を発し、キムさんの知り合いの病院の個室に1週間ほど入院する羽目になった。
顔面の傷はケロイド状に盛り上がり、そのまま残った。
退院した俺は、権さんに「今は彼女の為にならない」と言われ、アリサの部屋ではなく、元いたアパートの部屋に戻った。
入院中、アリサ達は見舞いに訪れたが、微妙な空気が流れていて、退院の連絡はしたが、その後アリサとは連絡を取れずにいた。
アリサたち兄妹が何を話していたのかは、権さんも、文や徐も話そうとはせず、聞くなと言う態度がはっきりしていたので、俺に知る術は無かった。
アリサと連絡を取らなくては・・・そう思いながらもズルズルと時間が経って行った。
そんなある雨の日の夜、アリサから俺の携帯に着信が入った。

着信が入る瞬間、俺の背筋には危険を知らせる『悪寒』が走っていた。
電話越しのアリサの声は、電波のせいか、喉の調子でも悪いのか・・・いつもと少し違っていたと思う。
俺はアリサの「今すぐ会いたい。出てこれる?」と言う言葉に「判った」と答えてアパートを出た。
アパートから細い路地を抜けて大通りに出た。
歩行者信号が青に変わり横断歩道を渡り始めた瞬間、俺は眩しい光に照らされた。
ワンボックスカーが猛烈なスピードで突っ込んでくる。
俺は、はっきりと見た。
運転席で女が・・・ノリコが笑っていた。
俺の身体は金縛りにあったかのように硬直した。
その瞬間、俺は強い力で背中を押された。
続いて、激しい衝撃に弾き飛ばされる感覚。
硬くて冷たい、濡れたアスファルトの感触と、ドクッ、ドクッという熱い感覚を頬に感じながら、俺は闇の底に沈んで行った。

俺が目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。
病院に搬入された時、俺は生きているのが不思議な状態だったらしい。
骨盤と脛骨、肩と鎖骨の骨折。頭蓋骨の陥没と顔面の骨折。
頚椎や脊椎にもダメージを負っていた。
出血多量でショック症状を起し、病院に搬送中、救急車の中で心停止も起していたらしい。
俺は1ヶ月以上意識不明の状態で生死を彷徨っていたそうだ。
そんな俺に姉が泊りがけで付き添ってくれていた。
意識が戻った俺は、ドクターが「前例が無い」と言うスピードで回復して行った。
個室から大部屋に移ると、友人達が入れ替わりで見舞いに訪れた。
意識が戻って暫くの間、俺は事故の前後の記憶を完全に失っていた。
だが、キムさんと権さん、そして友人のPが見舞いに来た時に、俺は何の気なしにキムさんに尋ねた。
「一度、来てくれていたような気もするけど・・・アリサが顔を見せてくれないんですよね。今、忙しいんですか?」
姉も、キムさんも権さんも俺と目を合わせようとしない。
だが、『アリサ』の名を口にした瞬間、あの晩のことを俺は思い出した。

俺はアリサと待ち合わせをして、待ち合わせ場所に向っていたんだ・・・アリサはどうしたんだ?
そして、俺はPに言った「俺を車で撥ねたのはノリコだ。俺は撥ねられる瞬間、確かに見た」
Pが言った。
「ノリコ?誰だそれは?それに、雨の夜じゃヘッドライトの逆光で運転席の人の顔なんて見えるわけ無いだろ」
俺は「何言ってんだよ。ノリコだよ!俺が高校の頃付き合ってた子だよ。お前も一緒に良く遊んだじゃないか!」
Pは「お前が付き合ってたのは、李先輩の妹の由花(ユファ)だ。お前と友人関係はかなり被ってるいるけどノリコなんて女は知らないよ」
「待ってくれ。そんなはずは・・・アリサに聞いてもらえば判る。アイツもノリコに会ってるから!間違いねえよ!」
興奮する俺の肩に姉が手を置いて言った。
「その、アリサさんはね、あなたと一緒に事故に遭って亡くなったのよ・・・」
「・・・嘘だろ?」
権さんが「本当だ。お前たちの事故を最初に発見して通報したのは朴だ。
お前に付き纏ってる女の話があったから、社長の指示で彼女とお前を引き離したんだが、それが裏目に出た。
彼女には俺の独断で朴を付けていたんだが、彼女は毎晩、お前のアパートの近くまで様子を見に行っていたんだよ。
あの晩、お前は慌てた様子でアパートを出て行き、彼女もお前を追っていった。
彼女に気付かれないように朴も付いて行ったんだが、突然の事にどうしようもなかったんだ」
俺達を撥ねた車は、飲酒運転で検問を無視して追跡されていた若い男の車だったらしい。アリサは即死だったそうだ。

アタマが真っ白になった俺にキムさんが続けた。
「お前の言ってたノリコと言う女性に付いて調べたよ。幼稚園から小中学校、高校の同窓生まで調べたが該当する女性はいなかった」
俺の頭は混乱の極みにあった。そんな、馬鹿な・・・ノリコが存在しないなんて。。。
だが次の瞬間、俺は愕然とした。
Pの言う由花の顔は彼女とのエピソードも含めてはっきりと思い出せるのだが、ノリコの顔も彼女とのエピソードの一つも思い出せないのだ。
俺は震えながら拳を握り締めた。
そんな俺に姉が言い難そうに言った。
「ねえ、あなた、子供の頃に川で溺れた事覚えてる?」
「ああ」と俺は答えたが、俺の記憶は曖昧だった。
俺が小学校低学年の頃に川で溺れて死に掛けた事は事実だったが、俺には、その事故の詳細やそれ以前の幼少の頃の記憶は全く無いのだ。
姉は続けた。
「あなたは覚えていないのかもしれないけど、あなたは周りに『ノリコちゃんに突き落とされた』と言っていたのよ」
俺にそんな記憶は無かった。姉は更に続けた。
「あなたが小学校に上がる前、P君たちとよく遊ぶようになる前、あなたは一人遊びが多い子だったの。
お父さんがあなたを出来るだけ外に出さないようにしていたからね。
あなたは時々家から姿を消して家族を慌てさせた。そんな時、いつも言ってたわ。『ノリコちゃんと遊んでた』ってね」
更に話は続いた。

どういう理由でかは判らないが、幼稚園に上がるまで、俺は髪を長く伸ばし、下着に至るまで女の子用の服装を身に付けて育てられたらしい。
親父が生まれるまで、俺の実家では何代にも渉って女の子しか生まれなかったそうだ。
祖父は長女だった祖母の婿養子だった。
跡取りにと、男の子を養子にした事もあったようだが、皆、幼いうちに事故や病気で死んでしまったそうだ。
女達も嫁ぎ先で男の子を産んだ者は居なかったようだ。
俺が女の子の格好で育てられたのは、どうやら、そういった事情による「厄除け・魔除け」的なものらしかった。
姉や、近所の年上の女の子たちは俺に自分の服やお下がりを着せたりして、「女の子」、いや、半ば着せ替え人形として遊んでいたようだ。
姉の記憶が正しければ、その時、女の子、或いは「人形」として俺を呼ぶ名前が、誰が言い出したのか「ノリコ」だったそうだ。
俺が川で溺れ死に掛けた時、親父は俺の写真をプリントからネガに至るまで全て焼却してしまっていた。
姉や妹の写真は残っているのに・・・
川での事故以降の写真は、姉や妹の物よりもむしろ多い位だったし、俺自身が写真を残したりアルバムを見返す嗜好が希薄な為、全く気にしてはいなかったのだが。
姉の話を聞く中で、俺の中でゴチャゴチャに絡まっていた糸が解け、一本に繋がっていくような感覚があった。
だが、俺は自分の脳裏に浮かんだモノを見たくなかった。
気づかない振りをして、封じ込めてしまいたかった。
だが、アリサを喪った現実と悲しみがそれを許さなかった。
俺の怪我の回復とリハビリは順調に進み、ドクターや理学療法士達の予想を大幅に短縮して退院の日を迎えた。
退院の日、担当医が言った。
「殺しても死なない人間って言うのは、君みたいな人を言うんだろうね。僕にとっては驚きの連続だったよ。
でも、過信はいけない。亡くなった彼女さんの分まで命を大切にね」

俺はアリサの納骨の為に、星野家の菩提寺を訪れた。
アリサの唯一の肉親である慶は行方不明で連絡の仕様が無かった。
アリサの供養が終わって、俺は以前にも世話になった住職に呼ばれて、鉄壷やヨガスクールの事件も含めて、それまでの事を話した。
アリサの事を話し終えると、住職が言った「不憫だ・・・」と
俺は「はい」と答えた。
住職は言った「・・・お前さんの事だよ」
「お前さんの会ったノリコと言う女は、お前さんも判っているんだろう?お前さん自身が作り出した物の怪と見て間違いは無い。
ある資質を備えた幼い子供は目の前に幻影を実体化させて遊び相手にすることがある。
中には実体化した幻影に連れ去られて、姿を消してしまう子供もいる。『神隠し』の一種だな。
この資質は、行者や修行者、霊能者などにとって重要なものなんだよ。
イメージを幻影として視覚化する力・・・仏像や仏画、曼荼羅などはこの力を補助する為のものでもあるんだ。
私は、この力こそが『神仏』を人間が生み出した力だと思うんだ。
お前さんは、この力が特に強いみたいだね。
他者による強力な干渉があったにせよ、行の進み方は早いし、験の現われ方も強い。
鉄壷を供養したという技法も確かに初歩ではあるかもしれないが、資質が無い者には不可能な業だよ」

しばし沈黙してから住職は続けた。
「自ら生み出した幻影に殺される・・・お前さんも、お前さんの家系も相当な因果を持っているんだろうね。
お前さんには確かに強い死の影が纏わり付いている。『魔境』とは違った、根深い影だ。
昔から星野の家の者は霊能の力が強い。長男坊の慶も、お前さんに纏わり付く、『妹』の命を刈り取りかねない程に強い死の影を見たのだろうな。
けれども、お前さんの運や生命力はそれ以上に強いようだ。まだ、生きて遣らねばならない事があるのだろう。
生きている間に、お前さんは自分自身の因果と向かい合わなければならない時がきっと来る。それまで、怠らず、十分に備えることだ」
それにしても、と住職は続けた。
「お前さんの生み出した幻影を一緒に見た彼女・・・お前さんと、魂の深い所で繋がっていたのだろうな。
そんな相手は幾度六道を輪廻して転生を重ねても、そう出会えるものではないだろう。
いや、輪廻転生とはそういう相手を求める魂の彷徨なのかもしれない。
そんな相手に今生で巡りあえたお前さんが羨ましくも、不憫でならないよ・・・」
俺はヨガスクールの事件で関わった山佳 京香たちの事を住職にお願いして寺を後にした。
山門を出て振り返り、一礼してから俺はサングラスを掛けた。

あの日から季節が一巡しようとしていた。
サングラス越しに冷たい風が目に沁みる。
駐車場へと向う俺の視界はジワリと歪んでいた。

[完]

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