闇深い集落 – 入ったらヤバイ閉ざされた村まとめ

闇深い集落 - 踏み入れてはいけない恐ろしい場所まとめ 未分類

 

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闇深い集落~入ったらヤバイ閉ざされた村

 

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九州の熊本県かどこかに、平家やその他の落ち武者の村があったよな。
五家荘(ごかのしょう)とか、五木村とか呼ばれてたような。
そういう村にはまだ外部には語られてない伝説とか習慣があるかもな。

村の存在は知られていても、秘密にされている一部の集落とか家族とかが、
今でも生き続けているような気がします。

 

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犬鳴村

「犬鳴トンネル近くに、法治が及ばない恐ろしい集落『犬鳴村』があり、そこに立ち入ったものは生きては戻れない」という都市伝説。

この都市伝説に関しては諸説あるが、概ね以下の内容である。

トンネルの前に「白のセダンは迂回してください」という看板が立てられている。
日本の行政記録や地図から完全に抹消されている。
村の入り口に「この先、日本国憲法は適用しません」という看板がある。
江戸時代以前より、激しい差別を受けてきたため、村人は外部との交流を一切拒み、自給自足の生活をしている。近親交配が続いているとされる場合もある。
入り口から少し進んだところに広場があり、ボロボロのセダンが置いてある。またその先にある小屋には、骸が山積みにされている。
旧道の犬鳴トンネルには柵があり、乗り越えたところに紐と缶の仕掛けが施されていて、引っ掛かると大きな音が鳴り、斧を持った村人が駆けつける。「村人は異常に足が速い」と続く場合もある。
全てのメーカーの携帯電話が「圏外」となり使用不能となる。また近くのコンビニエンスストアにある公衆電話は警察に通じない。
若いカップルが面白半分で犬鳴村に入り、惨殺された。

これらの説について、そのような事実はない。犬鳴は江戸時代中期、元禄4年(1691年)以前に福岡藩庁が城下、地行町に居住していた御小姓与鉄砲足軽に移住を命じ成立させた村落であり、激しい差別を受けていた等の事実はない。犬鳴にあった江戸時代中後期にかけての墓地群の改葬の時、多数の寛永通宝、宝永通宝、天保通宝、文久永宝などの銅銭、糟屋郡須恵で製作された須恵焼の皿、茶碗や徳利、刀の残骸、鍔などが出土したということである。

 

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宮崎県に住むものなんですが
先日かなりすごい集落を発見してしまいました
先週の土曜日に友人と2人で、サイクリングに行った時でした。
その日は、今まで行ったことのない方ない方へと道を進んでいこうということになったんです。

たぶん場所としては、青島から、北郷町あたりだと思うんですが
道がどんどん狭くなってきて、まず、舗装された道がなくなり、電信柱がなくなり、、、と、どんどん山奥の方に入っていったんです。
2時間くらい入ったところで、道が、2手に分かれていて、一方が、なぜか立ち入り禁止の看板があったので、何も考えずにもう一方の道に進んでいったんですが、
それが間違いでした。

その時気づけばよかったんですが、そのときの私達は、散策に夢中でそんなことそっちのけでした。
だって、普通そんなところに看板なんて普通ないですよね。
数十分くらいたったとき、なんかとっても嫌な雰囲気を感じたんです。
友人もなんかやばいところに入って来てしまった、といっていました。
だって、着物(振袖)が、そこらじゅうに捨ててあるんです。
そこで、私達は、立ち止まったんですが、なぜか行ってみようということいなったんです。

そこからすぐでした。
ものすごく、というか、この時代にというべきかもしれないんですが、
廃墟のような家が、4軒あったんです。
これはやばいと思った私達は、引き返そうとしたその時、
かさかさ、と、おとがして、見ると、髪がぼうぼうのおばあさんが、
こっちを見てました。

冷静さを失った私達は、逃げるようにしゅっぱつしたんですが、
後ろから、なんていっていいのかわからないような、声が聞こえてきましたが、
それどころじゃなく、アスファルトのあるところまで、一目散に逃げてきました。
本当に怖い経験でした。
今日、その友人ともう一度、そこにいってみます。
新しいことがわかり次第、報告します。

昨日は、先日帰ってきたほうから、向かうことになりました。
今回は、場所を明確にするため地図をもっていきました。
まず、椿山の方から、北郷町方面に向かいました。
椿山は、基本的に道は一本なんですが、のぼりが終わり、くだりが始まるといくつか小さな道が出てきます。

その中で、私たちが行ったルートは、くだりの途中で、川があるんですが、
そこをわたったすぐのところを川沿いに進むことになりました。
そして、かなりの獣道を行くこと40分、その間は、昼間だということもあり結構楽しかったです。
その後、急に川が小さくなり、とうとうなくなったあたりから、周りがうっそうとしてきます。
そしてそこから、25分くらい行ったところの左側です。

ここからが、問題の道なんです。
というのも、ここまでは、すごい細い道として、地図にも載ってるんですが、
この先が、書いてある地図はきっとないのではないでしょうか(未確認ですが)
その道に入るときすっごい勇気が要りましたが、
この前より早い時間だったことも私たちを助けてくれたと思います。

そこから、森の中に入ること10分くらいすると問題の分かれ道なんです。
とりあえず、立ち入り禁止の方じゃないこの前の集落の方に行こうか、ということになったんですが、
今回の二人のコンセプトは、
1:あの集落は、どういうものなのか
2:なんでこんなところに住んでるのか(不便なのに)
3:着物のなぞ
を追求しようということになっていたため、もしそこの住人と会っても、今度は逃げずに、迷って入ってきてしまった風を装いつつ聞きこみをしてみようということでした。
そして、進むこと5~6分、着物がいっぱい捨ててあるところにきました。

この前はそれを見たとき、てっきり死体がその下にあるとばかり思ってましたが、そうではありませんでした、
でも、その着物は、どれもものすごく古臭く、汚くてここ最近の時代のものには見えませんでした。
しかも数は、遠くから数えたら、4枚でした。その中に子供サイズが一つだけあったのも怖かったです。

本当は、この時点で、もう怖くて引き返したかったんですが、
友人が、率先していこうとするので、ついていきました。
ちょっと開けたところにこの前ばあさんがいた家がまず一軒見えてきました。
そして、そこに近づくとその家には人が住んでないことが明らかでした。
中にはわらみたいな草を乾燥させたものや、木の破片みたいなものがありました。

そして、その次の家がすぐあるんですが、そこは、どうも人がすんでるようだったんですが、
人の気配がまったくなかったため、すごい近くまで行ってみると、
大き目の窓があったんで、中をのぞいてびっくりしました。
ばあさんがいたんです。怖くなって少し離れたんですが、どうも寝ているようでした。(死んではいなかったと思います、思いたい、、、)

かなり怖くて、私たちはまた逃げるように分かれ道のところまで戻りました。
そこで、しばらくの間、友人とどうしようか話した結果、起こすのはやめようということになり
立ち入り禁ずの看板の方に徒歩で、行くことになりました。

立ち入り禁止の看板の方を進んでいったんですが、、、
ちょっと、、、、、、
こういうのって書いて良いのかちょっと嫌な予感もするのですが、、
とりあえず今のところ何もたたりのようなものがないので書いてみます。
看板(ちなみに、赤い手書きの文字で、立ち入り禁ずっとかいてあります)

の横を進むこと1,2分するともう一つ変な杭がありました、
でもその杭は落ちているという感じで、どう見ても元からそこにあった様ではありませんでした。
その杭には、上のほうの文字は消えかかっていましたが、
下のほうには、こう書いてありました、「~工事完了予定昭和65年6月」

・・・・・昭和って64年までしかないし、きっと63年か64年に始まった工事の杭なんでしょうけど、
どうしてこんなとこにあるのだろうと、ちょっと鳥肌がたちました。
その杭のところから5分と行かないところでした、、、、
ああいうのって、なるべくなら見たくないもんでした、、、、
人の名前が書いてある木の棒が刺さった墓がいっぱいありました。

しかもその墓の周囲には、詳しくないから名前まではわかりませんが、
綺麗な花が咲いていたのが、印象的でした。
立ち入りを禁ずの看板の意味がわかった気がしました。
見知らぬ人にこの聖域を荒らされたくないんだろうということだと思いました。

一番近くの墓の人の名前が、とても古臭い名前だったので、
(公表はしません)きっとずいぶん昔からあるのだろうと思いました。
「今日は、帰ろう」という友人の声にはっとして、昨日は、かえってきました。
もちろん、手を合わせてきたことは言うまでもありません。
あのばあさんに話を聞いてみないことには、ここがどういうところなのかが、
わからないので、今度確実に聞いてきます。

さっきやっと、仕事が終わりました。最近忙しいんです・・・
さて、その近くに住む林業を仕事としてる(仮に)Iさんに話を聞いたところ、
昔、Iさんの祖母から聞いた話をしてくれました。

まずその山の名前は、『家一郷山』といい、大昔の神話の時代から言い伝えのある神聖な場所だったらしく、
古来から山奥に山を神として崇める先住民族がいたらしいとのことでした、
その後その言い伝えを利用して、その山奥に逃げるようにして、入っていった平家もいたらしいんですが、
その先住民族によってその場所は守られつづけたという言い伝えがあるそうで、
そのIさんの祖母は、子供の頃、山で遊んでいて、その村とかにいったことがあったという記憶があるそうです。

そのころから、本当に少ない集落で北郷の集落とは一線を隔したものだったらしく、
北郷の人たちも崇拝していた民族がいたとのことでした。
その話を聞いて、私は、その場所は、その民族の名残の集落なのではと考えました。
この前、行ったときは、恐怖感が先に立ってしまい、見るもの目に入らず、みたいなものがあり、
もしもっとその集落の奥深くに進めば、その集落が、崇める何かに出会えたのかもしれません。
今日の夕方に行く予定なんで、その点について詳しく観察して、みようと思いました。
あと、卒塔婆についても、、、、

今から、友人の実家に行ってきます、まずいことになったんです。
そのことについても後で帰ってきてから書きます。
・・・書いていいのかわかりませんが、書かないではいられないので。
すぐ帰ってきます。

今日の6時半に出発したんですが、あの集落の入り口付近に到着したのは大体あたりが薄暗くなってきた頃でした。
もうだいぶ暗かったんで懐中電灯を持って (点けずに)森の中に入っていったんですが、
あの分かれ道のところに来た時あの立ち入り禁止の看板が無くなってたんですよ。
そこで気づいたんです。集落の 方に明かりが見えたんです。
そこで、今日こそは住民の人に話でも聞こうと思ってたんで、友人が果敢にもぐんぐん進んでいったんですよ。

前来た時、家は4軒しかなかったと思ってたんですが、
その奥のほうにもう一軒山肌にくっつくように建物がありました。
その建物と、あと一軒、以前、老婆が 居た棟じゃないところから明かりが見えてました。

この時点でわかったことは、この集落にはあの老婆だけではないこと、
山際にもう一軒ある建物はなんだか住 居のようではないということでした。
この時点で私達は相当ちじみあがっていたんです、だってその雰囲気がとても怖いんですよ。
どうしようかと思いました が、友人を前にして少しずつ近づいて行ったんです。

そしたらですよ、音に気づいて扉がザーって開いたんですよ、
これはやばいと思ってものすごい勢いで走って逃げたんですが(怖さに耐えられず)、
その時後ろ の方で「わぁー、うっぁーー、#$%&%%#”!”#$%」と
なんだかわからない声が聞こえてさらに逃げて、分かれ道を過ぎ細い道まで出たんです。

そこで 気づいたんですが、友人が居ないんです。
ものすごい自責の念と恐怖で、どうしようかと考えた後しばらく待ってみて
こなかったらやっぱり集落の方に戻ること にしました。
そして待つこと5~10分くらいでした。友人が帰ってこないんで、戻ることにしたんです。
そして分かれ道を過ぎたあたりで、友人がフラフラた らたら歩いてきたんです。

どうしたんだってきいても、ちょっとしたショック状態になってた友人は朦朧としていた。
友人を引っ張って自転車のあるとこまで行き、
友人に話を聞こうとす ると、一言『もうやめたほうがいい』っていうんです。
なにが?って聞いたところ、『あそこは俺らが気楽に行っていいとこじゃない、あそこは神聖な場所なん だ』そのあと、言葉もよくわかんねーばあさんにどつかれつづけたということでした。

そして、男に突き放されたといっていました。友人は相当ショックを受け たらしくしばらくジョイフルで休憩し友人が落ち着くのを待って帰宅したんですが、家に着いてすぐ電話してみると、
友人の母から、友人が寝込んでるという話 を聞きました。

まず俺が逃げた直後に友人は動けなかったらしいんですよ、
そして私が、逃げたことを知って、初めて我に返り逃げ出したんだけど、
まず、小さな男にぐぃっと つかまれて何かを言われたらしいんですが、
なにをいわれたかおぼえてないんだそうです。

それが友人のわかる言葉だったのかどうかを聞いたんですが、
友人が 言うには、恐怖感でいっぱいだったし、錯乱状態だったそうなんですが、
自然とここには来るなといってる様だったといってました。その後逃げようとしたら、
婆さんが近づき棒のようなものでつつかれて、しまいにはその男に突き飛ばされたそうなんです。

そこで私は質問しました。その男は年はいくつくらいなのかと、
すると友人はひげをぼうぼうに生やして変な服を着ていた50代後半から60代くらいの男だっ たといってました。
変な服とはどんなのなのかを聞いたんですが、
それは浮浪者のような汚い服とは違っていたということしかおもいだせなかったんです。

そして、放心状態で立ち上がるとこの前行った墓があったほうに続く道(集落と墓をつなぐ道のこと?)があってそっちからまた違う婆さんが歩いてきたそうで す。
その婆さんは友人の方をじっとにらむだけで何も言わなかったらしいです。

そこで、その婆さんは友人にはなにもいわなかったのに、友人はすごく辛い気分 になったといっていました。
どうして?って聞いたら、その婆さんの目が、心に刺さるような目であったことと、
何かぐっと心がつかまれるように感じたといってました。

そんな話をしていて、ふと気づいたんですが、私が、ここに書き込んでから、
この集落に行った人が居たんじゃないかと思ったんですが、いないだろ うか?
あの、立ち入り禁止の看板がなくなってることといい、友人の話からわかるように
住人が怒ってることといい、どうなんだろうということを友人と話して ました。

あと、友人が聞いた言語のことなんですが、
私は、そこに元からあるような特別な言葉だったのではないかと考えました。
怒りをあらわにする時に自然にでる言 葉ってそういうものの気がする。
しかし、そこの住人は、日本語がつかえるはずだと思います。
なぜなら立ち入り禁止の看板を書いたんですから、今日は無かっ たけど、、、
うーん、外部の人が置いたってことも考えられるなーーー確かに

このスレを見て本当にあるのかどうだか確かめて見たくて
早速、昨日現地に行ってみました
本当の所はネタはどうか知りたくて興味本意で行ったんですが
かなりヤバイ展開になりました
知り合いのうちで今後どうするか相談してたんで
帰宅が遅くなってしまいました
その起こった事をお話します
まずは経過?から

このスレを見て知り合いを含み4人で探検→
立ち入り禁止看板見当たらず→てきとーに進んで見る→
お墓発見(ただの田舎のお墓)→別ルートへ進む→
古臭く小汚い半壊状態の家を数件発見→
奥の小さな家から音が聞こえる(話し声?、物音?)→
行ってみる→結局その家は無人で何もなし(窓?から確認)→
帰ろうとする→事件発生

ただそのお墓は残念ながら普通のお墓でしたね
しかし見た感じ、そこに住んでいる人のお墓ではなさそうですね
おそなえ等も多少
年月は経ってる模様でしたけどちゃんとありましたし
付近の人のお墓ではないでしょうか?

名前等ってか苗字かも結構普通でしたよ
ここは結構残念だったと思ったように記憶してます
しかしお墓に入ってその先は木が生い茂っている森なんですが
その前に小さなくさむらがあり
そこから誰かにじっと見られてる気配がありました

お墓から出て歩いている途中その話になったんですが
その場ではあえて言いませんでしたが
皆同じに見られてるって感じはあったようです
けど残念ながらあの辺からとか具体的な場所等は
多少違っていましたが…

謝るとの事ですが途中継かは除いて結果を教えますと
そこの住人と多少お話をしたのですが
どうやら住人達は昔からのそこの住人で子供達が大きな街へ
行ってしまい、そこで半自給自足の生活をしているみたいです

ただ、謎の秘境だの幽霊が出るとのウワサ話等でたまに人が訪れ
家や回りの資材等を荒らしたり、夜も現れおちおち寝ていられない等の
理由で来た人を追い返すみたいです
ですのであえて謝罪の必要はないとは思いますよ

人を追い返すのは日常茶飯事の事のようですし、謎の言葉?も
怒るとそこの方言が早口になりわけ分からなく聞こえるそうです
ですのでそこの住民にご迷惑をおかけしないためにも
行くのは控えたほうがいいですね

 

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俺が四年前まで住んでた村がヤバかったな
下多島村ってところなんだけど知ってる奴いるかな?
上多島村と下多島村ってのがあるんだけど、下多島村は部落の方
閉鎖的も閉鎖的で祭りには絶対に部外者を招待しない
対して上多島村はそんなことないんだよな
この上と下の違いの詳細は不明

で、下多島村で一番怖いのが自殺者の多さ
ほぼ毎年自殺者が出てて
村にある電柱の何本かは首吊りに使われることで有名
というか自殺者の全員が首吊りなのもちょっと怖かった
俺も深夜に隣町の本屋に出かける時とか、その電柱の側を通るのが怖かったな~

実際の話なのでオチとかそういうのはありませんw

 

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鹿児島県上甑島にクロ衆が住む集落がある。

一説では人喰いの風習があるらしい…
調べてみると面白いかも。

鹿児島県甑島の一部で信仰されていると言われる土着宗教。キリスト教が禁止・弾圧されていた時代からの隠れキリシタンの一部であるとされている。
甑島では、1602年にドミニコ会の宣教師が来航してキリスト教を広め、禁教令によって弾圧が始まると1638年には信者が捕えられて処刑されたと言われている。このほか、甑島にある天上墓は、フランシスコ・ザビエルの通訳者だったヤジロウ(1511年?~1550年頃?)の墓であるという伝説があり、キリスト教伝来期から信者がいた可能性がある。また、島原の乱(1637-1638年)以降に甑島に逃れて来た隠れキリシタンの末裔であるという説もある。 クロ宗は、下甑島片野浦内の一集落において信じられている土俗宗教であって、信徒が死に臨むと、集落の者が集まり、サカヤと呼ばれる司祭の取り仕切る儀式で、その生き血や肝を食うという。

クロ教

 

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閉ざされた町は札幌市内に実在するよ

札幌オリンピックの時に団地がいっぱいたった南区の真駒内 それから同じく70年代に札幌の人口が増え

ベットタウンとして厚別区もみじ台団地も造成された どちらにも言える事は閉ざされてる

少子高齢化で犯罪は少ないんだが 孤独死が多い 閉ざされすぎだろ?

 

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横浜の「みなとみらい地区」ってあるでしょ。
JRの桜木町駅から汽車道通ってワールドポーターズに行くとき、
右手に団地があるんよ。結構古いの。

観光客はそんな団地に興味持たないだろうから気がつかないんだろうけど、
実はそんな観光地が目の前にあるのに、団地に出入りするためには地下鉄馬車道駅の方にいかないと駄目なんだよ。
団地の人、不便じゃんと思って親戚に聞いてみたら、実はその団地って
明治維新から高度成長経済まで横浜の経済を支えた湾岸労働者のために建てられたんだってさ。

ところがもう貿易ではそれほど儲からない時代になって、
仕事も減って、団地も古くなるにまかせているらしいんだけど
市もこれまでの恩があるから追い出すわけにもいかず、
新規入居者もいるのかな、成り行きで消滅する方向に待ってるらしい。

あ、グーグルマップで航空写真でみると、UR都市機構湾岸通団地って表示されている。
さすがに最近一棟壊したようだが…。
俺は住民ではないから詳細は解らないし、団地の住民が秘密を抱えてるかどうかも知らないけど、
目の前に賑やかで明るいショッピングセンターやら遊園地があるのに遠回りしないと行けないってのは、
いろいろ思うところはあるんじゃないかなぁ。

横浜中区は港湾労働者向けの宿泊施設や低所得者住居が元々多いんだよ。
古い団地は山下公園の近くにもあるし、石川町近くにはスラムといっていい地区もある。
地元の人は皆知ってて、閉ざされてるって意識はない。見て見ぬフリしてる感じはあるけど。

 

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犬鳴村は1889年までは実在した村だよ。
その後合併を重ねて今は宮若市犬鳴って地名。
犬鳴ダムが完成した際大部分が水没してしまった。

まあ伝説そのものは嘘だろうけど犬鳴峠周辺は心霊スポットだし、犬鳴トンネルじゃ殺人事件も起こってる。

 

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寿辺りも凄いよね。。

寿地区は首都高、根岸線を挟んで関内の反対側に位置し日雇労働者が宿泊するための「ドヤ」という簡易宿泊所が100軒以上立ち並び「ドヤ街」と呼ばれる地区である(ドヤ街は、日雇労働者の就労場所と合わせて寄せ場とも呼ばれる)。寿地区は、東京都の山谷、大阪市のあいりん地区(釜ヶ崎)と並ぶ三大寄せ場の1つとされる。

寿地区周辺は、第二次世界大戦後、1955年までアメリカ軍によって接収されていた。接収終了後、職業安定所の寿町への移転や簡易宿泊所群の建設がはじまった。これにともない、日ノ出町周辺や黄金町付近の大岡川沿岸バラック群(大岡川スラム)、さらに水上ホテルといった宿泊施設から港湾労働に携わる日雇労働者が、大勢移入。まもなくドヤ街が形成された。

他の寄場とは異なる寿地区のドヤの特徴は「門限なし」「自室に入るまでの廊下での外履き」が上げられる。

寿町 (横浜市)

 

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黄金町は俺の地元
やくざと外国人娼婦が異常に多いの町だけど
スラムではないよ
住宅地とヤバイ地域が道路一本隔てて隣り合ってるだけ
チンピラが暴れてようが人が血を流して倒れていようが
住民は慣れっこだからおくびにもかけない
スラム化してるのは流れ者の労働者が集まる寿町のほう
だが流石にここに子供は住んでいない
やくざがすべてを上手い具合に仕切っているので見た目ほど危険な町でもない
横浜にお越しの際は一度遊びにおいで

駅周辺は四六時中アルコールとアンモニアの臭いが残ってる
そして得体の知れないアジア系の外国人がいまだにやたら多い
うちの斜め前の古ぼけたワンルームマンションはそんなのばっか
ワンルームなのに3人暮らしなんて当たり前で
常時わけのわからん言語が飛び交っている
北京オリンピック開催中のせいか、昨夜は中国人がハッスルしまくり

 

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櫻地区(宮城県角田市?)

櫻地区→恐怖度不明
ここは未だに場所は不明である。
ここは昔地図にも載ってる地区であったが、忌まわしいことが多く起こり、今は封鎖されたところである。

噂では慰霊碑だけが残っていて、道はふさがっているが今も骨が転がっているとか・・・。
いろいろ探した結果、今のところ二ヶ所があがった。
角田市の佐倉地区と同じ角田の北○小学校のそばである。

佐倉地区のほうは、慰霊碑みたいなのはあるが、それらしきところがなくあきらめた。
もう一つの方は、北○小学校の裏に慰霊碑があり、その後ろは林になっていて、獣道があったから歩いてみた。

それらしいスペースはあったが、人が住めるくらいの広さではなかった。
さらに奥へ行くと村のようなところを発見!!
かなり舞い上がり、進んでいくと車で通った道路に出ただけだった。
しかも急な坂でこけそうになるし・・・と思ったら、総帥がすげえ勢いで転がってきたぁぁぁぁぁぁぁ!

買ったばかりの懐中電灯は壊れ、またまた負傷!!転びすぎですからぁぁぁ・・・
おっと、危なく一発やをパクるとこだった。
結局どこかはわからず、家に帰ったっちゃ!眠さには勝てないっちゃね~。

3ヵ所知ってて、うち2ヵ所は田舎。
長崎県の松浦にある漁村。その昔のまつら水軍と呼ばれた海賊の末裔の漁村と島がある。
もう1ヵ所は長野県の松代大本営の近く。
こちらは詳しくは言えない。

もう1ヵ所は都会。
こちらも詳しくは秘密だが、大阪の吹田市にある地区。ヒントは阪急&モノレールの山田駅付近

 

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今は吸収合併されちゃった村なんだけどダムに沈むはずだった集落があったわ。
母さんの実家の方で母方の実家から車で20分くらい走った所に渓谷があるのよ。
その奥下に昭和初期?中期?の農村の廃屋がちらほらあるんだけどさ、
下に降りる道も無くて興味本位では近づけないんだよね。
ダム計画が潰れてから戻った人もいるらしいんだけど、今生きてたら100歳くらい
の高齢の方ばかりだったしもう誰もいないだろう・・・と祖父ちゃんは言ってた。

小学生の頃にお盆に年上のいとこ達と見に行ったけどすごく怖かった。
遠いから双眼鏡で見てたけど防空壕とか牛舎?みたいのとか見えたな。
学校は無かったけど黒ずんだ民家とか子供ながら身震いした。

 

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神奈川の藤沢駅の周辺の一角に昭和初期から取り残されたような
非常に特殊な雰囲気が漂う場所があるよ。

あの辺りはダイヤモンドビルのオーナーが邪魔して開発できないだけであって、いたって普通の土地なんだよw
藤沢で一番やばいのは、耐震偽装で問題になった某マンションのある地域。
藤沢市内で唯一のヤ○ザ事務所がある(今はないかも・・・)
細い道(今は知らんが昔はヤ○ザおkの銭湯もあった)があるんだが、その道は酷い。

そこから昔、朝鮮の銀行があった場所までつながってるんだが、
古くから住んでる人は誰も近づかないほどの酷さ。
そこだけじゃなく藤沢は基本的に駅の北口がやばい。
上にあげた道じゃないが、他にも、韓国料理店や入れ墨屋を発見できるはず。
北側は藤沢宿周辺・遊行寺周辺・渡内村岡周辺以外は結構いわくつきの土地。
南側は片瀬山・鵠沼を中心とした単なる住宅地だけどね。

まぁ、バブル期にマンション建てるため朝鮮人や部落の人が土地売りまくったから、今住んでる人は普通の移住者ばかりだけどね。

 

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東京の秋津らへんに全生園てのがある
昔ハンセン病が伝染するってんで隔離された場所
後で伝染しないってわかったんだけど、今更外で生活できないので未だに半分隔離された生活を続けている人が沢山居る
中には仕事をする場所もあるし商店みたいのもある
奥に行くと平屋の家が沢山あって中だけの住所みたいなのもある
むかーしピザ配達しに行ったので良く覚えてる。客はとてもやさしいおっちゃんだった
悲しいけれど異様な雰囲気だったなぁ

ハンセン氏病は昔ライと呼ばれてたと思うので、その頃の世間一般からひどく忌避されてた頃の話として、ライ表記で書きます。

・ライ放浪
映画『砂の器』の中で描かれてたように、ライ患者は隔離施設に収容される以外では、生まれ故郷を追われ、
各地を放浪してた模様。自然発生的にか何時の間にかライ患者の小集団が形成され全国を彷徨ってたらしい。
年配者に聞けば、子供の頃にそういった小集団に遭遇し、その時分子供であったりそういう配慮のない時代であったため
人権意識も何もなく、そういった人達に石を投げて楽しんだなどの証言が聞けたりするはず。

・ライの道
ライ患者の全国放浪については、そのルートがあったのではないかと言われている模様。
ただし少なくとも昭和前期くらいにまでそれはあったようなので、既に生活道路全般がある程度整えられた時代で
あったろうから、どこまで特殊化してたかは疑問かもしれない。
またライ患者の放浪集団が見られるようになったのが、近代社会となってライ収容施設ができてからなのか
どうかについてはよく知らないのだが、それ以前から忌み嫌われて生まれた場所を追われる慣わしがあったのなら
もっと以前から放浪するライ患者の選ぶルートがあったとも想像される。山中の獣道のようなもので必ずライ者が
通った道などといったものがあるのではといった話である。
そういえば映画『もののけ姫』の中にはライ者達の集団が、何かの特殊技術集団として権力掌握しようとする勢力に
関わっていたような描写があったと思う。火薬製造か鉄鍛錬かそういったものだったか。ライ病の日本への伝播と
共にその技術は伝わったというような事を示していたのかな。ライ者の扱いがどうであったのかも興味深い。

 

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あいりんの話が出たので山谷の話も…

あいりん地区に言ったことはないけど、同じドヤ街である、東京の山谷のドヤには何度か泊まった。というか東京ではドヤしか使わない。
あまり面白い話じゃないから割愛するけど、親父が良くこの街の話をしていてなんとなく、愛着があったから。
潰れそうな家の中で旋盤に向かって汗かいている老人や、内臓が無造作に捌かれて、人の手に渡っていく光景に「そこで生きている人」の説得力があると思った。
何も特別なことじゃなくて、山谷には山谷のリズムがあるんだよな。

例えば山谷では挨拶が生きてる。知らない人同士でもある程度「おはよう」に重みがある。
みんな他人同士だからだ。寂しくて無関心ではいられないから挨拶する。
あまりにも他人同士だから前向きに接触を試みる。

こんなこともあった。
夜、自分が泊まるドヤに向かう途中、40過ぎの男と並んだ。
男は空をみながら凄んでいた。

「あー。明日は雨だなこりゃ、明日仕事ないぞォ、バカヤロー、バカヤロー」

と独り怒っていた。天候のことがこの街の労働者には死活問題だから、気にするのも当然だ。
僕はドヤに急いだ。機嫌の悪い酔っ払いに絡まれるのは怖い。

すると酔っ払いも歩調を強めてくる、追いかけてくる。
ついにお互いほとんど駆け足になってしまい、僕はマンモス交番に駆け込もうかと思った。
ハッキリ言って彼はスリか強盗だと思った。

でも、そのとき彼が妙に小さな声で言った事がおかしかった
「なぁ、明日、雨だなぁ、なぁ」
この人は最初から僕に話しかけたかったのだ。ただ気恥ずかしくて顔を合わせて話しかけられなかったのか。
そんな話しかけ方があるか、とそのとき僕は思った。

しかし、そうまでしても、この人は誰かに話したかったんだよ。
明日仕事がない不安を、自分の暮らしと関係のない誰かに聞いて欲しかったんだと思う。
もしかしたら、それを笑い飛ばそうとしたのか分からないけど、こんな事は山谷でしか経験したことがなかった。

そのあと交差点まで彼と話した。
最後に彼は「このヘンは安い…ホテルがたくさんあっていいだろ、な」
と照れ笑いをして、横断歩道をナナメに横切っていった。
ドヤをホテルと言い換えたのが、優しさなのか見栄なのか分からないが、彼のそういう言い方を気に入った。

そして、僕はこの街のお客さんなんだなと思った。
街というのは場所じゃなくて、生活なんだね。

 

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岩手の姉体(あねたい)は、昔は隔離村だったと習った。
伝染病のせいで奇形が多いからと。
でも実は嘘で、かごを編む技術をよそに盗まれないようにしていた。

今は普通の町になってるっぽいけど、
戦後かなり経っても噂のせいで孤立していたから
大学で映像が人に与える影響を調べるのに、姉体で実験したと言ってた。

 

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ちょっと種類が違うかもしれんが、京都府亀岡市にある伝説のニュータウン群。
茨木台、鎌倉台、北摂バードタウン、北摂ローズタウン、松風台。

地図を見ればわかるが、途轍もない山奥の稜線に点々とある(奥多摩の深静峡に近い感じ)。
自給自足の農家でなくてこんな所で生活できるのかと不思議で仕方ない。
数十年後、大規模ゴーストタウンと化すのは間違いない。

 

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例えば自分の街はさびれた温泉街だった。
市は郊外に新しく建造されたテーマパークを中心とした観光プランに積極的で、
もう温泉街としては発展を望めない。
「東海地方、巨大ホテルの廃墟があった町」といえば詳しい人にはわかってもらえると思う。
近隣には結構な数の旅館・宿泊施設が存在するので当然その従業員の数も多く、
年をとってもうそこにしか居場所のない人間もいる。
賃金は安いがそれでも勤めにやってくる人たち、ワケありの女、外国人。

いま、ある角度からならば、山を切り出して建てられた彼らの住まいを見ることが出来る。
バラック、コンクリートむき出しの立方体、トタン屋根。
その時代、時代で一番安い健在で建てられた家屋、モザイクの村。

この「村」が人の目に触れるようになったきっかけがある。
廃業したホテルが次々壊されていくからだ。
目隠しになっていた建造物が取り壊されて従業員宿舎が丸見えになっていったんだね。
温泉町とは非日常の空間だ、から人の疲れを癒す楽園でなければならない。
だが、そこで働く人間にも当然毎日の暮らしがある。
それは原則として隠されねばならないからこの宿舎は陰にうずくまるように建てられた。
それは温泉街で働く人間たちにとっては労働と客の視線から開放された
唯一の安らぎでもあったんじゃないだろうか。
目隠しホテルに守られていたんだ。この村は。

それがどんどん無くなっていく。同時に仕事も失って、
散り散りになって、いつかこの集落も無くなるんだと思う。
住民である自分たちとは全く接点の無い人たち。
訪れる旅人の多くは二度と出会うことのない人たち。
どこからかやってきて、どこへもいけない人たち。

案外こういう「村」、多いんじゃないでしょうか。

 

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三重県にある、(今は合併されて津市になってしまいましたが)美里村という村に山賊村といわれる、詐欺師が村の人から巻き上げた金で作った無人の村があります。
今、人が住んでるかは解りませんが少なくとも、そんな過去がある場所ですから、外部との接触はほとんどないでしょうね。

三重県津市(以前は美里村だったが、2006年に津と合併。現在は津市美里町)の山中を進むと、
広大な土地が開けているのだが、僻地にふさわしくないペンションが乱立しているのだ。
ところが今では長年の風雨にさらされ、不気味な廃墟と化している。
近隣の地元の人は吐き捨てるように、こう呼んでいる。……『山賊村』と。

現在、山賊村では自らを『村長』と名乗る年老いた男がたった1人で住んでおり、ペンション経営をとうの昔に辞め、
自然食を食べさせてくれる『長寿郷協会』なる私設道場を開いている。
ネットで調べると、近くに同じ名前のアウトレットモールやレストランがあるらしく、
時折、県外の人たちが誤って足を踏み入れてしまうケースがあるそうだ。
しかし、あまりの異様な光景を目の当たりにし、慌てて逃げ出す人がほとんど。

村長の評判は最悪だ。
「あいつは大ペテン師だ」「あんな人間とかかわるのはやめた方がいい」「あの詐欺師に、まんまと嵌められた」
……などと、近隣住人が罵るにはワケがある。

過去になにがあったのだろうか? 近隣住人の1人が告白する。
「あそこはかつて村長の私有地だったのです。数十年前に、あの人にこう持ちかけられたんです。
『近いうち、この近くに空港が開発されることになった。とすれば、このあたりも観光地になるに違いない。
工事関係者から極秘に入手した新空港建設プロジェクトに乗っかり、私の所有する土地を山賊村と名づけて、
自然と触れ合えるテーマパークにしようじゃないか。土地を安く譲るから、ペンションを建てて儲けないか?』と」

村長は口が達者な男だったらしく、地元住人の多くが賛同し、こぞって山賊村予定地内に土地を購入した。
そのころから、山中には不釣合いなオシャレなペンションが林立していった。

ところがいくら月日が経っても、そんな僻地に空港が開発されるはずもない。
土地購入者たちはようやく騙されたことに気づいた。怒り狂い、みんなして村長のもとへ怒鳴りこみに行ったものの、
購入の際に契約書を作っておらず、口約束のみで資金を投入したので、ペテンにかけられたことを証明することにならなかったのだ。

騙された方も悪い。欲に目がくらんだ負い目があるだけに、裁判を起こすまでには至らず、泣き寝入りするしかなかった。
僻地のペンションなど、客が押し寄せ、繁盛するはずもない。廃墟と化すのに時間はかからなかった。
今でも村長は山賊村に居座っている。

元々、近辺の住人から金を巻き上げただけだったけど、使い道の無い分の金で詐欺師が自分の家の周りにペンションを建てまくった。
それが、結局利用者のいないペンションの軍団だけ残って今の状態に。

 

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陣馬平山の北麓に、
村ではないが、閉ざされた集落はある。
実際に行ってみたが
集落の入口からして気味の悪い置物あり。

あの集落には2度と行きたくない!
入口の置き物を過ぎると集落に入るが
家の中からカーテンや障子を少しだけ開けて
よそ者が来た!とばかりに外を覗いてるんだから。
集落を抜け、離れた場所から振り返ると
家から出てきて、こちらを見てる。

 

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御蔵島、怪しすぎ。

◎御蔵島、原初の住人「キュートウキュウジン」て誰。

◎昔、平家の落人が逃げ延びてきたが、奥方以外見捨てる。奥方も自決。→たたりを恐れて神社設立

◎稲根神社の祭神はある日島にやってきた発光体。毎晩光るので村人が山に登るとカガミが木にひっかかっている。
里に招こうとしたがカガミは「だが断る」→着陸場所に神社設立

◎↑シロージローという人が「西の風が吹くと鈴の音が鳴る」と言い出して山の中にいくと三種の神器(もしくはカガミ)がひっかかっている。というバージョンもある。

◎しかしこの神様は見るとヤバイらしい。祭りの間は毎日一歩づつ里に近づいてくるので毎日結界が変わる。
最後に里にやってきて、お供え物があるかどうか確認したのち、カミの島に行くために夜明けと共に船出する。
このとき海を絶対に見てはいけない。(見ると連れて行かれる)

 

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学生時代、民俗学の教授から聞いた話だけど
どっかの集落の妓楼での堕胎とか間引きの方法を「どこにも公表しない」って条件で聞き出す
→原稿チェックの為集落に戻すとき、役場の人間が間違ってその原稿まで戻してしまう
→誰がしゃべりやがった!って集落大騒ぎ
ってなことがあったらしい

あと、骨かみって有名な風習あるけど
それの調査のとき地名は出さないでって言われたりとか

古い集落とかだと「閉ざされた」ってほどじゃなくても秘密のひとつやふたつぐらいあるもんなんじゃないかと思う

 

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8年くらい前に前の旦那のつれの実家にいきました。
大阪から奈良に3時間か4時間で長いトンネルを抜けた先でした。
私は寝ていたので場所はよくわかりません。

着くと集落に昼間なのに人はおらず、
家からそっと覗いている人も腫れ物に触るように雨戸を閉めてました。
で携帯も圏外で仕方なく公衆電話探してもありません。
そうしたらおまわりさんがきて、あんたらなにしにきた?危ないから早く帰れというんです。
で、公衆電話はないから交番の電話を貸してくれましたが、、、なんとオペレーターが繋ぐ状態。

いまどきオペレーターなんて。
で、おまわりさんはとにかく部外者が来るところでない、帰れとうるさいしつれの実家はわからないし怖く
なってかえりました。
奈良の山奥の話です。

私は東京でして前の旦那が岸和田でした。
なんで奈良の事はよくわかりません。
が、南大阪を回って奈良に入る高速から行ったのは覚えてます。
お巡りさんが言った部外者は危ないって言葉。
家から覗きみる目とか本当に危ない感じでした。
トンネルはかなり長く雪だと封鎖されるとお巡りさんが言ってました。

 

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稀に奥多摩の話が出てくるけど、あそこって結構普通の集落しかないような気がする。
日原の奥の方とかの深い所には人住んでないだろうし。
昔行った峰って集落は標高900mくらいまで家があって、
住民の方もいい人達だったし、普通に登山者が通るんでなんともいえん。

それよりも何かありそうなのは秩父だな。
あそこは県民にもわからんぜorz
ニッチツ秩父鉱山の周りの廃集落とかもすごいし

 

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東京なら檜原の方が何かありそうだね。
八王子やあきる野の端、檜原村辺りは山に入り込んだ所にぽつぽつと家があったりする。

埼玉のまだ山奥じゃない方なら飯能市界隈
ついこの間折り畳み自転車で無謀にも山道アタック掛けてたら、地元のおっさんが道を教えてくれた。
家なんて全く見当たらないんだけどね。
あの辺は家が2軒しかない集落とかあるよ

 

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日本の九龍城→沢田マンション

高知県高知市薊野(あぞうの)北町に建設された、集合住宅である。鉄筋コンクリート建築を専門職として手掛けたことのない者が、夫婦二人で(のちにはその子も加わって)造りあげた。通称「沢マン」(さわマン)、「軍艦島マンション」とも。現況は、鉄骨鉄筋コンクリート構造、敷地550坪、地下1階地上5階建て(一部6階)、入居戸数約70世帯、約100人居住。

自身の製材業経験やマンション建設過程での発電・給湯などに由来する、沢田嘉農の発動機コレクション(メーカーに現存しない1936年製のものを含む)が展示してある。

増築に増築を重ねた外観から、軍艦島とともに並んで「日本の九龍城」とも呼ばれ、建築物探訪の名所のひとつとして知られる。

沢田マンション

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