感動する話・泣ける話まとめ 短編5話【63】
絶対きれいにするから
半年前、友達の薦めで某チェーン店の美容院に行ったの。
外観も接客も明るい雰囲気でとても良い感じだった。
ふと車椅子で深く帽子をかぶった女の子(おそらく12.3)が連れの人と一緒に来店した。
飛び込みだったらしく、しばらく待たされたあと彼女は店内に案内され、何人かの美容師達の手によって椅子に映ったところまでは良かったのだが。
帽子を外すと、そこには薬か何かの影響なのか、パサパサの髪に、ところどころ抜けてしまってとてもカットやカラーができるような頭じゃなかった。
その場の空気も一瞬凍ったと思う。
そして奇異の目を向けてしまったかもしれないそのときの俺にはほんとアホ、としか言いようがないのだが。
彼女自身、なんだかつらそうな顔をしていて、どうやら連れの女の人
(母親という感じじゃなかった。看護婦?)が半ば強引に連れてきた感じらしい。
そうしたら奥の方から年配の男性(40くらいかな)が出てきたのね。
その人がやたら陽気で、ガハガハ笑うような、ほんとに美容師なのか、と問いただしたくなるようなオッサン。
で、オッサンが女の子に
「絶対きれいにするから、ばっさり切っちゃってもいいかな?」
と聞いたの。
俺は内心、髪の毛抜けちゃったりして傷ついてるみたいなんだからそんなに切ったら良くないんじゃないか、なんて思っていた。
もう、自分の頭よりもそっちが気になっちゃってしょうがなかったんだけど
(俺はパーマだったんでしばらく時間がかかったので)
そりゃあもう、出来上がりには驚いた。
ものすごいショートにして、その毛先もなんだかクルクルして俺が書くとなんだかおばさんの髪型か、と想像されちゃうかもしれないけど、なんていうか、雑誌とかでよく見るモデルみたいな髪型で。
パーマもカラー剤も使ってないのに大変身だったの。
もうぜんぜん前と違うの。
で、なにより違ったのはその子の表情なわけ。
仕上がりをみてものすごいにこにこしちゃって。
ちょっとやせてたけどすごい可愛い子だったってのがわかった。
最初はあんなに無口だったのにもうオッサンのバカみたいなしゃべりにいちいち大笑いしててさ。
もうその美容院の中がほんわかムードだよ。
美容師ってホントすごいな、と思った。
一緒についてきてた人もすごい感謝していて。
俺もその日はなんだかとてもいい気分で、いい美容院を見つけたとおもいながら帰ったんだけど。
先週またその美容院に行ったのね。
その日の施術もとどこおり無く終わって、さあ支払いだと言うときに、この美容院次回の予約ができるのでそれをしようとしたの。
そうすると顧客ファイルみたいなのを開いてチェックするんだけど。
俺の後がその例の女の子のファイルだったわけ。
その子があのあと毎月予約をしてはキャンセルしていたらしい印の後と
(時間が記入されてはバッテンがついていた)
俺の行った日の三日くらい前の日からずーっと黒い太い線が引かれていたのを見たときに
(それも、誰かが悲しくて書き殴ったかのような線で)急に不安な気持ちになった。
普通、美容院変えるとしても連絡なんてしないし、もう行きませんなんてわざわざ伝えるなんてしない。
ああ、これは、とちょっと悟ってしまった。
俺の勘違いで、引っ越しだとかなんかそういう理由でこれなくなったんだと思いたいけど、
そのオッサンが黒いスーツパンツで仕事をしてるのを見てしまった。
あのときの表情とか笑い声とかすごいフラッシュバックして帰り道に号泣してしまった。
父とケンカした次の日
母親が脳疾患で植物状態になり、東京で結婚して暮らしていた私は家族とともに故郷へ帰った。
父親と同居して1年半。
もともと、若い頃から父とはケンカばっかだったから、お互い相当我慢したよ。
あの日。
父とケンカしたとき。私の口から出た言葉。
「おまえなんか死んじゃえばいいのに!!!!」
その次の日、何のお別れの言葉もないまま父は車の中で心不全で亡くなった。
たった一人で。
十三時間も一人で。
誰にもみとられることもなく。
発見したのは私だった。
すでに死後硬直していた父を必死で助けようとした。
でももう間に合わなかった。
車の後部座席には私の好きな蟹が袋にはいっていた。
私が殺したのだと。
わたしのせいだと。
この3年間そう思いながら私は生きてきた。
知り合いに言われた言葉が私を救ったような気がする。
「あなたの言葉でお父さんは死んじゃったかもだけど・・・
あなたが殺しちゃったのかもだけど・・・
でも・・・でもっ!
お 父 さ ん は あ な た を 愛 し て い た は ず だ よ 」
狂ったように泣いた。
子供のようにしゃくりあげ、震えながら泣いた。
そう、私は父に最後にそう言ってもらいたかったのだ。
父が亡くなってから大キライだった父を、ダイスキで尊敬していることもよくわかった。
だから私、母親の面倒見ながらがんばって生きようと思う。
父さん・・・次ももし生まれ変われることができたなら、また父さんの子に生まれてきていいかな。
明日は父さんの月命日だね。
お花買ってこよう。
大好きだったのに
ちょっと前に、おばあちゃんが死にました。
クモ膜下出血でした。
小学生の頃は両親が共働きで、家にはおばあちゃんしか居ませんでした。
私はおばあちゃんが大好きで大好きで、いつもおばあちゃんの部屋にいました。
学校の家庭科の授業で「小物作り」をしたときも、私は葡萄の剪定をする鋏を入れる袋を作っておばあちゃんにあげました。
肩たたきは毎日していました。
それくらいおばあちゃんが大好きでした。
高校に上がって暫くすると、おばあちゃんに認知症の症状が出てきました。
デイサービスに行くようになって、楽しそうにしているのは良かったのですが。
迎えのバスを、7時くらいからずっと外に出て待っていたりするのです。
来るのは9時なのに。
「まだバスは来ないよ」と声をかけても、「草取りをするから…」と言って聞きません。
他にもいろいろなこと。
何度言っても聞かないので、段々おばあちゃんがムカついてきました。
あまりおばあちゃんと話す事もなくなりました。
トイレを失敗するような事はありませんが、それえでも介護する母のストレスは物凄かったようです。
大学2年のとき、おばあちゃんはグループホームに入りました。
それから暫くして、おばあちゃんはグループホームで亡くなりました。
私は大学の実習があったので、死に目には会えませんでした。
お葬式も終わって、グループホームの荷物を家族で引き取りに行きました。
服、下着、布団、テレビ。
引き出しを開けると、大きめの茶封筒が入っていました。
中には、私の写真が沢山入っていました。
病院でおばあちゃんにだっこされている写真。
七五三の写真。
入園式の写真。
入学式の写真、卒業式の写真。
おばあちゃんに送った、鋏入れも入っていました。
それから、私が小学生の頃に描いた、おばあちゃんの絵。
「おばあちゃんだいすき」と書かれた、私の拙い字。
家に帰ってから、母が言いました。
「おばあちゃんにだっこされた孫は、アンタだけだったんよ」
「他にも孫は4人おるけどな、みんなだっこなんかされてなかったよ」
「グループホームの職員さんにもな、アンタの話しかしてなかったみたい」
「『頭の良い自慢の孫』って言っとったらしいよ」
おばあちゃん、ごめんね。
あんなに大好きだったのに、私はそれを忘れていました。
大好きです、おばあちゃん。大好きです。
大好きです。大好きです。
じいちゃんの認知症
三年前じいちゃんが死んだ。
認知症+なんかの病気。
病名はおとんが教えてくれなかったし、聞くのが怖かった。
じいちゃんの認知症は突然始まった。
行動言動がおかしくなった。
そこからは早かった。
認知症は日に日にひどくなった。
一人で何もできなくなっていた。
夜の徘徊だってあった。
赤ん坊みたいに世話されてた。
そこには全く知らないじいちゃんがいた。
そんなじいちゃんが怖かった。
その日からじいちゃんを避けるようになった。
結局、施設に行くことになった。
うちだけじゃ手に負えなくなったんだ。
でも施設生活は長くは続かなかった。別の病気があったから。
今度は病院に入院した。
他の家族はお見舞いに行っていた。でも自分は受験だから、と行かなかった。
そんなの言い訳だった。
ガリガリに痩せて、家族のことも覚えていないかもしれないじいちゃんに会うのが怖かったから。
今思うと後悔してる。
お見舞いに行ってあげれば良かったんだ。
それから一年ぐらいたった。
その間、じいちゃんは別の病院に移った。
どうやら前の病院に遠まわしに「出ていけ」と言われたらしい。
理由は知らない。でもじいちゃんはやっかいな患者だったのかもしれない。
俺んち金持ちじゃないし、認知症に病気まであったんだから。
自分がお見舞いに行ったのは年明けの寒い冬の日だった。
母親に年明けのあいさつをしに行こう、と言われた。
その時の母親の目が状況の深刻さを訴えていた。
俺は察した。
じいちゃんの状態が悪かったんだ。
一年ぶりに会うじいちゃん。
病室に行くと、じいちゃんは寝ていた。起きる気配はなかった。
その姿を見てびっくりした。
喉に管が通ってて、顔がガリガリに痩せていて、涙が出そうだった。
それから花を花瓶に入れたり、簡単な掃除をして帰ろうとしたときだった。
じいちゃんが目を覚ました。
目を細めて俺を見ていた。
もしかして、視力も落ちてほとんど見えなかったかもしれない。
俺はじいちゃんのすぐ近くに行って顔を近づけた。
そしたら、じいちゃんが笑った。
満面の笑みだった。俺のことを覚えていてくれた。
一年以上会いに来なかったのに、じいちゃんは笑ってくれた。すごくうれしかった。
「また来るね」そういって俺は病室を出た。
笑顔のじいちゃんを見たから少し元気がでた。
それから数日後だった。
早朝、病院から呼び出された。
病院に着いた時には、じいちゃんはもう死んでいた。
静かに目を閉じていた。
悲しすぎる時って涙が出ないんだ、と初めてわかった。
今でもじいちゃんの笑顔が忘れられない。
しわしわのとても暖かな手
まだ私が小さい頃、父と母がすでに他界していたためおばあちゃんが私と兄を育ててくれていたのですが、
遠足などある時はいつもおばあちゃんの手作りお弁当を持って行きました。
でも当時おばあちゃんが作るお弁当はおにぎり2こだったので、
同級生の子達のかわいらしいたくさんおかずが入っているお弁当がうらやましかったんです。
お弁当箱もキティーちゃんとかマイメロディーなどのかわいいお弁当箱なのに、
私は銀紙で包んだおにぎり2つだったので、おばあちゃんに対して
「こんな変なお弁当つくらないでよ」
「はずかしいからやだ」とはき捨てたり、せっかく作ってくれてもわざと持っていかなかったり。
そんな酷い孫に対して、おばあちゃんは決して叱ったりしませんでした。
そんなある日、1度かわいいスヌーピーのお弁当箱にハンバーグや玉子焼きが入ったお弁当を作ってくれました。
おばあちゃんなりに他の子達はどんなお弁当を作ってもらっているのか一生懸命考えて作ってくれたのです。
おばあちゃんは、
「ごめんね、かわいいお弁当っておばあちゃんの時代なかったからわからなかったのよ・・・
これなら恥ずかしくないかねぇ」
としわしわのとても暖かな手でお弁当を手渡してくれました。
今思い出すだけで、私はおばあちゃんになんて酷い言葉を吐いていたんだろう、
なんて最低な子供だったんだろうと涙が出てきます。
おばあちゃんのおにぎりだって、本当はとってもとってもおいしかったのに、
「おいしかったよ」の一言も言わなかった。
本当にこんな酷い孫でごめんねおばあちゃん。
今私は結婚し、子供にも恵まれました。
おばあちゃんに曾孫を抱かしてあげる事ができ、幸せそうなおばあちゃんの優しい笑顔を見ると
これがあの頃の恩返しになれば私も幸せに思います。
うちの子はおばあちゃんの作るおにぎりが大好物なんですよ。
もちろん私もです。
ありがとうおばあちゃん。
ずっとずっと長生きして下さい。
大好きです。
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