『家族の住む家』など短編5話【88】 – 感動する話・泣ける話まとめ

『家族の住む家』など短編5話【88】 - 感動する話・泣ける話まとめ 感動

 

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感動する話・泣ける話まとめ 短編5話【88】

 

 

味噌焼きおにぎり

僕には祖母がいる。
祖父は僕が生まれる前に亡くなった。
だから、祖母は大変だったらしい。
祖父は保険に入っておらず、残されたのは煙草畑と田んぼと仔牛くらいだった。そこから女手一つで僕の父と叔母を育てた。
僕は初孫でとても可愛かったらしく、祖母に怒られた記憶はない。

僕の両親は共働きで、祖母は畑仕事をしながら僕の面倒を見た。
小さい時に煙草の葉を誤って食べ倒れてしまった僕をおぶって、病院に連れて行ってくれた。
足を怪我して入院した時は一緒に泊まってくれた。
お腹を下して、帰宅途中で大きい方を漏らしてしまった時も、
「男なら泣くんでねぇ」
と風呂場で洗いながら、お尻を叩いて叱咤してくれた。

15時のおやつの時間、お腹か減ると味噌焼きおにぎりを握ってくれた。
大きく握ったおにぎりに味噌を満遍なく塗って、フライパンで焼くだけだ。
正直に行って特別に美味しい訳ではない。
他にも美味しい料理がいっぱいあるだろう。
でもテーブルにあれば不思議と手が伸びて、口に運んでしまう。
僕は大きな味噌焼きおにぎりを口に頬張って、手に付いた味噌をぺろりと嘗めて、外に遊びに出た。

そして、僕は成長した。
田舎を出て東京に行きたい、と祖母に伝えた。
「んだかぁ……」
そう寂しそうに言った。
本当は行って欲しくはないが、自分が我儘を言って孫の夢を壊してはならない、と感情を腹の中に押し込んだような表情をしていた。

僕は東京に出てから、年に数回、実家に帰っている。
青空と山部の緑。
虫の鳴き声。
ゆったりと流れる時間。
故郷の方言。
土の匂い。

「けぇったかぁ~」
と満面の笑みを浮かべる祖母。

実家には弟夫婦が住んでおり、祖母にとってのひ孫がいる。
「ひっこ~、おにぎり作って」
とひ孫。
祖母は爪に土が入った手でおにぎりを握る。
子供たちには衛生的に良くない。
でも歳を取り爪の間までしっかり洗えない祖母が一生懸命、ゆったりと時間をかけて作る味噌焼きおにぎりを否定する気にはなれない。

「おんちゃ(僕のこと)の分も作ったじゃ。食うべ?」
と大きな味噌焼きおにぎりを手渡す。
畑仕事で腰が曲がった祖母。
しわくちゃの手。
僕が東京に行った後、家族の前でおいおいと、初めて大声で泣いた祖母。

「食うかな」
味とか、衛生面とか関係ない。
それ以上のものが詰まっている。

ばさま、いつもありがとう。
また味噌焼きおにぎりを作ってください。

 

 

家族の住む家

数年前の話です。
僕が大学生の頃、日雇いのアルバイトをしていました。
事務所に電話で翌日のアルバイトの予約をして、現場に行って働いていました。主にやっていた仕事は、引っ越しや移転、倉庫のピッキングでした。

そこで出会ったある人のことをお話します。
その人は50代前半の男性でした。
僕はタバコを吸わなかったので、喫煙所のない休憩室で休憩をしていました。
そのおじさんもタバコを吸わないということもあり、いつも一緒に休憩していました。
おじさんの見た目は、銀行や市役所の重役のような雰囲気で、整った白髪頭に度の強い眼鏡をかけていました。
ずっと疑問だったのは、なぜこの人がこの仕事をしているのかということでした。

よくよく聞くと、平日は普通の仕事をしていて、土日だけこの仕事をしているとでした。
仕事は、公的機関とのことでした。
家族の住む家に帰らずに一人でアパートに住んでいて、生活費が不足しているため、アルバイトをしているということでした。
その理由については、妻との関係が悪くなり、家に居づらくなったとのことでした。
浮気をした訳でもなく、子供とも仲が悪い訳でもないものの、妻に対する感謝の気持ちなどを上手く表せなかったため、関係が悪化したとのことでした。
それであれば、感謝の気持ちを伝えて家に戻れば良いのにと思ってしまうのですが、不器用な人なのかそれができないままになっていたようです。
それでも、外で子供と会って仲直りの仲介をしてもらう努力を続けているとのことでした。

日雇い派遣の仕事ですが、登録していた派遣会社がメインの派遣先との契約を解消したことなどもあり、徐々に派遣先が減って行きました。
元々は倉庫で働いていたのですが、その職場が無くなり、移転がメインになりました。

僕は大学を卒業し、就職することになりました。
派遣アルバイトも辞めることになり、おじさんとも別れることに。そのおじさんの行く末が気になったので、最後に会ったときに、
「家族の元に戻れたら連絡をして欲しい」と言っておきました。

4月になり、就職した会社の研修を受けていた時に、おじさんから電話がかかって来ました。
「家族の住む家に戻った」とのことでした。
おじさんは、私との約束を忘れていなかったのです。

それ以来、そのおじさんと会うことも電話をすることもありませんが、きっと家族と元気で暮らしていることでしょう。

 

精神不安定な子と思っていた

高校教師です。
私が教えていた生徒に問題児の女の子が居ました。
彼女は成績も悪くなく、資格取得にも一生懸命なのですが、その原動力は強過ぎる学歴コンプレックスらしく精神も病んでいました。

オタクにもギャルにも優等生にもおっとりにも属さない彼女と仲良くする子が居なかったことも原因かもしれません。
親子関係も良くなく、進学についても悩んでいました。
親と話し合いなさいと言っても、聞いてくれないから無理の一点張り。
今までバイトも習い事も部活も親に決められて、やりたいことは向いていないと言われたと。
更に悪いことに担任の男性教諭とかなり仲が悪く、いつも激しい口論をしていました。
彼女の精神不安定は他の生徒に悪影響を及ぼすほどなので、なるべく外に連れ出したり話を聞いたりしました。

すると、精神不安定な子と思っていたのに、明るくて冗談も言える楽しい子だと気付いたのです。
でも怒る時はちゃんと怒りました。
担任と口論するのは、先生が嫌いなのではなく、男が怖いのだということも教えてくれました。
卒業を前にしても精神不安定は治らず、先生方はみんな彼女の心配ばかりしていました。

そして迎えた卒業式。自殺するんじゃないかと思うほど暗い顔でした。
淡々と卒業式を済ませ、職員室にやって来て先生方にアルバムの寄せ書きを頼み、書いた後は手紙を渡していました。
私の所にも彼女はやって来ました。
私にも寄せ書きを渡し、笑顔で「ありがとう!」と言って手紙をくれました。
私の好きなディズニープリンセスのレターセットで、とても可愛かったです。
先生によってポケモンやキティ、リラックマ、メルヘンな動物と封筒が違ったので、一人一人考えてくれたのだと思います。

私はそれをすぐには読まず、家に持ち帰りました。
開けると手紙と私の似顔絵が。絵にはかなりリアルな私の似顔絵が描かれ、昔流行ったようなキラキラしたペンで
『○○ちゃん先生大好き』と添えられていました。

手紙には、
『大学は高校の教員免許しか取れないけど、○○ちゃん先生みたいな先生になるね。高校教師の免許を取って大学卒業したら、通信で中学の免許取るから応援してね。友達は遠巻きに距離を置くだけだけど、先生は喋ってくれて嬉しかった。本当にありがとう』
と、達筆な字で書かれていました。

前に、「高校でいいじゃん。高校おいでよ」と冗談で言ったのですが、義務教育に携わりたいそうです。
僻地や荒れた学校で成績や家庭環境、性格様々な子の支援がしたいと夢を語ってくれました。

教員になって数年。
私の忘れられないエピソードの一つです。
彼女は今は大学生。
彼女の状態が良くなり、夢を叶えた姿を見せてくれることを楽しみにしています。

 

 

君のおかげで私も楽しかった

遠い昔、私が小学4年生の頃の話です。
当時の僕は人見知りで臆病で、積極的に話しかけたりするのが出来ない性格でした。
休み時間、みんなは外に出て遊んでいても、僕は教室の椅子にずっと座っていました。
しかし、一人でいるのが好きな訳ではないので、凄く寂しい思いをしていました。

ある日、休み時間いつも通り席に座ってると、隣の席の女子に
「何で男子のみんなと遊びに行かないの」と言われました。
その時は、つい強がって
「外で遊びたい気分じゃないから」と言いました。

暫くしてその子に、
「じゃあ、私と中で遊ぼう」と言われ、
けん玉をしたりお手玉をしたり、だんだん楽しくなってしまいキャッチボールをしていたら、担任の先生に
「それ外遊びだから、教室でやらないで」と怒られました。

下校の時間、その人を見かけたので、
「休み時間の時、楽しかったね」と言うと、
「先生には怒られたけどね」と言いました。

翌日も、その翌日も、その子と遊んでいたら、だんだんと遊ぶ人数が増えて行き、それから僕はクラスの男子とも外に出て遊ぶようになりました。
それから何週間か過ぎたある休み時間、外に出ようとしたら、その子に
「待って」と言われました。
しかし、その子は何も言わなかったので
「休み時間終わったらで良い?」と遊びに行きました。

その日のホームルームの時間、担任の先生から、その子が転校することを伝えられました。
その時の僕は、親友だと思っていたその子に大事なことを伝えてもらえなかった事に腹を立ててい掃除の時間になり、その子の机を運んでいたら、引き出しからお手玉が落ちました。て、その人の気持ちを考えることが出来ませんでした。

その瞬間、僕はあの日、その子と遊んだことが今までで一番楽しかった事を思い出しました。
あの日の夜、人生で初めて友達が出来たことが嬉しくて嬉しくて、嬉しさのあまり泣いてしまったのを思い出しました。

僕は考えました。
その人と会わなかったら、僕は誰とも話すことができなくて寂しく人生を送っていた。
その人は僕の人生を変えてくれた運命の人だと思いました。

帰りの会が終わり、僕はその人に
「本当にありがとう、友達になってくれて」と言いました。
そしたらその人にこう言われました。
「君のおかげで私も楽しかった。私のこと忘れないでね」

あれから60年、私は今年で70歳になりますが、あの人の事は今も忘れていません。

 

 

その辺りに落ちているようなただの石ころ

私の母の話です。

私には三歳年下の弟が一人います。
姉の私から見ても、とても人懐っこく優しい性格の弟は、誰からも好かれるとても可愛い少年でした。
母は弟を溺愛しており、私は母の愛情が常に弟に向いているようで、いつも少し寂しい気持ちを抱えながら幼少期を過ごしていたように思います。

母は小さくて細工の細かいものや、可愛らしいものを集めるのが好きで、ミニチュアのティーセットやガラス細工の人形などを少し大きめのガラスのショーケースに並べて飾っていました。
その中に、どう見てもその辺りに落ちているようなただの石ころが、美しい千代紙を台紙にして飾られていました。
一見ただの石ころのようでも
『何か霊験あらたかなお守りのようなものなのかな?』
と、少し気になりつつも特に母に尋ねることもなく、私はそのまま大人になりました。

社会人になって程なくして東京への転勤が決まった私は、そのまま東京で出会った男性と結婚し、東京で暮らすこととなりました。
娘を授かり母となった私は、年に数回娘を連れて実家へ里帰りする程度でしたが、母は初孫である私の娘をとても可愛がってくれていました。

娘が1歳半を過ぎた頃、帰省中に母が娘を連れて散歩に出かけていきました。
散歩から帰った母は、いつものように娘と洗面所へ向かい手を洗っていたのですが、母はしばらくそのまま洗面所で何かを洗っているようで、水音が続いています。
どこか怪我でもして傷口を洗っているのかと心配になり様子を見に行ってみると、母は洗面所で小さな石ころを丁寧に洗っているところでした。
「それ、何?」と私が訊ねると、
「これはサキちゃん(娘)の『はい、どーぞ!の石』だよ」
と嬉しそうに答えました。
「ハイドウゾの石って何?」
と私が怪訝な顔をしたのが面白かったのか、母は笑って
「サキちゃんが今日初めて私に『ハイ、どーぞ!』ってこの石をプレゼントしてくれたんだよ。初めての孫からのプレゼントだから記念に持って帰ろうと思って。あんたがまだ赤ちゃんだった頃に『ハイ、どーぞ』してくれた石も、ちゃんと大事にとってあるんだよ」
とタネ明かしをしてくれました。

「もしかしてそれって、母さんのガラスのショーケースの中の、千代紙の上に乗ってる小石?」
と聞くと、
「そうそう、あれはあんたの『ハイ、どーぞ!の石』。
折角だし、あんたの隣に飾っておくわ」と母は自室へ戻って行きました。

弟ばかり愛されている、と僻んで過ごしてきた私…。
母の愛情は私にもちゃんと注がれていたのだということは、自分が子を産んだ今となればもちろん疑いようのないことです。
ただ綺麗な千代紙の上にチョコンと大切に飾られた小石が、母の私への愛情の象徴であったことを知り、胸が熱くなりました。

今母のショーケースには、私の分と娘の分の、二つの「ハイ、どーぞ!の石」が仲良く並んで飾られています。

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