『阪神大震災の悲しい失恋』など短編5話【23】 – 感動する話・泣ける話まとめ

『阪神大震災の悲しい失恋』など短編5話【23】 - 感動する話・泣ける話まとめ 感動

 

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感動する話・泣ける話まとめ 短編5話【23】

 

 

姉が嫁にいくことになりった

随分前の話。
遂に姉が嫁にいくことになり、家族揃って最後の晩飯を食った後。
姉「○○。ちょっといい?」
俺「なに」
姉「いいから、そこ座んなさい」
首を傾げてる俺に、姉は深々と頭を下げて

姉「今までありがとう。お前の姉に生まれて、姉ちゃんホントによかった。これからは離れて暮らすけど、これからもいい姉弟でいようね」
俺「なんでそんな事言うんだよ・・・・」
姉「父ちゃんと母ちゃんには式で言えるもの。お前には今しかないでしょう?」
姉ちゃんにボロボロに泣かされたのは、あれが最後だ。
俺も泣いた。

 

 

姉貴がすごくか弱く見えた

俺には3つ上の姉貴がいるけど、昔はスゲー仲悪かった。
母がたった二人の姉弟なんだから、と嘆くほど、
ケンカなんて一日何回もしたし、ほとんど憎み合ってた、
といってもいいくらいだった。

姉貴が高校2年、俺が中学2年の時。
姉貴が自転車通学の途中、車の事故に遭った。
俺が病院へ行ったときは、意識がなかった。
頭を打ったらしく、安心は出来ない状態だった。
二日後に意識は戻ったんだけど、事故当時の記憶がなく、
言語障害、運動障害が出てた。(まっすぐ歩けないなど)
ある日、親が用事で、俺が半日くらい付き添うことになった時。

姉貴はなんか俺に言いたいんだろうけど、舌が回らない。
言葉を覚えたての子供が喋ってるようで、聞き取れなかった。
俺は、何とか聞き取ろうしてたんだけど、そのうち姉貴が
泣き出してしまった。
結構美人とか言われてて、運動神経も良かった。
バレー部に入ってて、レギュラーでやってたのに、運動どころか、
歩くことや喋ることもまともに出来なくなって自分が情けなく なったんだろうと思う。
いつもは気が強い姉貴がすごくか弱く小さく見えた。
俺は思わず姉貴を抱きしめて、

「大丈夫、きっと治るよ。もし治らなかったら、俺が姉ちゃんを一生看てやるから」
本気だった。俺が姉ちゃんを守ってやる、と。
姉貴は泣きながら何度もうなづいてた。
打ち所もそんなに悪くなかったのか、姉貴がリハビリを頑張った せいもあったのか、以前のように回復したそれから5年近く経つけど、ケンカらしいケンカはそれ以来した 覚えがない。
姉貴にその時のことを言うと照れ臭いのか
「記憶がはっきりしてないよ」とか言うけど。
あの事故がなかったら、俺達の姉弟仲は、今も悪いまんまだった のかもしれないな…。

 

阪神大震災の悲しい失恋

1995年1月16日に戻りたい。
当時、21歳の私と倫子はその日ちょっとしたことで喧嘩をしてしまった。
明らかに私が悪い理由で。
普段なら隣同士で寝るのに、この日はひとつの部屋で少し離れて寝た。
17日の朝、大きな揺れがあった。
あまりに大きな揺れにあわてている間に、すごい音と共に屋根などが崩れてきた。
運良く、私も倫子も無事だった。しかし、お互いを確認するのは声だけだった。
二人の間には、大きな瓦礫の壁があった。
私は窓の近い側だったので、隣近所の方が瓦礫を少しどけてくれて、自力で出ることができた。
私は、倫子を助けるために近所の方と合わせて4人で瓦礫をどけようと必死だった。
倫子は、「真っ暗で怖いけど、私は大丈夫だから」と叫んでいた。
1時間か2時間か、時計もなく分からなかったが、ある程度作業が進んだ。
これなら助かると思った。
しかし、そのとき周りの人が「隣の家から火の手が上がっている」と言った。
隣の家はこちらに傾いていた。
危険だと周りは言った。
皆、ピッチを上げて作業をした。
しかしそのとき、隣の家が崩れてきた。
私も周りも、その場から反射的に離れた。
そう、見捨ててしまった。

どのくらいその場にいたのか分からない。ずっとその場にへたり込んで座っていた。
「消防はどうして来てくれなかったんだ」
「神はどうしてこのようなことをするのか」
「瓦礫をどけはじめたときにもっとうまくやっていれば、助かったんじゃないのか」
「見捨ててしまった・・・・・・・・・」
「どうして自分も死ななかったのか」
こんな言葉が頭をずっとめぐっていた。
周りは「しょうがなかったんだ」と言った。
気に病むな・・・と、、、。
そんなこと、できるはずがないことは周りも分かっていただろう。
私はその言葉を聞いてから、ずっと泣いていた。
後日、瓦礫の山からともこの骨だけが見つかった。

たった1.5メートルの距離の差だった。
たった1.5メートルの距離の差が「1番大切な人」を失う距離だった。
16日に喧嘩したことが、素直でなかった私が、
最も失ってはならない「大切な人」を失う結果にしたのだ。
喧嘩をしていなければ、二人とも助かったかもしれない。
そうでなかったとしても、倫子をひとりにすることはなかった。
そして、見捨てることも・・・・。
私は1995年1月16日に戻りたい。そして、君と一緒にいたい。

阪神大震災
経験をしていない人にとっては分からないことだと思う。
しかし、それはしょうがないことだとも思う。
ただ、これから1月17日に阪神大震災の話題が出たときに
いまさら・・・、とは言ってほしくない。
そういったことがあったことを知っておいてほしい。
そして、今恋愛をしている人に。
あなたは、大切な人を手放さないで下さい。
今すぐにでも謝れることなら、すぐに謝ってください。
後から後悔しても、すべて戻ってこないのですから。

 

 

車への手紙

私は今日車を買い換えることを子供たちに伝えた。
主人が結婚する前に、私をくどくために買ったマーチだった。
私を射とめ結婚しそれから6年間乗ったのだからもうそろそろ新しい車が欲しいね、と彼は言った。
わたしも別段反対することもなく、子供たちにも普通の会話のつもりで話した。
そこで話は終わるはずだった。
子供たちの反応は私たち夫婦のとは異なり、今にも泣き出さんばかりであった。
「こわれちゃったの?」「もうあえないの?」確かに普段から、ものにも心があるのだ、だからものを粗末にしてはならないのだ、と教えてはいたが、彼らがマーチに対してこれほど思いを抱いていたとは知らなかった。
私たち夫婦は彼らの優しさに心を打たれ、それをほほえましくまた誇りにさえ思ったが、実際今度生まれる三人目の子供のことを考えると、今の車では小さすぎるのだ。
だから私たちは彼らが傷つかないように根気よく彼らを説得した。
その夜わたしはかれらがいつまでもその心を持ち続けることを願って床についた。納車される前の日に、上の子が手紙を持って私の前に座った。 別れゆくマーチのために手紙を書いたのだった。

マーチへ。
いままで いろんなところに つれてってくれて ありがとう。 これからも げんきでね。

文字の書けない下の子はマーチの絵を上の子の手紙の挿絵として書き加えていた。
マーチは自動車販売店に下取りされることが決まっていた。
そこのお店の人の迷惑になるかもしれないと思いつつ、息子たちの手紙をマーチに忍ばせ、わたしたちはマーチを見送った。
それから新しい車が来て、私たち家族は久しぶりに少し遠くまで出かけた。

それから9ヶ月がたったころ、マーチから息子たちへ手紙が届いた。

あつし ゆうき へ
げんきにしてるかな ?
ぼくはげんきです。
あつしとゆうきとわかれたあと、ぼくはあたらしいかぞくにであいました。
おとうさんとおかあさんとけんたくんのさんにんかぞくです。
けんたくんはまだまだちいさくてあまえんぼうさんです。
おおきくなったらけんたくんもあつしやゆうきのようにやさしいこになってほしいな。
いつまでもげんきでね。
マーチ

かわりに読んでいたわたしは、途中で主人に代わってくれといい、彼もあと少しで涙するところだった。
上の子は、まだたくさん泣いていい年頃なのに泣くのを必死にこらえている。
「悲しくないのにね、何で泣いちゃうんだろうね。」
一生懸命笑おうとしておかしな顔になっている息子を見て、わたしたちも泣きながら笑った。
下の子はよく分かってないみたいだけど、一緒に笑った。
たった一台の車が、よく出来た夫と優しい息子たちをわたしに与えてくれた。
そして、けんたくんのおかあさんがやさしい贈り物を贈ってくれた。
私は今何気ない日常の中で嬉し涙の味をかみ締めている。

 

 

親孝行とマザコン

今日、振られた。
理由は、マザコンかなっておもっちゃうと。
俺の母はガンだ。
ほぼ末期でどれくらい生きられるかわからない
俺は取りたての自動車免許が嬉しくて母をドライブに連れまわしたりしていた
母も凄く喜んでくれた。
やっと親孝行みたいな事が出来たかな、と俺まで嬉しくなった。
だけど、彼女にはそれが「マザコン」に見えたんだな。

母の病気の事は彼女にもしっかり話してた。
理解もしてくれてた。
だけどやっぱり親を大事にすることはマザコンに取られてしまうんだな、
残念だけどこんな女に振られて正解だったのか、
俺が自分を見つめ直すべきなのか
俺は母ちゃんをドライブに連れてった事を後悔なんかしてない。
彼女を失ってしまったけど親はたった一人だもんな。
自分でマザコンだなんて思ってないし恥ずかしくもない。
おまいら、恋人もいいけどたまにはたった一人の親もかまってやれよな

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