母親の泣ける話 – 感動エピソード【3】全5話

母親の泣ける話 - 感動エピソード【3】 泣ける話

 

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母親の泣ける話 – 感動エピソード【3】

 

 

カーチャン

うんと小さい頃「大きくなったらカーチャンと結婚する」と言った俺に「お父さんがいるから無理」と断って失恋させたカーチャン

ある日目が覚めると、俺の体が全身落書きだらけで、泣きながら「姉ちゃんに落書きされた」と訴えると「足の裏はお母さんです。可愛く描けたと思っています。」と応えたカーチャン

うつ伏せで寝てるとカンチョーしてくるカーチャン

俺が車に轢かれそうになった時に悲鳴をあげながら庇ってくれたカーチャン

俺の代わりに轢かれたカーチャン

なぜか無傷のカーチャン

職場でいじめられて「たっくんがいじめられてたとき助けてあげられなくてごめんね、一人じゃどうしようもないものなんだね。」と謝ってきたカーチャン

新しい職場では無駄にもててたカーチャン

引篭った俺を外に出そうとお出かけに誘ってくるカーチャン

断ると悲しそうな顔をするカーチャン

気まぐれでOKするとちょっと驚くくらい喜ぶカーチャン

明日お弁当作るから公園で食べようねと笑顔のカーチャン

次の日「お弁当ができたら呼ぶから準備しておいてね」と言ったまま、呼びに来なかったカーチャン

見に行くとキッチンで倒れてたカーチャン

もう会えないカーチャン

最後まで迷惑かけて心配かけてたけど、大好きだったカーチャン

 

誓います

俺には、3つ違いの弟がいた。

お袋は俺には「お兄ちゃんだから我慢しなさい」なんて一言も言わなかったと思う。

でも、甘えるの我慢してた記憶はたくさんある。

3歳ながらに「弟はまだ赤ちゃんなんだから」っておもってたんだよなぁ。

親父は出張が多くてほとんど家にはいなかったな。

俺が小学生なって初めての運動会の朝、お袋は

「○○君(俺)がんばってね!お母さん、△△(弟)とお弁当持って見に行くからね!」

って送り出してくれた。

それが、最後の言葉だった。

お袋は自転車の後ろに弟を乗せ、カゴには俺の大好きなものばかり詰まった弁当を乗せて、俺の初めての運動会を見に行く途中、信号無視したトラックにはねられた・・・。

小1の頃の記憶は、ほとんどない。

「お母さん。お母さん。お母さん。お母さん。お母さん。」

もっともっと、甘えればよかった。

弟が乳を飲んでいる時にも、「もう片方のひざはぼくのモノ~」って甘えればよかった。

もっともっと甘えたかった・・・。

今日の午前2時55分、俺は親父になりました。

俺は、嫁と娘を全力で一生守ります。

誓います。

お母さん、けんじ、どうか天国で見守っていてください。

 

母親の匂い

先日、母の日に実家に帰ったとき、ジョイントを持って行った。

兄に子供が生まれた関係で家は禁煙になっていて、俺の部屋も物置き状態。

母親の隣で寝る事になったんだけど、何か気恥ずかしくて、

母親が寝静まるまで、散歩したり、旧友と会ったりして過ごした。

夜の2時にベランダで一服して、布団の中に入った瞬間、母親の匂いがした。

そして、忘れてた記憶がどんどん蘇ってきた。

引っ越す前の家で、俺もまだ小さくて、自分の部屋が貰えなかった頃。

隣に寝ているお母さん、反対側にタンス、タンスにはやたらとシールが貼ってあって、

その上に象のぬいぐるみ、枕元は・・・

20年以上前の記憶が、母親の匂いに乗ってどんどん出てきて布団の中でばれない様に泣いた。

お母さんいつもありがとう。

長生きしてください。

 

幽霊でも、何でもいいから会いたい

いつも通り、朝が来て、夜が来る。

楽しいことも、辛い事も、あっても、なくても朝が来て夜が来る。

何気ない日常の始まりと終わり。

あの時も同じだった。

会社で仕事をしていた時、携帯電話が鳴った。

父からである。

「お母さんの心臓の鼓動がおかしい。」

「看護士さんもかなり厳しい状態と言われた。」

父の連絡を受けて、入院している母の元へ駆けつけた。

母の心臓、息つかいは、正常ではなかった。

母は、2週間程前から、この病院へ入院している。

その前は、自宅で父と2人で介護していた。

母の病は、重篤な病気である。脳腫瘍と呼ばれる癌である。

癌の治療は日々進化していると言われているが、脳腫瘍という癌は違う。

既に、症状が現れた時は、既に末期状態というもの。

脳という場所は、他の臓器の様に容易に手術も出来ない。放射線や化学療法も効果が難しいという場所である。

現在の医学では、根治は無理な病気である。

この様な状態で焼く2年間、闘病していきたが、終焉を向かえ様としている。

母は、兎に角闘った。頑張った。

自宅では、必ずトイレで用をする。

失禁などなかった。

この病院へ来た時、看護士さんから、

「この状態で、よく自宅で介護されましたね。」

と言われるほど状態は悪かった。

色々な事を思いだすが、何故か、闘病の時に母へ酷い事を言った事など悪い思いでしか浮ばない。

母は、本当に優しく、穏かで、健気で父、弟、自分を支えてきた。

母は、入院する直前から、言葉が喋れなくなったが最後に、母が言った事、

「あんたが、傍におってよかった。」

「もう、あんたに何もする事が出来ん」

時間は刻一刻とせまってきている。

父は、しっかりと強く母の手を握りしめていた。

すると、母は、大きく息をした。

止まった。

最期の灯火。

もうすぐ、母がいなくなって1ケ月近くたつ。

自分は、いい歳だが、母が恋しい!母に会いたい!

一年に一回でいいから、合う時間が欲しい。

幽霊でも、何でもいいから会いたい。

街を歩くと、父、母といった場所へいってしまう。

今日も、本当に暑い日はつづく。

 

火事

今年の6月に母が亡くなった。

火事だった。

同居していた父親は外出していて、弟は無事に逃げる事が出来たのだけど、母親は煙に巻かれて既に駄目だった。

自分は違う地方に住んでいたのだが、電話で聞いた時にはどうする事もできず、ただひたすら号泣しながら高速を運転して実家に戻った。

火事でめちゃくちゃになった実家を見た時に、

『ああ、本当に起こったんだ』

と冷静に実感をした。

全焼だった焼け跡には何も残っていなかったが、アルバムやら保険の証書なんかの重要な書類は、焦げてはいたけど奇跡的に焼けずにジェラルミンのケースから出てきた。

母の遺体は警察に見せてもらえず、頬の裏側の粘膜をスプーンみたいなもので取られて、『DNA検査の結果を待ってください』なんて言われた。

僕は検視をした大学病院の先生に直接電話して、

「母は苦しまなかったんですか?」

と聞いた。

「遺族の皆さんからのそういう問い合わせはいつも本当に多いのですが、私には分からないんです。」

と優しい口調で諭された。

告別式や葬式が終わって、焼け残った書類なんかを家族みんなで調べていたとき、母親が残していた書類が出てきた。

小さなそれは放水車の水で濡れて、炎で焦げてはいたけどちゃんと開く事が出来た。

それは、僕たち兄弟5人の母子手帳だった。

僕の手帳には、産まれる前日まできっちり状態が書き込んであり、

『ちょっと出血があったので心配。先生は大丈夫だと言ってたけど』

と若かかった頃の母の直筆で、メモが残されていた。

兄、2人の妹、弟の母子手帳もそれぞれいろいろな記録がしっかり書かれていた。

僕が産まれて35年間も、大事に、大切に保管をしてくれてたのだ。

皮肉にも、母が亡くなって焼け跡の中で知った。

僕らは兄弟が多く、母はずっと苦労したと思う。

当時は、学費も生活費もかさんでお金もなかったから、よくパートに出ていた。

スーパーで働いていた時は、廃棄になるおにぎりをいつも5つ持って帰ってきてくれていて、それを笑顔でみんながほおばっていたのを今でも覚えてる。

そんな母も、僕ら一人一人に分け隔てなく愛情を注いでくれていた。

「あんたらが大きくなったら、一人で旅行とかいろいろ行くねん!早く大きくなってや。」

と小さかった兄弟に、いつも笑いながら言っていた。

母は、結局一人で満足に旅行は出来なかった。

『母の人生は幸せだったのかな?』

とよく思う。

母子手帳は、兄弟一人一人の手に形見として受け取った。

みんなそれぞれに、心に染みるものがあったと思う。

生まれてくる子供達を思い、母子手帳に一生懸命書き込んでいた若かりしころの母。

僕にも、今は小さな子供がいる。

母がしてくれたように、この子にたくさんの愛情を注いで、立派な父親になりたい。

それが、母に対する、恩返しになると思う。

 

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