先輩と雨
俺の住む県は雨が降らない。
日本一、とかではないが、地方の天気を見ても、周り全部雨なのにここだけ降っていないという事が多々ある。
それは隣県の晴れの国パワーが流れて来ているからか、山脈に雲が塞き止められるからか、はたまたなにやら専門的な要素が働いているのかはわからない。
降ってもほんの少しだったりするから、毎年水不足に悩むのも仕方ないのである。
そんな滅多に降らない雨の日、俺は初めてそれを見た。
先輩と出会った年の秋、肌寒くなってきた頃。
珍しく大雨で、俺はカッパを着て自転車をこいでいた。
雨でも風でも学校はある。
どこかの大王のように、雨が降ったらお休みにすべきでは無いのか、などと、たわけた事を半ば本気で考えていた所、雨に煙る道の先に人影が見えた。
視界は悪く、人影は文字通り影に見える。
少し遅刻気味の今の時間、もしかするとお仲間かもしれないと思った俺は、自転車を加速させた。
知り合いかどうか見てやろうと思ったのだが、雨が酷く未だに影のままだ。
□ □ □
さらに近付いて、ようやく違和感に気付いた。
この人影はまさしく影であり、ただ漠然と黒いままに存在していたのだ。
驚いてぽかんとしている間にも自転車は進み、影の横をすれ違う。
厚みのある影、という表現が一番しっくりくる。
確かな厚みと存在感はあるが、間違いなく影なのだ。
すれ違いざま、その影が弾けた。
ばしゃんと音を立て、降り注ぐ雨に溶けて流れてしまった。
「それは、人の形をしてたのか」
先輩はコンビニのおにぎりをかじりながら聞いた。
「はい、それは間違い無いです」
昼休み、俺は先輩の教室を訪ねた。
登校中に見た物が気になったからだ。
「雨の日の、黒い人影、ね」
海苔をバリバリ噛みながら、先輩は窓の外を見た。
見るまでもなく、雨はまだ降り続けている。
「雨に限らないんだが」
先輩の語りが始まる。
先輩の話し方は、不思議と心惹かれるというか、掴むのが上手いというか。
俺は、先輩が語り始めるとわくわくするのだ。
□ □ □
「水っていうのは、何かを溶かす物だ。砂糖とか、塩とか。電気も溶け出すと言える。そして、溶けた物は水の中に残るんだ。消費されるまで」
おにぎりをかじりながら淡々と語る。
「そう、何でも溶かす。死体も溶けて崩れるし、雨に流れる幽霊も見たことがある。極めつけは、意思だ。人の思いも、水は溶かす」
想像してみろ、と先輩は窓の外を指差す。
「あの雨の一粒一粒に、お前の意思が溶け込んでいる。何かを食べたい、何かが欲しい、誰が好き、誰が嫌い」
俺の脳みそから、液体のように意思が漏れだし、雨に混ざるイメージが浮かんだ。
「だけど、水の量は世界中で一定だ。水分は蒸発して雲に、雲は凝結して雨に、雨は蒸発してまた雲に。つまり、有限なんだ。水は」
それはわかる。
が、だからどうなのだろう。
「水が無限なら、問題ない。しかし、水が有限なら、溶けることの出来る量も有限だ」
□ □ □
昔、飽和、というのを習った。
水の量に対して、一定の量の物質が溶けると飽和して、それ以上は物質が溶ける事が出来なくなる。
なるほど、水の量が有限なら、節操無く溶かし込んでいけばいつかは飽和するわけか。
「で、本題である、お前が見た物についてだ。恐らく、俺も同じ物を見る。俺には不定形に見えるが、黒くて、不可思議な存在感をしたモノ」
今朝見た物が思い出される。
確かにあるように見えるのに、どこか希薄な、平面のような存在感。
影という他喩えようもないモノ。
「あれは、上手く近付いて触ればわかる。水に溶けて、飽和した後。溢れた分の意思だ。雨は、そういう物も地上に運んでくる」
雨の音が聞こえる。
喋り終えて黙った先輩は、俺の弁当の唐揚げを物欲しそうに眺めている。
箸でつまんで鼻先に持っていくと、一口に頬張られてしまった。
「その、意思っていうのは、どんな物なんですか」
先輩は唐揚げを咀嚼しながらにやりと笑った。
□ □ □
「ん、うん。簡単なことだ。溶け残るってことは、つまりそれだけ濃く、多くを締める意思なわけだ。そんなもんはいつだって誰だって決まってる」
少し、間があいた。
「憎しみ、嫌悪、憎悪。決して幸せや愛なんかじゃない。あの黒い物は、人の汚濁だ」
先輩は今度はウインナーを見ている。
俺はあーんと言って先輩に口を開けさせて、その中に放り込んでやった。
満足そうな先輩から視線を外し、窓の外、校庭を眺める。
その真ん中に、真っ黒な人影が立っていた。
その黒い顔は、こっちを見ているような気がした。
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