『忘却の彼方』藍物語シリーズ【5】◆iF1EyBLnoU 全40話まとめ – 怖い話・不思議な話

『忘却の彼方』藍物語シリーズ【5】◆iF1EyBLnoU 全40話まとめ - 怖い話・不思議な話 シリーズ物

 

スポンサーリンク

藍物語シリーズ【5】

 

藍物語シリーズ【全40話一覧】

 

 

『忘却の彼方』

 

 

昼食を食べ終わり、翠のミルクの時間が終わると、Sさんと翠の昼寝の時間だ。
昼寝の時間は大体1時頃~3時過ぎまで。俺はその時間、お屋敷のまわりの山道を
マウンテンバイクで探索するのを日課にしていた。
お屋敷から街へ繋がるT字路を、街とは反対側に曲がって暫く走ると山道になる。
山道はさらに幾つもの細い道に繋がっていて、マウンテンバイクで探索するのはとても楽しい。
この山はSさんが親戚からお屋敷と共に相続したもので、
つまりSさんはこの辺りの広大な土地の地主だ。
だから俺は入り口に車止めが置かれているような道にも気兼ねなく出入りできた。
「特に障りのある場所も無いし、探索するのは全然問題ないわ。でも安全第一でね。
熊はいないけど、蝮はいると思う、雀蜂も。それに古い道路が崩れている場所が
幾つかあるみたいだから、十分気を付けてよね、『お父さん』。」
「了解です。いつも携帯持参だし、雨の日は中止ですから。」

相変わらず姫は翠に夢中なので、サイクリングには興味を無くしていた。
休日は姫が翠を姫の部屋に連れて行って2人で昼寝する事も多い。
だから休日は夕食の支度をSさんに任せて、日暮れ前まで山道を探索する事も出来た。
1人なので、姫と一緒では走れないような未舗装路もどんどん入っていける。
道路に飛び出してきたキツネと鉢合わせしたり、見た事のない綺麗な花が咲いていたり。
山道の探索はとても楽しかった。

 

5月下旬の土曜日、俺はこれまで入っていなかった未舗装路を探索していた。
暫く走ると道はさらに細く、路面の凹凸はさらに大きくなる。
『安全第一』、『お父さん』、Sさんの言葉を思い出して、
そろそろ引き返そうかとマウンテンバイクをUターンさせた時
『この音?』、道端の茂みの向こうから微かな水音が聞こえる。
道端にマウンテンバイクを止め、茂みをかき分けた。やっぱり川だ。
茂みを抜けると開けた斜面になっていて、斜面を降りたところに綺麗な川が流れている。
聞こえていたのは、滝というには小さな段差を流れ下る水の音だった。
『ここ、天然のヤマメやイワナが釣れるんじゃ?』
Sさんの私有地で、他人がどんどん入ってくる場所では無い。
川幅は狭く流れはやや早いが所々に淵もあり、フライ(毛針)を流しても面白そうだ。
釣り荒れしていない筈だから充分チャンスはある。
翌日、天気が良ければ久し振りにフライフィッシングをしようと決めた。

「今日、山道を少し入った所で川を見つけましたよ。」
「川?ああ、確か今でも小さな川が今も幾つか有ったはず。」
夕食後のひととき、リビングでSさんと俺はホットコーヒー、姫はホットミルクティー、
翠はソファの上で寝息を立てていた。
「それで明日、晴れていたら道具を持って」
「あ、L、待って。もう、あなた今日は翠の昼寝も一緒だったでしょ。」
早々にミルクティーを飲み終え、ティーカップを片づけた姫が
素早く翠を抱いてリビングから出て行くのをSさんが追いかけて行ってしまった。
話はそこで打ち切り、仕方がない。今夜、Sさんと翠は姫の部屋で寝る事になりそうだ。
姫のベッドは3人で満員なので俺は自分の部屋で寝る事になる。
いつもなら結構寂しいが、今夜は少し違う。明日に備えてフライを巻く。
姫の部屋からSさんと姫が代わる代わる翠をあやしているのが聞こえている。
俺は食器を洗って片づけた後、倉庫の荷物から釣り具箱を引っ張り出した。

 

釣り具箱の中から釣り針と獣毛、そして鳥の羽と毛糸を取りだした。
ペンチで固定した釣り針に材料を巻き付け、細い糸で縛って固定する。
余分な部分をハサミで切り落とし、形を整えて完成。
小さめのカゲロウに似せたニンフと川虫に似せたピューパを用意すれば良いだろう。
それぞれ3本ずつ、6本を巻き上げてベッドに入った。
フライフィッシングは高校生の時父と一緒に行って以来、4年ぶりだ。
気分が高揚して、なかなか寝付けなかった。

翌日、3人が昼寝のためにSさんの部屋に入ったのを確認してから出発した。
フライは尻ポケットのフライケースの中、クーラーボックス替わりに保冷剤を入れた
発泡スチロールの箱を荷台に載せる。竿はケースに入れて背負った。準備万端。
昨日の道を辿り、水音の聞こえる場所に着いた。
茂みの中にマウンテンバイクを隠し、茂みを抜けて斜面を下る。
そっと川岸に近づき、川の水に手をつける。冷たい。
指先を濡らした水は、微かに、硯で墨をする時のような良い香りがした。
釣れるぞ、これは。
焼き魚を前にして喜ぶSさんと姫の顔が眼に浮かぶ。自然と気合いが入った。
ロッドを継ぎ、ティペット(先糸)にフライを結んで釣りを始める。最初はニンフを結んだ。
上流側に向けてキャスト、川面を流れるフライの動きに注意してアタリに備える。
ある程度下流に流れたらフライを回収、再び上流側にキャスト。
今度は流すコースを少し変えて川の中の大きな石の傍、淵になった部分を流す。
すぐにヒットしても不思議じゃない雰囲気だったが、何度キャストしてもアタリが無い。
フライをピューパに変えたが反応なし。うーん、渋い。水温が低すぎる?
だが、キャストしてフライを流す毎に『川との一体感』みたいな感覚が強くなって
とても気分が良い。俺はいつしか無心でキャストに没頭していた

 

「釣れますか?」
突然、上流側、俺の右側から声を掛けられた。初老の男性が1人、川岸に立っている。
「何か、釣れますか?」 もう一度尋ねてから、男性は穏やかな笑顔で俺に近づいて来る。
「いや~、全然ダメですね。とても良い川なので、すぐに釣れると思ったんですけど。」
「良い川。...そう、ここは良い川です。ときに、君の、その釣り道具は?」
フライフィッシングをする釣り人を見た事が無いのだろうか。
「ああ、こういう毛針、フライっていうんですけど。これを流して釣るんです。」
俺は尻ポケットからフライケースを取り出して、ケースの中を男性に見せた。
「ほう、変わった毛針ですね。テンカラの毛針と違って、随分繊細でお洒落だ。」
「テンカラの毛針より、もっと虫っぽいですよね。羽と尾があって。
ところで、あなたは地元の方ですか?」
ここはSさんの私有地だから、地元の人であっても不法侵入なんだが。
「はい、この川の上流に小さな集落がありまして。そこで暮らしています。」
集落?この山の中に人が住んでいるなんて、Sさんはそんな事言っていなかったけど。
「昔はテンカラを振る釣り人を時々見かけましたが、最近は全く。
此処で釣り人を見るのはもう30年ぶりです。君が毛針を使っているのを見て
懐かしくなりました。暫く、釣りを見せてもらってもよろしいですか?」
男性は穏やかな笑顔を浮かべていた。怪しい人ではないだろう。
「はい、僕は構いませんが。釣れないので退屈かもしれませんよ。」
男性は俺の近くの石に腰掛けて俺の釣りを眺めていた。
「うん、毛針を投げる所作が美しい。まるで舞を見ているようだ。」

 

フライフィッシングではフライラインを前後に振りながら次第にラインを繰り出していき
充分な長さのラインが出た時点でキャストする。
極端に軽い毛針を遠くに投げるための、先人の知恵だ。
男性が『美しい』と言ったのは、そのキャストの事だろう。
テンカラには無い、フライフィッシング独特のキャストの動作。
そのキャストを俺は父親に習った。父親を誉められたような気がして何だか嬉しい。
「そうですか。ありがとうございます。これは父から習ったんです。」
男性は暫く黙り、やがて言った。「良い父君を持って、君は幸せですね。」
そして男性は俺の釣りを見ながら、ポツリポツリと昔の川の事を話してくれた。
ここの少し下流にある大きな淵に『主』と呼ばれる三尺余りの大岩魚が住んでいたこと。
川虫を沢山集めて作った佃煮を肴に飲む、村の地酒の旨かったこと。
村の地酒を仕込む時にはこの川の上流から引いた水を使っていたこと。
やはりこの河の水を引いた田で稲の苗を植える早乙女達の美しかったこと。
正月、神に捧げる焼き魚は、この川で釣り上げた山女と決まっていたこと。
俺は時の過ぎるのを忘れて男性の話に聞き入り、釣りを続けた。

どのくらい時間が経ったろう。ふと、Sさんが翠を抱く姿が眼に浮かんだ。
「うーん、家族へのお土産にするつもりだったんですが。川魚。こりゃ難しいかな?」
「君には、既に御家族が?」 驚いたような男性の声が川面に響く。
「...姫君が御一人、細君が御二人。」
「え?」思わず振り向く。 男性は眼を細めて俺を見ていた。
「ご婦人方への良きお土産。釣れますよ。」
「パシャ!」突然水音がしてアタリが伝わる。反射的に合わせをくれる。
「ほう、この所作もまた。」

 

寄ってきたのは尺近いイワナだった。やはり反射的にポケットから出したナイフを
エラに入れてイワナを〆め、血を軽く洗って発泡スチロールの箱に入れる。
「全ての所作が無駄無く研ぎ澄まされて。父の教えは貴きもの哉。」
立て続けにアタリがあり、尺超えのイワナ、そして良型のヤマメ。
そこで俺はキャストを止めた。
「釣りはこれでお終いです。本当に釣れましたね。あなたの言った通りです。」
「時合いはむしろこれから、もう少し続けては?」
「娘はまだ小さくて魚を食べられません。これで十分です。」
『それよりも』と俺は言いかけた。『何故、妻が2人と?』そう聞くつもりだった。
しかし、ヤマメを〆め箱に入れてから顔を上げると、男性は既に歩き出していた。
「久し振りの眼福ぞ。善哉、善哉。」
止める間も無く、驚く程軽い足取りで男性は上流へ向かって歩き去った。

 

日暮れ前にはお屋敷に帰り着いた。Sさんが夕食の支度をしている時間だ。
釣り具を片付け、発泡スチロールの箱を持ってダイニングに入った。
姫が翠を抱いたまま立ち上がる。 「Rさん...どうして。」
Sさんが振り向いて息を呑む。 「R君、あなた。一体何処へ行ってたの?」
「え、釣りですよ。昨日見つけた川で。」
「今、この辺りに釣りが出来る川なんて無い。30年位前に上流でダムが造られて、
今は申し訳くらいに水が流れているだけ。完全に枯れた川も有る筈よ。」
「え、でも。イワナとヤマメが3尾。」
発泡スチロールの箱を持ち上げると、信じられないほど軽かった
コロコロ、カチ、と乾いた音が響く。小さな石ころが転がるような、音。
「え、何で?」 慌てて蓋を取る。 無い。魚が、何処にも無い
箱の底、保冷剤の陰に変わった形の石が見えた、3個。イワナは?ヤマメは?
Sさんがその石を一つ、拾い上げて掌に載せた。オタマジャクシが尾を曲げた形。
「勾玉、ね。しかも本物。そこらの呪物なんか足下にも及ばない祭具。」
姫が残りの2個を拾い上げた。3個とも大きさと形は同じだが色が違う。
Sさんが持っているのはガラスのように透き通っている。
姫がテーブルに並べたのは乳白色、そして濃い緑色。
「水晶、白瑪瑙、翡翠。」 そして大きく溜め息を付いた。
「危なかった。R君、あなた、相当だわ。」
「相当って。釣りが下手過ぎて狐か何かに化かされたんですか?」
「違います、逆です。」 「そう、逆。相当気に入られたのね。」

 

山の中で見つけた綺麗な川で釣りをして、
そこで初老の男性に出会った子細を俺は2人に話した。
フライフイッシングの動作を褒められたこと、
そしてその男性が俺の家族について『細君が2人』と言ったこと、
さらに『ご婦人方へのお土産が釣れる』と言った直後に3尾の魚が釣れたこと。
話を聞き終えてSさんが尋ねた。
「それで、その男の人。どんな顔だった?どんな服を着てた?」
そう言われて気が付いた。男性の顔を全く思い出せない。あんなに話したのに。
確か黒っぽい服、いや、着物だったかも。いや、それじゃあの足の速さは。
「それが、何故か思い出せないんです。さっきまで、憶えていたはずなのに。」

 

「憶えていない、のではなく、見ていない。」
「そんな、僕は確かに川で釣りをして、あの人に会ったんです。」
「この山の中に村があったのは確かよ。でも100年以上前に廃村になってる。
だから今は誰も住んでいない。今日あなたが会ったのは。」
Sさんは一旦言葉を切って、手の中の勾玉を見つめた。
「今はもう枯れてしまった川の神様。今もまだ其処に留まっておられる。
確かに『ご婦人方へのお土産』と仰ったのね。」
Sさんの口調が変わった。
「じゃ、文字通り。翠にはこれね。」 Sさんは緑色の勾玉を翠の手に握らせた。
「あの、きれいに洗ってからの方が。」
「失礼な事を言うと、罰が当たるわよ。」
勾玉を握った手を振り、翠が笑顔になった。何か小さな声を出している。
「やっぱり、そうだった。L、あなたはどれが欲しい?」
Sさんは手の中の透明な勾玉をテーブルの上に置き、乳白色の勾玉と並べた。
「私はこれです。」姫が手に取ったのは乳白色の勾玉。
「じゃ私にはこれね。」 もう一度、Sさんが透明な勾玉を手に取った。

「本当に神様、だったんですか?」
「R君、自分では見えないでしょうけど。あなた、今、光ってる。」
「え?」
「『光塵(こうじん)』です。神様や高位の精霊に会った時の残り香のようなもので、
小さく銀色に光ります。でもこんなに沢山、初めて見ました。」姫の声が少し緊張している。
「もの凄い数。髪の毛も、服も、体全体が光ってる。とても綺麗よ。」
「まるでクリスマスツリーの電飾みたいです、白いLEDの。
おとうしゃん、ぴかぴかきれいでしゅね~。」 姫が翠を抱きしめて眼を閉じた。
穏やかな口調とは違い、姫の顔は少し蒼ざめて見える。
「直接お礼を申し上げてお願いしないといけないわね。
次の土曜日に。R君、それまで山の探索は絶対禁止。分かった?」
え?本当に神様に会ったのなら、むしろ幸運、じゃないのか?
そういえばSさんは最初に『危なかった』と。 少し、寒気がする。
「あの、どうして山に入ったらダメなんですか?」 軽い目眩、視界が霞む。
「分かってないわね。もし、あなたが『家族の事を話さなかったら』どうなってたと思う?」
突然、全身に鳥肌が立ち、歯の根が合わない程の震えが来た。
Sさんが俺を抱きしめ、小さく何事が呟いた。震えは止まったが寒気が収まらない。
「L、今夜は翠をお願いね。」 「はい、Rさんを宜しくお願いします。」
その晩と翌日、この辺りには激しい雨が降り続いた。

 

次の土曜日は快晴。俺はSさんと2人で山へ向かった。
Sさんはマウンテンバイクの荷台に横座りしておれのお腹に右手を回している。
2人乗りだ。登り基調の山道だが、それほど辛くない。快調なサイクリングだ。
やがてあの未舗装路の入り口、ここからは2人乗りでは危ない。
入り口の茂みにマウンテンバイクを隠し、あとは徒歩。
Sさんから受け取った紙袋を持ち、2人でひたすら歩く。
やがて見覚えのある茂みをみつけた。俺がマウンテンバイクを隠した跡が残っている。
しかし、水音がしない。黙って茂みを掻き分ける。やっぱり。
川が無い。
もとの川床だったらしい跡が続いているが、僅かに一筋の水の流れが見えるだけだ。
数日前の激しい雨の後でこれなら、先週はおそらく完全に枯れていただろう。
Sさんに手を貸しながら2人で斜面を降りた。
「R君はここで待ってて。」
Sさんは暫く辺りを歩き回り、最初に男性が立っていた場所で立ち止まった。俺を差し招く。
Sさんは俺から紙袋を受け取り、中から小さな三方を取り出した。
白い紙を敷き、勾玉を並べる。水晶、白瑪瑙、翡翠。
Sさんが地面に膝をつく。俺も隣に膝をついた。
深く息を吸ってから、Sさんが眼を閉じて頭を下げた。俺もそれに倣う。
澄んだ声で、Sさんが古い言葉を紡いでいく。何を言ってるかは分からない。
鳥の声と木々の葉のざわめき、その中にSさんの声が浸みていく。
暫くしてSさんが立ち上がった。上流に向かって深く頭を下げる。
俺も慌てて立ち上がり、上流に向かって最敬礼をした。
Sさんが三方と白紙に包んだ勾玉を紙袋の中に戻して俺に差し出す。
「はい、これでもう大丈夫。」

 

お屋敷へ繋がるT字路まで帰ってきた時、俺はSさんに聞いてみた。
「さっきの言葉、どういう意味だったんですか?」
「勾玉のお礼を申し上げたの。それから。」
「それから?」
「私の大切な、愛する夫を連れて行く事だけは、どうかお許し下さいって。」
俺のお腹に廻したSさんの腕に力がこもった。背中に感じるSさんの体温。
「ねえ、何処にも行っちゃダメよ。絶対に。たとえどんな神様に呼ばれても。」
「はい、分かりました。」胸の奥から温かいものがこみ上げてくる。

お屋敷に到着し、マウンテンバイクを降りたSさんがぽつりと呟いた。
「○瀬△□◎主之尊。」
「え?」
「名前。あの川の神様の。」
「廃村の中に小さなお社を造らなきゃ、約束したから。」
「約束って?」
「それが、あなたを連れて行かない事の交換条件。」
「お帰りなさい。」玄関先に翠を抱いた姫が立っている。
姫から翠を受け取ったSさんは華やかな笑顔になった。
「おとうしゃん、もうだいじょうぶだよ。よかったね。」
姫も優しく微笑んで翠の頭を撫でた。
「おとうしゃんとおかあしゃん、ふたりともぴかぴか、きれいだね~。」

 

 

Sさんに頼まれた買い物を終え、姫を迎えて帰ってくると、
お屋敷のガレージに軽の4駆が止まっていた。真新しい黒のパジェロ・ミニ。
来客の様子はない。ロータスがお屋敷に来た時の事を思い出した。
軽自動車一台、Sさんなら電話一本で手配しそうだ。でも、何のために?

夕食後のひととき、今夜は姫が点ててくれた抹茶。
お茶請けの饅頭を食べながら4駆の話をすると、Sさんは得意そうな顔をした。
「この前山道歩くの大変だったでしょ?あれならどんな道でも簡単に入れる。
細い道が多いから軽は外車より小回りがきいて良いかな?って。一応4人乗りだし。
試しに『あの川』の近くまで行ってみたけど楽勝だった。」
俺と姫は同時に叫んだ。
「翠を4駆に乗せて走ったんですか?」 「翠ちゃん、まだ2ヶ月なのに!」
「もう、翠の事になると大袈裟なんだから。そんな事する訳無いでしょ。
ちゃんと寝かしつけて、式に守って貰ってる間に行ったの、1人で。
それもたった20分位。たまには式にも仕事させてあげないと可哀想じゃない。」
「いや、そもそも今更4駆が必要な理由が分かりません。」
「何言ってるの。この際この辺りを全部調べておかないと安心できない。
また今度みたいな事があったら、取り返しがつかないかも知れないのよ?」
「それはSさんの言う通りです。Rさんは気に入られやすいタイプみたいですから。
出かけていったきり戻ってこないのでは、翠ちゃんが可哀想ですよ。
それにSさんも私も...そんなの絶対に嫌です。」 姫の眼にじわっと涙が溜まった。
「いや、神様全部が好き勝手に人を連れて行く訳じゃないですよね?
神様なんですから、むしろ人助けをしてくれる事の方が多い筈ですよね?」
Sさんと姫は顔を見合わせた。やがて姫が涙を拭って口を開いた。
「Rさん、『神』とか高位の『精霊』は人間の為に存在している訳ではありません。
気まぐれで人助けをすることもありますが、人間の側からすれば
基本的にはとても我が儘な存在だと考えておいた方が良いんです。」

 

「神様が、我が儘?気まぐれって。」
「はい。『神』も高位の『精霊』も人間とは比べものにならない『力』を持っています。
普通は何かに頼る必要はありません。だから常に自分の行動原理が最優先なんです。」
一瞬頭の中にSさんの顔が浮かんできて、その途端に二の腕をつねられた。
「痛!何も言ってないのに。」 「今考えたでしょ、私の事。失礼ね!」 「済みません。」
「ええっと。良いですか、話を続けても?」 「あ、お願いします。」
「だから気に入ったら取り敢えず手に入れようとします。人でも物でも。
多分あの川の神様は、山道を探索している時からRさんをマークしておられた筈です。」
「そう、だから川の水音を。釣りが好きな事を見抜いておられたから。」
「Rさんは良い気分だったんですよね。釣りをしている間中、ずっと。」
「はい、凄く気分が良かったです。何て言うか、『川との一体感』を感じて、あ...」
「そうです。もしあのまま釣りを続けていたら、多分Rさんは今も釣りを続けています。」
「幻の川で、ですか?」 「はい。」 「それが『神隠し』?」 「その通りです。」
「人が自分の庭に綺麗な花を植えるように、神様は自分の領域に飾るんです。
手に入れたものや、人を。そしてそれらを眺めてお楽しみになる、永遠に。」
「永遠に?」 「はい、不老不死です。でも、Rさんは飾られないで下さいね?」
「いくら気持ちよく釣りが出来るからって、自由意志の無い飾り物になるのは嫌です。」
「そうですか、良かった。自ら望んでそうなる人もいるみたいなので。」
そんな馬鹿な、幾ら何でも。

 

「今回はたまたまRさんに私たち家族がいることをお知りになって『猶予』を下さった。」
「猶予?」 「はい、つまり勾玉とRさんを引き替えに、と。」
「あの勾玉が僕の対価になっていたかもしれないんですか?」
俺の命は勾玉3個分の価値?
「R君、私、あの勾玉は本物って言ったでしょ?」 「はい。」
「『あれ』を手に入れるためなら何でもするって人は沢山いるのよ。」 「え?」
「『あれ』は本物の祭具、使いようによっては人の運命を左右する力があるんです。」
「人の運命って。」
「一生お前達の幸運を保証してあげよう。だからその男はこちらに寄越しなさい。」
そんな、無茶な。
「無茶。まさにそれが特徴なんです。『神』も『高位の精霊』も。
だから、基本的に私たちは『お願い』するしかありません。でも、Sさんの『位』が高いから
今回は『交渉』が出来たんです。新しいお社とRさんを交換にして。」
「『位』だけじゃない。あの神様が『男性』、つまり『陽神(おがみ)』さまだったから
私たち女を哀れと思し召して『猶予』を下さったし、私たちの『お願い』を聞き届けて下さった。
女性からの『お願い』なら、聞き届けて下さる可能性は、陽神さまの方がずっと高い。」
「もし、あれが『女神』さまだったら?」
「『陰神(めがみ)』さまだったらって...問答無用で君は今も釣りを続けてる。幻の川縁で。
『猶予』も『交渉』の余地も無く。」
少し、寒気と目眩がした。

 

廃村の中に新しい小さなお社が完成したのは姫の高校が夏休みに入る前の週だった。
宮司を置く訳ではないので社務所・札所はないが、
拝殿と瑞垣で囲まれた本殿がある、本式の作りだ。拝殿に繋がる参道には手水舎もある。
元の川床に掘った井戸から水を引いていると聞いた。参道の入り口には小さいが立派な鳥居。
そして神社の背後には鬱蒼とした森が広がる。これが鎮守の森にあたる訳だ。
神社が完成すると数回の祭礼が行われ、いよいよ遷宮の祭礼の日が来た。
俺たちの他十数人が参列し、祭礼が始まったのは午後4時頃。
白装束の人々が粛々と儀式を進行していく、その指揮を執るのはSさんだ。
姫はSさん公認で1日中翠の世話を任され、朝からご機嫌だった。
日が暮れて暫くすると参道の松明以外の灯りが消された。発電器の微かな唸りも消える。
薄暗い中、白装束の人々が小さな御輿を担いでご神体をお迎えに上がる。
提灯を持って先頭を歩くのはやはりSさんだ。あの川の跡に向かうのだろう。
暫くして白装束の人々が戻ってきた。今度はSさんが殿(しんがり)を務めている。
身の引き締まるような、ぴいんと張り詰めた厳かな空気。
やがてご神体が本殿に御遷座されたことが参列者に告げられ、舞が奉納される。
舞手は2人、中学生くらいの少女達だ。松明の光を映す、幻想的な舞の美しさ。
舞が終わると参列者が順番に拝礼をし、2週間に渡る一連の祭礼は終了した。

 

参列者が鳥居をくぐって神社を出ていく。
俺はSさんと並んで1人1人に頭を下げて参列者を見送った。
参列者の中にどこかで見た事のある男性がいたが、それが誰かは思い出せなかった。
全ての参列者が帰った跡、俺は廃村に通じる道路の入り口に設置された門扉を閉めた。
儀式の数日前に設置された、とても大きくて丈夫な門扉だ。
「間違って誰かが入り込んで気に入られたら困るでしょ。」とSさんは言った。
参拝して気に入られたら神隠しに遭うかも知れない、
特定の人間しか参拝してはいけないお社。他にも何処か、あるのだろうか?
「ここ、初詣に来ても良いんですか?」
「初詣どころか、これから月に二度のお掃除と祭礼はずっと君の仕事よ。
心配だから、私かL、必ずどっちかかが一緒に付き添うけど。」
「...それも、『約束』のひとつ?」 「もちろん。」

 

お屋敷に帰りついたのは9時前、辺りは真っ暗になっていた。
翠を抱き、足下に気を付けて玄関に向かって歩く。その時、気が付いた。
翠の全身に銀色の光の粒子がまばらにちりばめられている。
「翠の体に光の粒...これが。」言いかけて気付いた。Sさんも、Lさんも、
そして俺も。全身のあちこちに小さな光の粒子が光っている。
「そう、これが『光塵』。『本体』に近いときは見えないの。『本体』の光が強すぎるから。
本体からある程度離れて、そして暗い所は見えやすい。
でも、どんな条件であれ『光塵』が見えるって事は、R君の感覚が澄んできた証拠。
まあ、あんな体験したら、いきなり色々見えるようになっても不思議じゃないけど。」
「これからは『見ないようにする』訓練が必要かも知れませんね。」
「そうね。でも、今はまず夕ご飯。もうお腹ペコペコで倒れそう。」

 

Sさんが翠を着替えさせて寝かしつける間、俺と姫は大急ぎで夕食の準備をした。
Sさんも、姫も、とにかくよく食べる。日によっては俺よりずっと沢山食べることもある。
大量の料理を美味しそうに平らげていく様子は見ていて爽快。
見ているだけでこちらのお腹も空いてくる位だ。
「『術』は術者の体力を触媒にするから、強い術ほど体力を消耗するの。
だから今回のように2週間も続くような祭礼では、とにかく食べないと体が保たない。」
そういえばこの半月程、Sさんの食欲は凄かった。
あんなに食べて太らないなんて、何かホルモン系の病気なんじゃないかと心配していたが、
そういう訳だったのか。
「量も必要ですけど、味も大切ですよね。」 「味、ですか?」
「美味しくないと沢山食べるのは辛いです。それに、同じだけ食べるなら
気持ちを込めて作った美味しい料理の方が元気になります。全然違いますよ。」
「そんなに違うんですか?」 Sさんが頷きながらグラスの赤ワインを飲み干す。
俺は慌ててSさんのグラスにワインを補充した。
「食材に感謝して、出来るだけ美味しく食べる工夫をする。
すると自然に料理が上手になる。美味しいから沢山食べて元気になる。好循環。
食べ物こそ全ての基本よ。R君が料理上手で本当に良かったわ。」

 

食後、俺とSさんはリビングでホットコーヒーを飲んでいた。
姫はホットミルクティーを半分程残したままソファで寝息を立てている。
起こそうとするとSさんが唇に人差し指を当てて小さく首を振ったので声を掛けるのは止めた。
姫が眼を覚ますと、絶対に翠を自分の部屋に連れて行こうとする。それを防ぐつもりらしい。
祭礼の期間中、翠は姫と一緒に寝る事が多かったから、
今夜くらいは翠と水入らずで過ごしたいのだろう。母親としては、当然の気持ちだ。
まあ、あとで俺が姫を部屋まで抱いて連れて行けば良い。
「そう言えば、今日の参列者の中に、どこかで見たような人がいたんですよ。
芸能人じゃないみたいだし、ちょっと気になって。」 Sさんの顔が少し曇った。
「男?40歳くらいの?」 「そうです。何かこう、凄みのある渋い人で。」
「それ、今日の主賓。『上』の1人。」 「あの『上』、ですか?」
姫に掛けられた術の一件で、外法を使う者たちに『対策班』を送り込んだ機関。
そして恐らく、『あの人』を、Kを殺した、機関。胸の奥が、きゅっと痛くなる。

 

「そう、一族の意志を決定する機関。そのメンバーの1人。
この土地に縁のある人だから参列したの、『上』を代表して。」
『上』の代表?あのお社と『上』に一体何の関係が?
「実はね、あのお社の造営資金は『上』から出てるの。」
「何故『上』がこの件を?」
「お社の建築は特殊技能だから、そこらの建築屋さんには頼めないの。
特に今回は工期が短かったから腕の立つ宮大工に頼むしかなかった。
宮大工にも『上』の情報網は入り込んでる。新築のお社、場所は私の土地。
隠しようが無い。すぐに電話で事情聴取されたわ。勾玉の件は黙ってたけど。
造営資金を負担すれば『上』があのお社の勧進元ってことになるでしょ。
つまり、あの神様に恩を売れるって訳。」
なるほど、思っていたよりずっと立派なお社になったのもそれが理由か。
「使えそうなものは全てキープしておく。いかにも『上』らしいやり方。抜け目が無い。
いざとなれば、あの神様の助力を請うつもりね。『本物』は、とても貴重だから。
でもまあ、私たちにも結構な報奨金が出たし、勾玉のこともあるから
全くの骨折り損ってことにはならない。落とし所としては、まあまあね。」
それからSさんは俺の耳元で、あの男の人の名前と職業を囁いた。
「........ .....。」
そうか、それで見た事があったんだ。成る程。

 

その時、玄関の電話が鳴った。
もう11時をまわっている。俺とSさんは顔を見合わせた。
お屋敷で暮らし始めて約2年、その電話が鳴るのを聞いたのは初めてだ。
俺たちは必要なら携帯で連絡を取り合うから、その電話を使う事はほとんど無い。
一度か二度、Sさんがどこかに電話を掛けているのを見た事があるだけだ。
電話は鳴り続ける。
「多分『上』だわ。さっきの参列者とは別件。」
Sさんが立ち上がった。玄関で電話に出る気配。
それが、始まりだった。

 

 

電話を終えて戻ってきたSさんは、ソファに深く体を沈めて溜息をついた。
そしてポツリと呟く。「やっぱり、気が進まないな。」
「祭礼が終わったばかりなのに、面倒な仕事ですか?」
「面倒っていうか、あんまりやりたくない種類の仕事。」
「今回は断った方が良いのでは?」
「我が儘言って『前線』から外してもらってる身だし、別件で術者が出払ってる...。
断る訳にはいかない。だからこそ、余計に気が進まないんだけど。」
「どんな仕事なんですか?僕に出来ることがあれば手伝わせて下さい。」
基本的な修行はしていたし、簡単な仕事ならSさんの手伝いも出来るようになっていた。
「そう言ってくれると嬉しいわ。ありがと。詳しい事は、また明日電話が来てから。
今夜は遅いし、もう寝ましょ。じゃ、Lを部屋まで、お願いね。」
Sさんは優しく笑って俺の頭を撫でた。

 

翌日、朝食を食べ終わったところで電話が有り、Sさんの表情は更に暗くなった。
朝食後のお茶の時間も雰囲気が硬い。「○◇会絡みの仕事、それだけでも気が重い。」
○◇会は、この地方に住んでいれば誰でも知っている怖い団体。いわゆる×力団。
Sさん達の一族は○◇会の偉い人にかなりの貸しがある、そう聞いていた。
『こちらが○◇会の偉い人を助けたのが切っ掛け、
そのあと『対策班』の一員として○◇会の手を借りた事もある。
情報源でもあるし、大口の顧客でもある。一種の必要悪ね。
Lの件で私も利用させてもらったから、文句は言いにくいんだけど。
私、アイツ等は大嫌い、できれば関わり合いになりたくない。
「仕事の内容はもっと気が重いんですね?」 Sさんは溜息をついた。
「そう、いわゆる御祓いの依頼なんだけど、内容が酷いの。

 

アイツ等が風俗で働かせてた女の子が、先週、男と逃げた。勿論すぐに捕まって
男は暴行されて公園に放置、今も意識不明。女の子は見せしめに文字通り嬲り殺し。
遺体は酷い有り様だったらしいわ。で、女の子の死体は山に埋められた。
その後、その女の子を管理してた幹部の娘がおかしくなったんだって。
部屋の中で暴れる、火をつける。水も食事も取らずに、昨日で二日目。」
「その女の子の祟りだろうから御祓いをして欲しいって事ですね?」
「そう。どう考えても自業自得なんだから全然気が乗らない。
むしろ殺された女の子の方に同情するわ。」
「でも、幹部の娘さんも可哀相ですよね。父親のせいで巻き添えになって。」
翠を抱いたLさんも浮かない顔だ。
「...其処なのよね。無下に断れないのは。まあ、今回も
『上』が相当な料金を受け取ったみたいだし。やるしかない、やっぱり。」
Sさんは、また小さく溜息をついた。

 

それからSさんは短い電話をかけた。おそらく件の幹部が相手だ。
電話の後、Sさんは姫と俺をリビングに招集した。
「電話越しでも怒りの念が伝わってくるの。結構深刻な状況ね。
水さえ飲んでない状態でこのまま放置すれば、今日明日にも娘さんの命に関わる。
だから今日の午後一番で出掛けるわ。
ただ、憑依の状況によっては後方支援が必要になる。L、一緒に来てくれる?」
「はい、分かりました。」 姫の表情が引き締まる。
「あの、僕は?」
「R君が一緒に来てくれたら心強いけど、今回は翠をお願い。
長い時間だと、式だけじゃ心許ないし。」
「分かりました。」 俺はLさんから翠を受け取った。

Sさんと姫は早めに昼食を済ませ、ロータスに乗って出掛けていった。
俺は翠にミルクを飲ませ、暫くあやしてから寝かしつけて自分の昼食を食べた。
Sさんと姫がいないのを察しているのか、翠は何かの拍子にぐずりかける。
すると、その度にすうっと爽やかな風が吹き、翠は安らかな顔で寝入ってしまう。
お陰で俺は一度も席を立つことなく昼食を食べ終えた。
食器を洗い、片づけが終わって振り向くと翠が眼を覚ましていた。
空中に浮かぶ何かを捕まえようとするように、ベビーベッドの中で手を伸ばしている。
やがて、顔をくしゃくしゃにして笑い声を上げた。まるで姫に遊んでもらっているようだ。
...これ、もしかして式?
式が助けてくれているからなのかどうなのか、初めての留守番は順調に過ぎていった。
翠はベビーベッドの中ですやすやと寝ている。俺はその傍に椅子を置き文庫本を読んでいた。
一冊目、二冊目。そして三冊目。

 

...何かおかしい。嫌な予感、時計は3時を過ぎている。
その時、廊下を玄関に向かって走る小さな白い影が見え、車の音が聞こえた。
あれはロータスのエンジン音じゃない。俺も玄関へ走った。
庭にタクシーが止まっている。とてつもなく嫌な予感。タクシーに駆け寄る。
タクシーを降りたのはSさん、髪が乱れている。姫が降りてこない。
よろめくSさんを抱き止める。
「どうしたんです?」
「R君。」 Sさんの目から大粒の涙が溢れた。
「ごめんなさい。Lが、Lが代(しろ)に...私、Lを守れなかった。」
そう言うと、Sさんは俺の腕の中で気を失った。

 

20分ほどすると、Sさんはリビングのソファで眼を覚ました。
「L!」慌てて身を起こそうとする。俺はSさんをしっかり抱きしめた。
「大丈夫。落ち着いて下さい。話はそれからです。」
暫く泣いた後、Sさんは話し始めた。
「...憑依していたのは殺された女の子じゃなかった。」
「何が、憑依していたんですか?」
「祟り神。とてつもなく強力な。」
「祟り神って、何ですか?」
「名前の通り、人に祟りを与えるためだけに存在している神。
多分、アイツ等が女の子の死体を埋めて聖域を汚したから封印が破れた。
そして殺された女の子の怒りの意識に共振して、封印されていた祟り神が覚醒した。」
「どうしてそれが『祟り神』だと?
また、Sさんの眼に涙が溢れて言葉が途切れる。
「話せるようになってからで大丈夫。落ち着いて下さい。」
Sさんの肩を抱き、背中をそっとさする。
「部屋の中に入ったら屍臭がしたの。幹部の娘はもう死んでて、『動く死体』になってた。」
俺はSさんの涙と鼻水をタオルでそっと拭った。

 

「よほど強力な存在でなければ死体は動かせない。『神』か高位の『精霊』、それか『祟り神』。
でも、あれは『祟り神』。 Lが『燃え尽きよ』って言ったら、
私の目の前で幹部の体が火を吹いて燃え尽きた。あっという間に。」
「『祟り神』がLさんを依り代にしたんですね?そしてLさんの力、『あの声』を使った。」
Sさんがビクッと震えて何度も頷いた。
「そう、私は妊娠経験者だから、Lが...私、何も出来なかった。」
「Sさんが何も出来ないって、幾ら何でも。」
「女性、『陰神』なの。神格を持ってて、性別が同じだから、
私が何をしても力が届かない。術が全部無効にされて。私も焼かれるところだった。
でも、わずかに残ってたLの意識がためらったから、何とか逃げられた。」
「あ、私、電話しないと。」
Sさんの眼がふらふらと泳ぐ。
「何処に電話するんですか?」
「『上』よ。急いで男性の術者を派遣して貰うように。」
俺は両掌でSさんの顔をはさみ、その眼をまっすぐ見詰めた。

 

「Sさん、電話は車の中でかけて下さい。」 「車の中で?」 「はい。」
「今から2つ、質問をします。正直に、答えて下さいね。」 Sさんが頷く。
「幹部の娘さんは『力』を持ってなかった。だから依り代になっても
大した事は出来なかったのに、3日目には『動く死体』になってます。
今日屍臭がしたのなら、昨日、既に死んでいたかも知れない。だとすると、
『祟り神』がLさんの力を好き放題に使ったら、Lさんは2日も保たない。違いますか?」
「あなたの、言う通り、だわ。今夜一杯、保つかどうか。」
「幹部の娘さんは力を持っていなかったし、
すぐに『動く死体』になってしまったから、『祟り神』は遠くへは行けなかった。
でも、新しい生きた代の体と力を使い、部屋から出て復讐を始めるなら、
行き先は○◇会の本部事務所。そうですね?」
Sさんは涙を浮かべて頷いた。

 

「僕が行きます。Sさんも一緒に来て下さい。」 Sさんが息を呑む。
「危険過ぎる。もし、あなたまで。」
「僕がしているような修行が役に立つなんて思っていません。
でも、僕は『男』です。陰神さまにお願いするなら『男』の方が有利ですよね?
「そんな。」Sさんはすがるような目で俺を見た。
「私、私が代になれば、Lは助かったのに...」
俺はSさんの唇に人差し指を当てた。Sさんが良く使う、「黙って」の合図。
「Sさんが代になってたら、『祟り神』はSさんの力が使えたんですよ?それこそ悪夢です。
Lさんは逃げられなかったはずだし、絶対もっと酷い事態になってます。」
「でも。」
「Sさんも、Lさんも、そして翠も、僕は誰1人失いたくありません。
だから頼みます、その『祟り神』に。Lさんを返して下さいって。
Sさんも僕の為に頼んでくれましたよね。」

○◇会の本部事務所に向かう途中、Sさんは『上』に電話をかけた。
今回の件は『祟り神』に関わる非常事態であること。
これから○◇会の本部事務所に向かうから、支援を寄越して欲しいこと。
そして、警察への根回しとマスコミ封じが必要なこと。
翠を抱いて電話するSさんは、もう、もとのSさんに戻っていた。

 

○◇会の本部事務所の駐車場に車を停めた。
「気を付けて。」
「ここで待ってて下さい。もし助けられたら、Lさんの手当てをお願いします。」
Sさんは翠を抱いたまま、涙を浮かべて頷いた。
俺は、Sさんの唇にそっとキスをして、車のドアを閉めた。

裏口のドアには鍵が掛かっていなかった。
ドアを開けて中に入る。途端に肉の焦げる臭いが鼻をつき、吐き気がこみ上げた。
ざっと見ただけでも、数体の焼死体がある。まだ燻っているものもある。
どれも、燃えているのは死体だけ。椅子も、絨毯も、ほとんど燃えていない。
エレベーターホールでボタンを押す。一番偉い人の部屋は最上階だろう。
正直、全ての階の様子を見て回る勇気は、俺には無かった。
5階でエレベーターを降りる。目的地は直ぐに見つかった。趣味の悪い、金縁の表札。
やはり、鍵は掛かっていない。そっとドアを開ける。

 

ドアの隙間から、熱気が溢れてきた。
まるで部屋の中が燃えているかのような、凄まじい熱気。
1人の男が、部屋の中央に立っていた。うなだれて手足はだらりと力が無く
まるで首根っこを捕まれてぶら下げられているように見えた。恐らく、既に死んでいる。
ソファに座った姫が、刺すような眼差しでそれを見詰めていた。
『卑しき者、燃え尽きよ。』 空気がビリビリと震えて視界が歪む。『あの声』だ。
突然男の体が燃え上がり、そして、燃え尽きた。あっという間に。
燃え滓が床に落ちる軽い音。 姫が俺を見る。
『この者どもとは違う。だが、人どもは皆、卑しい。』
それは姫の形をした、『憤怒』そのものだった。
怒り以外、何の感情も、人格の欠片すらも感じられない、物質化した『憤怒』。
違う、違い過ぎる。頼むも何も、願いを伝える方法が無い。姫の意識は欠片も感じられない。
次に『憤怒』が口を開いたら、俺は燃え尽きるだろう。あの燃え滓のように
姫の形をした『憤怒』が、深く、ゆっくりと息を吸った。
来る。『あの声』が。

 

その時、俺の体が勝手に動いた。止められない。
床に膝をつき、手をつき、体を伸ばして、そのままべったりと腹這いになる。
これは、『五体投地』? 何故? 『何か』が俺の体を勝手に動かしている。
また、『何か』が俺の体を動かした。俺の体は腹這いから正座の姿勢になり、
頭を床に擦りつけた後、ゆっくりと眼を閉じた。

 

『高天原の憶え目出度き、いと尊く、見目麗しき御陰神(おんめがみ)。
◎○▲○□姫之尊の御前に、臣、怖れ謹みて申し上げ奉る。』
俺の口から淀みなく言葉が流れ出る。その声に合わせて空気が震えた。
『何か』が俺の体を使い、『あの声』で言葉を紡いでいる。
『この国開闢(かいびゃく)の昔より、彼の美しき山々を守りし御陰神。
その御威光によりて、河清らかに森深く、生き物ども皆健やかにてありけり。』
力のこもった声が朗々と響く。厳かに、空気が震えている。
部屋ごと焼き尽くすかのようなとてつもない熱気が、いつの間にか鎮まっていた。
代わりに、しんと冷えた空気が部屋に満ちている。静かだ。
『その尊き御心は人どもの村々にも及び、その恵み、村々を大いに栄えせしむ。
秋来ますれば田は常に黄金の海となり、人ども大いに御陰神を怖れ敬いたり。』
上体を伏せ、閉じているはずの俺の目の前に、美しい村の景色が見えた。
整然と並ぶ棚田、風に揺れる稲穂の海。歌いながら稲を苅る、楽しげな人々の姿。
『田植えする早乙女どもの愛しきこと、御陰神に供え奉られたる御神酒の芳醇たること。
餓える者の唯一人として無く、人ども大いに増え、やがて彼の地に満つ。
これ全て、全て大いなる御陰神の思し召し也。有り難き哉、尊き御心哉。』
ああ、そうか。俺の体を使っているのは、『○瀬△□◎主之尊』。あの、川の神。

 

『やがて時移り、人ども思い上がりて御陰神の大恩を忘る。
その行い、目に余ること多く、人どもの心、次第に荒れ果てつ。
されど慈しみ深き御陰神、なお人どもを愛で、許し、御自らを陰に封じて眠りけり。』
美しい村の景色は消え、薄暗い森の中の、大きな石が見えた。
数人の男が深い穴を掘っている。その傍らに、血塗れの女の死体。
『怖れ多くも御陰神の御寝所を汚したる卑しき者ども。目覚めし御陰神の怒り天雷の如く
その祟り、卑しき者どもを焼き尽くし灰燼と化す。げに相応しき報いなる哉。
されど、臣、御陰神の御前にこの身を投げ伏し、敢えて、怖れ謹みて申し上げ奉る。
祟り神、これ御陰神の真の御姿にあらず。憤怒、これ御陰神の真の御心にあらず。
報い了りし今こそ、元の慈しみ深き御陰神に戻られんことを。
臣、自らの血をもって人どもの罪を贖い、御陰神の怒りを鎮めんと欲す。』

 

『...血は、要らぬ。面を上げよ。』
『は。』
また、ひとりでに俺の上体が起き、眼が開いた。姫が立ち上がっている。
『もう良い。そなたが妾を助くは二度目。礼を言う。』
『畏れ多く、勿体なきお言葉。』
『妾は眠る。穢れ無き、新しき寝所にて。』
『我が新しき社に近く、相応しき場所あり。どうか、どうか其処に。
渡御頂けました暁には、臣、身命を擲ち御寝所をお守り致しまする。』
『頼む。』
ゆっくりと姫の体が傾き、床に頽れた。
立ち上がって駆け寄り、姫の体を支える。俺の体が、もう自由に動く。
震える手で姫を抱き起こし、心臓の音を確かめた。大丈夫、生きている。
『早く、此所を出なさい。
もうすぐ、この汚れた場所は焼き尽くされる。卑しき者どもと共に。』
頭の中に声が響く。あの川で会った男性の声だ。忘れられた川の神の、声。
『さあ、急ぎなさい。外へ。』

 

姫の軽い体を抱いて部屋を出た。早く、此処から出なければ。
目眩が酷くて足下がふらつく。吐き気をこらえて廊下を抜けた。
エレベーターで一階に降り、裏口を目指す。ドアの向こうにSさんの姿が見えた。
『R君!良かった、本当に良く無事で...」
「Lさんは生きています。間に合いました。手当を、手当をお願いします。」
車の助手席に姫の体を横たえた後、俺の意識は途切れた。

 

 

眼が覚めると、俺はSさんの部屋、ベッドの中にいた。
隣でSさんが俺を見詰めている。優しく、穏やかな笑顔。
「やっぱり、あなた、何処にも行かなかった、約束通り。ありがとう。」
「はい。」俺はSさんを抱きしめた。しっとりと滑らかな肌、百合の花に似た、良い香り。
その夜、何度抱き合っても、お互いを求め合う気持ちを消せなかった。

翌日、俺が翠を抱き、3人で姫の見舞いに出掛けた。
ベッドの上の姫はかなりやつれていたが、意識はしっかりしていた。
「私、Rさんに助けてもらったのはこれで2度目ですね。ありがとうございます。」
翠をSさんに預け、姫の手を握った。「約束、しましたから。」 姫が頷いた。
Sさんの手当が功を奏して、後遺症もなく、姫の回復は早かった。
明日からは病院の中を散歩して良いという許可をもらっていたし、
担当医の見立て通りならあと3日、夏休みの終わる前に姫は退院できる。
それまで毎日、翠を連れて病院に通えば良い。
『翠ちゃんを抱くと元気が出ます』 そう言って微笑んだ姫の言葉を信じて。

病院を出て、駐車場に向かって歩いていると、Sさんが言った。
「廃村の中にもう1つ、お社を造ることになったの。あの、陰神さまの御寝所として。」
「やっぱり、ただの祟り神さまでは、無かったんですね。」
「あなたの記憶の中の『◎○▲○□姫之尊』という御名前、確かに『上』の記録に残ってた。
もし、その記録の通りなら、古事記に出てくるような神々に次ぐ神格。
とても、とても古い、この地方の土着の神様。
○◇会の奴らが女の子の死体を埋めた山は、私たちの土地の山のすぐ隣だった。
恐らく遠い昔に信仰する人々を失い、そこで眠りについておられたのね。
あの辺り一帯の山河の神々を統べる主神、『御陰神』様。」
遠い昔に忘れ去られた、もう一柱の神。

 

「事もあろうに、憎悪を含んで死んだ女の子の死体を埋められて
その御寝所を汚され、陰神さまは目覚め、怒り狂った。当然よね。
そして埋められた女の子の怒りの感情とも共振して『祟り神』となった。
そうなれば、私やLどころか、どんな人間でも手に負えない。たとえ、『上』でも。
R君、あなた、本当に凄い事をしたのよ。」
「いや、僕は何も。あれはあの川の神様が。」
「君があそこに行かなければ、依り代はいなかった。
もちろん、『祟り神』も鎮められなかった。」
Sさんは立ち止まり、真っ直ぐに俺を見た。
「実は、『上』から、君を正式に一族の一員に迎えたいって連絡が来てるの。
あなたのお陰で『本物の中の本物』、お金では買えない力が一族の加護に加わったから。
まあ正直な所、あなたを一族に加えておけば、
後々あの神様の助力を得やすいって計算もあるんでしょうけど。
でも、『仕事』としてお社の管理をしながら修行ができる。悪い話では無いと思う。」
俺が、Sさん達の一族の一員に。そんなことが。
「お社の造営資金は、今回も『上』が負担することになってる。
私たちへの報奨金も、前回より一桁多かったわ。」
そこまで話を聞いて、俺は以前から考えていた事を口にしようと決めた。
「Sさん、相談に乗ってくれませんか?」

 

数日後、俺は母親に電話をかけた。
「何の用事?私、これでも結構忙しいんだけど。」
「あのさ、俺、本当にやりたいことを見つけた。だから大学、退学する。ごめん。」
「...本当にやりたいことって何?」
「小さなお社の宮司、いや、祭主って言った方が良いかな。」
電話の向こうで母が息を呑んだ。
「やっぱり、お前は...」
「それと、婚約者が出来た。だから是非母さんに会ってもらいたいんだ。
婚約者と、そのお姉さんに。2人のお陰で、俺、やりたい事を見つけられたから。」
母は電話の向こうで溜め息をついた。
「大学退学して祭主なんて、いきなり父さんには話せないわね。
分かった、詳しい日時と場所を決めてからまた電話して。」

 

俺の生まれ育った街、その街の一番大きなホテルのレストラン。
家族パーティーなどで使われるのだろう。小さく仕切られた一室に
正方形のテーブルと4人分の座席。其処が俺の母親との待ち合わせ場所だった。
姫は高校の制服。肩まで伸びた髪をツインテールに結び、くらくらするほど可愛らしい。
翠を抱いたSさんは白のブラウスに濃紺のスーツ。胸にはお気に入りの真珠のコサージュ。
俺も今日のためにスーツを新調した、Sさんの見立てだ。
やがて、窓の向こう、俺の母がレストランに入って来るのが見えた。
大学の入学式以来会っていないが、ちっとも変わってない。元気そうだ。
スタッフが母を俺たちの席に案内する。俺たちは立ち上がって一礼した。
母も一礼して席に座り、そして眼を丸くした。「R、お前、何故黙ってたの?」
「直接話した方が面倒臭くないからね。こちら、婚約者のLさん。
そして、Lさんの姉のSさん。Sさんの娘の翠ちゃん。」
「Sさん、Lさん、僕の母です。」

 

暫く母の顔は強張っていたが、やがて微笑んだ。
「電話で息子からお名前を聞いた時、その名字で、もしやとは思いましたが、
お二人は『本家』の姫君ではありませんか?」
Sさんと姫が頷いて微笑む。大輪の花が咲いたようだ。
「はい、お母様のお見立て通りです。私たちはもちろん、一族の者も皆、
この度の良縁を心から感謝しております。」 華やかな、Sさんの笑顔。
「出来れば力を使わず、普通に暮らしてもらいたかったのですが、
お相手が『本家』の姫君とは...やはり、『業』からは逃れられないのですね。」
母は、ふう、と息を吐いた。見たことの無い、暗い表情。 『業』とは一体?
「Rさんは持って生まれた力と向き合う覚悟をお持ちです。
私は既に二度、Rさんに命を助けて頂きました。一生かけて、御恩返しをいたします。」
姫の、透き通った声。母の心が大きく揺れたのが分かる。一つ、封印が解けた。

 

「私の祖母は『分家』の出身です。
一族のものと考えが合わず、放逐同然で家を出たと聞いています。
『業』の秘密は母と私だけに伝えられ、一切の力は秘匿されました。
祖母と母、特に祖母はかなりの力を持っていましたが、私の力はさほどでもなく、
次の代になれば『業』も薄まるだろうと期待しておりました。ところがこの子が生まれ、
祖母をも凌ぐ力を持っていることが分かった時は、目の前が真っ暗になりました。」
「それで、Rさんの感覚の一部を、封じて下さったのですね?」 Sさんの優しい眼差し。
「はい、感覚を抑えておけば力が発現するのを遅らせる事が出来ますし、
あわよくば一生力が発現しないままで過ごせるかも知れない、と。」
...母も力を持っていて、そして俺の力が発現するのを抑え、守ってくれていた。
そうでなければ、俺の人生は今とはまるで(おそらく悪い方向に)変わっていて、
SさんにもLさんにも出会えなかったろう。
今は、母の秘めた愛情に心から感謝する気持ちで一杯だった。

 

突然、翠がぐずり出した。Sさんがあやすが泣き止まない。
子供好きの母が立ち上がり、Sさんから翠を受け取って抱き上げた。
翠は暫くして泣き止み、次の瞬間、母は呆然と俺を見た。
「R、お前。何故最初に。」 「どう話して良いか分からなかったし、嘘は付いてないよ。」
「嘘なんて。」 母の眼が泳いでもう一度翠を、そしてSさんを見る。
Sさんは母の視線を優しく、しっかり受け止めて、小さく頷いた。「はい。」
母の表情が忙しく入れ替わる。驚き、戸惑い、あきらめ、喜び?
「お嫁さんが1人、婚約者が1人、娘が1人。 え、孫? 私、もう『おばあさん』なの?
信じられない...第一、これ、父さんにどう説明したら良いのよ?」

 

食事が終わる頃には、母はSさん・Lさん2人とすっかり打ち解けていた。
腕には翠を抱いたままだ。もう一時間近く、翠を離さない。
「欲しかった娘がいっぺんに2人。それに孫が1人、それもこんなに可愛くて。
私、本当に果報者です。R、もし、この方々を泣かせたら、私が許しませんよ。」
「分かってます。だから父さんに上手く説明して下さい。」
「自分で説明しなさい。上手い説明なんてある訳無いんだから。」
「本当に俺が説明して良いの?母さんの力の事も一緒に?」
「この馬鹿息子!もう少し、母親を労ろうって気になっても罰は当たらないわよ?」
姫が必死で笑いを噛み殺している。Sさんはそんな姫を見てきょとんとしていた。
「Rさんの、お母様と、Sさんは。」 必死でアイコンタクトを試みたが、無駄だった。
「Rさんのお母様と、Sさんは、何だかとても良く似ていますね。」

 

「R君のお母様、素敵な方ね。感じが良くて。」
...やっぱり来た。姫は隣のベッドで翠の添い寝をしている。後方支援は期待できない。
「でも意外、R君ってマザコンなんだ?
セーラー服が好きだから、むしろロリの気があるのだとばかり思ってたのに。
私を好きになったのは、お母様に似てたから?」
言い終わって眼を伏せ、Sさんは軽く下唇を噛む。

『非常事態警報発令!非常事態警報発令!非常事態...』

姫、初めてあなたを恨みます。何故、俺にこんな試練を?
「え、Sさんは母には似てませんよ?第一、母はSさんみたいに美人じゃないです。
自分の眼で見たんですから、それは判ってますよね?」
「ふうん、じゃ何故Lは『似てる』って言ったのかしら?」
研ぎ上がったばかりの日本刀のような、Sさんの眼差し。
文字通りの正念場。落ち着け、考えろ、俺。
「多分、『接し方』じゃないですか?僕に対する。」
「『接し方』?」
「Sさんはいつも一歩退いた所から僕を見守ってくれるじゃないですか。
包容力が有るって言うか、器が大きいって言うか、表現が難しいですけど。」

 

「それで?」
「母が力を持ってて、僕を守ってくれていたこと、今日初めて知りました。
そんな風に、きっとSさんが僕を想ってくれる気持ちに、
これから僕が気付く事がきっと沢山有るんですよ。
ああ、Sさんは僕の事をこんなに大事にしてくれてるんだって。
それを予知して、Lさんは『似てる』って言ったんだと思います。とても、鋭い人ですから。」
少し、Sさんの眼差しが緩んだ。
「だから『結果的』に、僕に対する2人の『接し方』が似てただけですよ。
多分、それは似てるっていうより『女性』とか『母性』に共通する美点なんです。
そもそも、僕がSさんを好きにならなければ、
Sさんは僕にそういう『接し方』をしてくれなかった筈ですよね?」

 

Sさんは俺の頭を優しく撫でた。
「合格、かな。ホントは私、分かってたのよ。あなたはマザコンなんかじゃないって。」
確信があるなら、今夜わざわざこの話題を持ち出す必要はない。ネタならともかく。
とんでもない力を持っていても、これほどに美しくても、
約束通りに俺が毎晩一度は『綺麗だ』と囁いても、この人にはまだ、自信が足りない。
だから時々、不安になる。
そんな時は、否定的な答えを知るのが怖くて、人の心を読みたくないのだろう。
Sさんの、時に強引にも思える行動は、恐らくこの臆病さの裏返しなのだ。
俺だけに見せてくれる弱さ、それがどうしようもなく愛しい。思わずSさんを抱きしめる。
Sさんの不安を癒してあげられるのは、俺と、姫と、そして翠だ。
「そうです。Sさんは、世界一綺麗で、世界一素敵な女性ですから。
世界一、ですよ。もう、マザコンなんてちゃんちゃら可笑しくて。」
「ありがと。」 Sさんが小さく息を吐いた。
ふと、Sさんの御両親のことを思う。俺はSさんのことを、未だほとんど知らない。

『非常事態宣言解除、通常勤に戻せ。繰り返す。非常事態宣言解除...』

 

 

『忘却の彼方(結)』 完

 

藍物語シリーズ【全40話一覧】

コメント

タイトルとURLをコピーしました