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『保育園』|【名作 師匠シリーズ】

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『保育園』|【名作 師匠シリーズ】洒落怖・怖い話・都市伝説 師匠シリーズ
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『保育園』

【霊感持ちの】シリーズ物総合スレ20【友人・知人】
238 :保育園 前編:2012/05/20(日) 16:05:37.87 ID:cMOGa5XM0

 

『前編』

師匠から聞いた話だ。

土曜日の昼ひなか、僕は繁華街の一角にある公衆電話ボックスの扉を開け、中に入った。
中折れ式のドアが閉まる時の、皮膚で感じる気圧の変化。
それと同時に雑踏のざわざわとした喧騒がふいに遮断され、強制的にどこか孤独な気分にさせられる。
一人でいることの、そこはかとない不安。
まして、今自分が密かな心霊スポットと噂される電話ボックスにいるのだという意識が、
そのなんとも言えない不安を増幅させる。
夜の暗闇の中の方がもちろん怖いだろうが、この昼間の密閉空間も十分に気持ち悪い。

僕は与えられた使命を果たすべく、緑色の公衆電話の脇に据え付けてあるメモ帳に目をやる。
メモ帳は肩の部分に穴があけられていて、そこに通した紐で公衆電話の下部にある金具に結び付けられている。
紐を解き、メモ帳を手に取る。
何枚か破った跡もあるが、捲ってみると各頁にはびっしりと落書きがされていた。
僕は頷いて、財布を取り出すとテレホンカードを電話機に挿し込む。
「えーと」
記憶を確かめながら、バイト先の番号を押す。
『……はい、小川調査事務所です』
この声は服部さんだ。
「あ、すみません、僕です。加奈子さんはいますか」
『……中岡さんのことですか』
「あ、すみません。そうです」

僕も、先輩にあたる加奈子さんもバイト用の偽名を使っているのだが、
依頼人がいる場所でもついうっかり本名で呼んでしまいそうになることが多々あった。
なるべく小川調査事務所でのバイト中は偽名で呼び合うように気をつけているのだが、正直徹底できていない。
しかしバイト仲間の服部さんには時々それを嫌味であげつらわれている。
服部さんはクスリとも笑わないので、嫌味なのか怒っているのか分からないのでとても怖い。
『代わります』
保留音に変わった。ワルキューレの騎行にだ。いつもイントロで終わってしまいメインラインを聴けない。
だいたい二十五秒くらいで勇壮なメインラインに入るはずなのだが、『あたしだ』、ほらね。
静々と始まったイントロが盛り上がってきたところで、保留が解ける。

『首尾はどうだ』
「手に入れました。これから戻ります」
『ご苦労。ボールペンも忘れるなよ』
そう言われて手で探るが、メモ帳を置いてあるあたりにはない。
誰かに盗っていかれたのかと思ったら、足元に落ちていた。
拾ってから「じゃあ、これで」と言って受話器を戻す。
扉を押すとベキリという折れるような音とともに、気圧の変化と外のごみごみとした騒々しさがやってくる。
その瞬間にあっけなく孤独は癒され、拍子抜けしたように僕は太陽の下に足を踏み出した。

大学二回生の春だった。
僕は繁華街から少し外れた通りを足早に進み、立ち並ぶ雑居ビルの一つを選んで階段を上っていった。
そのビルの三階にはバイト先である小川調査事務所という興信所がある。
ドアをノックして中に入ると、カタカタという音が静かな室内に響いていた。
フロアには観葉植物の向こうにデスクがいくつか並んでいて、二人の人物の顔が見える。
「お疲れ」
バイト仲間であり、オカルト道の師匠であるところの加奈子さんが、
やる気なさそうにデスクに足を乗せたまま雑誌を開いている。
「……」
もう一人、ワープロを叩いていた服部さんが僕の方に一瞬だけ視線を向け、
そしてまた何の興味も失ったようにディスプレイに目を落とす。相変わらず冷たい目つきだ。
嫌な空気が漂っている。

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同じアルバイトの身ではあるが、服部さんは所長である小川さんの本来の助手である。
それに対して師匠と僕はイレギュラーな存在であり、ある特殊な依頼があった時だけ呼び出される。
この界隈の興信所業界では『オバケ』と陰口を叩かれている奇妙な、そして時に荒唐無稽な依頼、
つまり心霊現象が関わるような事件の時にだ。
霊感などとは無縁の服部さんからすれば、師匠のやっていることなど胡散臭いだけで、
口先で依頼者を騙して解決したように見せかけている姑息なやり口に見えることだろう。
元々無口な服部さんは実際のところ何を考えているのか分からないのだが、師匠と仲が良くないのは間違いない。
「メモは?」
師匠は雑誌を置いて、催促するように右手を伸ばした。

僕はポケットからさっき電話ボックスから回収したばかりのメモ帳とボールペンを取り出してデスクの上に置いた。
「ほほう」
師匠は身を乗り出してデスクの上のメモ帳を捲り始めた。
どのページにもゴチャゴチャと線が走り、色々な落書きが残っている。
三角形がいくつも重なった図形もあれば、グルグルと丸を続けたもの、
そして割と上手なドラえもんの顔や、かわいいコックさんを失敗してグチャグチャに消してある絵……
他にも形をとどめない様々な落書きがあった。
感心したような溜め息をつきながらメモを眺める師匠に、ようやく声をかける。
「それがなんなんですか」
「うん」
生返事で顔を上げもしない。

僕が知っているのはただ、あの電話ボックスに一人で入っていると、
目に見えない何かに肩を叩かれたり物凄い寒気に襲われたり、あるいは足を掴まれたりする、という噂だけだった。
そして師匠がこっそりとその電話ボックスにメモ帳とボールペンを持ち込み、
まるで備え付けのものであるかのように偽装して放置してから三日目の今日、僕に回収に行かせたのだ。
回収したメモ帳は電話口で訊いた用件をメモしたのであろう、破りとられた頁もあったが、ほとんどが落書き帳と化していた。
「無意識にだ」
師匠がメモから視線を切らずに口を開く。
「人間は電話中にペンを取る時、電話の内容や、そこから連想したもの、
あるいは全く関係がないような、その時頭に浮かんだもの書きつける。
たいていは意味のない落書きだ。
後からそれを見ると、自分でも描いたかどうか覚えていないような模様が残っていたりする」
いきなり師匠がメモ帳開いて僕の前に突きつける。
「そんな無意識下におきた現象がこれだよ」
その妙な圧力のある言葉に息を呑む。

メモ帳にはキノコのようなものが小さく描かれ、それがゴチャゴチャした線で消されていた。
「これもだ」
何頁かメモを捲り、またぐいと開かれる。
オカッパのような髪型の誰かの顔が描かれているが、失敗したのか途中で線が途切れている。
「そしてこれ」
ドキリとした。
別の頁に、さっきとはまるで違う筆致で頭のようなものが描かれている。
オカッパ頭が。
顔は描かれていない。頭の外殻だけの絵。
「お……女の子」
「そうだ」
師匠はニヤリと笑う。
僕は思わずメモ帳を受け取り、さっきのキノコのようなものの絵を見る。
髪だ。あらためて確認すると、キノコではなく明らかに髪の毛として描かれていた。
ドキドキしながら頁を捲っていくと、他にもそのオカッパのような髪型がいくつか現れた。

偶然。
にしては多すぎる頻度だ。
電話ボックスに入った不特定多数の通行人が無意識に握ったペン。それが描くものがたまたま同じであるという蓋然性は?
そしてそれが偶然ではないのだとすると、そこに描かれたものは一体……
生唾を呑んで僕は師匠を見る。
しかし彼女はへら、と笑うとメモ帳を摘むようにして取り上げた。
「だいたい分かったし、もういいや」
そうしてメモ帳をデスクの引き出しに放り込み、また雑誌を手に取った。
読みかけた場所から頁を追い始める。
さっきまで興奮気味だったのに、すっかり興味を失っているようだ。
この熱しやすく冷めやすいところが師匠の特徴の一つだった。
そんなやりとりの間にも事務所の中には服部さんが叩くキーボードの音が静かに響いていて、
僕はふいにここがどこであるのかを思い出す。

「何時からでしたっけ」
僕が言うと、師匠は雑誌から目を逸らさずに壁を指さした。
そこにはホワイトボードが掛かっていて、
『所長』と『中岡』の欄に『十三時半、依頼人』という文字がマジックで走り書きされている。
もう少しでその時間だ。
「あれ、そう言えば所長は?」
「あれだよ。下のボストンで待ち合わせ」
ああ、そうか。思い出した。
今度の依頼人は若い女性で、
こんな妖しげな雑居ビルにある興信所などという場所に、いきなり足を踏み入れるのを躊躇したのだ。
気持ちは分かる。
それで、まずビルの一階にある喫茶店『ボストン』で所長と待ち合わせをしていたのだった。
そこで少しやりとりをして、多少なりと安心してもらってから事務所まで招き入れる、という算段だろう。

この零細興信所の所長である小川さんは、服の着こなしからして随分くだけた大人なのだが、
人あたりは良く、初対面の依頼人の緊張をほぐすようなキャラクターをしていた。
「あ、やべ。お茶切れてたんじゃないか」
師匠はふいに立ち上がって台所の方へ小走りに向かった。
そしてガタゴトという音。引き出しをかき回しているらしい。
傍若無人な振る舞いをしている師匠だったが、
何故かこの事務所ではコーヒーやお茶などを出す係を当然のように引き受けている。
女だから、などという固定観念で動く人ではないはずなので、意外な一面というところだろうか。
台所をひっくり返すような騒々しさに苦笑していると、服部さんがキーを叩く手を止め、ぼそりと呟いた。
「彼女は、この仕事に向いてない」
服部さんから僕らに話しかけて来ること自体まれなので、
この部屋に他に誰かいるのかと一瞬キョロキョロしそうになったが、
どうやらやはり僕に聞えるように言ったらしい。

「探偵には」
そう補足してから、服部さんはまたキーを一定のリズムで叩き始める。
自分の師匠が馬鹿にされたというのに、僕は何故か腹が立たなかった。
ただ服部さんがどうして今さらそんなことを口にするのか、そのことを奇妙に思っただけだった。
「でも、服部さんだって一緒に仕事したことあるでしょう。僕はあの人、凄いと思いますけど」
一応反論してみる。
確かに師匠はオカルト絡みの依頼専門なので、どうしても本来の興信所の業務とは異なる手法を取ることが多いが、
その端々で見せる発想や推理力の冴えは、探偵としても凡庸ではないと十分に思わせるものだったはずだ。
そんな僕の説明を聞き流していたように見えた服部さんだったが、
またピタリと手を止め、眼鏡の位置を直しながら淡々とした口調で言った。
「名探偵に向いている仕事なんて、何一つない」
「え」

それってどういう意味ですか、と訊こうとした時、
「あったー」という声がして、ふにゃふにゃになったインスタント緑茶の袋を手に台所から師匠が顔を出した。
「間に合った?間に合った?セーフ?」
師匠が入り口のドアを見てそう繰り返す。
階段を上ってくる足音が聞こえる。
師匠と、そしてそのオマケの僕が呼ばれた依頼。
つまり、不可解で、普通の人間には解決できない不気味な出来事が、これからドアを開けてやってくるのだ。

次の日、つまり日曜日。師匠と僕は市内のとある保育園に来ていた。
子どもの声のしない休日の保育園はやけに静かで、こんなところに入っていいのだろうかと不安な気持ちになる。
二階建ての園舎の一階、その中ほどにある部屋で僕らは座っていた。
床は畳ではなくフローリングで、開け放した園庭側のガラス戸から暖かな風と光が入り込んできている。
ガラス戸からはそのまま外へ出られるようになっていて、すぐ前には下駄箱がある。
横長の園舎の一階の部屋は全部で五つ。
門を潜るとすぐ左手側に園舎の玄関があり、そこをつきあたりまで進むと右手に真っ直ぐに廊下が伸びていて、
そのさらに向かって右手側に事務室、四歳児室、五歳児室、倉庫、調理室、という順で部屋が並んでいる。
また玄関の奥には二階へ上がる階段があり、玄関の下駄箱はその二階へ上がる人たちのためのものだった。
階段を上るとまた廊下が真っ直ぐ伸びていて、右手側に遊戯室、0歳児室、一歳児室、二歳児室と並んでいる。

保育園の敷地は四角形で、おおよそ園庭と園舎とで半々に区切られている。
門の真正面はその園庭側で、わずかな遊具と砂場、そしてその奥には花壇と小さな農園がある。
園庭側の周囲は背の高いフェンスで覆われており、そのフェンスの内側は木が並べて植えられている。
残りの半分の園舎側はフェンスが途中で材質変更されたような形でブロック塀に切り替わり、
それがぐるりとちょうど農園の手前まで周囲を覆っている。
門を通り抜けてすぐ左手に進むと、園舎の玄関とブロック塀の間に隙間があり、
裏側へ進むことが出来るが、途中に物置があるくらいで園舎の真裏にはブロック塀との間にほとんどスペースがなく、
調理室の裏手のあたりでフェンスに阻まれ行き止まりとなっている。
そしてその向こうはプールだ。出入りは園舎の廊下側からしか出来ないようになっている。
敷地で言うと調理室の隣ということになる。
以上がこの保育園の概要だ。

師匠は到着して早々、一通りの案内を頼み、
ようやくその構造が頭に入ったところで一階にある一室に腰を落ち着けたのだった。
「で、ここは五歳児室というわけですね」
師匠が周囲の壁を見回す。
「はい」
女性が頷いた。
小川調査事務所に依頼人としてやって来た人で、悦子さん、という三十歳くらいの保育士だ。
「私が担任をしています」
悦子さんはいつもはエプロン姿なのだろうが、今日は私服だ。本来は休みである日なので当然か。
僕と師匠の前には悦子さんの他に三人の女性が座っている。
順に紹介される。

「あと、麻美先生が隣の三・四歳児室の担任、
それから洋子先生が二階の二歳児室、由衣先生がその隣の一歳児室の担任です」
それぞれが緊張気味に会釈する。
お互いが先生と呼び合うのか。そう言えば自分が昔保育園に通っていた時もそうだったことを思い出して懐かしくなる。
悦子先生は見るからにしっかり者、という感じで喋り方や動きがキビキビしていて、
明らかに他の先生を引っ張っているリーダー役だった。

「で、これが問題の写真ですね」
師匠の言葉に、全員の視線が床に置かれた一枚の写真の上に注がれる。
それはこの園舎の二階の窓から園庭に向かってシャッターを切った写真であり、
雨に濡れてぬかるんだ園庭の中ほどに、奇妙な丸い模様が浮かび上がっている様が写し出されている。
その丸い模様は直径二メートルほど。
すぐそのそばにエプロン姿の女性が一人写っていて、園舎側から足跡が伸びている。
写真を見ながら、四人の若い保育士が息を呑む気配があった。
師匠が顔を上げ、そんな様子を意にも介さない口調ではっきりと言う。
「では、詳細な説明を」


先週の金曜のことだった。
その日は朝から曇りがちで、天気予報でも降水確率は50%となっていた。
空が暗いと気分も暗くなる。
悦子先生は園庭で遊ぶ子どもたちを見ながら、ここ最近続く気持ちの悪い出来事のことを考えていた。
一階や二階のトイレで、何か人ではないものの気配を感じることがたびたびあった。
他にも花壇やプール、時には室内でさえ、何か人影のようなものを見ることもあった。
先輩から聞いた噂によると、この保育園の敷地は元々、罪人の首をさらす場所だったとか……
悦子先生だけではなく、他の先生や子どもたちまでも、何か幽霊じみたもののを見てしまう、ということがあった。
少なくともそんな噂がまことしやかに囁かれている。
お祓いをしてもらった方がいいんじゃないか。
先生の間からそんな意見も出たが、園長先生はとりあってくれなかった。
馬鹿らしい。子どもに悪影響が出る。
そんな言葉で却下された。
『だいたいねえ、うちは公立なんだから、そんなお祓いなんていう宗教的なものに予算がつくはずないでしょう?』
そんなことを言われたので、悦子先生は市の保育担当職員にこっそりと訊いてみたが、
やはりそういう支出はできないのだそうだ。

公立だろうが私立だろうが、出てくるお化けの方はそんなことを気にはしてくれないのに。
理不尽なものを感じたが、どうしようもなかった。
ああいやだ。
そんなことを考えながら一瞬ぼんやりしていると、パラパラと雨が降り始めたらしく、子どもたちがきゃあきゃあと騒ぎだした。
すぐにみんなを室内に引き上げさせる。
そうこうしていると、お昼を食べさせる時間がきた。
それぞれの教室で食事を取っていると、外はかなり雨脚が強くなり風も少し出てきたようだった。
食事の時間が終わり、昼寝の時間になったが、
子どもたちはカーテンの隙間から外の様子を見たがってなかなか落ち着かなかった。
「はい、もう寝るの!」
カーテンをジャッ、と閉め、たしなめると子どもたちはようやく布団に入る。
それから悦子先生は事務室とトイレに一度だけ立ち、
それ以外は自分の五歳児室で子どもの寝顔を見ながら連絡帳などをつけて過ごしていた。
叩きつけるような雨音を聴きながら。

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一度だけ外が光ったかと思うと雷が鳴って、
その時だけは子どもたちを起こさないようにそっとガラス戸のところまで行って、カーテンの隙間から外を覗いたが、
特に変わったことはなかった。
随分近くで鳴ったような気がしたのだけれど。

それからしばらくして昼寝の時間が終わった。
ちょうどそれに合わせるように雨が止んだようだった。
子どもたちに「おはよう」と言いながらカーテンを開けると、外はまだ曇っていたが、遠くの空から光が射している。
ふと、園庭の一箇所に目が留まった。
地面になにかある。
なんだろう、と思いながらガラス戸を開け、サンダルをつっかけて外に出る。
雨は降っていない。しかし強く降った雨で、地面はかなりぬかるんでいる。
泥にサンダルを引っ張られながら、園庭の中ほどまで進むと、悦子先生は自分の目を擦った。
え?
思わず呆けたような顔をしてしまう。
あまりに似つかわしくないものがそこにあったからだ。

魔方陣。
そうとでも呼ぶしかないような模様が泥の中に描かれている。
円の中に三角形だか四角形だかが重なったような図形、そして円の外周にそってなにか文字のようなもの……
「   」
悲鳴を上げた、と思う。
園舎からガラス戸が開く音がして、他の先生たちも顔を出した。
子どもたちまで出てこようとしているのをみんな必死で止める。
状況を把握した園長先生が物置の方へ走ったかと思うと、地ならしをするトンボを持って来て、
すぐにその魔方陣のようなものを消し始めた。
そして「みんな部屋に戻りなさい」と怒ったように叫ぶ。
悦子先生は呆然としながら、頭の中に繰り返される声のようなものを聞いていた。
『だから言ったのに。だから言ったのに』
それは自分の声だったと思う。
でも。いやに他人事のような声だった。

「で、今日がその出来事があってから、ひいふう……九日目か」
師匠が指を折る。
気持ちの悪い話を聞いたばかりなのに平然としている様子はさすがというべきか。
「この写真は誰が?」
問い掛けに、洋子先生と呼ばれた一番若い保育士がおずおずと手を挙げる。
「私です。悦子先生の悲鳴を聞いたあと、カーテンを開けると、その……魔方陣みたいなものが見えて、
ちょうど私、次の遠足の写真の担当だったから、カメラをいじってるところだったんで」
「思わず、シャッターを切った、と」
「はい」
「これ一枚だけですか」
「はい。園長先生がすぐにトンボで消してしまったので」
「消した後の園庭の写真は?」
「撮っていません」
「そうですか。分かりました」
師匠は写真を手にして、少し考えているような顔をする。
「この写真を撮ったのは、二歳児の部屋からですね?」
「はい、ちょうどこの部屋の真上です」

「なるほど、ではこの魔方陣は、この部屋の正面に近い位置にあったわけですね」
そう言って師匠は立ち上がり、ガラス戸の方へ向かう。
開け放してあった戸から外へ出て、すぐ外にあった小さな板敷きから自分の靴を選んで園庭へ出て行った。
僕らもそれについていく。
数メートル進んで、写真と周囲を見比べながら「このへんですね」と言う。
当然だが、地面はすっかり乾いていて、泥に描かれていたという魔方陣のらしきものの痕跡すらない。
「ふうん」
師匠は怪訝な表情で地面を触る。そして首を傾げた。
その場所からは部屋の正面側のフェンスや左手側の花壇まで、まだ十メートルほどもある。
「あそこから撮ったんですね」
師匠が園舎の二階を指さす。園庭から見て一番右端の部屋だ。
一階の倉庫と調理室にあたる部分には二階がないためだった。
そしてその二階にはテラスがなく、師匠の指さす方向には窓と壁だけが見えている。
「念のための確認ですが、これが描かれているところを、誰も見てないんですね?」
「はい」
「雨の降っていた時間は?」
「十一時から昼の二時までです」
悦子先生が答える。
「それ以外の時間は曇ってはいましたが、雨は降っていません」
それを聞いて、師匠が意味深に頷く。
「なるほど、呼ばれた訳が分かりましたよ」
じゃあ、部屋に戻りましょうか。師匠にそう促されて全員、五歳児室に戻る。

また同じような配置で床に座ったとたん、師匠が口を開く。写真を手にしたままで。
「これを、どう思ったんです」
先生たちは顔を見合わせる。
「園長先生は、たちの悪いイタズラだと」
悦子先生がそう答えたのを、師匠はニヤニヤしながら聞いている。
「何年か前にあった、机を9の字に並べるイタズラ事件のことを思い出しますね」
師匠の言葉に僕もその出来事のことを思い出した。
確か東京の中学校で、夜のうちに何者かが校内に侵入し、何百という大量の机を運び出して校庭に並べた、という事件だ。
校庭から見ると、ただむちゃくちゃに放置された机にしか見えなかったが、
屋上から見るとそれがアラビア数字の『9』の形になっている、という奇怪な事件だった。
そのことが全国的に報道されると、
視聴者たちは素人探偵となってその事件の犯人や『9』の意味、そして動機について様々な推理がなされることになった。
規模はまったく違うが、保育園の園庭に奇妙な図形が描かれるというのは、その時のことを彷彿とさせるものがあった。

「イタズラねぇ……」
師匠はまだ笑っている。
「あなたたちは、そうは思わなかった訳ですね」
みんな神妙な顔をして頷いた。
「理由はだいたい分かりますよ。
まず第一に、この保育園で以前から心霊現象のようなものが続いていたこと。
そして第二に、この写真の、これですね」
師匠は写真の中の一箇所を指さす。
そこには魔方陣のそばで立ち尽くす悦子先生が写っている。
いや、師匠の指はそこから少し外れた位置、
その悦子先生の足跡らしき小さな点々が園舎の方から伸びてきている部分に掛かっている。
「サンダルの足跡。雨が上がったばかりでぬかるんでいたので、地面についていて当然です。
しかし……問題は、それが一人分しかないこと。
魔方陣に最初に気づいて外に出た悦子先生のものだけ、
つまり、イタズラでこの魔方陣を作ったはずの人物の足跡が残っていないこと、それが問題なんですね」
師匠の言葉に保育士たちの顔が強張る。
「園長先生はこんなことがあった後も、お祓いなんかしないの一点張りで。
だから私たち、有志でお金を出し合って依頼をしたんです」
最初は神主さんに頼もうとしたのだが、魔方陣というところが引っかかっていた。専門外ではないかと思ったのだ。
それはお寺であっても同じだ。かといって西洋式の、たとえばエクソシストのような人にはツテがないし……

「この写真には、悦子先生が魔方陣に近寄って行った時の足跡しか写っていない。
確かに二階から撮影したものだから、見えにくいだけで実際は他の足跡はあったかも知れない。
でもそうではないんでしょう?」
師匠が訊くと、悦子先生は頷く。
「私が外に出た時、他の足跡はありませんでした。
後から思い出して、そうだったかも、というんじゃありません。
私、その場にいる時から、他の足跡がなかったことを変だと思ってましたから」
そう強く断言する。
「そして、雨は十一時から降り始めて十四時で止んでいる。
どの時点で地面に魔方陣が描かれたのかは、はっきり分からないけど、
少なくとも雨が強く降っている時ではないないはずだ。
だとしたら、こんなにくっきりと形が残っているはずがないから。
では雨が止んだ後に描いたのか?
それもおかしい。ぬかるんだ地面に、それを描いた人の足跡が残っていないんだから」
師匠の言葉の揚げ足をとるような形で僕は口を挟む。
「じゃあ雨が降っている間にそこまで歩いて行って、止んでから描いたとか」

「行きの足跡は消えたとしても、帰りの足跡は?」
そうか。
立ち去った時の足跡もないのなら、その後で雨によって消されたということになる。しかし魔方陣は消えていない。
「やっぱりおかしいですね」
雨が止んだ後で魔方陣を描いたのなら、そのイタズラをした誰かはどうやって足跡を残さずにその場を去ったというのか。
写真を見る限り、魔方陣は園庭の中ほどにあり、園舎からもフェンスからも花壇からも、そして門からもかなり離れている。
一番近いフェンス側でも恐らく十メートルはある。とても一飛びに飛べるような距離ではない。
「竹馬で行ったとか」
僕の意見に呆れた顔をした師匠だが、一応確認する。
「竹馬はありますか」
「うちにはありません」
「まあ、仮にあったとしても、そんなことまでして足跡を残したくない理由はないでしょう。
仮にまだ雨が降っていて、園児の昼寝の時間中だったとしても、
先生の誰かがカーテンの外を覗けば間違いなく見つかってしまう、こんな遮蔽物もない場所で、
そんなイタズラを敢行しようというんですから。
描いているところを見られてもかまわない、と思っている人なら、そこまでして足跡だけを残したくない理由はないでしょう。
逆に、出来れば見られたくないと思っている人なら、これはスピード勝負です。
そんな目立つ竹馬なんかに乗って、えっちらおっちら行くなんて考えられません」
「じゃあ、トンボみたいなもので、自分の足跡を消しながら立ち去った、とか」
「む、なるほど」
僕の言葉に師匠は思案げな顔をして頷く。
すると悦子先生から反論が出た。
「だとしたら、地面にナメクジが這いずったみたいな跡が残るんじゃないですか。そんなものありませんでした」
「ふうん。ではとりあえず足跡の問題は置いておくとして、もう少し確認したいことがあります」
師匠はそう言った後、ゆっくりと口を開いた。

『中編』

「方法はともかく、誰がやったかということです。この中に犯人を知っている、という人は?」
反応がない。あたりまえか。
「では、まず考えるべきは部外者でしょう。
この保育園の敷地の出入り口は、あっちの正門だけですね」
角度的に今いる場所からは見えないが、師匠は右手方向を指さす。
「そうです」
「普段は開けておくのですか」
「送迎の時間帯以外はほとんど開けません。それ以外の時間だと、出入りの業者さんが来た時とか……」
「その雨が降っていた時間帯も閉めていたと」
「はい」
「でも外からも開けられるんでしょう」
さっき来る時に、門の構造を見てきたのだ。
二メートル少々の長さの、下部についた滑車でスライドさせるレール式門扉であり、
重そうではあったが、つっかえ棒になるバーをずらしただけで鍵をかける単純な仕組みになっていた。
外からでも手を伸ばしてさし入れれば、バーは操作できる。

「でも、門を動かせば凄い音がします」
かなり錆びてますから。麻美先生と呼ばれた保育士が口を開いた。確か三・四歳児の担任の先生だ。
女性にしてはガッチリした体格で、袖から覗く腕などかなり太い。
このメンバーではリーダー格の悦子先生に告ぐ二番手といったところか。
後の二人は年も若く、大人しそうにしていてまったく口を挟んで来ない。
「その音が聞えなかった、ということですね。雨が降っていて、戸を閉め切っていても聞えないものでしょうか」
「じゃあ試しに……」
麻美先生が立ち上がると、ガラス戸から外へ出て行った。
僕らも戸口まで行って門の方を覗き込むと、
麻美先生がふんと力を入れた瞬間に、門は物凄い音を立てながら横に滑り始めた。
僕は思わず耳を塞いだ。あまり好きな音ではない。
しかしなるほど、これなら雨が降っていて、かつ戸を閉めていたところでまず間違いなく聞えるだろう。
「ありがとうございます。良く分かりました」
麻美先生が戻って来てから師匠は口を開く。
「でも門はそれほど高くありません。乗り越えようと思えば、乗り越えられない高さではないはずです。
それに園庭側の敷地の周囲のフェンスも、いわゆる金網ですから、よじ登っていけば越えられるはずです。
園舎側のブロック塀は、足場のない外からだと厳しいかも知れませんが」
「それはそうですけど」
悦子先生が不満そうに言う。

「まあ、それだけ目立つリスクを負った、外からの侵入者が犯人だとしても、やはり足跡の問題は残ります。
門からもフェンスからも、魔方陣は遠すぎますから」
師匠は部外者説を簡単に切り上げ、次の説に移した。
「では次に、園の先生の誰かが犯人である可能性は?」
おいおい、まだやるのか、と僕は思った。
悦子先生たちは心霊現象の専門家としての師匠の噂を聞いて解決のために依頼して来たのに、
当の師匠はまるでこの事件がただのイタズラであるかのように聞き込みを続けている。
先生たちも鼻白んだ様子を隠さなかった。
「そんなことをするような人はいません」
悦子先生が代表してそう宣言した。
師匠は少し下手に出るようにおどけた仕草を見せて、
「もちろんそうでしょう、そうでしょうけど、これも必要な確認ですから」と話を続けた。
「その時いた職員では、今ここにいらっしゃる四人の他にどういった方が?」

不承不承、といったていで悦子先生が答える。
「まず園長先生です」
「ああ、そうでしたね。それで他には」
「主任保育士の美佐江先生。0歳児の担任が三人いて、時子先生と美恵子先生と理香先生。
あと、調理員の本城さんと青木さん。これで全員です」
「その調理員のお二人も女性ですか」
「そうです」
その日の職員全員が女性だったというわけか。保育園では珍しくないのかも知れないが。
しかしメモしないと覚えきれないぞこれは。
僕が手帳に名前を書き付けている間に、「臨時職員とかは?」と続けて師匠が問い掛ける。
これには麻美先生が答えた。
「忙しくなる送迎の時間にだけ来てくれるパートの方はいますが、そのことがあった時間帯にはいませんでした」

「なるほど。では全部で、十一人と。『11人いる!』なんて漫画がありましたね」
師匠の軽口にどの先生も一瞬反応を見せた。
ちょうど世代ということか。かくいう僕も男だてらに読んだ口だが。
「まあそれはいいとして、
問題の時間帯に、それぞれの方がどんなことをしていたか、分かる範囲で教えてもらっていいですか」

それから四人の保育士の話を聞いたところをまとめると、おおむねこういうことになるようだ。
十一時ごろ雨が降り出して、園庭で遊んでいた園児たちは全員室内に戻される。
それから昼の食事。保育士も一緒に食べるのだが、食育といって園児の食事時間中も仕事のうちだ。
食事が終わると、絵本の読み聞かせをし、その後は園児たちを着替えさせて昼寝をさせる。
この時点で十二時過ぎ。園庭に出ていない二階の0歳児から二歳児の部屋でも、十一時の昼食の後は昼寝の時間だ。
先生たちは寝ている子どもたちの様子を見ながら、それぞれ部屋の中の自分の机で主に連絡帳をつけて過ごしている。
昼寝の時間中、十二時四十五分に簡単な打ち合わせのため、一度先生たちは事務室に集まっている。
その際、0歳児の部屋からは代表で時子先生だけが参加している。
それ以外の時間は各先生ともトイレに立つぐらいで、特に部屋の外に出ることもなかった。
園長と主任保育士は各部屋の食事や昼寝前の着替えなどを手伝い、別同部隊として自由に移動している。
昼寝の時間になると二人とも事務室にこもり、様々な雑事をして過ごしている。
なお、この二人の動きについては推測となるが、魔方陣発見後の証言から、少なくとも外へは出ていないようだ。

残る調理員二人については、園児の食事終了後、食器洗いなどの片付けのために調理室にずっといたらしい。
このあたりの行動は日々のルーチンであって、ほぼ間違いのないところだそうだ。
「なるほど。だいたい分かりました」
師匠はそう言うと、僕も疑問に思っていたことを続けて口にした。
「先生の休憩時間はないんですか」
その言葉に悦子先生が反応する。
「ないんですよ!おかしいでしょう。昼食の時間だって食育だし、昼寝中もずっと子どもたちを見てないといけないし。
連絡帳だってちゃんと書かないといけないのに、その昼寝の時間くらいしかないんですよ、書く時間。
いつ休憩とったらいいんですか、私たちは」
日ごろからの不満が堰を切って出てくるのに、師匠は渋い顔をした。
「保育園によってはねぇ」と麻美先生が口を挟む。
「園長先生とか主任とかフリーの先生が交代で子どもを見てくれて、順番に休憩取ってるとこもあるんだけど」
うちはねえ……そんな溜め息をつきながら四人の保育士たちは顔を見合わせる。
どうやら園長を中心とした今の体制に大いに不満を持っているようだ。
それとなく師匠が話を振ると、今日来ていない0歳児の担任の三人と主任保育士は、完全な園長派らしいことが分かった。

女性ばかりの職場だ。そういう人間関係のややこしさもあるのだろう。
まだまだ出てきそうな不満に、師匠は「まあまあ、とりあえずは分かりました」と話を一度切る。
「とにかく、雨が降っている間は誰も外に出ていないと、そういうことですね」
先生たちが頷くのを見回してから、師匠は続けた。
「では園児たちはどうでしょう」
これにもすぐに反論がある。
「出ていません。食事の時間も昼寝の時間もずっと私たちが部屋で見てたんですから」
「でも昼寝の時間には一度事務室に集まっているし、トイレに立った時間もあります」
「外は大雨ですよ。音も凄いです。
カーテンを閉めてやっと寝かしつけたのに、子どもの誰かがガラス戸をあけて外へ出ようとしたら、
他の子も起き出します。絶対に。
打ち合わせは十分もかかってないです。
その起きてしまった子どもたちが、私が戻ってきた時に一人残らず布団で大人しく寝てる、なんてありえません」
悦子先生の言葉に他の先生も頷いている。
「しかし出入り口はガラス戸だけじゃないでしょう。
こっちの廊下側の戸から出て、玄関に向かえば、他の子を起こさずに外へ出られる」
この師匠の意見も鼻で笑われた。

「事務室の戸は開けっ放しです。
しかも園長先生の机がすぐ横にあるから、子どもが廊下を通り過ぎようとしたら絶対に気づきます。
昼寝の時間に外へ出ようとしたら、凄く怒られるので、子どもたちはみんな園長先生を怖がってます」
「分かりました。念のために訊きますが、その日、園長先生は誰も外へ出てないと言ってるんですね」
「はい」
なるほど。先生たちの間でも子どものイタズラの可能性は一応検討されたのか。しかしそれも園長の証言で否定された。
「一階の子どもたちはそれでいいでしょう。でも二階の子どもたちはどうです。
この園舎の構造上、二階の階段から降りてくれば、
事務室の前を通らずに、そのまま玄関から外へ出られるのではないですか」
「二階の子は、一番上でも二歳児ですよ。その日の午前中も外ヘは出していません。一人で出て行くなんて……
第一、外へ出ても、二歳児にあんなもの描けるもんですか」
悦子先生の言葉に、僕もハッとした。
そうだ。魔方陣なのだ。
二歳児が五歳児だろうと、そもそもそんなものを子どもが描けるものだろうか。

思わずもう一度くだんの写真を覗き込む。
園庭に描かれた円の中には、幾何学的な模様が浮かび上がっている。
適当にイタズラで描いたものとは思えない。そこにはなんらかの意図が感じられる。
あらためて気持ちが悪くなってきた。
「これ、どうやって描いたんだろうな」
ふと思いついたように横から師匠がそう言う。
「木切れとかでガリガリやったんですかね」
「そんなもの落ちてるか、保育園に」
しかし手で描いたとも思えない。
「傘、じゃないでしょうか」
おずおずと、当の写真を撮った二歳児の担任の洋子先生が言う。
「その日は雨が降るかも知れないっていう予報だったから、みんな傘を持って来ていました。
下駄箱のところの傘立てに一杯置いてありましたから」
なるほど。傘の先で地面をガリガリとやったわけか。
「傘立ては玄関のところと?」
「一階の部屋の外の下駄箱にもあります。一階の子はそこから出入りするので」

「傘か……」
師匠はそう呟いて立ち上がり、開け放しているガラス戸のそばに立って外を見つめる。
そしてくるりと振り返ると、「カーテンはすべて閉めていたんですよね」と訊いた。外は大雨だったのだ。
一階の部屋だけではなく、二階の部屋も、そして事務室や調理室も、
すべてカーテンが閉まっていたと、先生たちは証言した。
「子どもたちの傘はカラフルです。
誰かがその傘を手にして地面に魔方陣を描こうとしたら、カーテンの隙間から見えてしまったりはしないですか。
いや、もし魔方陣が描かれたのが雨が降っている間だったとしたら、
その誰かは地面に描く道具としての傘だけではなく、自分がさすための傘も一緒に手にしたのではないでしょうか。
だとすれば目立ちますね。ほんの少しでもカーテンの隙間があれば……」
先生たちの間に動揺が走った。
師匠はそれを見逃さない。
「なにかありましたね」
促されて悦子先生が口を開く。
「私が担任をしているアキラくんが……」
青いものを見た。そう言っているらしい。

昼寝の時間に、ふと目が覚めたとき、ガラス戸のカーテンの隙間から青い色のなにかを見たのだと。雨の中に。
気にせずまた寝てしまったが、絶対に見たんだと言い張っている。
他の子は誰もそんなことを言っていない。五歳児のアキラくんだけの証言だ。
「青いもの、ですか。この部屋からですよね」
師匠は外を見つめる視線を険しくする。
園庭の向こうにはフェンス沿いに木が並んでいる。まさかその枝葉のことではあるまい。
「青い傘を持って来ている子は?」という師匠の問いに、「いっぱいいると思います」という答えがあった。
先生の中にも青い傘を持って来ている人は何人かいて、その日、玄関の下駄箱にも確実に青い傘はあったのだそうだ。
「まあ、魔方陣と関係があると決まったわけでもありませんが」
師匠はそう言ったが、あきらかになにか疑っている顔だ。
「その日、十一時から二時までの間しか雨は降っていません。
降り出してからはすぐにみんな園舎に入り、その後誰も雨が上がるまで外に出ていません。
確実に言えることは、雨が上がって騒動が持ち上がった時、濡れた傘が一本、もしくは二本傘立てにあったとしたら、
その傘を置いたのは、雨が降っている間に外に出て魔方陣を描いた人物の可能性が高い、ということです」

師匠の言葉に僕は感心した。
そうか。その日、誰も傘は使っていないはずだ。使ったとすれば、こっそり外へ出る必要があった人物だけ。
濡れた傘が傘立てにあったとしたら、それはすなわち魔方陣を描いた犯人のものに違いないのだ。
そこまで考えて僕は、いや違う、と思った。
犯人が自分の傘を使ったとは限らない。まして外部からの侵入者だとすれば当然だ。
しかも、保育士たちは揃って首を横に振った。誰も下駄箱の濡れた傘など確認していないのだ。
その騒動の中、そこまで知恵が回らなくても仕方がないと言えた。もはや唯一と言っていい物証も断たれたようだ。
しばし沈黙が降りた。
「あの……そう言えば私、一度外を覗いたんですが、その時見たものがあるんです」
悦子先生が思い出したようにそう言った。
外が光って雷が鳴った時だ。
ガラス戸のところまで歩いて、カーテンの隙間から外を覗いたら、
緑色のタオルのようなものがフェンス際の木の枝に引っかかっているのが見えたのだと言う。
雨だけではなく、風も吹いていたのでどこかから飛ばされて来たのだろう。

「青ではなく、緑だったんですね」
「はい」
なら無関係か。いや、元の青いものからして魔方陣と関係があるのかよく分からない。
「そう言えば私もそれ、見ました」
それまでずっと黙っていた由衣先生が口を開いた。
一歳児の担任の先生だ。四人保育士の中で一番気が弱そうで、心なしか顔色も悪い。
「雷が鳴って驚いて振り向いたら、あの辺の木の枝にタオルが引っかかってるのが見えました」
外に向かって指をさした後、「緑色、だったと思います」と、そう付け加えた。
他の先生にも訊いたが、
三・四歳児の担任の麻美先生は雷が鳴った時カーテンの方は見たが、外は覗かなかったと言い、
二歳児の担任の洋子先生は机でうとうとしていたのか、雷には気がつかなかったと言った。
「魔方陣が見つかって騒ぎになった時には、その緑のタオルはありましたか」
先生たちは顔を見合わせる。
やがて悦子先生が口を開く。
「それどころじゃなかったから、はっきり覚えていませんが、あったと思います」
同じ木の枝に引っかかっていたはずだ、と付け加える。

「誰か拾った?」
などと先生たちは話し合い、結局誰もその後のことは分からず、
また風でどこかへ飛ばされたのかも知れない、ということに落ち着いた。
「これにも写ってないかな」
師匠はそう言って、写真をまじまじと見つめる。
僕や他の先生たちも顔を寄せ合って魔方陣発見直後の写真を覗き込むが、
フェンス際の木にはそれらしいものが見当たらない。
「ああ、でも幹に近い枝のあたりだったから……」
悦子先生が言った。
なるほど、二階から撮ったこの写真では、角度的に生い茂る葉で隠れてしまって見えないのかも知れない。
結局なにも分からない。
僕は溜め息をついた。
「緑ねえ」
その時ふと思いついた。
その青いものを見た、というアキラくんがおじいちゃん子、おばあちゃん子なら、
もしかすると緑色をしたものを『アオ』と言ってしまうかも知れない。
お年寄りの中には『緑』のことを『アオ』と言う人もいるのだ。
それを聞き慣れていた子どもならひょっとして……

だがそこまで考えて、はた、と思考が止まる。
だからなに、という感じだ。一応口にしてみたが、やはり師匠はそんな反応だった。
アキラくんが見たものが実際は緑のタオルだったとしても、誰かが傘を持って外にいたことを否定するものではない。
もちろん傘を持って外に出ていた人はいなかったかも知れないし、
いたとしてもその誰かが魔方陣を描くには足跡の問題が残ったままだ。
また沈黙がやってきた。
チチチ。と、ガラス戸の外を小鳥が鳴きながら飛び去っていく。
嫌な静けさだ。
それから師匠が「念のため」と言い置いて、一階の廊下側から外へ出るもう一つの出入り口のことを確認する。
事務室の前を通らず、反対側へ進むと裏口の扉があり、その外はプールにつながっている。
しかし普段は、子どもたちが勝手にプールの敷地へ入らないように内側から鍵が掛けられており、
その日も間違いなく施錠されていたという。
そして開錠するための鍵は事務室にあり、園長が管理している。誰も持ち出せない。
また、五歳児の部屋と調理室との間にある倉庫も施錠されており、また仮に中に入れても窓すらなく、外へは出られない。

いよいよ手詰まりになってきた。
会話がなくなり、みんな考え込んだ表情で俯いている。
僕は師匠をつついて、「ちょっと」と窓際へ誘った。
「どうするんです」
小声で訊くと、「なにが」と返される。
ここまでなにやら推理めいたことをしているが、結局なにも分かっていない。
オバケ事案を解決するための霊能力を期待されてやってきたはずなのに、これではどうやって決着をつけるつもりなのか。
そんなことをささやくと、ふん、と笑われた。
「いないものはしょうがないだろう」
「いないって、なにがですか」
「あれがだよ」
うすうす僕も感じていたが、あらためてそう言われると、やっぱり、という気になる。
ようするにこの保育園にオバケの気配を感じないのだ。
この魔方陣騒動の前からたびたびあったという怪談めいた話など、やはりただの噂だったのだろうか。

師匠は少し唸って、こう言った。
「ちょっと違うかな。なんかこう、残滓、残りカスみたいなものは感じるんだけど、もういなくなった、ってとこだな。
まあ多少の悪さをする霊がいたとしても、もう消えちまったってんじゃ、どうせたいしたことないやつだっただろうし、
今さらどうしようもないわな」
「魔方陣はそいつが?」
「さあなあ。もう分からん。人間がやった可能性の方が高いと思うけど」
師匠は溜め息をついた。
この場をどうやって収めるのか、なんだか心配になってきた。
これだけ依頼人たちに時間を取らせて、結局なにも分かりませんでした、というのでは気まずい。気まずすぎる。
今も背中に無言のプレッシャーを感じる。
「とりあえず、もう悪霊の類はいなくなっていますから、これからは大丈夫です、とでも言いますか」
口先だけではまずそうなので、なにか小芝居の一つでもいるかも知れない。
しかし師匠は頭を掻きながら、「でもなにか引っかかるんだよな」とぶつぶつ言う。
そうしてしばらく考え込んでいたかと思うと、「んん?」と唸って外に飛び出した。
園庭の中ほどで立ち止まり、周囲を見回す。そして正面のフェンス際の木と、園舎とを交互に指さしてしきりに頷いている。
「ああ、そうか」
少し遅れて駆け寄った僕の耳にそんな言葉が入ってきた。

「おい、タオルを借りて来い」
師匠から僕に指示が飛ぶ。
「緑色のですか、青色のですか」
そう確認すると、「何色でもいい」という答え。その瞬間、僕は師匠がなにか掴んだということを感じた。
僕はすぐさま五歳児室に戻り、先生たちにタオルを貸して欲しいと頼む。
「これでいいですか」
悦子先生から渡された白いタオルを手に園庭へとって返すと、そのまま「あの木の枝に引っかけてこい」と言われる。
ちょうど五歳児室の正面の木だ。
僕は木の下に立つと、登れそうにないことを見て取り、タオルを丸めて幹に近い枝をめがけて投げつけた。
最初はそのまま落ちて来たが、何度か繰り返すと上手い具合に引っかかってくれた。
「これでいいですか」と振り返ると、師匠が親指で園舎をさしながら頷いている。

二人して五歳児室に戻り、四人の保育士たちが見守る中でフローリングの床に腰を下ろした。
「さて」
視線を集めながら師匠が落ち着き払った態度でそう切り出す。
「雷が鳴った時に見たという、緑のタオルのことですが、あんな感じで木の枝に引っかかってたんですね」
保育士たちは、いったい何を言い出すのだろう、という怪訝な表情で見つめている。
「悦子先生、そうですね」
念押しをされてようやく悦子先生は頷いた。
「由衣先生、そうですね」
由衣先生も恐々、という様子で神妙に頷く。
「麻美先生、そうですね」
話を振られた麻美先生は、驚いたように「私は見ていません」と言った。
「洋子先生、そうですね」
洋子先生も、「私も見ていませんから」と返事をする。
全員の答えを聞き終えてから、師匠はもう一度その中の一人に向かってこう言った。
「由衣先生、あなたが犯人ですね」
ええ?
どよめきが走った。
僕にしてもそうだ。
「ち、違います」
怯えた表情で由衣先生が否定する。

「では少し思い出しましょうか。事件当日のことではありません。つい先ほどの証言です。
悦子先生が、
『外が光って雷が鳴って、ガラス戸のところまで歩いて、カーテンの隙間から外を覗いたら、
緑色のタオルみたいなものが、フェンス際の木の枝に引っかかっているのが見えた』
と言ったあと、由衣先生はこう言いました。
『雷が鳴って驚いて振り向いたら、あの辺の木の枝にタオルが引っかかってるのが見た』と」
師匠の言葉に誰も怪訝な表情を崩さない。
一体なにを言いたいのか、さっぱり分からないのだ。
「この二人の証言には決定的な違いがあります。雷が鳴った後の行動です。
悦子先生は、ガラス戸のところまで歩いて、カーテンの隙間から外を覗いたら、タオルが見えました。
しかし由衣先生は、驚いて、振り向いたらタオルが見えています。
分かりますか。カーテンの隙間から覗いていないんですよ。
さらに言えば、ガラス戸に近づいてもいない」
師匠は自信満々という表情でそんなことを言う。

「いいですか。雨が降っている間、園舎のすべてのガラス戸や窓にはカーテンが掛けられていました。
このことはこれまでの証言から確かなはずです。
カーテンを開けず、また隙間から覗き込みもしないで、
園庭のあの木の枝にかかったタオルを、見ることはできないはずなんです。
もちろん……」
はじめから外にいた人を除いて。
師匠の目が細められる。芝居掛かっているが、ゾクリとするような色気があった。
しかし……
「そんなの、ただの言葉の綾じゃないですか」
由衣先生ではなく、悦子先生が気色ばんでそう抗弁する。
疑われた本人の方は真っ青になって小刻みに震えている。
「いいえ。彼女はカーテンから外を覗いていない。雷に驚いて振り向いたとき、そのまま木の枝のタオルが見えたんです。
証言の通りのことが起きたのです。それを今から証明して見せます」
そう言って師匠が立ち上がった。

『後編』

キッ、となって悦子先生も立ち上がる。麻美先生も肩を怒らせながら立ち上がった。
それに遅れて洋子先生と由衣先生もおずおずと腰を浮かせる。
外へ出るのだと早合点した悦子先生がガラス戸の方へ向かいかけるのを師匠が止める。
「こっちです」
そうして廊下へ出た師匠は玄関の方へ進んでいった。
三・四歳児の部屋の前を通り、事務室の前を通り抜け、玄関の奥にある階段の前で立ち止まった。
「上ります」
そう言ってから階段に足を踏み出す。僕らもそれに続いて階段を上っていく。
二階の廊下にたどり着くと、右手側に戸が四つ並んでいる。
遊戯室、0歳児室、一歳児室、二歳児室。

師匠は三番目の一歳児室の戸を開けた。由衣先生が担任をしている部屋だ。
一階と同じようにフローリングの床が広がっている。五歳児室よりも少し狭いようだ。
位置で言うと、一階の三・四歳児室の真上ということになる。
休園日のためか、窓のカーテンが閉められていて少し薄暗い。
全員が部屋に入ったことを確認してから師匠がその窓際に近づいていく。
「仮に、です。雷が鳴った瞬間、たまたま窓際にいたとしましょう。それも窓に背を向けて。
そして外が光る。雷が鳴る。驚いた由衣先生は振り向く」
師匠はそう喋りながら振り向いて、窓のカーテンに手を突く。
「おっと、まだ外は見えませんね」
嫌らしくそう言ってから、カーテンの裾をつかんで開け放つ。ジャッ、というレールを走る音がして、外の光が飛び込んでくる。
「さあ、カーテンは開きましたよ!タオルはどこに見えます?」
師匠は声を張った。

僕らは思わず窓際に近寄って、同じように外を見下ろす。
なんの変哲もない園庭の光景が眼下に広がっている。
タオルは五歳児室の正面の木に引っかけたはずなので、
隣の三・四歳児室の真上に位置するこの部屋からは少し左斜め前方に見えるはずだ。
みんなそちらの方向を見つめる。
しかし白いタオルは見えなかった。
先生の誰かが言った。
「ここからじゃ、角度が」
そしてハッと息を飲む。
師匠が写真を掲げて見せる。
魔方陣が写った園庭の写真だ。

「二階の部屋、正確には隣の二歳児室から撮影されたこの写真は、フェンス際の木まで写ってはいますが、
葉が茂っているせいで、幹に近い枝にかかったタオルは見えません。
悦子先生の証言では、魔方陣が見つかった時にもタオルはあったということでしたね。
ちょうどこの写真が撮られた時です。
なのに、写真には写っていない。
葉が邪魔して見えないんですよ。二階の窓から構えたカメラからは」
師匠は両手の親指と人差し指でファインダーを作り、ニヤリと笑った。
「つまり、二階の窓からの視線ではね」
こんな風に。そう言って、僕がさっき白いタオルをかけたはずの木に向かって「カシャッ」と口でシャッターを切った。

みんな驚いた顔で師匠を見ている。そしてその視線がやがて由衣先生に集まる。
「私じゃない!」
由衣先生はそう言ってその場にへたり込んだ。顔を覆ってわなわなと震えている。
「外には出ました。でも私じゃない」
そう呻いて、啜り泣きを始めた。
他の先生が「落ち着いて、ね?」と言いながら背中をさすっている。
師匠はその様子を冷淡に見下ろしている。
しばらくそうして啜り泣いていたが、ようやくぽつぽつと語り始めた。自分の口から、あの日あったことを。


きっかけはその事件の数日前だった。
園児たちがみんな帰宅し、他の先生たちも順次帰っていった後、
由衣先生は一人で園に残って、書きかけの書類を仕上げていた。
七時を過ぎ、その残業にもようやく目処がついたころ、ふいに来客があった。
スーツを着て、立派な身なりをしていたので、保護者が忘れ物でも取りに来たのかも知れないと思い、
門のところまで出て行くと、その男性は頭を下げながら「沼田ちかの父です」と言うのだ。
沼田ちか。
その時初めて不審な思いが湧いた。
とっさに、そんな子はうちにはいませんが、と口にしそうになった瞬間、その名前とそれにまつわる事件のことを思い出した。
数年前、この保育園に通っていた沼田ちかちゃんという女の子がいたことを。
片親だったその子は他の子と家庭環境が違うことを敏感に感じ取り、園でもあまりなじめなかったそうだ。

そして五歳児、つまり年長組になったころから、ようやく友だちの輪にも入れるようになり、
毎日だんだんと笑顔が増えていった。
そんなおり、ある週末にお祖母ちゃんにつれられて、買い物に行こうとしていた時、
歩道に乗り上げてきたダンプカーに二人とも跳ねられてしまった。
居眠り運転だった。
お祖母ちゃんの方は助かったが、ちかちゃんは内臓を深く傷つけていて、治療の甲斐なく亡くなってしまった。
当時担任だったという先輩の保育士からそのことを聞いて、とても胸が痛んだことを覚えている。
由衣先生は緊張して、「ちかちゃんのお父さんですか」と言った。
男性は静かに目礼して、懐からぬいぐるみを取り出した。
小さなクマのぬぐるみだった。

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「ちかの好きだったぬいぐるみです」
これを、園庭に埋めてもらえないだろうか。男性は深く頭を下げてそう頼むのだった。
「私は明日この街を去ります。せめてちかが、この街で生きていた証に」
由衣先生は最初断った。
しかし、繰り返される男性の懇願についに折れてしまった。
「ありがとう。ありがとう。きっとちかもお友だちと遊べて幸せでしょう」
涙を拭う男性の姿に、思わずもらい泣きをしてしまいそうになったが、
男性が去ったあと、託されたぬいぐるみを手にして由衣先生は少し薄気味が悪くなった。
最後の言葉。まるであのお父さんは、このぬいぐるみがちかちゃん自身であるかのように話していた気がする。
どうしよう。
捨ててしまおうか。
そう思わないでもなかった。
しかし結局、由衣先生は、男性の想いのとおりそのクマのぬいぐるみを園庭に埋めてあげることにした。
捨ててしまうことで、お父さんの、あるいはちかちゃんの恨みが自分自身に降りかかって来るような気がしたのだ。

花壇の方へ埋めようかとも思ったが、誰かに掘り返されるかも知れない。
それにお父さんは『園庭に』と言いながら、園庭の真ん中を指差して頼んでいたのだ。
フェンスの根元のあたりなどではなく、園児たちが遊ぶその園庭の真っ只中に埋めて欲しい。そういう希望なのだった。
由衣先生はその夜、苦労してスコップで穴を掘り、園庭の真ん中にぬいぐるみを埋めた。
そして上から土を被せ、何度も踏んでその土を固めた。
最後に物置から出してきたトンボで地ならしをして、ようやくその作業が終わった。
どっと疲れが出て、残っていた書類も仕上げないまま、家路についた。

そんなことがあった数日後だ。
十一時ごろに雨が降り始め、
わあわあ騒ぎながら子どもたちが園舎に駆け込んでいくのを二階の一歳児の窓から見ていた。
雨脚は強くなり、やがて土砂降りになった。
受け持ちの子どもたちに食事をさせ、そして寝かしつけている間も気はそぞろだった。
『雨でぬいぐるみが土から出てきたらどうしよう』
しっかり踏み固めたつもりでも、やっぱり周りの地面より柔らかくて土が流されてしまうのではないだろうか。
そう思うといてもたってもいられなかった。
もし園庭に埋めたぬいぐるみが園長先生にでも見つかったら、大目玉だ。
ちかちゃんのお父さんにどうしてもと頼まれた、と言っても、
そんな言い訳が通じないことはこれまでの付き合いでよく分かっている。
子どもがみんな寝てしまった後もしばらく迷っていたが、とうとう由衣先生は決意して部屋を出る。

二階から階段で降りると、すぐに玄関の方へ向かうと事務室からは見つからない。
傘立てから自分の青い傘を手に取り、それを広げながらサンダルをつっかけて外へ出る。
外はまだ黒い雲に覆われて薄暗いが、雨脚は少し弱まって来ているようだ。
ぬかるんだ土に足を取られながらもようやく園庭の中ほどまでやってくる。ぬいぐるみを埋めたあたりだ。
しばらく傘をさしたまま、その場で無数の雨が叩く地面を見回していたが、
どうやらぬいぐるみは土から出てきてはいないようだと判断する。
大丈夫かな。

少しホッとして玄関の方へ戻っていく。雨に多少濡れても早足でだ。
もしこの大雨の中、外に出ていることを他の先生に見つかると、言い訳が面倒だ。
もし見つかったら、鍵かなにかを落としてしまって探しにいったことにしよう。
そう考えながら歩いていると、ふいに視界に白い光が走り、間髪いれずに雷が鳴った。
それほど音は大きくなかったが、かなり近かった気がして思わず振り向いた。
しかし特に異変はなかった。
園舎に早く戻ろうと、玄関に足を向けかけたとき、
一瞬、視界の端にあった木の枝に緑色のタオルがかかっているのが見えた……

「私じゃないんです」
もう一度そう言って由衣先生は啜り上げた。
部屋に戻って、しばらく経ってから悦子先生の悲鳴に驚いて外を見てみると、
雨が上がった園庭に魔方陣が描かれていたのだという。
さっき外に見に行った時には、そんなもの影も形もなかったのに!
そう思うと怖くなってしまった。
自分が外へ出ていたことを話してしまうと、ぬいぐるみのことがバレてしまうかも知れない。
まして魔方陣を描いた犯人に疑われてしまうかも知れないのだ。
由衣先生は、外へ出たことを黙っていようと心に決めた。
悦子先生たちが怪奇現象専門の探偵にこの事件のことを依頼するといって盛り上がっていても、
そっとしておいて欲しいという気持ちだったが、
仲間はずれにされることが怖くて、流されるままにお金も出し、こうして休みの日に園へ出て来ているのだった。

「でも私じゃないんです」
声を震わせる由衣先生を見下ろしながら、師匠は困ったような顔をした。
あの顔は、謎が解けてないな。
僕はそう推測する。
そもそもこの事件には、
魔方陣を描いた犯人が保育士の誰かであれ、園児であれ、また門扉やフェンスをよじ登った侵入者であれ、
大雨の後、魔方陣がくっきり残っているのに、足跡が残っていないという重大な問題がある。
結局そのことはたな晒しにしたままだが、
師匠的には雨の中外へ出ていた人物が見つかれば、そのあたりも勝手に告白してくれるだろうと踏んでいたに違いない。
しかし由衣先生は、自分ではないと言い張っている。

辻褄は一応は合っているし、ちかちゃんのお父さんのお願いから始まるあの話がとっさの作り話とも思えない。
おおむね本当のことを言いながら、魔方陣を描いた部分だけを上手く端折って話したにしても、
その動機や、足跡を残さずに魔法陣だけ残してその場を去ったウルトラCに関するエピソードが、
こっそり入り込む余地があるようにはとても思えなかった。
「うーん」
師匠は頭を掻いている。
そう言えば、ここ数日風呂に入っていないと言っていたことを思い出した。
困った末なのか、単に頭が痒いのか分からないが、しかめ面をして唸っている。
泣いている由衣先生の背中をさすっている他の先生たちも、困惑したような表情をしている。
麻美先生など、露骨に不審げな顔だ。
「今の話が本当だとするとですよ」
師匠はようやく口を開く。

「雷が鳴って、五歳児の部屋から悦子先生がカーテン越しに外を見た時、まだ由衣先生は外にいたことになる。
どうして見つからなかったのかという問題が……
ああ、いや、そうか。玄関の近くまで戻っていたら、角度的に五歳児室からは見えないか。
ううん。まあとにかく、雨が弱まり始めたころ、まだ魔方陣は現れていなかったわけですよね。
雷が鳴って、由衣先生が園舎に戻り、しばらくして雨が止む。その雨が止んだ二時ごろに悦子先生が外に出る。
あまり時間がありませんね。
一体誰がどのタイミングで、どうやって?」
後半はほとんど独り言のようになりながら、師匠がなにげなく窓の外を見た時、その動きがピタリと止まった。
「なにっ」
緊迫したその声に、思わず視線を追って窓の外を見下ろす。
園庭の真ん中。
さっきまでなんの異変もなかったその園庭の真ん中に、なにかがあった。
師匠が窓から飛び出しそうな勢いで身を乗り出す。

「うそだろ」
そんな言葉が僕の口をついた。
魔方陣だ。
魔方陣が、園庭の真ん中に忽然と現れていた。
馬鹿な。
タオルはどこに見えます?師匠がそう言った時、みんな外を見ている。ついさっきのことだ。
その時は間違いなくそんなものはなかった。
だが今、眼下に間違いなく魔方陣は存在している。
写真に写っているものにそっくりだ。
場所も、この部屋からは左斜め。
つまり、五歳児室の正面のあたりであり、九日前に現れたというその場所とまったく同じだ。
背筋に怖気が走った。
なんだこれは。
保育士たちも言葉を失って悲鳴を飲み込んでいる。
由衣先生など、ほとんど気絶しかかっている。

「下に行け。誰も見逃すな」
師匠から短い指示が飛ぶ。
あれを地面に描いたやつのことか。
しかし今この園にはこの部屋にいる六人の他、誰もいないはずだ。誰かずっと隠れていたというのか。
それとも侵入者?このタイミングで?
おかしい。明らかにおかしい。
僕たちの誰にも見られず、あの一瞬であんなものを園庭の真ん中に描くなんて、尋常じゃない。
ゾクゾクと寒気が全身を駆け回る。
しかしそんな僕を尻目に、身を乗り出していた師匠が窓枠に足を掛け、「早く行け」と叫んでそのまま窓の外へ消えた。
落ちた?そう思って窓へ駆け寄ったが、その真下で砂埃の中、師匠が立ち上がるところが見えた。
受身を取ったのか。とんでもないことをする人だ。

だがそれを見てまだぐずぐずしているわけにはいかなかった。すぐさま部屋から出て廊下を抜けて階段を駆け下りる。
一階に降り立ったが、廊下側にも玄関側にも人の姿はなかった。
視界の隅、それぞれの部屋に誰が消えていく瞬間にも出会わなかった。
すぐに下駄箱の前を走り抜け、スリッパのまま外に出る。
左前方に師匠の姿が見える。
そちらに駆け寄ろうとするが、とっさに右手側の門扉を確認する。閉まったままだ。誰かが逃げていった様子もない。
あらためて師匠のいる方へ走り出すと、すぐさま怒鳴り声が飛んでくる。
「待て、うかつに近寄るな」
師匠が右手の手のひらだけをこちらに向けて、顔も見せずにそう言うのだ。
僕は思わずダッシュをランニングぐらいに落とす。

「誰も外へ出すな」
次の指示を聞いて、振り向くと玄関から保育士たちがおっかなびっくり顔を覗かせている。
「出ないでください」
僕がそう叫ぶと、びくりとしてみんな玄関に引っ込んだ。そしてまた顔だけを伸ばしてこちらを見つめる。
その様子を見てから、僕はゆっくりと師匠の方へ目を向ける。
足跡が乱されるのを恐れているのか、と一瞬思った。
が、雨の日とは違い、もとから薄っすらとした無数の足跡で園庭は埋め尽くされている。
これでは足跡は追えないだろう。
そう思ってまた師匠の方へ近づいていくと、その背中が異様な緊張を帯びていることに気づいた。気配で分かる。
あの緊張は、師匠が会いたくてたまらないものに出会えた時の、そして畏れてやまないものに出会えた時の……

「静かに、こっちに来い」
そろそろとした声でそう言う。
僕はそれに従う。
師匠の足元に魔方陣がある。
だんだんと近づいていく。
大きな円の中に、三角形が二つ交互に重なって収まっている。ダビデの星だ。
だんだんと近づいてくる。
そしてその星と円周の間になにか奇妙な文字のようなものがあり、ぐるりと円を一周している。
魔方陣。
魔方陣だ。
写真で見たものと同じ。
だが、僕はその地面に描かれた姿に、一瞬、言葉に言い表せない奇怪なものを感じた。

それがなんなのか。
何故なのか。
知りたい。
いや知りたくない。
足は止まらない。
師匠の背中が迫る。
キリキリと空気の中に刃物が混ざっているような感じ。
「見ろ」
師匠がそう言う。
僕はその横に並び、足元に描かれたその模様を見下ろす。
心臓を誰かに掴まれたような気がした。
足跡が残っていなかったわけがわかった。
師匠が異様に緊張しているわけがわかった。
あの一瞬で、誰にも見られずにこれが描かれたわけがわかった。

傘じゃない。
傘の先なんかで描かれたんじゃなかった。
写真で見ただけじゃわからなかったことが、ここまで近づくとよくわかった。
その円は、重なった二つの三角形は、そして何処のものとも知れない文字は。
地面を抉ってはいなかった。
その逆。
土が盛り上がって作られている。
まるで誰かが、土の底、地面の内側から大きな指でなぞったかのように。
「うっ」
吐き気を手で押さえる。
ついさっきまでなにも感じなかったはずの園庭に、今は異常な気配が満ちている。
とても『残りカス』などと評されたものとは思えない。全く異なる、底知れない気配。
地中から湧き上がって来る悪意のようなもの。

僕は地の底から巨大な誰かの顔が、こちらを見ているような錯覚に陥る。
そしてその視線は、気配は、すべて、緊張し顔を強張らせる師匠に向かって流れている。
その凍てついたような空気の中、師匠は滑るように動き出し、腰に巻いていたポシェットから小さなスコップを取り出した。
そして魔方陣の中に足を踏み入れ、その刃先を円の真ん中に突き立てた。
動けないでいる僕の目の前で、師匠は土を掘る。
ガシガシ、という音だけが響く。
やがてその手が止まり、左手が地面の奥へ差し入れられる。
左手がゆっくりと何かを掴んで地表に出てくる。
人の手。
黒く、腐った人間の手。
ゾクリとした。
誰の手。
誰の。

だが師匠がそれを胸の高さまで持ち上げた瞬間、それが人形の手であることに気づく。
マネキンの手か。
土で汚れた黒い肌に、かすかな光沢が見える。肘までしかない、マネキンの手。
クマのぬいぐるみなどではなかった。どういうことなのか。
「トンボ」
師匠がボソリと言う。そして僕を促すように反対の手で招くような仕草をする。
意図を知って僕は振り向き、園舎の方へ走り出す。その場を離れたかった、という気持ちがないと言えば嘘になる。
地面の内側から描かれたような魔方陣。立ち込める異様な気配。魔方陣の中に埋められたマネキンの手。
ただごとではなかった。その場に立ち会うには僕はまだ早すぎる。そんな直感に襲われたのだ。

走ってくる僕に怯えたような表情をした保育士たちだったが、
「トンボを借ります」と言うと、玄関から出てきて、裏手の物置へ案内してくれた。
取っ手の錆びついたトンボを引きずりながら園庭に出てくると、煙が立っているのが見える。
師匠が魔方陣の上で、マネキンの手を燃やしているのだ。
黒い煙がゆらゆらと立ち上っている。
ポシェットに入っていたらしい小型のガスボンベにノズルを取り付けて、ライターで火をつけ、バーナーのように使っていた。
煙を吸わないように服のそでを口元に当てながら、師匠はそうしてマネキンの手を燃やしていった。
やがて燃えカスを蹴飛ばし、僕に向かって「トンボ」と言う。
手渡すと師匠はためらいもなく魔方陣を消した。ワイパーで汚れを取るように。

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地面がすっかりならされ、魔方陣など跡形もなくなったころ、師匠は僕に顔を向けた。
「解決」
そうして笑った。
だがその顔はどこか強張り、額から落ちる汗で一面が濡れている。
地中深くから湧き上ってくるようなプレッシャーもいつの間にか霧散していた。

それからまた僕らは園舎に戻り、五歳児室で車座に座った。
保育士たちは、忽然と現れた魔方陣とそこから出土したマネキンの手に、
今でも信じられないという様子で生唾を呑んでいる。
やがて、クマのぬいぐるみを埋めたと証言した由衣先生が、あんなものは知らないと喚いた。
だが、現実に出てきたのはマネキンの手だ。
落ち着かせようと優しい言葉をかける悦子先生の横で、麻美先生が口を開く。
「私も聞いた話で、自信がなかったんだけど。やっぱり間違いない。沼田ちかちゃんは、確か母子家庭だったはず」
父子家庭じゃなくて。
それも蒸発などではなく、死別だったはずだ、と言うのだ。

ではあの夜、由衣先生の前に現れてぬいぐるみを託したの男は誰なのだ。そもそもそれは本当にぬいぐるみだったのか。
疑いの目が由衣先生に集まる。
「知らない。私知らない」
錯乱してそう繰り返すだけの由衣先生に、師匠は取り成すように告げる。
「記憶の混乱ですね。この園に巣食っていた霊の仕業でしょう。
ですがそれももう終わったことです。元凶はさっき私が燃やしてしまいましたから。もう何も霊的なものは感じられません。
これでおかしなことは起こらないはずです」
きっぱりとそう言った師匠に、先生たちはどこか安堵したような顔になった。
「もしなにかあったら、アフターサービスで駆けつけますよ。いつでも呼んでください」
その笑顔に、みんなころりと騙されたのだ。
解決などしていなかった。

これまでにこの保育園で起こっていた怪奇現象の原因は恐らく、師匠が感じていた『残りカス』の方だろう。
だがそれはもう消え去っている。
いつ?
たぶん、魔方陣が最初に現れた日。
いや、ちかちゃんの父親を名乗る男が得体の知れないなにかを携えてやって来た日かも知れない。
それは、そんなごく普通の悪霊など、近づいただけで吹き飛ばされて消えてしまうような、
底知れない力を持ったものだったのだろうか。
だが師匠はなにも言わなかった。
ただ僕たちはお礼を言われて、その保育園を出た。
去り際、悦子先生がまだ泣いている由衣先生を叱咤して、「ほら、しっかりして。もう大丈夫だから」と肩を抱いてあげていた。
まあ、これはこれで良かったのかな、と僕は思った。

その帰り道、事務所へ向かう途中で師匠は文具屋に立ち寄り、市内の地図を買った。かなり詳細な地図だ。
そしてその場でそれを広げ、さっきの保育園が載っている場所にマーカーで印をつけた。
日付と魔方陣の絵。そしてマネキンの手の図案を添えて。
「それをどうするんですか」
僕が訊くと、師匠ははぐらかすように言った。
「どうもしないよ。けど、なんとなく、な」
その時の師匠の目の奥の光を、僕は今も覚えている。なんだか暗く、深い光だ。
それを見た時の僕は、なんとも言えない不安な気持ちになった。
死の兆し。
それをはっきり意識したのは、その時が最初だったのかも知れない。

[完]

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