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『遺産』藍物語シリーズ【13】◆iF1EyBLnoU 全40話まとめ – 怖い話・不思議な話

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『遺産』藍物語シリーズ【13】◆iF1EyBLnoU 全40話まとめ - 怖い話・不思議な話 シリーズ物
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藍物語シリーズ【13】

 

藍物語シリーズ【全40話一覧】

 

 

『遺産』

 

 

大きく開いた窓から爽やかな風が吹き込んで来る。
よく手入れされた中庭の木々、柔らかな若葉の香り、そして鳥の声。

「『聖域』の中、ある場所でスズキを主な対象にした調査を計画しています。
『聖域』の中ですから、調査のためとはいえ殺生は避けたい。
そうなると、資料を採取するのに最適な方法は釣りだと薦められたんです。
網を使うと魚を殺してしまう可能性が高いですし、他の魚種の混獲も無視出来ません。
でも、ルアーでの釣りならスズキのような肉食魚を狙って釣れるし、
かなり大型のスズキにも対応出来ると聞きました。
Rさん、それであなたに協力して欲しいと言う訳です。その、釣りの腕を見込んで。」
依頼主だという男性は、深みのある渋い声で、一言一言呟くように話した。

その依頼が来たのは姫の大学の新学期が始まった日だった。
姫を迎えに行く準備をしていたら、俺を名指しで『上』からの電話がかかってきた。
そしてその週の土曜日、俺は指定された場所に一人で出向いた。
事前の説明を聞いた限りでは、姫やSさんと一緒に行く必要は無いと思ったからだ。
Sさんは妊娠9ヶ月目に入ろうとしている。出産予定日は6月。
万が一を考えれば、お屋敷にSさんと翠の2人だけという状況は避けたい。
なら、取るべき道は一つ。姫に2人を託して、俺は車を走らせた。
指定された場所は当主様のお住まい、あの大きな洋館の一室。
少女に案内された小さな部屋で、痩せた壮年の男性が俺を待っていた。
銀縁の丸眼鏡、まるで作業着のような灰色の服。
今までに会った一族の人とは全く違う雰囲気、その男性は『遍(あまね)』と名告った。

 

「確かに僕は釣りが好きですが、道楽で無く調査や研究への協力となると、
ご期待に添えるかどうか分かりません。正直、自信が無いです。」
遍さんは眼鏡を取り、ハンカチでレンズを拭きながら目を細めて俺を見つめた。
「ルアーでの釣り。まあ、本来なら術者に依頼する内容ではないですよね。
ただ、聖域には一族以外の人間が誰でも入れる訳ではありません。
それに、その、何と言うか、一族以外の人間を使う訳にはいかないんです。あの場所では。」
魚を釣るだけなのに、一族以外の人間は使えない。ということは。
「その場所では何かが起こる、あるいは何かが見える、ということですね?
それも一族以外の人間に知られると困るような何かが。」
「何かが聞こえる、というのも付け加えて下さい。
私は月に10日程、あの場所にある研究施設に滞在しますが、
そこで過ごす間、毎日のように遭遇します。一族以外には知られたくないことに。
もし一族以外の人間がそれらを知れば、当然大騒ぎになるでしょう。
そして巷に厄介な噂が広まる。そういう事態は避けねばなりません。
確かに人の口に蓋は出来ない。ましてネットに拡散したら火消しは不可能だ。

 

「まあそういう事情で、どうしても一族の、出来れば術者に依頼したいのですよ。
術者であれば、不測の事態にも対応出来ますから。
しかし術者の中で釣りを、それもある程度以上の腕前でとなると、事実上Rさんしか...」
釣りはあくまで趣味の範囲だと言いかけた俺を、男性が笑顔で制した。
「大晦の宴で見事メーター級のスズキを釣り、霊剣を授けられた程の腕前なら、十分です。」
襟口から冷や水を流し込まれたように、背中と胸が冷たくなる。
「...何故、それを?」
「私には大した力はなく術者でもありませんが、
『上』が術者の動向を把握しなければならない理由は理解しているつもりです。
Rさんの来歴と能力を考えれば、依頼前の情報収集は当然。
私なりの伝でRさんの事を調べさせて貰いました。どうか悪く思わないで下さい。」
遍さんは丸眼鏡をかけ、一度窓の外を眺めてから俺に視線を戻した。
「『聖域』は外界から隔離された場所ですから、今も豊かな自然が残っています。
海岸に近い平地には古い廃村が幾つかありますが、
もう100年近く、この館以外に人は住んでいません。
事実上、手つかずの自然と言っても良い。私はその生態系を研究しています。
『聖域』の中に、この国本来の自然の姿を出来る限り残していく事、
それも私たち一族の大切な役目のひとつなんです。」
遍さんの口調はあくまで穏やかだが、言葉の端々にどっしりとした威厳が感じられる。
自分の仕事に誇りを持つ人に特有の、生き生きとした言葉。

 

「今回の調査は、その研究の一環ということですか?」
「ある大学の研究者たちとの共同研究です。もちろん私や一族の名前は表に出ませんが。」
遍さんの言葉通りなら、100年近く手つかずの場所で釣りが出来る。
釣りを趣味とする人間としては、とてつもなく魅力的な話だ。
しかも釣りの結果はそのまま研究の資料として利用される。
しかし。
「あの、調査の時期と期間を教えて下さい。ちょっと家族の事情があって。」
臨月が近いSさんと離れると考えただけで不安になる。正直、辛い。
「御家族、特にSさまの事情は承知しています。
調査の予定は5月の連休をはさんで約一週間。
Rさんは私が管理する研究施設に滞在して貰うことになりますが、
その期間、ご家族にはこの館で過ごして頂きたい。
既に当主様の御許可も頂いていますし、万が一の場合に備えて万全の体制を整えます。」
ふと、当主様と桃花の方様のお顔を思い出した。
もちろん実の親子とはいえ、立場上、血縁は封印されている。
しかし俺が依頼を受ければ、この仕事をしている間、
Sさんは誰に憚ることもなく、実の両親の元で過ごすことが出来る。
これ程心強いことはないだろう。多少おかしな現象が起こるとしても、
命に関わるような事なら、『俺だけ』に依頼するとは考えられない。
俺一人でも対応出来る程度の事、そう『上』が判断しているということだ。
それならもう、断る理由はなかった。

 

「分かりました。依頼を受けます。
ところで大型のスズキというのはどのくらいの大きさですか?」
スズキの日本記録(スズキは日本固有種だから同時に世界記録でもある)は
確か126cm・13kg。このクラスを確実に取り込むにはそれなりの道具が必要だ。
「私が見たのは最大で1m位の個体ですが、おそらくもっと大きな個体がいるでしょう。
魚体へのダメージを小さくするために、出来るだけ短時間で釣り上げて欲しいんです。
釣り上げたらまず全長と重量の測定。そして年齢確認用に鱗を一枚、
DNA鑑定用に背びれの一部を切り取ってから放流します。」
メータークラスの大物と50cm以下の小物、同じ釣り具ではさすがに効率が悪い。
「小型の個体も狙うとすれば、少なくとも2種類の釣り具が必要になりますね。」
「釣り具についてはお任せします。経費は負担しますから、十分な用意をして下さい。」

詳しい打ち合わせを終え、『聖域』を出たのは既に日暮れ近く。
お屋敷に戻る前に街の釣具屋に立ち寄った。1mまでのスズキなら手持ちの釣り具で十分。
おそらく時間さえ掛ければそれ以上の大物でも取り込めるだろう。
しかし日本記録級の大物を、しかも出来るだけ短時間で取り込むとなると話は別だ。
20kg程度のGT(ロウニンアジ)をイメージして大物用の道具を新調する。
初めての釣り場だが、考え得る全ての状況に対応出来る準備をしなければならない。
手配を終え、お屋敷に戻る頃にはすっかり暗くなっていた。

 

 

俺たち4人が当主様のお住まいに着いたのは5月2日、午前11時過ぎ。
遍さんの言葉通り、洋館の一階、かなり大きな部屋が用意されていた。
この洋館は当主様のお住まいであると同時に、
様々な『公務』を行う術者の宿泊場所としても利用されているのだろう。
もちろん本来なら俺のような駆け出しの術者が宿泊できる筈はないが、
SさんとLさんのお陰で此所を利用させて貰える。本当にありがたい。
俺と姫で荷物を部屋に運んだ後、4人揃って食堂で食事をした。
給仕の世話をしてくれたのはとても感じの良い女性。名前はMさん、40歳くらい?
此所に滞在する間、専属でSさんと翠を担当してくれるという。心強い味方だ。
食後のコーヒーを飲みながら、Sさんは優しく微笑んだ。
「当主様と桃花の方様の御帰着は明日の午後、御挨拶は調査の後になるわね。」
「Sさんと離れるのはとても辛いですが、此処なら安心です。
でも、調査が終わるまで、くれぐれも身体には気を付けて下さい。」
「大袈裟ね。連休中私は此所でのんびりできるんだし、
Lが一緒なんだから、あなただって辛いことなんか無いでしょ。」
そう、意外な事に姫は調査への同行を望んだ。
『こんな機会は滅多にないから』と姫は言ったが、もしかしたら
Sさんがご両親と水入らずで過ごせるようにという配慮があったかも知れない。
釣りも上達しているし、大物はともかく中型のスズキまでなら問題無く釣れる筈だ。
あっけないほど簡単に遍さんの同意も得られ、姫は正式に調査隊の一員となった。

 

調査の日程はまず今日(2日)~4日まで、
それから1日の休みを置いて6日~8日までの2部構成。
色々な事情があって通しの日程は組めないらしい。
本来は調査の間だけ遍さん1人が滞在する施設なのだから、
3人の調査隊が施設のキャパを超えていても無理は無い。
遍さんの四駆に荷物と釣り具を手早く積み込み、出発したのは午後1時30分過ぎ。
夕方までに現地で予備調査を済ませることになっていた、少し窮屈な日程だ。
遍さんは運転席、俺と姫は後部座席。少し走ってすぐに脇道へ入る。
未舗装路だが思っていたよりは広いし、それほど荒れてもいない。
姫は早々に丸くなって寝てしまった。適度な揺れが気持ち良いのかも知れない。
この道が研究のために整備されているとすれば、遍さんはかなりの有力者ということになる。
俺への依頼や当主様のお屋敷で宿泊の手配、それを自身の一存で提起できるとしたら...
ハンドルを握る遍さんに、俺は思わず話しかけた。
「あの、聞きたいことがあるんですが。」 「はい?」
「もしかして、遍さんは『上』のメンバーなんですか?」
遍さんはまっすぐ前を見たままで、穏やかな笑顔を浮かべた。

 

「本当は答えてはいけない質問ですが、あなたには隠しても意味がありません。
前にも話した通り、私には術者になる程の力は無く、研究に一生を捧げるつもりでした。
もともと人付き合いや議論は苦手な方でしたし。
都合の良いことに妹がかなりの力を持っていましたから、
本来は彼女が成人したら家を代表して『上』のメンバーになる筈だったんです。
しかし、突然事情が変わりましてね。」
遍さんはバックミラー越しにチラリと俺を見た。
「何が、有ったんですか?」
「妹が、ある御方に恋をしたんです。しかも熱烈な両想い。
普通に考えれば身分違い、不相応な恋。家族中大騒ぎでした。
でもその恋は成就して、彼女は『上』のメンバーになれなくなった。それで私が代わりに。」
両想いの恋が成就したから『上』のメンバーになれない? 一体どういう事だ?
「もしかして、ある御方というのは。」
「そう、当主さまです。当時はまだ御即位前でしたが。」
なら、遍さんは桃花の方様の兄上。つまりSさんと俺にとって。
「あの、じゃ遍さんはSさんと僕の」
「今のは此所だけのお話です。当主様と桃花の方様の血縁は封じられていますから。
忘れないで下さい、私とあなたは同じ一族の一員。それだけです。
さて、もうすぐ到着ですよ。」

やがて4駆は開けた場所に出た。車が通れる道はそこで途切れている。
平屋の研究施設、隣に自家発電用らしい設備、そして貯水タンクと大型のポンプ。
金属のパイプがポンプから近くの草むらに伸びていた。パイプの先は見えないが、
その方向から微かに水音が聞こえる。近くの沢から水を引いているのだろう。
3人で荷物を施設の中に運び、遍さんが食料等を収納する間に、俺は釣り具を準備した。
取り敢えず小物用の釣り具を2セット、俺と、そして姫の分。時計を見た、午後2時40分。
初めての釣り場。いきなり夜の釣りは危険だ。明るいうちに下見をしておく必要がある。
出来れば実際に小物を何尾か釣って、調査の手順も確認しておきたい。
「じゃ、出掛けましょう。お、釣り具の準備は万端ですね。」
「予備調査なので小物釣り用を準備しました。ところで服装はこれで大丈夫ですか?」
獣道のような細い道を歩くと聞いていたので、トレッキング用の服と靴を用意した。
「ああ、それで大丈夫です。藪こぎするような道ではないので。
ただ、始めのうちは斜面がかなり急です。それだけは気を付けて下さい。」
遍さんの言うとおり、施設のある広場からかなり斜度のある斜面に細い道が伸びている。
かなり急な下りの坂道。これが獣道?道の先は見えないが、
斜面に続く平地に河と、そしてさらに先には海岸が見えていた。入り江のような小さな湾。
「釣りをするのはあの河ですね?」 「はい、あの河の河口付近です。」
その時、突然首筋から頬にかけて微かに鳥肌が立った。
パイプの伸びている草むらの奥に、複数の気配を感じる。多分、視線。
先に立った遍さんは既に獣道を降り始めている。後を追いながら姫に尋ねた。
「Lさん、あの気配、何でしょうね。」
「特に悪意は感じません。心配無いと思います。」
姫の笑顔はとても、優しかった。

 

10分程で斜面を降り、さらに平地の草むらに伸びる細い道を歩く。
30cm程の幅で地面がむき出しになっていて、普通の獣道とは何処か違う。
魚や水辺の生物だけを調査しているわけではないだろう。
それ程頻繁に遍さんがこの道を往復するとは思えない。
比較的大型の動物、例えば野犬や鹿の群れが通る道なのか?
道の両側は背の高い草にびっしりと覆われている。
所々高い松の木が見えるが、その配置が何となく規則的に見えた。
遍さんは古い廃村が幾つかあると言っていた。此所がそうだとすれば、
もしかすると両側の草地は古い水田か畑の跡なのかも知れない。
15分程歩くと高さ2m程の斜面があり、其処を上るといきなり視界が開けた。
河、だ。 向かって左側が下流、河口の方向。
姫と遍さんには待っていて貰い、堤防のような段差の上を歩いてポイントを探した。
川幅は河口付近で50m程。透明度は高い。川岸近くは比較的浅く、あちこちに沈み石。
ボラかアブラハヤのような小魚の群れがあちこちに見える。
ミノー(小魚型のルアー)ならスズキの反応は良さそうだが、
大物を掛けてラインが沈み石に巻かれたら取り込みは難しい。さらに歩く。
やがて川岸近くまで水深のある場所を見つけた。
大きな石が2つあるが、川岸に接しているのでラインを巻かれる心配は無い。
むしろ魚が釣れたら、その石に降りて取り込めば良い。調査も上手く出来そうだ。
引き返そうとした時、向こう岸近くから水音が聞こえた。
波立つ水面に、太い尻尾が見える。
全長1m程の黒っぽい動物が、水中にすーっと潜っていった。
多分ヌートリア、外来の大型齧歯類だ。環境問題を扱ったTV番組で見たことがある。
近年分布を拡げているという話だった。既に『聖域』の中にまで侵入しているとは。
餌の豊富な場所を探して此所に移動してきたのだろう。
『聖域』といえども環境問題からは逃れられないということか、
溜め息をついて俺は歩き出した。

 

「川岸近くまで澪筋が入り込んでいますから、この場所なら
かなりの大物が釣れても取り込みが可能です。
昼は小物狙い。夕方は多分、大物も回遊してくると思います。」
「Rさん、私、ルアーを投げても良いですか?」 姫が眼を輝かせた。
「ええと、それは。」 それとなく遍さんの表情を窺う。
「釣りについては全てRさんに任せます。1人より2人の方が確率は高いでしょうし。
早速、標本採取の準備をしますから、何尾か釣って下さいよ。」
「じゃ、まずLさんは此所からあの松の木の方向を中心に投げて見て下さい。
僕は少し離れて反対側を探ってみます。」
「了解です。」

 

「あ、これ、多分釣れてます。」
俺が自分の竿を準備し終える前に姫が声を上げた。竿が綺麗な曲線を描いている。
直ぐにデジタルスケール付きのフィッシュグリップを持ち、
川岸近くの大きな石の上に飛び降りた。
「Lさん、此所に魚を誘導して下さい。」
「はい...これで良いですか。」 「OK、完璧です。」
やはりスズキだ。リーダー(太めの先糸)を取り、
フィッシュグリップでアゴを挟んで持ち上げる、580g。
次はメジャー、34.2cm。 いったん魚体を水中に戻す。
「遍さん、580g、34.2cmです。次はどうすれば良いですか?」
遍さんは手を伸ばし、小さなビニールパックとハサミを渡してくれた。
「大きめの鱗を一枚、それと背ビレの後端を少し切り取って、これに入れて下さい。
ヒレを切り取るのは小指の爪くらいの大きさで良いですよ。」
「了解。」 手早く作業を済ませてスズキを放流する。
川岸に戻ってビニールパックを遍さんに手渡した。
「どうぞ。」 「ありがとう。」 遍さんは驚いたような、呆れたような表情だ。
「スズキが掛かってから放流まで3分弱。見事な連携プレーですね。
予想以上の速さです。これならダメージの心配は不要でしょう。本当に、驚きました。
正直、釣りが調査に最適と聞いた時は半信半疑でしたが、納得です。」
「メーター級の個体だと、寄せるだけで多分数分かかります。
多分こんなに上手くはいきませんが、良いシミュレーションになりました。」

 

2人で釣りを続け、合計4尾のデータを取った所で予備調査は終了した。
最小の個体は28.1cm/330g、最大の個体は43.8cm/1160g。
予想以上の成果だったらしく、遍さんも上機嫌だ。
何やら鼻歌を歌いながら帰り支度をしている。俺も釣り具をまとめた、その時。
視線を感じて首筋に鳥肌が立った。施設から出発した時の気配に似ている。
姫がそっと囁いた。 「また、見てます。皆、私たちに興味があるんですね。」
「心配は、無いんですよね?」 「はい。」 姫はまた優しく微笑んだ。
施設へ戻るまでの間、それらの視線は確かな気配を伴って俺たちの後を追ってきた。
時折、背後から微かな呼吸音や草を踏む足音が聞こえる。でも、もう鳥肌は立たない。
まあ単に『慣れた』だけなのかもしれないが。

施設に戻ると遍さんは俺たちを部屋に案内してくれた。
6畳ほどの部屋に折りたたみ式のパイプベッドが2つ。壁に申し訳程度の収納。
宿泊用というより仮眠用の部屋。まあ、旅行では無いのだから贅沢は言えない。
姫と交代でシャワーを使い、着替えると遍さんが声を掛けてくれた。
夕食の用意が出来たらしい。狭い台所の小さなテーブル、レトルトの大盛りカレー。
「済みませんが此処での食事は毎回こんな感じです。
調理の時間が取れないので普通の食材や調理器具は置いていません。」
そういえば台所には飲み物用の小さな冷蔵庫しかない。
遍さんが滞在する間だけ電源を入れるのだろう。
「採取した資料を処理するので私はこれで。明日の朝食は7時、出発は8時です。
あ、冷蔵庫にビールがありますよ。宜しければどうぞ。」
遍さんはさっさとカレーを食べ終えて台所を出て行った。
俺と姫はカレーを食べ終えてからビールを1缶ずつ飲んだ。
部屋に戻ったのは7時30分。

 

「なんだか慌ただしい1日でしたね。」
「はい。でも、ずっとRさんと一緒にいられて、楽しかったです。」
姫は窓を開け、俺のベッドに腰掛けて夜空を眺めた。
「やっぱり。辺りに灯りが無いから、お星さまが凄く綺麗です。」
「ホントだ。部屋の灯りも消してみましょう。」
灯りを消して姫の隣りに座る。2人で星空を眺めた。ゆっくりと過ぎていく時間。
他愛のない事を話しているうちに姫は寝てしまったので、抱き上げてベッドに運んだ。
俺も自分のベッドに横になる。眠い、意識がすうっと薄れていく。

 

「...歌?」 どれくらい寝ていたのだろう。
微かな歌声を聞いたような気がして目が覚めた。
窓から見える夜空、星座の位置が少し変わっている。
いつの間にか姫が窓際に立って外を覗いていた。窓枠に身を隠すような姿勢。
やはり声が聞こえている。窓の外、遠くで誰かが歌っているような声。
それは次第に近づいてくる。俺も姫の隣に立って窓の外を覗いた。 これは。
俺たちが降りた斜面の道を、ボンヤリとした緑色の光が列をなして上って来る。
不思議な声は、その光の列から聞こえていた。一体、あれは?
先頭の光が大きく揺らめいた。それは見る間に人のような形に変化していく。
「Rさん、そっと窓を閉めてベッドに。」 囁く声。
言われた通り窓を閉め、ベッドに横になる。姫も横になって俺を抱きしめた。
窓を閉めたので歌うような声はほとんど聞こえない。
しかし、窓枠が緑色の光に照らされている。かなり明るい。
緑色の光が完全に見えなくなくなるまで、俺たちはじっと息を潜めていた。
暫くして、姫が身体を起こした。 立ち上がってそっと窓の外を窺う。
「もう、大丈夫です。」
俺も身体を起こす。 「あれは、何ですか?」
「朝陽が昇る前に河へ降りて河の神様に縋り、
夕日が沈んだ後は山へ上って山の神様に縋る、そういうものたち。
移動する間は河での姿にも山での姿にもなれないので、あんな光に見えます。」

 

「妖怪とか、精霊みたいなもの、ということですか?」
「それが一番近い言葉、でしょうね。普通の幽霊とは、『あり方』がかなり違いますから。
「あの歌は?」
「歌かどうかは分かりません。でもああして仲間を探しているのだと聞きました。」
「仲間って、はぐれた仲間ですか?」
「いいえ、新しい仲間です。海で亡くなったり山で亡くなったりして、
救いを求めている人の魂を仲間に加えるために呼びかける声。」
なら、あの光の1つ1つが、元々は海や山で亡くなった人の魂なのか。
ふと、思い出した。七人の死者、その魂の集合体。
新しい魂を仲間を加えるたび、一番古い魂が成仏するという妖怪の話。
「七人ミサキに似てますね。それだと妖怪と言うより悪霊に近い気がします。」
「実際に確かめた人はいないようですが、
新しい仲間を加えた分、光の数が増えると言われてます。
海岸から山まで途切れなく続く光の行列が見えたという記録も幾つかあるようです。
もしそうなら、七人ミサキのような悪霊とは違いますね。」
「どうして確かめた人がいないんですか?」
「今、此所以外であれが出現するという報告がほとんど無いんです。
先の大戦前は、海辺の古い集落なら似た話が沢山あったらしいんですが。
もし『不幸の輪廻』に取り込まれてしまったのだとしたら、悲しいですね。」
じゃあ、あれは。
哀しい魂たちが『不幸の輪廻』に取り込まれないように寄り集まった姿なのか。
例えばこの世に思いを残しつつ亡くなり、その死を誰にも知って貰えなかった魂たち。
無縁仏とすら呼べない、忘れられた存在。

 

「あれが悪霊でないなら、何故、通り過ぎるまで隠れていたんですか?」
「あれが見えるなら、あれからも見えている。そう、言われているからです。」
「あれが僕やLさんを仲間だと思うかも知れない、と?」
「はい。悪霊でも同じですが、複数の魂が融合した状態だと力が強いし、
融合した魂を1つ1つ分離しないと根本的な解決は不可能です。
でも、此所なら『不幸の輪廻』の力は及びません。
それに、今後新しい仲間が増えることもないでしょう。
昼は海の神様に縋り、夜は山の神様に縋って存在し続けるだけ。
それなら、このままでも良いような気がします。」 姫は窓の外を見た。遠い目。
確かに、人間の方が注意して、あれが移動する時間帯を避ければ実害はない。
まして、此処にいる人間があれの仲間に加わるような事態は考えられない。
何でも自分たちで解決できる、しなければならないと考えるのは、不遜だろう。
神様の御心にお任せする、そんな方法があっても良い筈だ。
窓に鍵をかけ、カーテンを閉めて、俺と姫は眠りに就いた。
明け方前、もう一度あれが此処を通る時、その声や姿に気付くことがないように。

 

 

翌朝、釣り具を持って広場に出ると、姫が草むらを見つめていた。
俺の気配に気付いたのか、背中に廻した手で、そっと『おいでおいで』の仕草。
未だ早朝の気温は低く、空気はヒヤリと冷たい。そっと隣りに立って姫の視線を辿る。
...犬? 未だ幼さの残る柴犬に似た顔が、草むらの中からこちらを見ていた。
「ああ、ヤマイヌですね。」 遍さんの声だ。思わず振り返る。
「この辺りを縄張りにしている群れの個体でしょう。
若い個体は好奇心が強いから、きっと様子を見に来たんですよ。
お2人の匂いは初めてですからね。多分近くに親がいるはずです。じゃ、出掛けましょう。」
昨日感じた視線と気配は野犬の群れだったのか。軽い胸騒ぎ、一体何故?
遍さんは先に立って歩き始めた。姫が後を追う。2人は軽やかに歩を進めた。
ヤマイヌ、その言葉がどうしても耳から離れない。
心の隅に引っかかっている何かが、その言葉の響きに呼応している。
その言葉を聞いたのは、一体何時だったろう。
遠い記憶を辿りながら、俺は遍さんと姫の後を追った。

 

午前中の調査は9時前~12時までの約3時間。
姫と2人、休憩しながら計9尾のスズキを釣り上げた。
釣りをしながら川岸を歩き、小物を狙うのに良いポイントを幾つか見つけた成果だ。
「小物の試料は充分ですね。午後の調査で大物の試料が採取出来れば、
6日からの調査は必要ないかも知れません。実に、順調です。」
遍さんは相変わらず上機嫌。
午前の調査を早めに切り上げて施設に戻った。昼食はインスタントの鍋焼きうどん。
食事の後、俺と姫は1時間ほど昼寝をして夕方の調査に備えた。
夕方の調査のために施設を出たのは4時丁度。
夕まずめで大物を狙うなら帰りは夜になる。半月の月明かりだけでは足下が心許ない。
もちろん懐中電灯は事前にチェックしてある。3人分のLEDライト。
昨夜の光の列も気になるが、7時30分には調査を終了する予定なので、
あれが移動する時間とは重ならない。多分大丈夫だ。

 

河口のポイントに着いたのは4時半過ぎ。満潮の潮止まりに近い時間だ。
これから下げ潮に入ればスズキの活性も上がる筈。今回の狙いは大物。
群れる小魚の様子を見ながら、ゆっくりと釣り具を準備する。
まずは姫の釣り具。昨日より少し強い竿に大きめのリールをセットした。
ルアーは昨日と同じ9cmのミノー(小魚型のルアー)。
姫は早速キャストを始めた。綺麗なフォーム、飛距離も十分。
もともと身体能力は高いし、器用な人だ。何度か一緒に釣りをするうちに、
軽いルアーでの釣りなら俺よりも上手なほどに上達していた。
姫の様子を見ながら自分の釣り具を準備する。準備完了、竿を近くの木に立てかけた。
「Rさんは釣らないんですか?」 遍さんは不思議そうな顔だ。
「大物は警戒心が強いので、1人ずつ、ポイントを休ませながら釣ります。
日暮れまではLさん、日が暮れたら僕がこれで。」 「なるほど。」
何度目のキャストだったか、テンポ良くリールを巻いていた姫が、突然竿を跳ね上げた。
竿が綺麗な弧を描く。見事な合わせ。チリチリとリールのドラグ(ブレーキ)音が聞こえる。
「オーストラリアで釣った魚みたいな引きです。多分、大物ですね。」
姫の頬は紅潮しているが慌てた様子はない。

 

いきなりドラグが激しい音を立て、30mほど離れた水面が割れた。
スズキが魚体をくねらせながらジャンプする。デカい、未だ明るい内にこんな。
「ジャンプする前には大抵助走(助泳?)します。そしたら思い切り竿先を下げて下さい。」
「ジャンプしにくいように、魚の頭を下に向けるんですか?」
「そうです。何度もジャンプされると、ルアーが外れる事がありますから。」
姫は冷静にやり取りを続け、魚をかなり近くまで寄せてきた。
調査道具一式を持ち、川岸の石に降りる。
リーダー(太い先糸)までの距離を確認した時、上流側から刺すような視線を感じた。
怒り?敵意? そっと視線を遡る...10m程離れた、水の中? 気のせいか。
「Rさん、魚、これで良いですか?」 我に返って目の前の水面を見る。
姫は更に魚を寄せ、俺のすぐ前まで誘導していた。
リーダーを取り、フィッシュグリップでアゴを確保する。成功。
「Lさん、大物ですよ。おめでとうございます。」 「凄い。何だか、手が震えますね。」
素早く体重と体長を測り、資料を採取してパックに入れる。そして放流、首尾は上々だ。
82.1cm、4720g。
「今回の調査では一番の大物です。貴重なデータになりますよ。」
ビニールパックの中、背びれの一部と大きなウロコを見ながら、
遍さんは満足そうに目を細めた。

 

大物が派手に暴れた後だ。他のスズキは警戒するだろう。
たっぷり20分程ポイントを休ませてから釣りを再開した。
姫がルアーをキャストする。釣り姿が堂々として頼もしい、それに美しい。
つい見とれていると、わずか数投で次のヒット、取り込みも成功。
78.6cm、4150g。これもかなりの大物。
資料を遍さんに手渡して、再びポイントを休ませる。
姫と並んで川岸に座った。持参したおやつを食べる、ミニ羊羹。
「そろそろ暗くなってきたので、今度はRさんが釣って下さいね。
あれ以上の大きさだと、私には絶対無理ですから。未だ少し手が震えてます。」
「じゃ、いよいよ大物用の道具の出番ですか。」 「期待してますよ、お師匠様。」
「ところで、さっき大物を釣った時なんですけど。」 「はい?」
「2度とも、取り込みの直前にキツい視線を感じたんです。それも水の中から。」
「水の中から?変ですね。私は釣りに夢中で気が付きませんでした。」
その時、遍さんが俺の肩に手をかけた。
「Rさん、お話し中申し訳無いですが、もう6時です。時間が無くなってきましたよ。」
「あ、済みません。」 そうだ、7時半には調査終了。
メーター級の大物が釣れたらやり取りに時間がかかる。あまり余裕は無い。
視線の話の続きは、施設に帰って夕食を食べた後にしよう。
立ち上がり、木に立てかけてあった釣り具を手に取った。
注文した竿が届いたのが調査前日だったので一度もテストをしていない。
本命のポイントから離れた場所でキャストの感覚を確かめた。
強くて腰があるがガチガチに硬いわけではなく、キャストしやすい。しかも、軽い。
予想通りだ、これなら大丈夫。本命のポイントへ移動した。
既に太陽は山の稜線に隠れ、辺りは見る間に暗くなっていく。
夕まずめ、闇に乗じて大物が浅場に回遊する時間、これからが俺の本番。

 

しかし。
状況が、先程までとは一変していた。全くアタリが無い。
時々ポイントを休ませ、ルアーも取り替えながらキャストを続ける。しかし反応はない。
微かに魚たちの気配はある。しかし、皆、息を詰めて身を潜めている。そんな雰囲気。
時計を見た。もう6時50分を過ぎている。何故、大物が回遊してこない?
風が止まり、静まりかえった水面は鏡のようだ。明るさを増した半月が綺麗に映っている。
何かがおかしい。今までの経験からして、エサとなる小魚が多い場所ほど
肉食魚の摂食行動は短い時間に集中する。朝まずめと夕まずめ。
エサが豊富なら一日中エサを探して泳ぎ回る必要はないから、そう理解していた。
実際、さっきは立て続けに大物が釣れた。より大きな個体はその後に。
...いや、さっき釣れたとき、空はまだ明るかった。どうしてあんな時間に大物が?
「釣れないみたいですね。」 遍さんがペットボトルの水を持ってきてくれた。
「そうですね。何だか様子が変です。」 水を一口飲んでペットボトルを姫に渡した。
姫は俺の左側、足下に座って河を見ている。姫も水を一口飲んだ。
「と、言うと?」 遍さんの声が川面の空気に溶けていく。
「魚の反応が全く無いんです。まるで、何かを怖れて隠れてしまったみたいに。」
そう、この状況は、大物の回遊を察知した小物達がさっさと退散した後に良く似ている。
眼鏡の奥で遍さんの眼が輝いた。
「80cmもあるスズキが怖れる何か...興味深いですね。」
言われてみればおかしな話だ。70~80cmクラスにもなればまず敵はいない。
ヌートリアも、わざわざそんな大物を狙うような難儀はしないだろう。
もっと楽に獲れる小物が、此所には幾らでもいるのだから

 

「ガポッ!」
少し離れた場所で水音がした。大きいが軽い音。ボラが跳ねた音とは違う。
一気に胸の鼓動が早くなる。もしスズキの捕食音だとすれば、かなりの大物。
音がした方向に眼を凝らすと、ゆるやかに波紋が拡がっていくのが見えた。
まず上流側にキャスト。流れを利用して、音がした付近にルアーを送り込む。
ゆっくりリールを巻き、流れを横切るようにルアーを泳がせた。弱った小魚のイメージ。
姫も遍さんも、俺の緊張を感じ取っている。2人とも、黙ったまま河を見つめていた。
3投目。ルアーを泳がせ始めた途端、巻きが一瞬軽くなった。
ラインが少しだけ緩み、すぐにぴいんと張る、重い。
流木か、大物か。ドラグを信じて思い切り合わせる。
2度、そして3度。 ジリッ、とドラグが滑る。一呼吸置いて、ラインが走った。
もの凄い勢いでドラグが鳴る。大物だ。ラインは真っ直ぐ河口に向かっていく。
止まらない。あっという間に50mほどのラインが引き出された。
さらに10mほど糸を引き出し、ようやく魚は止まったが、なかなか寄せられない。
時折大きな魚体が水面を割る。激しい水しぶき、大きな水音。まるで爆発だ。
その波紋が俺の立つ川岸まで届き、水面が小さく揺れていた。
何度引き寄せても、その度にラインを引き出される。
「もうすぐ7時半、大丈夫かな?」 時計を見た遍さんが独り言のように呟いた。
魚をヒットさせてから既に20分以上経っている。魚体へのダメージを心配しているのだろう。
必死で遣り取りを繰り返す内に、巻き取ったラインが増えてきた。
魚は確実に、寄ってきている。

 

やがて、少し先の水面が大きく盛り上がり、1mを優に超える大きな魚体が浮いた。
まさか、この魚は。
スズキではない。体高のある太い魚体、身体の割に小さな頭。
そして、妖しく光るルビーのような眼。
この県にその魚がいるなんて、聞いたこともなかった。
「アカメです。間違いありません。やはりいましたね。
この河で初めての記録。貴重な資料になりますよ。しかも大物。是非、釣り上げて下さい。」
遍さんも興奮を抑えかねているようだ。
やがて大きな魚体が川岸近くに寄ってきた。動きはゆっくりで一時の勢いはない。
「少しだけテンションをかけてラインを張っておいて下さい。」 「はい。」
緊張した顔の姫に竿を託し、川岸の石に降りた。
石の上にべったりと座り、腰を据えてからリーダーを取る。信じられない程大きな口。
それに、とにかく重い。2人がかりなら持ち上げられるかも知れないが、それでは。
「遍さん。無理に体重を測ると魚体へのダメージが心配です。」
「体長が分かれば体重は推定出来ます。大体の体長を測定して下さい。」
大型のスケールを魚体に沿わせる。約130cm。その時。
「Rさん!」 姫の声だ。
俺の目の前を何かがかすめた。左足の下で水音。 石? ゾクリと鳥肌が立つ。
激しい怒りと敵意が伝わってくる。 釣りに集中していて、全く気付かなかった。
先刻、姫が大物を釣った時にも感じた視線。 予兆はあったのに...迂闊だった。

 

石の飛んできた方向にゆっくりと顔を向ける。
少し離れた上流側の川岸近くに、小さな人影が見えた。水面から上半身を出している。
1人ではない。その近くにいくつか、丸い頭が見えた。ざっと5、6人。
しかし何故『聖域』に、しかも水の中に人が? 次の瞬間、人影が動いて石が飛んできた。
俺の座っている石に当たる。硬い音。視線を戻すと人影は増えていた。
恐らく10人以上。いや、あれは人ではない。人の形をした、何か得体の知れないもの。
『魚を放せ』 『誰だ』 『帰れ』 『あの人間を』...
様々な意識が流れ込んで来た。激しい怒りと敵意がビリビリと伝わる。
まずい。口の中が乾く。しかし、まだアカメが、資料を。
『水を媒に化生せし者ども』 俺の背後、姫の『あの声』だ。
『待て。待ってくれ。』 太く、低い声が辺りに響いた。これは誰の?
不意に、下流側から強い風が吹き抜ける。冷たい、乾いた風。
その風を避けるように、一番大きな黒い影が川面に吸い込まれた。小さな水音。
次々と黒い影が、上半身や丸い頭が、水中に沈む。
最後の影が沈んだ直後、左手に感じるアカメの重さが消えた。
しまった、針が。
慌てて水面を見ると、アカメは俺の目の前に浮いていた。
やはりルアーは外れている。もちろん下げ潮と共に河の水は下流へ流れている。
それなのに、アカメは動きを止め、さっきと同じ位置に浮いたままだ。一体何故?

 

『あれらに悪意はない。お前たちの釣りが、
何よりこの魚を釣ったことが、あれらを強く刺激した。』
吹き抜ける冷たい風に乗って、その声が再び空気を震わせる。
『しかも、あれらが移動する時刻に近かった。間が、悪かったのだ。
どうか、無礼を許してやってくれ。』
恐る恐る視線を正面に戻す。俺の目の前、多分数m先に、それはいた。
対岸の景色と夜空、俺の視界のほとんどがそれに遮られている。デカい。
それが何なのかは分からない。どうしても眼の焦点が合わず、それ自体は見えない。
ただ俺の前に、巨大な漆黒の闇が蟠っている。
一切の反論や質問を許さない、圧倒的な気配。冷たい汗が流れた。
『やがてあれらが山に移動する時刻。今の内に調査を終えて戻れ。
陸ならば送りの護りも効く。さあ、早く。』
調査? ああ、試料。早くウロコと背ビレを。
水面に静止しているアカメのウロコを一枚取り、そして背ビレの後端を少し切り取った。
『済んだな。もう、巣に戻すぞ。』
アカメは身体を大きくくねらせ、ゆっくりと泳ぎだした。その姿が水中に消えていく。
『あれらには、我が因果を含めておく。移動の時間さえ避ければ、今後の心配は要らぬ。』
闇と気配は見る間に薄れ、対岸の景色と星空が視界に戻ってきた。
「Rさん、急いで下さい。」 姫の声だ、我に返る。
川岸に上がり、遍さんに試料を渡して手早く釣り具をまとめた。
遍さんもすぐに調査用具を片づけた。それぞれライトを持って出発する。
皆、無言で細い獣道を歩いた。

 

昨日と同じく、俺たちの背後を確かな気配が追って来ていた。
時折、聞こえる呼吸音、そして草を踏む足音。それを聞く度に感じる不思議な安心感。
斜面を上りきり、広場へ出る。よし、もう大丈夫。
施設の玄関前で振り返ると、獣道の入り口に2つの影が見えた。
シェパードよりも大きな、犬のような姿。朝、この広場で見たヤマイヌの親、か。
「Rさん、早く中へ。」 遍さんがドアを押さえて俺を待ってくれている。
「済みません。」 ドアをくぐりながらもう一度振り返ると、既にその姿は無かった。

 

 

交代で食事とシャワーを済ませ、俺と姫は遍さんの研究室にいた。
それほど大きな部屋ではない。大き目の机にシンクと蛇口、まるで小さな理科室のようだ。
壁には沢山の棚があるが、扉が閉まっていて中は見えない。
天井まで届きそうな業務用の冷蔵庫もある。間違いなく、どちらも標本保管用だ。

「まずは、心からお詫びを申し上げます。彼処でアカメを釣ることが、
『水妖(すいよう)』たちをあれほど刺激するとは、全く予想出来ませんでした。
『御影(みかげ)』の働きで事なきを得ましたが、酷い怪我をしてもおかしくない状況。
とても危険な目に遭わせてしまい、本当に申し訳ありません。」
遍さんは深々と頭を下げた。

 

御影、それがあの闇の名。確かに先刻、俺はあの闇に助けられた。
しかし、その前に姫は術を、『あの声』を使おうとしていた。
もし姫が術を発動していれば、あの闇に関係なく俺の身を護ってくれただろう。
不遜かもしれないが、俺には確信があった。当然、遍さんを責める気など無い。
「あの河でアカメを捕獲したのが初めてなら、その影響を予想出来なくても仕方ありません。
怪我もしなかったし、もう気にしないで下さい。それよりも、教えて下さいませんか。
御影と水妖。あれらは、一体、何ですか?」
「御影は、『聖域』の境界を護る式です。境界には強力な式が配置されていますが、
御影はその中でも最強の力を持ち、あの湾と海岸の周辺を護っています。
当然、あの場所に『余所者』が入り込む事などあり得ません。
人も動物も、そして霊的な存在も。もちろん渡り鳥や回遊魚は例外ですが。」
人はともかく、動物であっても余所者は入り込めない。それはおかしい。
『聖域』がいつ成立したのか具体的には聞いていないが、
廃村の話からして、少なくとも100年近く前なのは間違いないだろう。
しかし俺は昨日ヌートリアを見た。ヌートリアが日本に持ち込まれたのは70年ほど前。
既に『聖域』は成立していた筈だ。なのに何故ヌートリアはあの河に侵入し定着できたのか。
それにヤマイヌ。あの野犬の群れは、聖域の成立以前から存続してきたというのか。

 

「あの、僕、昨日河でヌートリアを見ました。ヌートリアは、外来種ですよね。」
遍さんは悪戯っぽく笑った。
「それはカワウソです。ヌートリアではありません。」
「カワウソって、ニホンカワウソですか!?」
ニホンカワウソ。1979年以来、確かな目撃報告が絶えて久しい。
近い将来、絶滅が宣言されるのは間違いないとされている幻の動物だ。
「そう、ニホンカワウソです。現在、確認しているのは8頭。
そしてヤマイヌは17頭、どちらもこの十数年のうちに絶滅することは無いでしょう。
深刻なのはオオカミです。確認できているのは2頭だけ。この2頭の寿命が尽きれば、
この国から、いやこの地球から、ニホンオオカミは永久に消滅します。
郷愁にも似た、懐かしさと哀しさが湧き上がる。俺たちが、人間が滅ぼした動物たち。
心の隅に引っかかっていた何かが外れかかり、遠い記憶がボンヤリと甦ってきた。
ニホンオオカミ、2つの剥製、シーボルトの標本、ヤマイヌ、大小2種のオオカミに関わる伝承。
「もしかして、さっき僕たちの後を追ってきたのが。」
「はい、あの2頭が、最後のニホンオオカミです。
私たちの後を追い、護ってくれました。あれこそが『送り狼』、ご存じですか?
ニホンオオカミが絶滅すれば、『送り狼』という現象も消滅します。
まあ、既に此所以外では、全く違う意味で使われる言葉が残っているだけですが。」

 

考えたことも無かった。
『聖域』の中には未だ生き延びている。カワウソが、ヤマイヌが、そしてオオカミが。
「今のうちに保護することは、出来ないんですか?」
「既に『聖域』以外では絶滅したと考えられている動物たちです。考え方は様々でしょうね。
でも、私はそれらの動物を此所の環境から切り離してはいけないと思っています。
あの動物たちを檻の中に閉じ込める。私にはそれが正しい方法だとは思えません。
Rさん、あなたは日本のトキが辿った道をご存じですか?
日本で最後のトキは、檻の中で、死んだのですよ。」
遍さんは言葉を切り、ふう、と小さく息を吐いた。
「人の都合で絶滅寸前に追い込んだ生物たち。
それを更に、保護の名目で檻の中に閉じ込める。傲慢だとは思いませんか?
『聖域』に生息する全ての生物は、私たち一族が大切に受け継いできた遺産。
そしてもちろん、この国全体の遺産でもあります。
もしも生物の一部が、私たちの代で絶滅することになったとしても、
私たちは絶滅した生物を忘れてはなりません。私たち自身がその生物を絶滅に追い込んだ。
その痛切な自責の念とあわせて、絶滅した生物たちを記憶し続ける義務があります。
そして、そのためにこそ、私は此所で研究を続けているのです。」
遍さんの笑顔は優しく、そして、哀しかった。

 

思い出した。
俺は何故、昔聞いたヤマイヌとオオカミの話を忘れていたのか。
どうして昨日見た動物を、カワウソではなくヌートリアだと思ったのか。
とても哀しかった。哀し過ぎて、俺は自分の記憶を封印していた。
2003年、日本最後のトキが死んだ。その名は『トキ子(キン)』。
中国から移入したトキの増殖が行われているが、日本のトキは、もう、いない。
トキ子が死んだことを知った夜、俺は夢を見た。
とても哀しくて、辛い夢。
そしてその翌朝以来、俺は忘れていた。この国で人間が絶滅させた動物たち。
オオカミ、ヤマイヌ、そしてカワウソ。それらを忘れるように仕向けたのは、俺自身。
人間が絶滅寸前に追い込んだ生物たち。その過程には言及することなく、
今度は自分たちの利権と主義主張のために、その生物たちを利用する。
例えば希少動物を原告にした裁判。そんな恥知らずな茶番なら、幾つも知っている。
自然保護運動を隠れ蓑にした、補助金の利権を巡る争いはその最たるものだろう。
カンガルーの個体数調整を是としながら、クジラとイルカを神聖視するテロリストも同様。
此所で静かに生物たちを見守り、その生態を記録し続ける遍さんの心境を思うと、
軽々しく『保護』という言葉を口にした自分が恥ずかしくなる。

 

「それにしても。Rさん、あなたは本当に不思議な人ですね。
いや、あなたたち、と言うべきでしょうか。
御影が最初の一言で呼び掛けたのは、Lさまだったのですから。」
俺と姫が? どういう意味だ。今回、俺は釣りをしただけで、『力』を使ってはいない。
姫が使おうとした術は未発動、しかもその術を『上』は既に知っている。一体、何の不思議が?
「当主様に直属の式は、余程の事がなければ姿を見せません。
一族の中でも、自分の目で『御影』を見た者は、ほとんどいないでしょう。
先刻も、義務を果たすためだけならば、ただ水妖たちを遠ざければ済んだ筈。
それなのに『御影』は彼処に現れ、しかもあなたたちに話しかけた。
『水妖たちの無礼を許してやってくれ』と、そして、『今後の心配は不要』と。
一体何故なのか、見当も付かない。本当に不思議という他ありません。」
遍さんは眼鏡を外し、ハンカチでレンズを拭いた。
「それはさておき、『水妖』についての説明は、私よりLさまの方が余程適任です。
Lさま、お願いできますか?」

 

「はい...古い、死者の魂が河の水を依り代にして人の姿をとったものが『水妖』、
同じ魂が山に上り、落ち葉を依り代にして人の姿をとったものが『山妖』。
だから『水妖』と『山妖』、どちらも本質としては同じものです。
そのまま長い時を経て、人としての性質や記憶が失われると、
妖怪と呼ばれるものに変化します。
それは、肉体が滅んだ後もこの世に留まり続ける魂の成れの果て。
それもまた魂が辿る旅路の終着駅の1つ、そう、私は教えて貰いました。
遍さん、説明は、これで良いですか?」
姫の表情は少し緊張している。恐らく、遍さんが『上』のメンバーだと知っているのだ。
一族の事情に疎い俺には失言のしようもないが、様々な事情を知る姫にとって、
『上』の前での失言は許されない。注意深く言葉を選んでいるのが分かる。
「お見事。過不足のない、完璧な説明です。相変わらず聡明で、そして慎重なお方だ。」
聞きたいことは他にもあるが、今、姫にこれ以上の緊張を強いるのは酷だろう。
「『御影』と『水妖』、何となく分かりました。ところで遍さん、明日も調査をするんですか?」
「午前中は調査をするつもりでしたが、予想より多くの資料が集まりました。
明日は当主様のお屋敷に戻って試料を大学に発送します。次の調査が必要かどうか、
その後で相談しましょう。だから明日の朝は少しゆっくり、8時起床で如何ですか?」
「了解です。じゃ、明日の朝8時に。」
俺は姫を促して部屋に戻った。

 

「カワウソやオオカミのこと、知っていたんですか?」
姫は俺のベッドに腰掛けた。窓には鍵、そしてカーテン。
「此所には貴重な動物がいる。それは聞いた事がありました。
他の場所には、もういなくなった動物たちだって。
だから、出来れば自分の眼で見てみたかったんです。
でも、本当に遇えるかどうか分からなかったから、Rさんには話せませんでした。
期待を裏切ってしまったらと、そう思って。」
俺は姫の隣に腰掛けて、小さな肩を抱いた。
「気を遣ってもらって、本当に感謝してます。それに、遍さんの話を聞いて、
長い間忘れていた、とても大事なことを、思い出すことが出来ました。」
俺はもう絶対に、あの動物たちの事を忘れない。そう、絶対に。
「気を悪くしてませんか?」 「大・丈・夫、分かるでしょ?」 「...はい。」
決して失いたくない温もりを、もう一度しっかりと抱き締めた。

 

翌朝、俺は7時前に眼を覚ました。姫は隣のベッドで寝息を立てている。
そっと部屋を出て、施設の玄関に向かった。何となく、そうすべきだと思ったからだ。
鍵を開け、ドアを押し開ける。ガサガサという異音、一体?
ドアをくぐり、足下を見て息を呑んだ。
細い笹で繋がれた鮎が、床に敷いた柏の葉の上に置かれている。
鮎の片眼から口に笹を通し、また次の鮎の片眼から口に笹を通す。
そうして十数尾の鮎が繋がれていた。間違いない、昨夜の水妖たちの仕業だ。
あの、小さな黒い人影たちが鮎を捕り、笹で繋ぐ情景が脳裏に浮かぶ。
罪滅ぼしのつもりなのか、昨夜は不気味に見えた黒い影に親しみが湧く。
「Rさん、そのお魚、昨夜のうちに?」 パーカーを羽織った姫が立っていた。
「水妖たちがお詫びに置いていったんでしょうね。今日の昼食は鮎の塩焼きです。
当主様のお屋敷に戻ったら、早速準備しましょう。」
折角だから、ヒレに塩をまぶし、魚体に踊り串を打つ。本格的な塩焼き。
笹を通してあるから片眼は潰れているが、そこに串を打てば全然目立たない...
え?片眼が潰れた、贈り物の魚?

 

そうか。 水妖≒河童、山妖≒山童。 そうだったのか。
河童の原始的な姿を示すと言われる奄美のケンムンや沖縄のキジムナーには、
捕った魚を分けてくれるという伝承や魚の片眼を食べるという伝承が多い。
何故エラから口でなく、片眼から口に笹を通すのかは分からない。
しかし、俺と同じような経験をした人間が語った話が、
後にそれらの伝承に変化したのではないか。片眼の抜かれた、贈り物の魚。
河童が魚の片眼を抜くという話は聞いたことが無い。
しかし『片眼の魚』の伝承は各地に残っていると聞いた。
元を辿れば、河童と片眼の魚は結びついていたのかもしれない。
今、此処以外に、河童や山童がいる場所が残っているだろうか。
去年、沖縄に旅行した時、同行した沖縄出身の少女から
『先の大戦以降、キジムナーを見たという人はほとんどいないらしい。』という話を聞いた。
それに姫は、『先の大戦以降、此処以外であの光の列が現れたという報告は無い。』と言った。
『先の大戦以降』、単なる偶然とは思えない。それはあまりに不思議な符号ではないか。
恐らく先の大戦を境に、何かが大きく変わったのだ。
社会の仕組みか、人の心のあり方か、あるいは魂の旅路に関わる何かか。
それは一体何だろう。それが分かれば、人と妖怪が近しい生活を再び取り戻せるのか。
鮎をビニール袋に入れ、柏の葉を片づけながら、そんな事を考えていた。

 

翌日、家族4人揃っての朝食。何だか久し振りのような気がして可笑しくなる。
食事を済ませた後、部屋に戻ってのんびりしていると、
床に座って絵本を読んでいた翠が何事か呟いた。誰かに話しかけた風ではない、独り言?
Sさんと姫、もちろん俺も翠の独り言に聞き耳を立てた。
「とーしゅさまは、おかあさんのおとうさん。
とーかさまは、おかあさんのおかあさん。」
俺たち3人は思わず顔を見合わせた。
建前とはいえ、当主様と桃花の方様の血縁は封じられている。
Sさんは俺と姫に、翠の前ではその話題に触れないようにと念を押していた。
「もしかして、Mさんですかね?」
此処で過ごす間、俺たちの世話ををしてくれる感じの良い女性。
「Mさんが一族のしきたりを知らないはずが無い。違うと思う。」
それなら、考えられることは1つしか無い。しかし、そうだとすれば。
「翠が自分で感知した、ということですか?」 「そうとしか、考えられない。」
「以前、翠ちゃんの感覚の一部を封印した筈ですよね?」 姫の顔も緊張している。
「したわよ。でも封が不十分だったのか、血縁による特別な現象なのかは分からない。
今後の様子を見て、対応を考えなきゃね。あ、翠、大丈夫よ、大丈夫。」
俺たちが難しい顔をして話し合っているのを見て不安になったのだろう。
翠は顔を上げて俺たちを見つめていた。泣きそうな顔。
俺は慌てて駆け寄り翠を抱き上げた。
「大丈夫だよ。お父さんと一緒に絵本読もう。ね?」
正直、翠の将来に不安はある。でも、それは考えても仕方が無いことだ。
翠の成長を見守りながら、その都度対応するしかない。
床から絵本を拾い上げ、ソファに座る。
笑顔の戻った翠と一緒に、大きな声で絵本を読んだ。

 

「出来ればもう少し、大物のスズキの資料が欲しいですね。
明日からの二次調査も、お願い出来ますか?」 遍さんは少し申し訳なさそうな顔をした。
スズキの大物は2尾しか釣れていないので、二度目の調査をしたいのは当然だろう。
姫もあらかじめ大学に7日と8日の欠席届を提出していたし、全然問題は無い。
「最初からそのつもりだったので大丈夫です。大物のデータが必要なら、
2日とも夕方の釣りをした方が良いですね。」
「前回の調査では大物が釣れたのが4時~5時半頃でした。少し余裕を見て、
3時~6時までという日程でどうですか?それなら2日とも日帰りが可能ですし。」
前回のことを気にしてくれているのだろう。宿泊するのは構わないが、
日帰りならば調査の時間以外は4人一緒に過ごすことが出来る。
Sさんのことを考えればとても安心だし、ありがたい。
「了解しました。日帰りで2日間の調査と言うことでお願いします。」

 

2度目の調査は、スズキの大物5尾分の資料を採取して終了した。
もちろん50cm以下の小物も釣れたし、『十分なデータが取れた。』と遍さんは言った。
姫が62cmのアカメを1尾釣り、その資料を追加出来たのも大きな成果だ。
施設に戻り、釣り具を片づけたあとで、俺は用意してきた荷物を解いた。
ペットボトルに小分けした日本酒、餅、紙コップ、小さな紙皿。そして型抜きした厚紙。
調査の無かった5日、午後から街へ出て用意した物だ。厚紙はSさんが型を抜いてくれた。
あらかじめ遍さんにも話して了解をもらってある。
「祭壇はどこに作れば良いですか?」 「斜面を下る道の入り口近くが良いと思います。」
厚紙を組み合わせて簡単な祭壇を組み立てた。底の部分には重しにする石を何個か詰める。
防水加工された厚紙だし、屋根もあるから少々の雨なら供物は濡れないだろう。
5分程で小さなお社の形をした祭壇が完成した。
調査の間、俺たちを見守ってくれたヤマイヌとオオカミ、鮎を届けてくれた水妖。
それから、長い間この場所の境界を護り続けている式、『御影』。
皆に感謝の気持ちを込めて日本酒と餅を供える。
動物たちが出来るだけ長く命脈を保てるよう、長命祈願の祈祷も併せて行う。
姫に教えて貰った祝詞を詠唱し、姫と並んで手を合わせた。
「手順は、大丈夫でしたか?」 「はい、素晴らしい出来でした。合格です。」
遍さんの4駆に乗り込み、施設前の広場を出発したのは7時半少し前。
そのあとも暫くの間、俺たちを見守る視線を感じていた。

5月8日、お屋敷に戻る日。朝食を済ませた後、俺と姫は荷物をまとめていた。
ノックの音。ドアを開けると、緊張した表情のMさんが立っていた。
「Sさま、桃花の方さまがお呼びです。ご用意を。」
桃花の方さま?当主様と桃花の方さまでなく?
数分でSさんは身支度を整え、Mさんと一緒に部屋を出ていった。
「何の、お話でしょうね?」 俺の手から翠を抱き上げて、姫は微笑んだ
「悪いお話ではありません。多分、『相続』です、大切な『遺産』の。ね~。」
「『相続』って、『遺産』って、一体何のことですか?」
「翠ちゃんは最初から女の子だと分かっていたので相続は先延ばしになりました。
でも、今度は男の子の可能性もありますから、遺産が相続されるんです。
これ以上のことはSさん自身が説明するまで待って下さい。」
つまり、『これ以上は聞いてくれるな』と言うことだ。
湧き上がる疑問を必死で呑み込み、翠の相手を姫に任せて荷造りを続けた。
一時間ほどして、Sさんが部屋に戻ってきた。優しい笑顔。
Sさんの後から部屋に入ってきたMさんは、小さな木の箱を捧げ持っている。
...俺にでもすぐに分かった。 箱の中から滲み出る気配。。
どんなに大切な遺産か知らないが、間違いない。
これは、『呪物』だ。しかも、とびきりの。
「Sさん。私、一生懸命手伝います。」 姫はSさんに駆け寄り、手を握った。
翠も姫の真似をしてSさんの手を握る。 「てつだい、ます。」
「2人とも、ありがと。」 Sさんはにっこり笑って2人の頭を撫でた。
俺たちは当初の予定通り、その日の午後にお屋敷に戻った。

 

 

お屋敷に戻ってきた日の夜。
翠を寝かしつけた後で、Sさんは俺と姫をリビングに招集した。
いつもなら翠と一緒に寝てしまう時間だが、今夜は姫もしっかり起きている。
テーブルの上には背の高いグラスが3つ。そして白い布包みが1つ。
説明を聞くまでもなく、その中身があの箱であることが分かる。
Sさんが桃花の方様から相続した遺産、飛びきりの呪物。
包みの中から滲み出す気配が気になって何となく落ち着かない。
「さて、何から説明しようかな。何となく、緊張するわね。」
「呪いの話から始めた方が良いと思います。Rさんは何も知らないんですから。」
「そうね、じゃ、まずは順序良く。」
Sさんは炭酸水にウイスキーを数滴加えただけの極薄ハイボールを一口飲んだ。
「簡単に言うと、私たちの一族には古い呪いが掛けられてるの。
男の子が生まれると呪いの影響を受け、最悪の場合、その子は命を奪われる。
記録によれば、600年ほど前、ある依頼を通して関わった事件が呪いの源。
一族の生業からして、そういう恨みを買うこともあり得る。仕方ないわよね。」
何となく、分かる。術者に恨みを抱いた何者かが、一族を根絶やしにするために
家の世嗣となる男の子を対象にした呪いを掛けたのだろう。
古い伝承には時折見られるモチーフだし、それに起因するしきたりが残る地域もある。
ただ、600年経ってもこの呪いの力は衰えず、その一方で一族は現在も命脈を保っている。
それならば、その呪いに対抗する方法があるということだ。つまり、あの箱の中身は。
「相続した遺産は、その呪いに対抗するための呪物ということですか?」

 

「相変わらず冴えてるわね。ほとんど正解。
でも、これは呪物じゃ無くて祭具。まあ、突き詰めれば両者の線引きは難しいし、
これに関しては間違うのも無理はない。元々は別の目的で使うものだし。」
「御免なさい。何て言うか、感じる気配が尋常じゃない気がして。」
「強力な呪いに対抗するのだから、尋常じゃ無い力は当然。
ただ、普通は出産後に幾つかの儀式を行うだけで充分、これを使う必要はない。」
Sさんは一旦言葉を切って白い包みを見つめた。小さく溜息をつく。
「呪いの影響を最も強く受けるのは、当主様の子か孫として生まれた男の子。」
つまり、Sさんのお腹の子が男の子なら呪いの影響を強く受ける。しかし何故。
「かなり前の時代から、当主様は世襲ではないんですよね。
なのにどうして当主様の子か孫として生まれた男の子が強い影響を受けるんですか?」
「呪いが掛けられた当時は世襲だったからよ。
普通、一度成立した呪いはその対象を変更出来ない。」
呪いの対象が変更出来ないのなら、『次の当主になる運命の男の子』は一応安全だ。
しかし『力』が血縁を通じて遺伝する以上、当主様の子と孫を危険にさらすのでは
将来の優秀な術者を失いかねない。まして現在、一族は少子化の影響を受けている。
性別に関わらず、生まれた子は絶対に失いたくない筈だ。
自分でも不思議だが、
この時、俺には『自分の子を失うかも知れない』という危機感が全く無かった。
もし翠を失ったらと想像するだけでパニックになりかけるというのに。
多分それは、あの箱の中身の役割を知っていたからだ。その呪いに対抗する強力な祭具。

 

「それで、その箱の中身は、どうやってその呪いに対抗するんですか?」
Sさんは黙って白い包みを解き、小さな木の箱を取り出した。
材質は桐?一辺が10cm程の立方体。
「その呪いにはかなり複雑な方法が使われていて、未だ解くことは出来ていない。
根本的な解決が出来ない以上、呪いの力を逸らすしかない。
そのために使われるのがこれ。代々受け継がれてきた『遺産』。」
白く細い指が箱の蓋をゆっくりと開けた。
箱の中には真っ赤な液体が満ちていた、それはゆっくりと溢れて、箱の中から流れ出す。
箱の木の肌が、そして白い布が、見る間に赤く染まっていく。
いや、そんな筈は無い。木の箱に液体、しかも溢れ出るなんて...瞬きをして目を擦る。
やはり、白い布に小さな木の箱が乗っているだけだ。見間違い?
「見間違いじゃない。ある神様の『血』が、これに封じられた『力』の源。」
Sさんは優しく微笑み、箱の中からそれを取りだした。
赤い、宝石? 直径3cm程のドーナツ型。
赤さんごを思わせる鮮やかで深い色。滑らかな質感。艶やかな光沢。
石だとすれば、これは恐らく『璧(へき)』の一種だ。完璧という言葉の語源、環状の宝玉。

 

「当初作られたのは4個と言われているけれど、現存しているのは3個。
呪いが掛けられた後は、代々、桃花の方様とその娘が相続してきた宝玉、璧。
この璧の号は『真紅』。」
Sさんは左手で宝玉を取り、右手の中指に嵌めた。大きめの指輪に見えないこともない。
そして、中指から外した宝玉を掌に載せて姫に差し出した。
「Lも実際に見るのは初めてでしょ。触ってみる?」
姫は頷いて宝玉を受けとった。それを右の手首に...え?
まるで当たり前のように、深紅の宝玉が姫の手首で輝いている。
「何故、指輪が腕輪に?」
「『大きさ』は決まっていないんです。きっと、足に嵌めることも出来ますよ。」
「実際、男の子が生まれたら足首に嵌めることが多いみたいね。」
Sさんは姫から受けとった宝玉を白い布の上に戻した。
「R君も触ってみたい?」 悪戯っぽい笑顔。
しかしそれは、俺が触ってはいけないもの。何故かそんな気がした。
「いいえ、遠慮しておきます。触ってはいけないような気がするので。」
Sさんは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そう、残念ね。どうなるのか、ちょっと見てみたいけれど。」
「試して貰うなら、『力』をちゃんと説明してからでないと。」 姫も笑いを堪えている。
そうだ、未だこの宝玉の『力』を聞いていない。
「その宝玉で、どうやって呪いを逸らすんですか?」
「生まれた子が女の子なら、呪いは発動しない。それなら、
生まれた子が女の子だということに出来れば、呪いの発動を止められる。
そのためにこれを使うの。これを身に付けている間、その子は誰が見ても女の子。
元々これは、ある種の祭祀で神官が女装する時に使われていたもの。
本当に女になるのだから、女装というのは変だけれど。」

 

「しかし、ずっと女の子として育てる訳にはいきませんよね?」
「生まれてから7日間欺くことができれば、もう呪いは発動しない。
その後はこれを外して育てても大丈夫。ただし、問題が2つ。」
これ程強力な祭具を、生まれたばかりの赤子に使うのだから、問題が有って当然だろう。
「どんな、問題ですか?」
「7日が過ぎたら、なるべく早く縁の神様にお参りして、
生まれたのは男の子だと報告してからこれを外さなければならない。
7日を過ぎてもこれを嵌めたままでいると、戻れなくなると言われてるの。
でも、7日が過ぎたら退院して、そうね、あの川の神様に男の子だと報告してから
これを外せば良い。だからこれは大した問題じゃない。」
「もう1つの問題は大したこと、なんですね?」
「大したことっていうより、ややこしい問題。L、何だか分かる?」
「子供が生まれてからこれを嵌めるまでをどうするか、だと思います。」
「そう、正解。」 「どういう事ですか?」
「もし男の子なら、当然これを使うことになる。
でも、これを使う前は男の子に見える訳だから、
誰かが『可愛い男の子ですよ』って言ったら、その時点で呪いが発動してしまう。
先代の桃花の方さまは、あのお屋敷でご出産なされたから、
その対策はわりと楽だったと聞いたけど。」

 

そうか、Sさんは翠を産んだのと同じ病院で出産する予定だ。
あらかじめO川先生や看護師さんたちに事情を説明し、協力して貰わなければならない。
一族に産婦人科医がいれば、お屋敷で出産することも不可能では無い。
看護師さんの数も限られるし、その方が対策は確かに楽だろう。
しかし出産時に何か事故があった場合、施設の整った病院でなければ
対応出来ない事もある。敢えてお屋敷で出産するリスクは冒したくない。
「O川先生と看護師さんたちに口裏を合わせて貰う必要がある、ということですね?」
「そう、たとえこれを使っていても、7日が過ぎるまでの間『男の子』は禁句。
もし誰かが口を滑らせたら、全てが水の泡。でも大丈夫。私、必ずこの子を守る。」
Sさんは微笑んで、両掌をそっとお腹に当てた。
嫌な予感がする。失敗すれば、折角生まれてくる我が子を失う。
その実感がじわりと重くのしかかってきた。
しかしSさんは普段通り自信に満ちている。もしかしてSさんは。
「これを使わずに守る方法があるんですか?例えば、その、『禁呪』とか。」
「いいえ、これを使うしか方法は無い。だからみんなに協力して貰わないとね。」
「Sさん、私、全力で手伝います。絶対大丈夫ですよ。」 「ありがと。」

 

 

『遺産(結)』 完

 

藍物語シリーズ【全40話一覧】

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