ナナシ 21話 – 完結 【完全版 全29話】
『ナナシ』|1 – 5話|6 – 10話|11 – 15話|16 – 20話|21 – 25話|26 – 完結|
きみとぼくの壊れた日
その日、前日の夜のことを引きずったまま僕は学校に行った。
やっぱりナナシはいなくて、アキヤマさんは何事も無かったように教室にいた。
話し掛けてみたが、やはりいつもと変わらなくて昨日のことは全部夢か嘘みたいに思えた。
そうだ、あの変なものはたまたまかち合ってしまっただけだ。
あの悲鳴はナナシがタンスに足でもぶつけたんだ。
そんなふうに無理矢理解釈しようとした。
そして授業が終り、僕は荷物をまとめていた、そのときに
「藤野、ちょっと、いい?」
アキヤマさんが僕を呼び止めた。
「何?」
と聞き返すが、アキヤマさんは
「ちょっとついてきて」
と言うだけだった。
仕方なく僕はアキヤマさんの後に続くことにした。
連れて来られたのは、僕も何度かお世話になった大きな病院だった。
アキヤマさんは無言で中に入り、僕も後を追ううちに、屋上にやってきた。
・・・寒気がした。
そこは、ナナシの持つお母さんとの写真に写っていた、あの場所だったから。
「こっからね、おばさんは落ちたんだよ」
アキヤマさんは言った。
ゾッとするほど淡々とした声だった。
「あたしがお見舞いに来たときにね、落ちてきたの。あたしの目の前に。ケラケラ笑いながら。顔がゆっくりグチャッて潰れてね、気持ち悪かった」
いつも無表情なアキヤマさんが顔を歪めていた。
僕は何も言えず、黙って聞いていることしかできなかった。
「おばさんはナナシにすっごい執着してた。おじさんがよその女と逃げちゃったからかな。頭おかしくなって入院してからも、ナナシにはほんとに、過剰に。だからあたしが仲良くするのも嫌だったみたい」
気持ち悪いよね、と笑った。
僕はそんなナナシの過去は初めて聞いたし、そんなふうに笑うアキヤマさんも知らなかった。
でもアキヤマさんの話は終わらず、僕にとって最も衝撃的な一言を発した。
「屋上にはナナシがいた。この、あたしが立ってる位置に」
それが何を意味する言葉なのか、わからないほど馬鹿じゃない。
まさか、と思った。
でも、確信してしまった。
「ナナシが・・・お母さんを・・・?」
「ここのフェンス、おばさんが落ちるまでもうちょっと低かった。寒い時期だったから、他に誰もいなかったし」
ふふふ、とアキヤマさんは笑った。
アキヤマさんがおかしくなってしまったと思った。
そのくらい怖い微笑みだった。
「その日から、ナナシは段々おかしくなった。
パッと見何も変わらなかったけど、変なことをするようになった。
変なものも、あいつのまわりで見るようになった。
藤野もそうでしょ?
いろいろ見たよね?
ナナシの家に、おばさんいたもんね?
あれは失敗だったみたいだけどね?
たいしたことなかったし?
でもね、とうとうやっちゃったの!!
あぶないとは思ってたよ?
やりすぎなんじゃないかな、って?
でもやっちゃったの!!
もう手遅れになっちゃったんだよ!!
知らない!!
あたし知らない!!
もうなぁあんもできない!!
あははははははははははははははははははははははははははははははは!!」
狂ったようにアキヤマさんは笑い出した。
怖かった。
アキヤマさんじゃない。
こんなのアキヤマさんじゃない。
僕はアキヤマさんの両肩を掴んで揺さぶった。
「なんで!!なにが!!なにが手遅れなの!?ナナシなにやったの!!ねぇ!!」
「だって!!
そ こ に お ば さ ん い る ん だ も ん ! !」
アキヤマさんがそう言って指差した先を見て、僕は全身に鳥肌が立つのを覚えた。
言葉がなにも出てこなくて、嗚咽のようなものが漏れた。
そこには、確かに女の人がいた。
ラピュタのロボット兵のように手を垂らして、顔はうなだれていて、真っ白いパジャマを着ていた。
そして、ゆっくり伏せていた顔をあげて。
グチャグチャに潰れた頭をコキッと横に曲げて、目を見開いて、ニカッと笑った。
「うぁあぁっ!!」
僕は叫んで後ずさった。
アキヤマさんは指差したまま笑っていた。
怖い怖い怖い怖い怖い。
それしか頭に無かった。
以前にもナナシの家で見たはずなのに、全く雰囲気が違う。
気持ち悪いとしか言い様が無かった。
「キョウスケぇ、どうして逃げるのお?ママ、悲しいなあ?」
おばさんがニタニタ笑いながらこちらに向かってくる。
キョウスケ、は、ナナシの名前だ。
おばさんは僕らをナナシだと思ってるんだろうか。
「ちが、僕は、ちが」
「キョウスケぇえぇええっ!?」
おばさんが走ってきた。
嫌だ。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
嫌だ。
「いやだぁああっ!!」
目を瞑った、そのとき。
なにかが燃えるような音がした。
顔を上げると、おばさんが燃えていた。
否、炎の中に消えたとでも言うのだろうか、しかしその炎も消えていた。
「なに、いま、の・・・」
惚けていると、何かに腕を掴まれた。
振り向くと、アキヤマさんだった。
さっきまでと違いハッキリした表情を浮かべているがすごく青ざめていた。
「ナナシんとこ、行こう。ヤバイ」
アキヤマさんは言った。
僕も同感だった。
僕らは手を取り病院を出て、ナナシの家に向かった。
どのくらい時間が過ぎていたのか、あたりはもう暗かった。
チャリを飛ばしてナナシの家に向かった。
後ろにいるアキヤマさんはずっと無言だった。
僕も何も言えなかった。
やっとナナシのバカでかい家の前まできたとき、何か嫌な匂いがした。
焦げ臭い匂いだ。
「ナナシ!?ナナシいる!?」
僕はドアに手を掛けた。
すると、鍵は掛かっておらずすんなり開いた。
不法侵入だの何だの何も考えず中に入ってあたりを見回した。
ナナシはいない。
匂いのもとはどこだろう?
そう思っていたとき
「・・・よお?」
後ろから声を掛けられた。
振り向くと、そこには、ナナシがいた。
いつものヘラヘラした笑顔、と、片手に大きな斧。
「な、なし、何して・・・」
「どうしたんだよ二人して、なあ?」
ナナシは笑った。
でも目はぜんっぜん笑ってなかった。
イッちゃった表情?というのか、知らない人みたいだった。
そして、気付いた。
ナナシの後ろの部屋から、煙が立ち上ぼっているのに。
慌ててナナシを押し退けて部屋を見ると、そこはもう真っ白だった。
薄く見える、グチャグチャに潰された仏壇らしきものと、赤い炎。
「ナナシっ・・・お前」
「母さんを殺したんだ」
僕を遮って、ナナシは言った。
「母さん、俺のこと殴るから。優しいんだよ?優しいけど、殴るから。親父の悪口言いながら、殴るから。殺したんだ。でも、母さんいなくなったら、俺、誰もいなくてさ」
ナナシは楽しい思い出でも語るかのように笑って言った。
僕もアキヤマさんも黙って聞いていた。
「だからね、もっかい生き返れば、いいなあって。今度は優しい母さんかもしれないじゃん?だから、頑張ったよ?俺。頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って」
不意に、笑顔が泣きそうな顔に歪んだ。
初めて見る表情だった。
「成功、したと、思ったんだ」
そう言うとナナシは、斧を壁に叩き付けた。
斧は深々と壁に突き刺さった。
「なのにさあ、母さん、俺のこと殺そうとするんだ。俺あんなに頑張ったのに。だからもっかい殺したんだ。でも、何回でも生き返って、俺のこと殺そうとするんだ」
ナナシは泣いていた。
子どもみたいだ、と思った。
そんなこと考えてる場合じゃないし、実際子どもなんだから不思議なことじゃないのに。
それはすごく不思議だった。
「だから、ハル、いっしょに死んでよ」
そんなことを考えていたとき、ナナシが言った。
言ってる意味がわからなかった。
「・・・は?」
「友達でしょう、俺ら。母さんに殺される前に、いっしょに死んでよ」
ナナシは僕に言った。
ナナシの表情はいつものヘラヘラ笑いに変わっていた。
後ろから煙がどんどんやってくるのも見えた。
僕は発作的にアキヤマさんに
「逃げて!!」
と叫んでいた。
「僕は大丈夫だから!!火がまわっちゃう!!誰か呼んできて!!」
迷っていたが、アキヤマさんは頷いて走って行った。
僕は、ナナシをなんとかしようと思った。
「な、何言ってんのナナシ、お母さんなんていないよ。死んじゃったんでしょ。大丈夫だよ、きっと疲れてて・・・」
必死に言葉を並べてナナシを説得しようとした。
しかし、ナナシの後ろから迫るものを見て二の句が継げなくなった。
「ひっ・・・」
さっき病院で見たものと全く同じものが、ナナシの後ろにいた。
なんで?さっき消えたはずなのに、と考えていたとき、ナナシが言った。
「ね?逃げられないんだ、もう」
そしてナナシは、僕の首に手を掛けた。
ゆっくりと力を加えられて、煙のせいか僕は抵抗もできなかった。
「怖いの、もう嫌なんだよ。いっしょに死んでよ。お願いだからっ・・・」
ナナシが泣き笑いの表情を浮かべていた。
ゆっくり目が霞んだ。
なんだか、死んでやらなくてはいけない気がした。
そして、目が覚めたとき、ありがちな話だが僕は病院のベッドの上だった。
アキヤマさんが呼んできてくれた大人たちに助けられたようだ。
火事も幸いひどくならず、僕も気を失っただけで済んだ。
アキヤマさんは全容を大人に話しはしなかったようで、ただの火遊びによる火事だと思われたらしく、僕は親父に目茶苦茶叱られた。
そして、大人たちの話では、僕は家の庭に寝かせられていたそうで、だから怪我もなにも無かったらしい。
「・・・あいつは?」
そう尋ねると、大人は顔を曇らせながら、火元の部屋で手首を切っているのが見つかったと教えてくれた。
幸い命に別状は無いらしいが、しばらく入院した後に隣の市に住む親戚に引き取られると聞いた。
「火事を起こしてしまったから、責任感じて発作的に自殺しようとしたんだ」
と言われていたが、それは違う。
ナナシは最初から死ぬつもりだった。
僕を巻込んで。
そう思うと、許せない、という気持ちが沸いてきた。
殺されそうになったこともそうだが、結局最後はひとりで死のうとしたことが許せなかったのだと、今は思う。
親友だと思っていたのに、いろいろな意味で裏切られた。
それが許せなかったんだと思う。
結局僕はその後ナナシと一度も逢うことはなかった。
一度も逢うことのないまま、あいつは死んだ。
事故死だったそうだ。そのことを僕が知るのは、もう少し先のことになる。
そう、すべて後の祭り。
この日、僕とナナシの世界は、完全に崩壊した。
終りへの始まり
親友がもうどこにも存在しないのだということを知ってから、一週間程過ぎた日曜日のこと。
僕はふたたび、彼が助けてくれた、そして彼が眠っているその場所を訪れていた。
あの夜からこの日まで、僕は自分がどんなふうに過ごしていたのかサッパリ覚えていなかった。
ナナシはもういないのだ、ということだけが頭に渦巻き、しかし今までの長い間だって彼とは会っていなかったのだから実感が沸かず、なにをするのも億劫だった。
そして、一週間が過ぎてようやく思い立ったことは、
あの霊園に行けば、またナナシに会えるかもしれない。
なんて希望的観測だった。
短絡的で浅はかな考えだが、そのときの僕はそれしか頭になく、ほとんど着の身着のまま財布を片手に故郷行きの電車に乗り込んでいた。
そして、手向ける花すら買っていないことに気付き自分に失望しながらも、
僕は彼の墓前に立ち尽くしていた。
「ナナシ」
僕は彼の名前を呼んだ。
頼むからもう一度現われて。謝らなくちゃいけないんだ。謝らせて、許してくれなんて恥知らずなことは言わないから、せめてもう一度だけ。
「ナナシ、」
「ナナシ、ナナシ、ナナシ、ナナシ」
いくら呼んだとしても返事はない。
僕は狂ったように彼の名前を呼び、泣きわめきながら彼の墓にすがりついた。
許してほしいなんて思っていない。
許してもらえるとも思ってない。
それでもせめて、もう一度会いたい。会って謝りたい。
それが叶わない。
親友ヅラをしておきながら、彼を見捨てた僕への罰だ。
ずるずる、とその場にへたりこむ。
自己嫌悪と、無力感、罪悪感の海。
底無し沼に沈んでいくような感覚が僕を支配していた。
そのときだった。
「なに、してるの?」
声が聞こえた。
まさか、まさかまさかまさか、と振り返ると、そこには、
背の高い男のひとが立っていた。
怪訝そうな顔をして、僕を見ているそのひとは、かの親友にとてもよく似ていた。
「なな」
シ、と言葉を繋げそうになって、途端に僕は絶望した。
彼ではなかった。
そこに立っていたのは、どう見てもナナシではなかった。
背が高く、黒い服を着た男の人。
ナナシではない。あいつはこんなに背が高くない。彼が生きていたなら僕と同じ歳のはずだけど、一週間前に見た彼は少なくとも命を終えたときと同じ姿なら十九のはずだ。
このひとはそれよ
り少し上だろう。二十歳の僕よりも十歳は年上に見える。
それに、
あいつは黒い服なんか着ない。
いつだって真っ白だった。
「そこで、なにしてんの」
男のひとは再度僕に尋ねた。片手には花束を持っている。恐らくナナシの親族なんだろう。
「すみ、ま、せん」
僕はなんとか立ち上がり、頭を下げてその場を離れようとした。
彼はいない。
あいつにはもう会えない。
ならばここにいる必要などない。
まして、裏切り者の僕が彼の親族に顔を合わせるわけにはいかないんだ。
しかし、それを阻むように、そのひとは言った。
「君…もしかして、藤野君?」
そのときの僕は、どんな顔をしていたのだろう。
恐らく、情けないくらい怯えたような、驚愕の表情を浮かべていたと思う。
「あ、あ」
「藤野君、だね?」
念を押すようにそのひとは再度尋ねた。
どう返事をしていいかわからなかった。
このひとは僕を知っている。僕がナナシを見捨てた、裏切って逃げた最低の人間だと知っている。
そう思うと、情けない話だが返事ができなかった。
「そう怖がらなくていいよ。」
そんな僕の情けない考えを見透かしたようにそのひとは言った。
「俺、サクライレイジっつーの。キョウスケの親戚。ちょっといいかな?」
「きみに、話があるんだ」
予想通りナナシの親戚だというそのひとは、優しい、けれど有無を言わせぬ口調でそう言った。
僕は小さく頷いた。
それが、レイジさんとの出会いであり、
僕が永遠になくしてしまったものを知るきっかけとなった。
さがしもの前編
[さがしもの 1]
レイジさんに促され、僕は霊園から少し歩いたところにある喫茶店に入った。
その間僕らはずっと無言だった。
なにを話していいのかわからなかったし、なにも話すことはない。否、なにも話してはいけない気がした。
席に着き、飲み物を注文してから煙草に火を点けると、レイジさんは改めて僕に向き直り、言った。
「きみは、藤野晴海君…だね?」
僕は小声ではい、と言った。
「そっか…」
それからまた少し間があいた。レイジさんは煙草をふかし、半分ほど吸ったところでそれを灰皿に潰して、口を開いた。
「キョウスケが、いろいろごめんね」
それは、予想外の言葉だった。
このひとは何を言ってるんだろうか。
謝らなければならないのは僕だ。なぜこのひとは、ナナシの代わりと言わんばかりに僕に頭を下げるんだろう。意味がわからなかった。
そうして絶句している僕に、レイジさんは言った。
「君には、あいつが迷惑をたくさんかけたって、あいつから聞いてる。もうキョウスケは謝れないから、俺から謝る。ごめん。許してやってくれなんて言わないけど、あいつは」
そこまで聞いて、僕は堪らなくなった。
謝らなければならないのは、ナナシでもこのひとでもない。
なのになぜ謝るんだ。
そんな思いが込み上げて、僕は震えた声でレイジさんの言葉を遮った。
「やめてください。」
レイジさんは驚いたように、僕を見た。
「謝らなくちゃいけないのは、ナナシでも貴方でもなく、僕なんです。僕が悪い。僕は最低な人間なんです。僕が、ちゃんとしてれば、ちゃんと、ナナシを見捨てたりしなければ、だから、」
言葉がこんがらがる。口がうまく動いてくれない。泣いてる場合じゃないのに、涙が止まらない。
口に出すと尚更わかる。自分がどれだけ最低な人間なのか。
終いになにも言えなくなって、僕は頭を深く下げた。
「すみません、でした」
それ以上、なにも言えなかった。嗚咽が漏れる。胸が痛い。とてつもなく苦しい。
いっそ罵倒して、殴り付けてほしいとすら思った。
しかし、かえってきたのは、またしても予想もしない言葉だった。
「…藤野君」
「はい」
「聞かせてもらっていいかな。キョウスケの話。んで、きみがなんで謝ってんのか。…俺にはサッパリわからないから」
僕は驚いて顔をあげた。
レイジさんは本当に困ったように、僕を見て
いた。
このひとは、本当に何も知らないんだ、と僕は思った。
「俺が知ってんのは、キョウスケが五年前に火事と自殺未遂事件を起こしたこと。
…そんときに、友だちを巻込んだこと。
んで」
あの日のことをなぞるようにレイジさんは言った。
「それを死ぬまで後悔して、巻込んだ友だちに謝りたがってたことだけだ」
すべてが過去形で語られることに、ああ本当にナナシはもういないんだ、と改めて思った。
「…でも、きみの言い方からして、それだけじゃ、ないんだろ?話してくれないか」
僕は頷いて、話をした。
包隠さず、というわけにはいかない。幽霊がどうとか怪しい本がなんだとか、そんなことを信じてもらえるとは思ってないし、ナナシや僕が頭のおかしな人間だと思われるのも嫌だった。
とにかく、いつからかナナシが少しずつ今までとは変わっていったこと。
なにかに怯えていたこと。
…それに気付いていながら、ナナシが変わっていくのが怖くて、
なにもしなかったこと。
そしてあの日、いっしょにいてほしいと、いっしょに死んでほしいと言われたのに
叶えてやれなかったこと。
そして、怖くなって彼から逃げ出したことを。
レイジさんは黙って聞いていた。煙草を吸うのも忘れて。
そして、僕が話し終えると、
「…ありがとう」
と言って、
テーブルに置かれていた紙にボールペンでなにかをさらさらと書出した。
「あの、」
「これ、俺の番号。きみに、見せたいもんがある。よく考えて、見てもいいって思えたら電話して」
それだけ言い、紙を渡すとレイジさんは伝票を持って出ていった。
呆然としながら、僕は御礼も言えずに座り込んでいた。
それから、どこをどうして帰ったのかは覚えていない。
いつの間にか実家に帰宅した僕は、ベッドに寝転びながらずっと、その紙を見つめていた。
見せたいものって、なんなのか。
わからないけれど、なぜだろう。
見なくてはいけない気がした。
考える必要など、ない。
僕はその日の夜、書かれた番号に電話を掛けていた。
それは今も忘れられない、雲ひとつない青空の日だった。青というよりも薄紫だろうか、透き通るような空合。
その日、待ち合わせ場所の駅にレイジさんは車でやって来た。
「乗って」
笑った顔がナナシにそっくりで、生きていれば10年後くらいにはナナシはこんなふうになったんだろうかと想像した。
意味もない想像をすることで、リラックスしたかったのかもしれない。
挨拶をして助手席に乗り込み、シートベルトを締める。レイジさんが煙草片手にハンドルをきり、車は進み始めた。
どこに行くんですかと尋ねると、
「俺の家だよ。…去年までキョウスケがいっしょに住んでた、ね。」
とかえってきた。
ナナシの家、というとあの立派な日本家屋しか浮かばない。僕は不思議な気持ちだった。
そのとき唐突に、レイジさんが口をひらいた。
「晴海くんはさあ、キョウスケの母親の話はどこまで聞いてる?」
本当に唐突な質問だった。これがレイジさんの地なのか、とてつもなく明るいノリだが、かなりナイーブな話題だ。
しかし黙っていても仕方がないので、知ってることはすべて話した。
旦那さんが出て行ってしまってから、ナナシとの関係がおかしくなってしまった事。ナナシが十二歳のときに、転落死されたこと。
それを黙って聞いていたレイジさんは、僕が話終えると静かに口をひらいた。
「で、おかしくなった母親を、キョウスケが突き落として殺した。…でしょ?」
背筋が凍った。
なぜそんなことを、否、僕がそう思っていることを、このひとは知ってるんだろう。
「そう、キョウスケに言われたんじゃないかな?『母さんを殺したのは俺だ』みたいに。」
レイジさんは寂しそうな笑顔を浮かべた。正確にはアキヤマさんからそう聞いていたのだが、ナナシ自身もあの炎のなかでそうほのめかしていたので、僕は頷いた。
「違うんだよ、藤野君。」
違うんだ、とレイジさんは首を振った。
「あの日、姉貴の…あ、キョウスケの母親ね。姉貴の病室行ったら、キョウスケも姉貴もいなくてね。白い封筒だけあって。やな予感して、屋上行ったんだ。」
右にハンドルをきりながら、レイジさんが煙草を消した。
「あそこによくふたりで行ってたからね。…したら、キョウスケが座り込んでて。」
あとは、わかるよね。とレイジさんは言った。
「正直俺も、キョウスケが突き落としたんじゃ
ねぇかなって思った。でも、違うんだよ。考えりゃわかるんだ。ちびガキのキョウスケが、女とはいえ大人を突き落とせるわけねーし。遺書も、あったから。」
僕は、自分が恥ずかしかった。
そうだ、考えてみればわかる話だ。今や中三のときならまだしも、小学生のナナシがあの背の高いお母さんを突き落とせるはずがないのに。
ナナシを疑った自分を殺してやりたい気分だった。
信号にひっかかり、車がとまる。レイジさんが日本目の煙草に火をつけるのを、僕は黙って見ていた。
「キョウスケに自分がしたこと、謝ってんの。馬鹿だろ?テメエで謝れっつーの。てかあやまんならすんなよな」
煙草の灰がレイジさんの膝に落ちる。
「…キョウスケが、怯えんだと。普通に話してんのに、頭撫でようとしたりしただけで、ビクつくんだと。当たり前だろ?したこと考えてみろっての。…んで、自分が生きてるとキョウスケがずっと可哀相だからーとか書いててさ。バカバカしい。病みすぎだろ」
レイジさんは吐き捨てるように言った。
「…そっから、キョウスケもおかしくなって。いっしょに住もうって言っても、あの家から離れなかったし。自分のせいだ、って。」
「そんで、最後は家燃やして。…晴海くん巻込んで、死ぬまで後悔して、早死にしてさ。馬鹿だろ、親子そろってさ」
二本目の煙草が灰皿に捨てられた。
僕はなにも言えなかった。
「そんな馬鹿が、残したもんがあるんだ。いまから行くとこに」
レイジさんは言った。
「見てやって、欲しい」
僕は黙って頷いた。
前方に、白いマンションが見えて来ていた。
さがしもの中編
[さがしもの 3]
到着した白いマンションの5階が、その場所だった。
エレベーターで5階にあがり、503というプレートのついた部屋の鍵をレイジさんがあける。
フローリングの廊下にあがり、つきあたりのドアのまえに立つ。
ここだよ、とレイジさんは言うと、ドアノブを回して引いた。
開かれたドアの向こうは、揶揄でも比喩でもなく、本当にただただ真っ白だった。川端康成の小説の冒頭を無意味に思い出す。国境の長いトンネルを抜けると、雪国だったというあれだ。
トンネルではなくドアを開けると、雪景色のような白い部屋だった。
白い壁紙。白いベッド。白い棚と白い机に白いカーテンがひかれた窓。
なにもかもが真っ白な部屋で、フローリングの茶色い床だけが色を放ち、なんだか異様に見えた。
そうだ、これはナナシの色だ。
そう僕は思った。
僕が知る彼はいつも白い服を着ていた。制服はもちろん皆揃って白いカッターシャツだが、彼は私服でも白い服が好きだった。よく着ていたTシャツも無地の白だったし、よく着ていたぶかぶかのパーカーも、ブランドマークの傘の小さな刺繍が入ってる以外は、真っ白だった。
「黒い服は、喪服みたいで嫌いだから」
といつだったかに言っていた。
たまたま有線か何かで聞いた歌に、「黒い服は死者に祈るときにだけ着る」というフレーズがあったことを、僕はまた無意味に思い出していた。
そんなことばかり考えている僕は、やはり緊張し、軽いパニックになっていたのだろう。と今では思う。
「そこに、座って」
レイジさんは、立ち尽くして惚けている僕に着席するよう促した。
僕は慌てて白い小さな机のまえに腰を下ろした。
そして改めて部屋をぐるりと見回す。
彼がいたときのままだという、部屋。
僕の親友が過ごした部屋。
僕の知らない部屋。
きれいに片付いた部屋。棚に並ぶ本とCDデッキ。カラーボックス。棚の上に散らばったCDといくつかの雑誌。
ラックに吊された服はやはり白いものばかりだ。
そして、目に止まった、コルクボード。
遠いいつかに彼の実家で見たものと同じだった。
「これ…」
「ああ、見てくれていいよ」
棚を探っていたレイジさんに許可をもらい、コルクボードに手を伸ばす。
小さな紙と、写真が貼られている。
写真は、僕らと撮ったものや、彼が最愛のひとと撮ったもの、ピントがずれた風景写真。
そして小さな紙は、僕ら
が授業中にまわしていた、ノートの切れ端を使った手紙。
他愛ない内容の、汚い文字が書かれた手紙だった。
こんなものを、彼はまだ大切にとっておいた。こんな他愛ない、落書きを、大切に飾っていたんだ。
どんな気持ちで、彼はこのコルクボードを眺めていたんだろう。
そう考えると、心臓を握り締められているような何とも言えない痛みがした。
口許が歪み、目の前の風景がぐにゃりと歪みのが自分でわかる。
泣くな。泣くんじゃない。そう自分を叱るが効果はない。
僕は嗚咽が口から漏れないよう必死に唇を噛んだ。
こんなものを、大切にしていた。こんなものを、大切に飾っていた。
こんなもの、いつだってあげられたはずなんだ。
僕があのとき逃げ出さなければ、こんなもの、飾るスペースが足りなくなるほどたくさん、彼にあげることができたのに。
彼からもらうことができたのに。
タイムマシンがあったならあのときの自分を殺してやりたい。そして今度こそ、彼の病室に向かって走るのに。町を去るときには、見送りに走るのに。
あるいは、いっしょに死んでやるのに。
今さらだけど、今の僕があのときにいれば必ず。
あいつが望んだように、ひとりになんかしないで、いっしょに向こう側まで渡ってやるのに。
否、そんなことしなくても、
いっしょに生きていこうと言ってやれるのに。
どうしてそんな簡単なことができなかったんだろう。
あいつがしたことは間違っていた。正しかったとはいえない。
ならばなぜ、止めてやらなかったのか。
間違ってしまったとしても、どうしていっしょにそれを正そうと、
やり直そうとしなかったのか。
どうして、怯えながら笑っていたあいつを抱き締めてやらなかったのか。
そんな罪悪感は涙になって頬を伝った。
「ナナシ、」
ごめん、と掠れた声で呟く。
もちろん彼に届くことは、永遠に、ない。
「藤野君」
声を掛けられる。
振り返ると、これまた白い分厚い手帳のようなものを手にしたレイジさんが立っていた。
「見て、もらっていいかな」
なんともいえない笑顔を浮かべて、ノートを差し出すレイジさんに、僕は小さく頷いた。
真っ白なノートを開くと、そこには見慣れた文字が並んでいた。
少し右上がりの、角張った文字。いつもこの文字が授業中にメモに書かれて回ってきた。
懐かしい、ナナシの文字だ。
「これは
…」
「キョウスケが、18のときから、19で死ぬまでにつけてた日記」
レイジさんはそう言うと、読み進めるよう手で促した。僕は頷き、そっとページをめくった。
ナナシマキョウスケの手記
5月17日
今日はレイちゃんがスピッツのCD買って来た。スピッツはハルのすきな歌手だ。
よく歌ってた。ハルは声ハスキーだからサビとか苦しそうだったけど。おかげで俺もスピッツすきになった。
君を忘れない まがりくねった道をゆく
生まれたての太陽と夢を渡る黄色い砂
二度と戻れない くすぐりあって転げた日
二度と戻れない。
5月30日
今日はバイト。店長が腰痛めてた。働き過ぎだろ。そういや中二のときヤナギが跳び箱から落ちて腰痛めてた。諏訪先生もヘルニアだったし、ハルも腰痛持ちだったな。思うに眼鏡のやつは腰を痛める傾向にあるんじゃないだろうか。
6月2日
ハルの夢を見た。
またハルの首を締めていた。
ハルがぐったりして、血だらけになったとこで目が覚めた。
死んじまえ俺。
6月3日
レイちゃんにハサミが見つかった。捨てられた。
まだ心配か。もう二度と切ったりしないのに、てゆうかハサミないと不便なのに。
大体手首はハサミじゃ切れないって。
6月15日
今日、久し振りに中学の前まで行った。
ここを卒業したかった。
ハルとヤナギとカエと、雪もタツヤもいんちょも、みんなと。
6月28日
母さんの墓参りに行く。
7月2日
テレビにハルとカエが映ってた。
インタビューされていた。
カップルにされてるけど、付き合いだしたんかな?それならうれしい。でもハル馬鹿だから絶対告れなそうだけど。カエから告ったんか?
ハル、髪型変わってた。ちょっと歳食ったな。当たり前か。俺もそうだし。
カエは変わってねーけど。
みんなごめん。
7月14日
電車で死ぬかと思った。
駅で乗って来たやつを見てたらヤナギがいた。心臓がうるさい。死ね。
となりにいる女は知らないやつだった。
みんな大人になったな。
俺もだけど。
7月22日
店長に買出しを頼まれて栄まで行った。
からんできた相手を瓶で殴ったら気絶して警察。
迎えにきたレイちゃんがキレる。俺悪くないし。なんで素手でやらないんだ、ってソコ?へんなおっさんだなわが伯父ながら。本当に母さんと血繋がってんの?
7月23日
母さんが夢に出て来る。
謝んないでよ、俺こそごめん。もう怖くないから。こわがんないから
7月25日
雨。手首痛い。
8月17日
夏はきらいだ。腐る。
もうとっくに腐ってるけど。
8月20
日
昨日レイちゃんが海に連れてってくれた。キモいくらい綺麗だった。
死ぬならここがいい。
死んでからもここがいい。骨撒いてもらうんだ。
8月21日
海見て死に方決めたから遺言書を書いた。バカバカしい。
破って捨てた。
9月3日
TSUTAYAでたまたま借りたアルバムの曲が痛かった。
心臓痛い。苦しい。
9月4日
また「太陽」を聞く。
なにこれ俺?んで、ハル?
ハル。会いたい。
9月7日
気持ち悪い。なに会いたいとか。
どの面下げて会いたいなんて言ってんの俺マジで気持ち悪い。自業自得。いい言葉じゃん。
9月10日
また「太陽」聞く。
聞けば聞くほど痛いけど、好きだ。
病んでる。まえからだ。
でも、それでもハル優しかった。
馬鹿なことしなきゃ、いっしょに卒業しかな。おんなし学校行ってたんかな。
バカバカしい。死ねばいいね。
9月12日
母さん。俺、母さん死んだときに死んどきゃハルに嫌われなかったかもしんない。
でも、したらハルに会えないし、
どこで間違えたんだろ。
10月1日
神様ありがとう。大嫌いだ。
10月2日
昨日、地元に帰った。
ただ単にフラフラしたかっただけ。平日だし真っ昼間からなら誰にも会わないだろうし、タカ括ってた。
家のまえに来た。俺が燃やした家。
そこに高校生がいた。まさかあの制服、って思ったらハルだった。
ずっと俺の家見てた。
んで、「ナナシ」って言った。
まだ呼んでくれるんだ。心臓痛い。頭も痛い。ハル。しばらくしていなくなった。
声かければ良かったとか思った。気持ちわりい。
でも、まだ呼んでくれる。
ハルまだ俺のこと、覚えてくれてる。
だから、決めた。
ハルに謝ろう。
許してくれるなんてキモいこと考えてないけど、謝ろう。
忘れられないうちにちゃんと謝ろう。
10月10日
手紙何枚か書いた。
文がキモすぎて捨てた。
10月24日
便箋無駄づかいしすぎてレイちゃんが怒った。
10月28日
手紙はやめよう。
紙になんか書けない。ちゃんと自分の口で謝ろう。
決めた。
11月4日
久しぶりに「太陽」を聞いた。
なんか泣いた。
大丈夫。許してもらえなくても、
謝って、ハルに伝える。
こんな馬鹿を友だちにしてくれてありがとうって。
親友にしてくれてありがとう。覚えててくれてありがとうっ
て。
ありがとうハル。
あした、会いに行く。
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