『MMO』|【名作 師匠シリーズ】

『MMO』|【名作 師匠シリーズ】洒落怖・怖い話・都市伝説 師匠シリーズ
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『MMO』

MMO』 http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=3583885
大学6回生の春だった。
そのころ俺はオンラインゲームにはまっていた。
単位が足らず、卒業が延びに延びていたが、去年それなりに頑張ったおかげで目処がつき、大学生活最後の1年は好きなだけゴロゴロしようと心に決めていた。
趣味だったパチンコも真剣にやれば生活費くらいなら稼げるようになったので、バイトもやめた。大学の研究室は、卒論のために顔は出していたが、指導教官と最低限のやりとりをするだけで、後輩連中などろくに顔も覚えていない有り様だった。
とにかく2年も卒業が遅れると、知り合いや友人が格段に周囲から消える。所属サークルは元々足が遠のいていたし、去年あたりからなぜか女子部員がやたら増えて、かつてのもっさりした雰囲気がすっかり変わってしまっていた。 何度か顔を出したが、居場所のなさを痛感して、ここも自然に足は遠のいた。
ネットのオカルト系フォーラムにもまったく関わらなくなっていたし、あれほど参加していたオフ会も今ではあるのかすらわからない。
かくして立派な引きこもりの誕生だ。
その生活を如実に表す、当時手遊びに書いた詩の一部を紹介しよう。

…………
ドアを乱暴に閉め
僕は真っ先に台所の蛇口をひねる
パチンコ屋でしみついたタバコの匂い
喧騒に包まれた冒険を終え
懐にはささやかな勝利と
つめこんだ寿司とがある
僕は一心に手を洗う
毎日はアメーバのようだ
懐の勝利は明日には消え
寿司は明後日には出て行く
…………

その、アメーバのような毎日に突然訪れた、新しい世界が『MMORPG』大規模多人数型オンラインRPG。いわゆるネットゲーム、オンラインゲームだった。
5回生の秋ごろに、情報収集のため、ネット掲示板2ちゃんねるのパチンコ・パチスロ板を徘徊していると、『こんなクソ台より、ネトゲやれ』という書き込みとともに、オンラインゲームの公式サイトのアドレスが貼られていた。
なにげなくクリックしたのが、結果としてまさかこんなことになろうとは……
どハマリした。
元々テレビゲームのRPGは好きで、子どものころからよくやっていたが、町にいるキャラクターたちがみんな、自分と同じ生きた人間が動かしている世界という、引きこもりには夢のような仮想空間がそこにあったのだ。
家から出ることなくだれかと会話し、冒険し、楽しげな企てに参加することができる。そんなオンラインゲームは、絶賛留年中の大学生の膨大なヒマと人恋しさを、無尽蔵に吸い取り続けた。
俺がGと呼んでいたそのMMOは、日本におけるオンラインゲームの草分け的なゲームで、グラフィックはファミコンに毛が生えた程度だったが、そんなものでも物珍しさにユーザーが大挙してやってきた。
町のすぐ隣のマップでは、ときどき沸いて出てくるスライムに裸のキャラクターたちが群がり、素手で殴りつけてはドロップする棒切れやパンを奪い合って、プレイヤー同士が喧嘩をしていた。
パンや棒を売ってお金を貯め、武器や防具の装備が整った人から順に次のマップの新しいモンスターに戦いを挑みにいった。
自分も裸のキャラが必死でスライムを殴っているところに無理やり割り込み、装備した棒切れで止めを刺して経験値やお金をゲットした。恨まれても気にしなかった。
バッタの群生相を思った。無数の群の中で生まれ、群の中で育つ個体は、気性が荒く、攻撃的になる。そうしないと生きていけないからだ。
寝る前にパソコンの電源を落とし、自分の部屋を振り返ると、さっきまでの喧騒はどこにもなかった。冷え冷えとして、平穏な空間。明かりを消して布団に潜り込み、今日一日ひとことも言葉を発していない自分に気づく。その静けさのなか、密封型ヘッドホンから解放されたはずの頭には、耳鳴りが続いていた。群生相の羽音が。
その音に耳を塞ぎながら、俺はもうあっちの世界に戻りたがっていた。

その噂を初めて聞いたのは、2ちゃんねるのGスレだったと思う。
『平原の洞窟の5階に、幽霊が出る』
そんな噂がまことしやかに語られていた。
大学6回生の春ごろには、Gも当初より実装されたマップも増え、狩場の選択肢が増えたことで人々の集まる場所も分散して人口密度が緩和されていた。
雨後のタケノコのようにギルドが乱立し、運営側ではなくプレイヤーが自発的に宝探しイベントを主催したり、様々な試みがGの世界を広げていた。
平原の洞窟は最初に開通したダンジョンだったが、階層によってモンスターの強さがまったく異なる仕様だった。特にその5階に生息するモンスターはゲームバランス上、異常ともいえる強さで、1対1はおろか、高レベルプレイヤーが束になっても勝てなかった。そんなモンスターがマップ中をうようよしているのだ。
あるとき、当時最強と呼ばれていたギルドのうち2つが手を組み、決死の討伐部隊を差し向けたことがあった。ドロップ覚悟でレアアイテムを装備した戦士や魔法使いが30人以上で平原の洞窟の5階に集まり、戦いを挑んだのだ。狩り場に設定した場所からモンスターの数を減らすための囮部隊が全滅するまでの間に、ブラックドラゴンとエレメンタルを1匹ずつ倒すことに成功したが、得られた経験値とアイテムを吟味した結果、彼らは「狩り場には適さず」と判断を下した。
それ以来、平原の洞窟の5階はモンスターだけが蠢く、無人の空間だった。
そんな場所に『幽霊が出る』という噂があるのだ。
ゲーム内の知り合いにも聞いてみたが、見たことがある、という人がいた。

それらの話を総合すると、平原の洞窟の5階の奥のほうのマップで、見たことのない装備をした戦士系のキャラが1人でたたずんでいるというのだ。それも恐ろしいモンスターがマップ狭しとうろついているなかで。
モンスターはそのキャラに無反応で、固有の敵対テリトリー内に入っても戦闘行動を起さず、あろうことかそのキャラと重なりあってそのまますり抜けていたという。
『死に跳び』と呼ばれるテクニックがある。ダンジョンで狩りをしてレベルが上がったあと、経験値ダウンのペナルティがない状態で装備を外し、わざとモンスターに殺されることでデメリットなく町の墓場に跳ばされる技だ。町に瞬間移動するアイテムを節約するための技だが、平原の洞窟ではわざわざ5階まで行って死に跳びをする人が結構いた。
どうせ死ぬなら普段は近づけないモンスターにオーバーキルされたい、という変態的な発想だが、その気持ちはわからないでもなかった。
モンスターは殺されて数が減っても一定時間経つと、マップ上のどこかに自動的に沸いてくる。だから普通はモンスターを1つの個体として認識することはないのだが、平原の洞窟の5階の、それも最深部にいるモンスターたちはマップ開通以来、一度も殺されておらず、同じ個体が何ヶ月にもわたって同じ場所でうろついているのだ。実際にはメンテナンスでサーバーが落ちて復旧するときに、新しく沸いたものとしてステータスを再設定されている可能性はあったが、同じモンスターがずっといる、と思った方がロマンティックだ。そんなレジェンド的なモンスターたちに殺されるため、わざわざ回避技術を駆使して最深部へ向かう人が後を絶たなかった。
その知り合いも、装備を落とさないよう裸で最深部まで到達し、モンスターに囲まれて彼らの吐き出す毒煙のエフェクトが画面を覆うなかで、その戦士を見たというのだ。
『立ったままで動かなかったけど、なんか喋ってた』
『なんて?』
『わかんない。文字化けしてた』
短い言葉だったという。
自分がマップに入ってきたのに合わせて話しかけてきた、と知り合いは言った。バグで未実装のグラフィックが貼り付いてるという説もあったが、この「話しかけてきた」という目撃談がいくつかあるために、幽霊などという噂が一人歩きしているのだった。
なんらかの理由でそこに置かれているノンプレイヤーキャラクターだという説もあったが、その話しかけてくるタイミングから、リアルタイムで人間が操作をしているとしか思えないという感想が多かった。
そしてその言葉はほんの一言で短く、しかも文字化けをおこしているというところまでみんな同じだった。
その噂が気になって、2ちゃんねるのGスレや有名プレイヤーのブログなどをいろいろ調べてみたが、幽霊を見たという話はあっても、その場面を保存したスクリーンショットが出てこなかった。
プレイ動画を保存するような文化は、まだない時代だ。しかしスクリーンショットはみんなよく撮っていて、手に入れたレアアイテムの自慢やギルド対戦の結果をそれで報告したりしていた。
なぜ幽霊の画像が出てこないんだろうと不思議に思っていたが、あるプレイヤーのHPの日記を読んでいて、ゾクリとした。そこには、平原の洞窟5階の幽霊に出くわした、という話と、スクリーンショットを撮ったのに、あとで確認すると画像ファイルが壊れていたという話が書き込まれていた。
一枚だけ開けたという画像が貼られていたが、原型をとどめないほど乱れていて、なにが映っているのかまったくわからなかった。
少し怖くなった。
モンスターに認識されないだとか、すり抜けただとか、それがありえないとは言っても、理由はともかく運営側がそういうものとして特別に設定しているとしたら、不思議でもなんでもない話だ。けれど、PCの機能で保存したものまで壊れているとすると、それは俄然として怪談じみてくる。
オカルトからすっかり離れて、隠者のような生活をしていたのに、こんなところで怪談に出会うとは。
それを思うと自嘲せざるを得なかった。
ある日、平原の洞窟で狩りをしていて、戦士のレベルが上がったので、5階に『死に跳び』をしにいってみることにした。
もちろん幽霊を見てみたかったのだ。噂を聞いてから何度か挑戦してみたが、どうしても途中でモンスターに殺されてしまった。一瞬でも触られたらほぼ即死なのだが、遠距離でもドラゴン系のモンスターの魔法でHPをごっそり持っていかれてしまうのだ。
その日は、死んで落としてしまうことを覚悟で、魔法に耐性のある装備を身につけ、チャレンジした。
真っ暗なマップのなかを、おどろおどろしいBGMが流れている。間違って普通の狩り場にたった1匹でも現われてしまったら、阿鼻叫喚の地獄をもたらすだろう恐ろしい巨大モンスターが、そこには数え切れないほど蠢いている。
モンスターごとの固有のテリトリーを冒さないようギリギリで避けながら、ひたすら奥へ奥へと進んだ。
そのMMOの世界にどっぷり浸かっていた俺は、まるで自分自身がその恐ろしいダンジョンを歩いているような恐怖感を味わいながら、ついに最深部に到達した。
そこはまるで魔王の広間とでもいうべき空間で、壁に囲まれた袋小路だった。巨大な松明のオブジェが並んでいる周囲を、このMMO世界が生まれて以来、一度も死んだことのない魔神たちが歩いている。
ゾクゾクしながら足を踏み入れると、すぐに彼らに認識され、挨拶代わりの毒のブレスを吐かれた。じわじわHPが削られていくが、毒での即死はない。かまわず突っ込んだその先に、だれかいるのが見えた。
戦士だ。見たことのない剣をもった戦士が、見たことのない鎧を着て立っていた。
シフトキーを押して、名前を確認する。しかし、戦士の下にはなんの文字も表示されなかった。
戦士がなにか喋った。
会話ログに文字化けした短い言葉が残る。逃げ場のない空間で魔神たちに囲まれて、やがてやってくる不可避な死を待つだけの自分には、その文字化けした言葉がまるで呪いの言葉のように思えてゾクリとした。
なにか喋り返そうとしたが、とてもキーボードを叩く余裕はなかった。迫ってくるモンスターたちの射程範囲から、ギリギリで逃げ続ける。名前のない戦士は、まるでそこにいないかのようにモンスターたちから無視されている。
俺は素早くショートカットキーを押し、いつもマクロ登録してある言葉を吐いた。
『遺品よろw』
内容はなんでもよかった。反応が見たかったのだ。
立ったまま動かない戦士は、俺の言葉に返信した。それもやはり文字化けしていたが、さっきよりほんの少し長かった。さっきが一言だとすると、今度は二言。そして、文字化けのなか、語尾に顔文字を思わせるAAの痕跡。
俺は確信した。ノンプレイヤーキャラクターじゃない。そこに、だれかがいる。
次の瞬間、さっきの毒とは比べ物にならない凶悪なブレスを四方八方から浴びせられ、俺は即死した。おそらく10回死んでもお釣りがくるダメージを受けたはずだった。そして……
(お前はだれだ)
暗転する画面を見ながら、俺は幽霊に語りかけていた。

1週間後、俺は珍しく自転車に乗って少し遠出した。JRの線路を越えた先に大きなスーパーがあり、そこは食料品が安いのだ。バイトを辞めた今では、少しでも節約をする必要があった。パンやバナナ、牛乳など、ゲームをしながら片手間に食べられるものばかりを選んで買った。
完全にオンラインゲームに依存しており、そののめり込みぶりは相当な重症だった。寝ても覚めても考えるのはゲームのことばかりだ。ちかごろはパチンコに行く暇も惜しんで、仮想空間での冒険に没頭していた。
パソコンのある机の前に座ったまま手が届くよう、冷蔵庫の位置を変え、トイレに立つ時間以外は延々とオンラインゲームをプレイしていた。30時間ほどぶっ通しでプレイすることもしばしばで、疲れ果てて寝るときも目覚まし時計を3時間後に設定して布団に入る徹底振りだった。寝るときはすべて仮眠、が日常のキーワードだった。
その日も、買い込んだ食料を自転車のカゴに乗せ、MMO世界の入り口である部屋へ急いでいた。
我が大学前の通りを抜けるとき、ふと見覚えのある自転車が停まっているのを見つけてペダルをこぐ足を止めた。
そこは学生が集うゲームセンターで、俺も1、2回生のころはよく遊びに来ていたものだ。
もうどのくらい来ていないだろう。アーケードゲームのラインナップも知らないものばかりになっているに違いない。
すぐに出てくるつもりだが、食料を盗まれないように念のため、入り口の自動ドアからよく見える位置に自転車を停め、ゲームセンターのなかに入った。
薄暗い店内で、たくさんの学生たちがたむろしている。メダルゲームやUFOキャッチャーの類を置いていない、割と硬派な店だ。格闘ゲームがメインで、人気台の近くには大勢の若者が囲むようにして対戦を眺めている。
そんな店だから当然のことだが、男ばかりだ。狭い空間に男たちがひしめき合い、仲間内で奇声をあげているやつらもいる。ほとんどなにを言っているのかわからない。少しゲームセンターから離れた身からすると、異様な空間だということを再認識させられる。
「このキスケ、ウソをつく男に見えますか!」
そんな奇声を耳にして、そちらに近づいてみる。ギルティギアという格闘ゲームらしい。人気があるらしく、その一角はとりわけ人だかりができていた。
筐体の画面を覗き込むと、紙袋を被った変な男が倒れていて、その前で貴公子然としたキャラクターが細身の剣を持って決めポーズを取っている。
勝ったほうのプレイヤーが立ち上がってあげたその奇声に、周囲はやんやの喝采だった。
筐体の前に座るそのプレイヤーは小柄で、ボサボサの頭を無造作な手つきでボリボリ掻いている。前髪は伸ばし放題で、ほとんど目元まで隠れていた。そしてなぜか大型のヘッドホンを耳につけている。
服装は上下ともジャージだったが、ヨレヨレで、その下からシャツが左側の半分だけはみ出ている。一見してだらしない格好だった。
「くっそー」という声とともに、反対側の筐体の男が席を立ち、すぐに別の男が入れ替わりに座った。
改めて、なんとも言えない気持ちの悪さを感じた。
しかし、すぐに自分の顎に手をやり、その無精ひげの手触りに、(他人のことは言えない)と苦笑する。オンラインゲームにハマッて世捨て人同然の暮らしをしている己を省みての、冷静な評価だった。
立ち上がっていた小柄なプレイヤーが、また席に座ろうとした瞬間、俺と目があった。向こうの目は髪で隠れて見えないが、反応からすると間違いなく目が合ったのだろう。ギョッとしたようだった。
すぐに新しい対戦に入ったが、剣を持ったキャラクターの動きは悪く、あっという間に修道女のようなキャラクターに連敗してしまった。
さっきの勝ち名乗りの威勢はどこに行ったのか、小柄なプレイヤーはそそくさと立ち上がり、次の人に席を譲った。そして、俺のほうに歩み寄ってくる。
「おまえ、なにやってんの」
こちらからかけた言葉に、「しーっ、しーっ」と人差し指を口に立てて、そいつはそのまま店の外へ向かった。
ゲームセンターを出てから、改めて俺はその格好を上から下までしげしげと見回した。
「なんでわかったんですか、師匠」
さっきと声色が違う。男の声から、女の声に変わった。
俺が『音響』と呼んでいる小娘だった。この春で大学2回生になったはずだ。
「あいつら、大学の同級生なんですよ。私だって全然気づかないでやんの」
そう言って、顎を店内に向ける。ボサボサの前髪の奥で、目が笑っていた。
「なのに、なんでわかったんですか」
音響は、大学に入ってから興信所でバイトを始めていた。雑居ビルのなかにある、服部調査事務所という小さな興信所だ。
音響は形から入るのが好きなのか、尾行用に変装の練習をいつもしている。服部所長直伝の尾行術だそうだ。
中学、高校時代は常にゴスロリ姿をしていたが、今ではその格好をあまり見なくなった。
去年、つまり大学1回生の秋に、大学の学園祭でミスキャンパスのコンテストがあったのだが、音響はそれにゴスロリ姿で参加し、惜しくも2位になったのだそうだ。
その際、「もう駄目だ」と言って、壇上から逃げたという話を人づてに聞いた。
なぜ逃げたのかよくわからないが、とにかくそれ以来ゴスロリをやめたのかも知れない。
「どこでバレたんだろう」
音響は自分の格好を眺めてぶつぶつ言っている。
耳につけている大きなヘッドホンから、シカシカと音が漏れているのに気づいて、俺は「よく音楽聴きながら人と喋れるな」と言った。
ジャージの上着のポケットからヘッドホンまで、黒いコードが延びている。
「音楽じゃないです」
そう言って音響はヘッドホンを耳から外して、差し出してきた。俺はそれを受け取り、片方の耳にくっつける。
ヘッドホンからは、外国語の会話が流れていた。
英語じゃない。ドイツ語でもない。何語だ。これは。
変な顔をして耳を傾けている俺を見て、音響は「スペイン語です」と言った。
そう言えば、こいつは高校時代からアメリカに語学留学するくらい英語が得意だった。大学ではフランス語を習っていると聞いていたが、それだけではなく、さらに他の国の言語まで身につけようとしているのか。凄いバイタリティだ。
感心していると、音響は自分の自転車を見て、なにかに気づいたようだ。
「これか!」
そう言って、悔しがっている。
「まあ、そういうことだ。つめが甘いな」
俺はそう言って、ヘッドホンを返そうと差し出したが、音響は自転車に目を落とし、「リバーシブルにできないかな」などと呟いていて、気づかない。
仕方なく、ヘッドホンを無理やり元の場所に戻そうとすると、ボサボサの髪で耳が隠れていた。数年来のつきあいの気安さで、なんの気なしに髪をどかしながらヘッドホンを取り付ける。
その瞬間、髪の毛に隠れていた、こめかみの下あたりに伸びる傷が目に入った。刃物傷だ。
心臓が冷たくなる。
俺のなかの負い目が、体のなかでモゾリと顔を上げる。嫌な記憶が蘇りかけるのを抑えようとした。
音響は「やん」などと言ってヘッドホンに手をやったが、俺の様子に気づいて体を起した。
「最近思ったんですけど」
音響は傷が隠れるように髪を直しながら、軽い口調で言った。
「『助けて』って言葉は、どこの国の言語でも短い音節なんです。英語だと、『ヘルプ』だし、フランス語なら『オスクール』、スペイン語なら『ソコーロ』、中国語なら『ジゥミンア』と言ったりします。言葉の成り立ちにかかわらず、悠長に言えない言葉だから、短いんだと思います。『熱い』とか『痛い』も同じです。『助けて』が短かければ短いほど、その国で生きることの過酷さを表しているような気がするんです。いつか、『助けて』が冗談みたいに超長い国に行ってみたい。そこで暮そうとは思わないけど、そこで暮す人たちを見てみたい」
こいつは、強いやつだ。
助けられなかった俺の、負い目がそう囁く。
音響はヘッドホンを外し、自転車のカゴに放り込んでいた帽子を入れ替わりに手に取って、頭をねじ込んだ。
ちかごろ愛用のハンチング帽子だ。いかにも探偵らしい帽子だった。俺は自転車よりも、むしろこちらで持ち主がわかったのだった。
「おまえ、似てきたな」
俺のオカルト道の師匠が後生大事に隠し持っていた黒いキャップを見つけたとき、音響にあげたはずなのだが、やつは断固としてそれを被らなかった。
これを被るべき人間は別にいる。そう言っていた。

「え。なんです?」
「いや……」
俺は今晩予定されているオンラインゲームの大型イベントのことを考えた。早く帰って、祭りに備えないと。
「じゃ」
そう言って立ち去ろうとした俺に、音響は「師匠、今夜ヒマですか」と訊いてきた。
「凄い心霊スポット見つけたんです。久しぶりに一緒に行きましょうよ」
ニコリとしてそう言うのだ。
「忙しい。無理」
「うそでしょう。ゲームばっかやってると、バカになりますよ」
食い下がる音響を振り切って、俺は家路に就いた。
『師匠』ねえ……。
師匠らしいことなんてした覚えがない。音響は放っておいても1人で成長していった。
彼女は服部調査事務所で、『オバケ』と呼ばれる奇妙な事案を、時に失敗しながら、少しずつ解決していた。
その興信所が小川調査事務所という名前だったころに、その周囲を彩った『写真屋』や、『情報屋』などといった人間たちが、いま音響の周りに再び集い始めていた。
まだまだ頼りないところもあるが、彼女の進むべき先を、まばゆいばかりの輝きが照らしている。
俺はその輝く道に背を向けて、自転車のペダルをこぐ足を速めるのだった。

「うそだろ」
フィールド上で固まった俺の氷魔法使いを見て、キーボードをガチャガチャと叩く。ラグ落ちだ。
テレホーダイというNTTのサービスがある。夜の11時以降の電話料が定額になるというものだ。インターネットに長時間接続するオンラインゲームプレイヤーは、よくこのサービスを使っていた。そのため、この『テレホタイム』には大勢のプレイヤーが大挙してMMO世界にやってくるので、サーバーが重くなるという弊害あった。
俺はウインドウズキーを押してGを強制終了させた。俺のパソコン上はGの世界が完全に動きを止めているが、他の人から見るとはそうではない。止まっているのは俺だけだ。いくら無抵抗でも、そこそこのレベルに達している俺の氷魔法使いを殺せるモンスターは、そのマップにはいないはずだったが、他のプレイヤーになにをされるかわからない。アイテムを盗む『ルーター』や、プレイヤーキャラクターを狙って殺しにくる『PK』といった迷惑なことをするやつらが、G世界には溢れていた。
「急げ急げ」
俺はデスクトップのGアイコンをクリックして、再度オンラインの世界に入り込む。
今夜から明後日まで、フィールドのモンスターが一定の確率で特殊な宝箱を落とすようになっているのだ。稀少なアクセサリー類をゲットしたという報告が、すでに2ちゃんねるのGスレに書き込まれ始めている。
もう1台のパソコンでそれらの情報を確認しながら、俺は同時進行でGをプレイしていた。いざとなったら、デュアルプレイもできる。
今日はテレホタイムを加味しても接続プレイヤーがめちゃくちゃ多い。祭り状態だった。いやがおうにもテンションが高まる。明日卒論指導があるはずだが、俺は早くも家から出ない方向で予定を変更しつつあった。
卓上の携帯電話が鳴った。
画面を見ると、音響からの着信だった。とりあえず無視していると、かわりにメールがきた。
『かわいい弟子が遊びにきたよ』
そして外からドアを叩く音が聞こえてきた。
「師匠、いるのはわかってるんだ。でてこい」
ガンガンとドアを叩く音と、そんな声が聞こえる。
何時だと思ってるんだ。近所迷惑な。時計を見るとちょうど日付が変わるところだった。
「心霊スポット行こうよ。今度のは凄いから。おい、こら聞いてんのか師匠」
ガチャガチャ。ガンガン。
「女の子が夜中に部屋の外で1人なんて、物騒ですぞ!」
うるさい。
それどころじゃないんだ。今、宝箱から最強の指輪ゲットの報告があって、その真偽でスレが荒れている。マジなら、卒論指導どころじゃない。明後日までノンストップで狩りを続けなきゃ。
「今日は瑠璃ちゃんも来てるよ。久しぶりでしょ、師匠。凄いよ瑠璃ちゃん。今日凄い綺麗な格好だよ。美女ッスよ。ハリウッド女優みたいになってるよ!」
天の岩戸か。
心のなかで突っ込みながらも、俺はマウスを操作する手を止められない。
本当に瑠璃が来ているなら、鍵を開けられるはずだ。その気配がない以上、音響のブラフに決まっている。
「でてこい師匠。ネトゲばっかやるな。現実を直視しろ」
直視しているよ。仮想現実こそが俺の居場所だという現実を。
ドアを叩く音が急に小さくなった。そしてフェイドアウトするように、そのままなにも聞こえなくなった。
帰ったのか?
そう思いながらオークたちをまとめて殺せる地形へ誘導していると、携帯にメールがきた。音響からだ。
『師匠、今どこっスか』
少しして、2通目。
『今、友だちと駅裏のカラオケに来てたんですけど、師匠に似た人がいて』
そこで文面が切れている。すぐに3通目が来た。
『今夜は家にいるんですよね』
なにをやってるんだ、こいつは。さっきまで俺の部屋のドアを叩いていたのに、カラオケにいたと言い張っている。わけがわからない。
おれは、いえを、でない、はやく、かえれ。
そんな文面で、素早くメールを返した。
すぐに返答が来る。
『やっぱ他人の空似かぁ。すっごい似てたけど』
それきり静かになった。
しかし5分ほどして、また音響からメールがきた。
『あなた、だれ』
その一言だけ書かれている携帯の画面を見て、考えた。
どうやら、カラオケ屋で見た俺に似ているというヤツのほうが本物だったらしい。なるほど。
それはそれとして、ケルベロスにアイスミサイルを叩き込む仕事を続けていると、またドアの外から喚き声が聞こえてきた。
「師匠! 普通気になるでしょ、こんなメールきたら。なんでそこで無視できるの。びっくりだよ!」
ガンガン。
いい加減しつこいな。仮にメールが本当だったとしても、俺は今忙しいんだ。
「オバケ見ようよぅ!」
音響は泣き落としに入った。声の位置が下がったので、床に崩れ落ちているらしい。芸が実に細かい。
しかし俺は、なにを言われても響かなかった心に、なにか棘のようなものが刺さったことを感じていた。
オバケ。
オバケか。
幽霊ならこのG世界にもいるぞ。平原の洞窟の5階に。すっかり忘れていた。1週間前に、俺はそいつと会った。
なにかが繋がりそうだ。
なぜだろう。ドキドキしてきた。
幽霊。
文字化け。
見たことのない装備。
『助けて』って言葉は、どこの国の言語でも短い音節なんです。『ヘルプ』『オスクール』『ソコーロ』『ジゥミンア』
……
俺はハッとして、狩りを中断し、テレポート用のコマンドを打ち込んで平原の洞窟へ飛んだ。
最強装備のまま、5階へ突入する。
真っ暗なフィールドとドロドロとした音楽が、プレイヤーの心を折ろうとする。人間の力が及ばない怪物たちが闊歩する世界を、俺はたった1人、必死で踏破した。
そして。
そのダンジョンの最深部で、幽霊を見た。戦士の姿をしている。1週間前と同じだ。
俺を見た瞬間、戦士はなにか喋った。やはりそれは文字化けをおこしている。
この文字化けは、もしかして日本語以外の言葉で書かれたものが、対応したフォント環境のない俺のパソコン上で表示できないせいで発生しているのではないか。
そしてこのGと呼ばれるMMOは、韓国で開発されたゲームだった。最初は韓国と台湾でそれぞれ運営されていたが、日本版がサービス開始されるころ、先行していたその2つのサーバーは経営上の理由で閉鎖されてしまっていた。
次々と新しいMMOが開発されるなかで、顧客離れをおこして破産したのだという。
サーバーの閉鎖により、育てたキャラクターや、獲得したレアアイテムが文字通り消えてしまったのだ。このG世界に今やどっぷり浸かっている俺には、その韓国や台湾のプレイヤーたちの怒りや悲しみは痛いほどわかる。
幽霊。
その消えてしまったはずのサーバーのキャラクターのデータが、なんらかの理由でこちらのサーバーに表示されているのだとしたら……。
見たことのない装備をしているのは、あちらのほうがゲーム世界の時間がはるかに進んでいるからだ。ずっと先に開放されるはずの、高レベル用装備なのかも知れない。
モンスターに認識されず、すり抜けをおこし触れることもできないのは、やはりデータの幽霊だからか。あの戦士は、言葉だけでこの世界と繋がっている。
ハッとした。プレイヤーだ。ただのデータじゃない。プレイヤーがいるんだ。
必死で魔神たちの攻撃をかわしながら考える。
新しい幽霊。
絵にとりつく幽霊。写真に、そしてビデオに映る幽霊。そして今オンライン世界という、新しい概念のなかに生まれた、新しい幽霊。
おまえは、幽霊なのか。
戦士の向こうにいるはずの、マウスを持つ手に語りかける。
俺が1週間前に撮ったはずのスクリーンショットは、後で確認するとやはりデータ破損をおこしていて、開けなかった。
心霊スポットでカメラが壊れた。そういうことなのか。
袋小路のマップ上を逃げ回る俺のディスプレイには、文字化けした単語が会話ログに張り付いている。そのダンジョンの最深部にやってきたプレイヤーたちに、何度も何度も語りかけてきたその短い言葉。
『助けて』ではない。
俺たちのサーバーではだれも到達していない高レベル装備をつけて、今まで一度も死んだことのない強大な魔神たちがひしめいているこんな恐ろしい空間にいることの意味。
俺たちが、死んで貴重なアイテムをドロップしてしまわないよう、裸でやってくるこの場所に、見たこともない武器を持って立っていることの意味。
日常の光景なんだ。
普通のフィールドでみんなそれぞれ好きな狩り場を持つように。ここが、彼らの狩り場なんだ。
だから、そこにやってきた新しいキャラクターに対して向けられる、短い、短い言葉は。
『あそぼ』
一緒に、狩りをしようと誘っている。
ふいに、それがわかった。理屈じゃない。通じない言葉の向こうに、人間として持っている心が、それを受け取った。
韓国語や台湾の言葉はわからない。でも、きっとそれは短い言葉に違いない。そう思ったのだ。
顔の見えないそのだれかは、こんな暗い、ダンジョンの最も深い場所で、いなくなってしまった他の仲間たちがやってくるのを、たった1人で待っている。
俺は立ち止まって、チャット機能をアクティブにする。なにを返事しようとしたのか。きっと相手には読めないのに。自分でもわからない。
次の瞬間には、モンスターの強力な攻撃を受けて俺の氷魔法使いは即死した。
画面が暗くなる。ローディング用の絵が表示されている。
「遊ぼうよぅ、師匠。うぇえええん」
ドアの外では音響がまだ喚いている。
俺はGからログアウトし、パソコンの電源を落とした。バキバキに硬くなった肩や腰をぐるぐると回し、ゆっくりと立ち上がる。
鍵を開け、ドアを押すと、音響が立っていた。ハンチング帽子に、シャツとジャケット、パンツはチェック柄だ。今日はちゃんと目が出ている。それにしても探偵じみた格好だった。コスプレにしか見えない。格好から入るこいつらしかった。
「ウソ泣きでした」
「わかってる」
俺は、首を傾けて、体のなかに響くボキボキと鳴る音を聞いた。

[完]

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