『死滅回遊』『祖母のこと』『坂』全3話|【短編 師匠シリーズ】洒落怖名作

『死滅回遊』『祖母のこと』『坂』全3話|【短編 師匠シリーズ】洒落怖名作 師匠シリーズ
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『死滅回遊』

【霊感持ちの】シリーズ物総合【友人・知人】
187 :死滅回遊  ◆oJUBn2VTGE :2013/03/17(日) 03:56:14.44 ID:YaDNqfZs0

 

師匠から聞いた話だ。

大学二回生の春のことだった。
僕はオカルト道の師匠から頼まれて、現像された写真を受け取りに行った。
店舗にではない。普通のマンションの一室にだ。
表札もないその部屋のドアをノックすると、しばらくして中から返答があった。
「なんだ」
わずかに開いたドアの隙間からチェーン越しに、陰気な肥満男の目が覗く。『写真屋』と呼ばれる男だった。
師匠からのことづてを告げると、めんどくさそうに一度ドアを閉め、また開いた時には紙袋を持っていた。
「ん」と言うので、受け取る。
実に冷たい態度だった。師匠と一緒に訊ねて来た時とは随分違う。
いつも師匠に対して憎まれ口を叩いているが、訊ねて来てくれたこと自体は嬉しそうだった。
結局のところ師匠が好きなのだろう。
どういう歪んだ『好き』なのかは知りたくもないが。
「カネ」と言って伸ばされた、栄養過剰な芋虫のような指を見つめて、僕は用意してあったセリフを吐く。
「払わなくていいと聞いてます」
すると『写真屋』は無言で腕を伸ばし、紙袋を奪い返そうとする。僕は紙袋を背中側に回して、それを防ぐ。
チェーンを外そうとした『写真屋』に、ポケットから取り出したティシュペーパーを突きつける。
「なんだこれは」
ティッシュペーパーからはお菓子の粉がパラパラと落ちている。
「スコーンだそうです。加奈子さんの手作りの」
それを聞くと、『写真屋』は「ふん」と言ってティッシュペーパーに包まれたものを受け取り、何も言わずにドアを閉めた。
僕はその紙袋を持って、師匠のアパートへ向かう。
師匠はこのところ、写真に凝っているのだ。
撮影に良く付き合わされる僕は、何が写っているのか知っているのだが、
わざわざあのアングラ社会ご用達の『写真屋』に現像させたという事実との間のギャップに、変な気分になるのだった。
もっとも、師匠はただあの『写真屋』をタダで写真を現像してくれる便利な人、
程度にしか思っていないのに違いないのだが。

師匠の部屋の前に着くと、師匠は玄関の前に屈んで、野良猫の喉を撫でていた。
「喉が鳴ってはいくさはできぬ。喉が鳴ってはいくさはできぬ」
そんなことを言いながら。
「お、ご苦労」
師匠は顔を上げ、部屋の中に入る。
それから紙袋から大量の写真を取り出し、二人で部屋中に広げた。
「これいいな」
師匠が指さしたのは、
交差点の歩行者用の白線の上にハンバーガーが置かれていて、
そこに向かいのビルの屋上越しの夕日が差し込んでいる写真だった。
「はあ」
反応の薄い僕を尻目に、師匠は嬉しそうにその写真を手に取り、頷きながらじっくりと見つめている。
「こっちも捨てがたい」
次に手にした写真も、やはりハンバーガーがフィーチャーされた写真だった。
散髪屋(美容院ではなく)で髪を切る師匠の横、
ドライヤーがいくつか置いてある台の上にハンバーガーが一つ混ざっている。
全部こんな調子なのだ。
『バーガーのある風景』
師匠はこのコンセプトで、ひたすらハンバーガーが日常生活の一部に溶け込んでいる写真を撮りまくっていた。
正直いったいどこが良いのか分からない。
確かにぱっと見、面白い写真ではあるが、しょせん一発ネタであり、
それを繰り返し撮り続けるというのは、よほど本人が気に入っているのだろう。
撮影に時間が掛かり、はみ出たレタスがしなびてくると、次のバーガーに替えるのだが、
もちろん古い方を廃棄処分などするわけはない。
土や埃を払って食べるのだ。手分けして。
あんまりハンバーガーばかり食べさせられるのに閉口して、
「テリヤキとか、チーズバーガーとか、バリエーションを入れませんか」と提案してみたが、
「ハンバーガーだから意味があるんだ。馬鹿じゃないの」と罵られた。
「すみません」と言うしかない。
そんな苦労して撮った写真たちを一つ一つ、じっくりと見ていく。
スコーンを食べながらだ。

師匠が何故か大量に作ってしまったという、スコーンと紅茶をひたすら食べて食べて啜って啜って……
なんだか変なテンションになっていた。夜も更けてきたが、カフェインのせいなのか、全然眠くならない。
「あー、やっぱり、高速道路のガソスタで撮っとけば良かったー!」
師匠が畳を叩いて悔しがっている。
高速道路のパーキングエリアに寄った時、敷地内にあったガソリンスタンドになにかインスピレーションを感じたらしく、
その高い屋根の上のはじっこにハンバーガーが乗ってたら最高じゃないか、と言い出したのだ。
裏のタイヤの山を足場にしてなんとか屋根によじ登り、こっそり置いて来いと、そういう命令を下され、
僕は全力で拒否したのだった。
「こっちもいいなあ。これはちょっと構図がまずかったな」
師匠は飽きもせず、写真を見続ける。
もう無理。
これ以上スコーンは食えないし、紅茶も飲めないし、ハンバーガーの写真も見たくない。
僕がそう宣言しようとした時だった。
ふいに、ひんやりした空気が頬を撫でた。窓が開いていたのかと思って、そちらを見るが、しっかり閉まったままだった。
次の瞬間、皮膚の表面を小さな虫が這いまわるような悪寒が全身に走った。
なんだ。
いったい。
部屋の中に異変はない。バーガーのある風景の写真たちも、床に散らばったままだ。
なにかが起こった。いや、起ころうとしているのか。しかし、それがなんなのか分からない。
思わず腰を浮かしかける。
僕のその動きを、師匠がわずかな仕草で制する。師匠は険しい表情をして、油断なく周囲を見回している。
やがて目を閉じ、しばらく息を止めていたかと思うと、ふいに立ち上がり、「なにか来る」と言った。
師匠は上着を無造作に羽織り、テーブルに転がっていた車の鍵を手に取る。
「行くぞ」
「はい」

僕は師匠に続いて部屋の外へ出た。そしてボロ軽四の助手席に滑り込む。
外は暗かった。月明かりが雲に半分遮られている。
車を発進させながら、師匠は言った。
「感じたのか」
「はい」
「これは霊感じゃないぞ」
霊感じゃない?
そう言われて、腑に落ちるものがあった。確かに霊感とは少し違う気がする。霊の気配をどこかに感じたわけではなかった。
ではなんだと言われると、説明し辛い。だがとてつもなくおぞましい感じがするのだ。
「こいつは……」
師匠は前を見据えながら言った。
「嫌な予感ってやつだ」

車は東へ向かい、やがて川沿いの道に出た。
土手に沿って北へ向かっていると、今度はざわざわと皮膚が粟立つような感覚がやってきた。
師匠もそれに気づいた様子で、すぐさま車を止めた。堤防のすぐそばだ。
僕たちは車を降り、堤防に張り付いた。それほど高くない。胸元から上が出るくらいの高さだ。
目の前に流れるのは市内の東を流れる大きな川だ。昔は国分川とも呼ばれたらしい。
ムラとムラとを分ける、境となっていた川だ。
その川の向こう岸に、師匠は目を凝らしている。
堤防に沿って等間隔に街灯が据えられているが、その間隔はかなり広く、あたりはとても暗かった。
ようやく暗さに慣れ始めた目に、川の黒い水面が音もなくたゆたっている。
師匠はさっき、これは霊感じゃないと言ったが、今自分が感じているものは間違いなく霊感だった。
だが、それはか細く、取るに足りない気配に過ぎなかった。
そのことが逆に薄気味の悪さを増している。
川を越えた向こう岸の方から、何かが近づいてきている。霊的ななにかが。それは分かる。
しかしこんな弱い気配しか感じ取れないものが、川から遠く離れた師匠の部屋にまで、その威圧感を届けた、
ということに得体の知れない齟齬があるのだった。
師匠の言うように、僕らが部屋で感じたあのおぞましい感じが、嫌な予感、つまり虫の知らせのようなものだとするならば、
これから一体なにが起こるというのか。
僕は不安と、迫ってくる霊的な存在の弱々しさに対する安堵とが入り混じったような気持ちを抱え、
じっと暗闇の向こうの景色を見つめている。

「死滅回遊」
そんな呟きが聞えた。
僕の隣にいる師匠の口から。
「え」と訊きかえすと、師匠は続ける。
「回遊魚って聞いたことあるだろ。
同じ海域にずっと生息してる魚と違って、
クジラとかマグロとかさ、夏は北へ、冬は南へ移動したりしながら暮してる魚のことだ。
餌になるプランクトンの発生域の移動を追っていったり、水温の適した場所を季節ごとに追っていったり。
そうとうな距離を泳いで、繁殖もそんな移動の合間にする。そういうやつらだ」
淡々とした口調だったが、その目はじっと対岸を見据えたまま身じろぎもしない。
僕は師匠の言葉に耳をすませる。
「そんな回遊魚でもないのに、海流に乗って本来の生息域から大きく離れた場所までやって来る魚がいる。
スズメダイの仲間とかな。
そういうやつらは、南方の海から黒潮に乗ってやって来るんだけど、
元々熱帯・亜熱帯の海域の魚だから、日本海沖のあたりで冬場になると、水温の低下に耐え切れずに死んでしまうんだ。
回遊性もなく、南の海へ戻ることも出来ず、繁殖することも出来ない。
本来、生物の持つ目体は、第一に種(しゅ)を残すことで、第二がそのために自らが生きることだ。
そのどちらも出来ず、まるで自殺するように死んでいくそんな現象のことを、『死滅回遊』とか『無効分散』って言うんだ」
「しめつ、かいゆう」
僕はその言葉になにか不吉なものを感じ、唾を飲み込んだ。
「霊道を辿るやつらも、そんな『死滅回遊』のようなことを繰り返している」
師匠はそう言って、腕を目の前に伸ばし、指先を上下に揺らしながら右から左へ波打つような仕草を見せた。
そうして奇怪な秘密を静かな口調で告げるのだった。
「霊道は輪になっていない」と。
「同じ道を戻ることもなければ、ぐるりと円環を回ってくることもない。
地縛されず、霊道を行くやつらは、無限に続く道のどこかで力尽き、消滅する。
山や谷、潮溜まりとか、地域地域に、そういう霊魂が吸われる様にして消えていくポイントがあったりもする。
やつらはなにも成さず、ただひたすら歩いて、もう一度死んでいくんだ」

ぞくぞくした。
師匠の話に。
死滅回遊、という言葉に。
その時、背後を何かが通った。
思わず振り向くと、暗がりに自転車のライトが頼りなく浮かんで通り過ぎていくところだった。
背広が見えた気がした。残業帰りのサラリーマンのようだった。
その誰かは僕らの左手側十数メートル先で自転車を止めると、同じように堤防に張り付いたようだった。
川を見ている。
そう思った瞬間、右手側の方にも暗がりに誰かいるのに気づいた。
堤防から川の方を見つめている人影が、確かにあった。
いつの間に。
不思議な感覚だった。
僕らが感じたあのおぞましい気配、予感を、同じように感じてやって来た人間が他にもいたのか。
だがそのことに、頼もしさや力づけられる感じは一切なかった。
互いに不干渉で、言葉を発することもない。ひたすら個々に予感の正体を観察している。
師匠も二つの人影を無視をするように淡々とした言葉を続けた。
「しかし、自然淘汰を繰り返してきた生物のメカニズムに無駄はない。
一見無駄に見えるものは、無駄であることそれ自体に意味がある。
死滅回遊は、海流という道を辿る葬列だ。
だけど、その道行きは絶滅することが目的ではない。
何千年、何万年というスパンで環境が一定しないこの星では、生物は生存し種(しゅ)を次代へ繋いでいく過程で、
いかなる犠牲を払ってでも多様性を担保してきた。
それを担ったのが突然変異だ。
ある植物が一斉に枯死した時、本来食に適さなかった別の植物を食べる個体が生き延び、
変化をしながら種(しゅ)を繋ぐ。
死滅回遊も、一見するとレミングの行進のように映るかも知れないが、
長い地球規模の時間の中では、海域の水温の変化や海流の変化によって、
南方の海が生存に適さないその種(しゅ)にとっての、死の海になる可能性もある。
その時、北方に散らばった種(たね)が、環境の変化に適合し、そこで新たな生息域を作り上げることだってあるんだ。
今もそんな魚たちは種(しゅ)としての絶滅を避けるために、実らない種(たね)をばら撒き続けている。
そしてそのことによって……」

師匠はそこで、言葉を止めた。
まだなにか続けたかったようだが、川の向こうの気配に身体を緊張させた。
ひた、ひた
暗い川面を、なにかが歩いて来る。
かつてはムラとムラを、クニとクニを分けていた広い川だ。
歩いて渡れるような水深ではない。まして、まったく平然とまるで歩道を歩くように水面を渡ってくるなんて。
得体の知れない気配が、ゆっくりとこちらに向かって来る。
それも、さっきまでのか細い存在感ではなく、じわじわとこちらを圧迫するような、にじり寄って来るような……
「霊道も同じだ。死滅回遊と」
師匠が、目の前の気配から目を逸らさず、押し殺した声で続ける。
「見たことがあるんだ。ほんのさっきまで、取るに足りない、消滅を待つだけだった霊が、急に膨張するところを。
やつらは種(たね)だ。いつか、まったく関係のない土地で、恐ろしい適合を果たすこともある」
ひた、ひた
人だ。人影だ。真っ暗な水の流れる川の上を人影が歩いて来る。男か女かも分からない。
ただ、僕の心臓を押しのけようとするような圧力を、前方から感じる。そしてそれは刻一刻と強くなっていく。
「ひっ」
サラリーマンが呻くような声を上げ、自転車に飛び乗ったかと思うとすぐさま逃げ出した。
僕らの後ろを、来た時の倍のスピードで風が駆け抜けていった。
「川ってのは、境だ。サトとサトの。ムラとムラの。境の向こうは異界だ。
そこからやって来るものは、変化と多様性とそして幸いとをもたらすまれびとか、あるいは魔か。
鬼は外、福は内ってな。
こういうサトとサトの境には、得体の知れない異物の侵入を防ぐための、守り神があるものだがな。
一昨年だったか、護岸工事の時、古い塚を壊しちまったんだよ。
かわりに、そっちの土手の隅に方に小さい地蔵を据えたみたいだけどな。
役割が違うんだよ。役割が。だからこういうことになってしまう」

師匠の声がかすかに震えている。
僕はどうしようもなく恐ろしくなり、師匠の手を握った。
「行きましょう」
この場を離れなくてはならない。早く。すぐに。
人影はもう川の半分を越えて近づいて来ている。
しかし師匠は熱に浮かされたように続ける。
「境を越えてやって来る招かれざる魔、異物のうち、災いをもたらすヒトの霊のことを何て言うか知ってるか」
そう言って師匠は僕の方を見た。その顔には薄っすらと汗がにじんでいるように見えた。
「悪霊だ」
師匠がそう言った瞬間、堤防の右手側にいたもう一つの人影が、動いた。
なにかその手元に、遠くの街灯の明かりがギラリと反射したように見えた。
その動きに気づいた師匠がすぐさま振り向き、「やめろ」と短く叫んだ。
「一体じゃない」
堤防の人影は、ピタリと動きを止めた。
僕も思わず川の方を見る。
全身に硬直が走った。
川を渡って来るそのなにかの後ろに、同じような影がいるのに気づいたのだ。
それも一つではない。二つ、三つ、四つ、五つ……
「逃げましょう」
僕は必死に、師匠の腕をつかんだ。
六つ、七つ、八つ、九つ……
無理やり師匠の手を引っ張り、堤防から引き剥がした。
そして止めてあった車の方へ足を踏み出す。
師匠もようやく我に返ったように、「分かった」と言ったが、
それでもまた立ち止まり、水面を歩く悪霊の群を呆然とした目で眺めた。
「いったい、なにが起こってんだ。この街で」
そう呟いて。

 

『祖母のこと』

【霊感持ちの】シリーズ物総合【友人・知人】
28 :祖母のこと  ◆oJUBn2VTGE :2013/01/19(土) 23:11:03.32 ID:ClDTjW9z0

 

師匠から聞いた話だ。

その女性は五十代の半ばに見えた。
カーキ色の上着にスカート。特にアクセサリーの類は身につけておらず、質素な装いと言っていい。
「こんなお話、していいのか……ごめんなさいね。でも聞いていただきたいんです」
癖なのか、女性は短くまとめた髪を右手で押さえ、話しにくそうに口を開く。
大学一回生の冬。バイト先である小川調査事務所でのことだ。
僕と、そのオカルト道の師匠であるところの加奈子さんは、二人並んで依頼人の話を聞いていた。
だいたい、うちの事務所に相談に来る依頼人は、
興信所の中では電話帳で割と前の方に出てくるという理由でとりあえず電話したという場合か、
あるいは他の興信所で相手をしてくれなかった変な依頼ごとを持っているか、そのどちらかだった。
今回はその後者のようだ。
「あのう……実は私の祖母のことなんです」
来客用のテーブルを挟んで僕らと向かい合ったその女性は、出されたお茶も目に入らない様子で、
うつむき加減におずおずと話し始めた。


女性は名前を川添頼子といった。
頼子さんは昔、小学校に上がる少し前に、今の川添の家に養女としてもらわれて来たという。
実の両親のうち母親が亡くなってから、残された父親は小さな女の子の養育を放棄し、
かつての学友の遠い縁をたよって養女に出したのだった。
実の父や母の記憶はほとんどない。ただ自分がいつも泣いていたような、おぼろげな記憶があるばかりだった。
川添家の養父と養母には子どもがなく、まるで自分たちの子どものように可愛がってくれた。
けして裕福な家ではなかったが、学校や習いごとなどは他の子と同じように行かせてくれた。
初めて人並みの人生を歩むことを許されたのだった。

その養父と養母がこの一年の間に相次いで亡くなり、一どきは深い悲しみに包まれたが、
やがて落ち着いてその二人に育てられた日々を思い返し、頼子さんはたとえようもない感謝の気持ちを胸一杯に抱いた。
そうして、このごろは昔のことを思い返すことが増えたという。特に養女としてもらわれて来る前の生活のことを。
年を取った証だと夫はからかったが、次第に大きくなっていく過去への慕情を押さえられなくなっていった。
ある日思い立ち、自分の実の父のことを調べ始めた。しかしやはり父はもう他界していた。
もし生きていれば九十に届こうかという年齢だったので仕方のないことだった。
自分の五十数年の人生を思い、それだけの年月が過ぎていることが今さらながらに身に染みた。
そして顔もおぼろげなその父のことよりも強い輝きを持って思い出されるのが、祖母のことだった。
父方の祖母だったのか、母方の祖母だったのかそれさえはっきりしないのだったが、
優しげな顔や、膝の上に抱いてもらった時の服の匂い。
そして皺だらけの手で頭を撫でてもらったその感触が、懐かしく思い出された。
両親にかまってもらえなかった頼子さんは、よく歩いて祖母の家に遊びに行ったという。
どういう道をたどって行ったのか、今ではそれも忘れてしまったが、
ただ覚えているのは、祖母の家の小さな縁側に両手をかけて祖母の名を呼んだこと。
そしてしばらく待っていると、ゆっくりと板戸が開き、祖母がにっこり笑って顔を覗かせたあの柔らかな時間だった。
祖母はその小さな家に一人で住んでいた。祖母もまた孤独だったのか、その来訪をとても喜んでくれたものだった。
祖母との記憶は断片断片ではあったが、なにげない日常のふとした瞬間に前触れもなく蘇った。
例えば夜中に寝付けず、布団の中でふと目を開けた時に。例えば雑踏の中、信号機が赤から青に変わる瞬間に。
そんな時、自分がとても幸せな気持ちになるのが分かった。
そしてどんなに懐かしく思っても、もう会えないのだということを思い出し、少し悲しくなったりするのだった。

ある日、そんな祖母との思い出の中に、一つの恐ろしい記憶が混ざっていることに気がついた。
ずっと忘れていた記憶。
養女に出され、全く変わってしまった生活の中で少しずつ忘れていった他の記憶とは異なる。
自分から進んで頭の中の硬い殻に閉じ込めた、その気味の悪い出来事……
頼子さんはそのことを思い出してから、毎日悩んだ。
祖母のことを懐かしく思い出していても、いつの間にか場面はその恐ろしい出来事に変わっている。
そんな時、心臓に小さな針を落とされたような、なんともいえない嫌な気持ちになるのだった。
それは祖母の通夜のことだ。
いつも一人で歩いた道を、父と母に連れられて行く。
二人の顔を見上げている自分。暗い表情。とても嫌な感じ。なにか話しかけたような。
答えがあったのか、それも忘れてしまった。
そして祖母の部屋に座っている自分。狭い部屋にたくさんの人。黒い服を着た大人たち。
確かに祖母の部屋なのに、見慣れたちゃぶ台が、衣装掛けが、見えない。
その代わり、見たこともない祭壇があり、艶やかな灯篭があり、大きな花があり、棺おけがある。
母が言う。
「お祖母ちゃんは死んだのよ」
通夜だった。初めての。初めての、人の死。怖かった。
よく分からない死というものがではなく、
黒い服を着た大人たちがぼそぼそと喋るその小さな声が。伏し目がちな顔が。その部屋の息苦しさが。
畳の目に沿って爪を差し入れ、引く。俯いてそのことを繰り返していた。
やがて父と母に手を引かれ、棺おけのそばににじり寄る。
箱から変な匂いのする粉を摘んで、別の箱に入れる。
煙が立ち、匂いが強くなる。
棺おけの蓋は開いていて、両親とともにその中を見る。
白い花がたくさん入っている。その中に埋もれて、同じくらい白い顔がある。
見たことのない顔だった。
「お祖母ちゃんにお別れを言うのよ」
母がそう言う。
お別れ?
どうして。
首を傾げる。
お祖母ちゃんはどこにいるのだろう。
横を見ると、父が薄っすらと涙を浮かべている。

なんだか怖くなった。
そう思うと膝が震え始める。
怖い。怖くてたまらない。
この人は誰だろう。花に囲まれたこの人は。
大人たちが入れ替わり立ち替わり粉を落とし、こうべを垂れ、花を入れ、小さな言葉を掛けていくこの人は。
怖くて後ずさりをする。
涙を浮かべながら、みんな誰に挨拶をしているのだろう。
座っていた誰かの膝につまずき、仰向けに転がる。
見上げる先に、染みのような木目が長く伸びた天井があった。祖母の部屋の天井だ。
その隅に白い紙が貼られている。
そこに気持ちの悪い文字が書かれていた。
漢字だ。その絡まりあった黒い線の一本一本が、ぐにゃぐにゃと動いているような気がした。
怖かった。
どうしようもなく怖かった。
なにもかも忘れてしまいたくなるくらいに。


依頼人は俯いてそっと息を吐いた。まるで凍えているような口元の動きだった。
話が終わったことを確認するためか、師匠はたっぷり時間を開けてから口を開いた。
「お祖母ちゃんではなかったと?」
「はい」
声が震えている。
「棺おけの中にいたのは、祖母ではありませんでした」
「そんな」
僕は絶句してしまった。
それでは、一体誰の通夜だったのだ。
「お祖母ちゃんではなかったというのは、確かですか。
つまり、その、死んだ人を見たのは初めてだったのでしょう。
死因にもよりますが、死後には生前の顔と全く違って見えることもあります。
死化粧というものもあります。そのため、まるで別人に見えてしまったのではないですか」
そういう師匠の言葉に、頼子さんは頭を振った。
「いえ。同じくらいの年齢のお年寄りではありましたが、確かに祖母ではありませんでした。
今でも白い花に囲まれた顔が瞼の裏に浮かびます」

「しかし、あなたは大好きだったお祖母ちゃんの死を認めることが出来ず、別人だと思い込んだのではないですか。
そうした思い込みは小さな子どもならありうることでしょう。
まして、ずっと忘れていたような遠い記憶なら……」
なおも慎重に訊ねる師匠に、頼子さんはまた頭を振るのだった。
「祖母の右の眉の付け根には、大きなイボがありました。私はそれが気になって、何度も触らせてもらった記憶があります。
しかしその日、棺おけの中にいた人の顔にはそれがありませんでした。
もちろんそのことだけではありません。
本当に全くの別人だったのです」
きっぱりとしたそう言いながら胸を張る。しかし次の瞬間には目が頼りなく泳ぎ、怯えた表情が一面に広がった。
それでは一体どういうことになるのだ。
親戚がお祖母ちゃんの家に集まり、お祖母ちゃんの通夜と偽って全くの別人を弔っていたというのか。
その状況を想像し、僕は薄気味悪くなる。いや、そんな生易しい感覚ではなかった。はっきりと、忌まわしい、とすら思った。
「……」
師匠は首を傾げながら、なにごとか考え込んでいる。
「それでは、ご依頼の内容というのは?」
代わりに僕はそう訊ねる。
「ええ」と頼子さんは顔を上げた。
「その時起きたことを調べて欲しいのです。
その出来事のあと、私は祖母と会った記憶がありません。
いったい祖母はどうしてしまったのか?
それから、その通夜の日、祖母の代わりに棺おけに入っていた死人が誰なのか」
祖母の家はもうずっと以前に取り壊され、そのあたりは道路になってしまっていた。
そして頼子さんはついこの間、当時のことを知っている親戚をようやく探し当てたという。
しかし耳も遠くなっていたその親戚は、せつ子さんの通夜におかしなことはなかったと繰り返すだけだった。
「私がお祖母ちゃんと呼んでいたその人が、父の祖母にあたる人だったと、今ごろ知ったんです。
つまり正しくは私の曾祖母ですね。
そう言えば、せつ子という名前さえ知らなかったのですよ。いつもただお祖母ちゃんとだけ、そればかり……」
また視線を落とし、頬を強張らせる。

事務所の中に沈黙がしばし訪れた。遠くで廃品回収のスピーカーの音が聞える。
師匠が口を開く。
「その、天井に貼ってあったという紙ですが、なんという文字が書かれていたのですか」
「はい。ええ。それが、はっきりとはしないんですが。私はなにしろまだそのころ小学校にも上がっていない年でしたので。
ただ……」
口ごもった頼子さんを師匠が促す。
「ただ、なんです」
「ええ。それが、その、霊という文字だったと」
「霊?」
「はい。幽霊とか、霊魂とかの、霊です」
少し恥ずかしそうにそう言った。しかしその顔には得体の知れないものに対する畏怖の感情も同時に張り付いている。
「霊?」
師匠は眉をひそめた。
僕もまた、なんだか気味の悪い感覚に襲われる。
霊とは。その場に相応しいようで、またずれているようで。いったいなんなのだろうか、その天井に貼られた文字は。
「その文字ですが、もしかしてその日だけではなく、いつも貼られていたのではないですか」
師匠が不思議なことを訊く。
いつも?いつも天井にそんな霊などという文字が貼られていたというのか。
「いえ。どうでしょうか。そう言われてみると」
頼子さんは驚いた顔をしながら記憶を辿るように視線を彷徨わせる。
そしてハッと目を見開き、「あった、かも知れません」と言った。
「どうしたのかしら、私。そうだわ。祖母に尋ねたことがあった。この紙はなに?この紙は。この紙はね。この紙は」
頼子さんは独り言のようにその言葉を繰り返す。
「川添さん。もう一つ確認したいことがあります。その通夜のあった部屋は、確かにお祖母ちゃんの部屋でしたか」
「ええ。それは間違いないと思います」
「お祖母ちゃんは小さな家に一人で住んでいたとおっしゃっていましたが、
その家は平屋でしたか。それとも二階建てでしたか」
「ええと、それは」
頼子さんは自信のなさそうな顔になる。はっきり思い出せないようだ。

「あなたがいつも縁側から訪ねていったという部屋ですが、そこで通夜が行われたのですよね。
その部屋の他に、どんな部屋がありましたか」
「あの、ええと」
不安げな表情のまま、頼子さんは必死に記憶を辿ろうとしている。
「他の部屋は……覚えがありません。いつも祖母はその部屋にいました。私もそこにしか行ったことが……」
そうしてまた口ごもる。
その様子をじっと見つめながら、師匠はふっ、と小さく息をついた。
「川添さん。
あなたのご依頼である、その奇妙な通夜のあと姿が見えなくなったというお祖母ちゃんがいったいどうしてしまったのか、
という点についてはお答えできる材料がありません。
ですが、お祖母ちゃんの代わりに棺おけに入っていた死者が誰なのか、ということについてはお答えできると思います」
「え」
僕と頼子さんは同じように驚いた声を上げる。
そして師匠の顔を見る。
「その前に、天井に貼ってあったという紙の文字について見解を述べます。それは『霊』という文字ではありません。
小さな子どもには見分けられなくても仕方がないでしょう。『霊』と良く似た漢字。『雲』です」
くも?
どうしてそんなことが断言できるのか。意味が分からず、狐につままれたような気分だった。
「その部屋には神棚があったはずです。
ご存知かと思いますが、神棚は一番高いところに設置されるものです。出来るだけ天井近くに。
そしてそれだけではなく、その建物の最上階に設置されるべきものなのです。
もし最上階に設置できない場合、そこが天に近いということを表すため、『雲板』と呼ばれる板を神棚の上部に飾ります。
雲をかたどった意匠を施してある板です。
あるいは、『雲文字』と呼ばれる文字を天井に貼るのです。
『天』や『雲』などと書いた紙を天井に貼ることで、その部屋が天に近い場所であるということを表すのです。
これらは古い習慣ですが、今でもまれに見ることができます。
その通夜があったのは、五十年近くも前のことです。まだそうした習慣が色濃く残っていた時期でしょう」

師匠が言葉を切って依頼人の方を見る。
頼子さんは「雲」と呟いて、どこか遠くを見るような顔をしている。
「そしてそれは、お祖母ちゃんの部屋がその家の最上階にはなかったことを示しています。
小さいころの川添さんが縁側から訪ねたという部屋は、一階にあったことは疑いありません。
しかし、その家は平屋ではありませんでした。
なぜなら、『雲文字』を天井に貼らなくてはならなかったからです。つまり二階部分があったのです。
なのに神棚は一階の部屋に設置されていた。
家の、もっとも高い場所に置くべきものが、です。
ここから想像できることは、こうです。『お祖母ちゃんはその家の間借り人だった』。
だから、神棚を一番高い場所に置きたくても、
家の人間ではなかったお祖母ちゃんは、一階の間借りしている部屋に置くしかなかった」
師匠は淡々とそう語った。
「その家にはお祖母ちゃん以外に、他の住人がいたのです。あなたが記憶していなくても。
お祖母ちゃんの代わりに棺おけに入っていた死者が誰なのか、もうお分かりですね。
いえ、正確にはあなたが『おばあちゃん』と呼んでいた人物の代わりに、棺おけに入っていた人のことです。
せつ子さん、とおっしゃいましたか。お父さんの祖母、あなたにとっては曾祖母にあたる女性。
棺おけに横たわり、残された親類や親しかった人々に死に顔を見てもらっていたのは、その人です」
頼子さんは目を見開いた。そして口が利けないかのように喉元が震えている。
「あなたがただ、おばあちゃん、と呼んでいた、名前も知らなかった女性は、もちろん曾祖母のせつ子さんではありません。
また、あなたの祖母にあたる人でもなかった可能性が高いと思います。
ひょっとすると、全くの他人だったかも知れません。
ただ本当の曾祖母の家の一部屋を間借りしていたというだけの……
先に断ったとおり、そのおばあさんがどこに行ったのかは分かりません。
せつ子さんの通夜の日、間借りしていた部屋がすっかり片付けられ、たくさんの弔問客を受け入れていたことを考えると、
おばあさんはその時すでに、もう家から引っ越したあとだったのかも知れません。
病院か、別の借家か。あるいは……」
そう言って師匠は、そっと指を天に向けた。

「古い話ですし、全くの他人であった場合、どこに行かれたのかを調べるのは難しいでしょう。
満足の行く調査結果を出すことはできないかも知れません。それでも、私に依頼をされますか」
静かにそう告げる師匠に、頼子さんは戸惑いながら膝の上に置いたハンドバックを触っていた。
その手のひらがやがてしっかりと握られ、ハンドバックの上で静止する。
かすかに上ずった声が唇からこぼれた。
「私にとって、祖母はその人です。
縁側の戸を開けて、いつも私に微笑みかけてくれた、優しいおばあさん。
例え名前も知らない、赤の他人だったとしても」
そこで言葉を切り、ゆっくりと口の中で咀嚼してから頼子さんが発したのは、とても穏やかな声だった。
「私たちは、ひとりぼっちを持ち寄って、それでもひとときの幸せを共有していたのだと思います」
そうして依頼人は、「お願いします」と頭を下げた。

 

『坂』

死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?131
456 :坂:2006/06/03(土) 12:46:17 ID:3rNkYIQb0

 

大学1回生の夏。
『四次元坂』という、地元ではわりと有名な心霊スポットに挑んだ。
曰く、夜にその坂でギアをニュートラルに入れると、車が坂道を登って行くというのだ。
その噂を聞いて僕は俄然興奮した。
いたのやらいなかったのやら分からないようなお化けスポットとは違う。
車が動くというのだから、なんだか凄いことのような気がするのだ。
とはいえ一人では怖いので、二人の先輩を誘った。

夜の1時。
僕は人影のない最寄の駅の前でぼーっと立っていた。
隣には僕が師匠と仰ぐオカルトマニアの変人。やはりぼーっと立っている。
いつもなら僕がそんな話を持って行くと、即断即決で『じゃあ行こう』ということになる人なのだが、
その時は肝心の車がなかった。
師匠の愛車のボロ軽四は、原因不明の煙が出たとかで修理に出していたのだった。
僕は免許さえ持っていない。
そこで車を出せる人をもう一人誘ったのだが、ある意味で四次元坂よりも楽しみな部分がそこにあった。

闇を裂いてブルーのインプレッサが駅前に止まる。
颯爽と降りてきた人はこちらに手を振りかけてすぐに降ろした。
「なんでこいつがいるんだ」
京介さんという僕のオカルト系のネット仲間だ。
「こっちの台詞だ」
師匠がやりかえしてすぐに険悪な空気に包まれる。
「まあまあ」と取り成す僕に師匠が、
「どうしてお前はいつも、俺とこいつが一緒になるように仕向けるんだ」というようなことを言った。
面白いからですよ。とはなかなか言えないので、かわりに「まあまあ」と言った。

師匠と京介さんは仲が悪い。強烈に悪い。
それは初対面のときに京介さんが師匠に向かって、「なんだこのインチキ野郎は」と言ったことに端を発する。
お互い多少系統は違えど、オカルトフリークとしては人後に落ちない自負があるらしい。
いわば磁石のS極とS極だ。反発するのは仕方のないことかも知れない。

「まあまあ、四次元坂の途中には同じくらいの激ヤバスポットもありますし、とりあえず楽しんで行きましょう」
なんとか二人をなだめすかして車に押し込める。
当然師匠は後部座席で、僕は助手席だった。
「狭い」
師匠の一言に京介さんが「黙れ」と言う。
「くさい」と言ったときは、車を停めてあわや乱闘というところまで行った。
やっぱりセットで呼んでよかった。最高だ。この二人は。

そんな気分をぶっこわすようなものがいきなり視界に入ってきた。
対向車もいない真夜中の山中で、川沿いの道路の端に巨大な地蔵が浮かび上がったのだった。
比較物のない夜のためか異常に大きく見える。体感で5メートル。
「あれが見返り地蔵ですよ」
車で通り過ぎてから振り返ると、側面のはずの地蔵がこっちを向いていて、
それと目が合うと必ず事故に遭う、という曰くがある。
二人が喜びそうな話だ。
喜びそうな話なのに、二人とも何も言わず、振り返りもしなかった。
ゾクゾクする。怖さのような、嬉しさのような、不思議な笑いがこみ上げてきた。
振り返れないから、僕のイメージの中でだけ道端の地蔵は遠ざかり、曲がりくねる闇の中に消えていった。
もちろんそのイメージの中ではこちらを向いていた。無表情に。

師匠も京介さんも押し黙ったまま車は夜道を進んだ。
イライラしたように京介さんはハンドルを指で叩く。
やがて道が二手に分かれる場所に出た。
「左です」という僕の声に、ウインカーも出さずにハンドルが切られる。
左に折れるとすぐに上り坂が始まった。
「どこ」
「ええと、たしかもうこの辺りからそのはずですが」
あくまで噂では。
京介さんは車を停止させると、ギアをニュートラルに入れた。
・・・
ドキドキするのも一瞬。じりじりと車は後退した。
京介さんはため息をついてブレーキを踏んだ。
「あー、ちょっと楽しみだったんだけどなぁ」
僕も残念だ。
たしかに、本気でそんな坂があるなんて信じていたかと言われれば否だが。
すると師匠が「ライト消して」と言いながら車を降りた。手には懐中電灯。
3人とも車を降りると、周囲になんの明かりもない山道に突っ立った。
「まあ多分こういうことだな」と、師匠はぼそぼそと話しはじめた。

この山中の坂道はゆるやかな上り坂になっているわけだが、道の先を見ると路側帯の白線が微妙に曲がり、
おそらく幅が途中から変わっているようだ。
それが遠近感を狂わせて、上り坂を下り坂に錯覚させるのではないか。
周囲に傾斜を示すような比較物が少ない闇夜に、かすかな明かりに照らされて浮かび上がった白線だけを見ていると、
そんな感覚に陥るのだろう。
師匠の言葉を聞くと不思議なことに、
さっきまで上り坂だった道が、下向きの傾斜へと変化していくような気がするのだった。
「つまり、ハイビームでここを登ろうとする無粋なことをしなければ、もう少し楽しめたんじゃない?」
師匠の挑発に京介さんが鼻で笑う。
「あっそ。じゃあここで置いていくから、存分に錯覚を楽しんだら」
「言うねえ。四次元坂なんて信じちゃうかわいいオトナが」
虫の声が遠くから聞こえるだけの静かな道に、二人の罵りあう声だけが響く。
しかし、京介さんの次の言葉でその情景が一変した。
「どうでもいいけど、おまえ、後ろ振り向かないほうがいいよ。地蔵が来てるから」

零下100度の水をいきなり心臓に浴びせられたようなショックに襲われた。
京介さんの子供じみた脅かしにではない。
その脅しを聞いた瞬間に、師匠が凄まじい形相で自分の背後を振り返ったからだ。
驚愕でも恐怖でもない。なにかひどく温度の低い感情が張り付いたような表情で。
しかしもちろん、そこには闇が広がっているだけだった。
その様子を見た京介さんも息をのんで、用意していた嘲笑も固まった。
おいおい。笑うところだろ。騙された人を笑うところだろ。
そう思いながらも、夜気が針のように痛い。
「すまん」と京介さんが謝り、なんとも後味悪く3人は車に戻った。
師匠は後部座席に沈み込み、一言も口を利かなかった。
そして僕らはくだんの地蔵の前を通ることもなく、県道を大回りして帰途に着いたのだった。

師匠を駅前で降ろして、僕を送り届ける時に京介さんは頭を掻きながら、
「どうして謝っちまったんだ」と吐き捨てて、とんでもないスピードでインプレッサを吹っ飛ばし、
僕はその日一番の恐怖を味わったのだった。

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