『声』『葬式』『雨上がり』など全5話|【短編 師匠シリーズ】洒落怖名作

『声』『葬式』『雨上がり』など全5話|【短編 師匠シリーズ】洒落怖名作 師匠シリーズ
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『声』

死ぬ程洒落にならない怖い話をあつめてみない?156
499 :声  ◆oJUBn2VTGE:2007/01/28(日) 12:29:26 ID:STrJj++Q0

 

大学2回生の春だったと思う。
俺の通っていた大学には、大小数十のサークルの部室が入っている3階建てのサークル棟があった。
ここでは学生によるある程度の自治権が守られ、24時間開放という夢のような空間があった。
24時間というからには24時間なわけで、
朝まで部室で徹夜マージャンをしておいて、そこから講義棟に向かい、授業中たっぷり寝てから、
部室に戻ってきてまたマージャンなどという、学生の鑑のような生活も出来た。
夜にサークル棟にいると、そこかしこの部屋から酒宴の歓声やら、マージャン牌を混ぜる音やら、
テレビゲームの電子音などが聞こえてくる。
どこからともなく落語も聞こえてきたりする。
それが平日休日の別なく、時には夜通し続くのだ。

ある夜である。
いきなり耳をつんざく悲鳴が聞こえた。
初代スーパーマリオのタイムアタックを延々とやっていた俺は、コントローラーを握ったまま部室の中を見回す。
数人のサークル仲間が思いおもいのことをしている。誰も無反応だった。
「今、悲鳴が聞こえませんでした」と聞いたが、
漫画を読んでいた先輩が顔を上げて、「エ?」と言っただけだった。
気のせいかとも思えない。
サークル棟すべてに響き渡るような凄い声だったから。
そしてその証拠に、まだ心臓のあたりが冷たくなっているな感覚があり、鳥肌がうっすらと立ってさえいる。
部室の隅にいた先輩が片目をつぶったのを、俺は見逃さなかった。

その瞬間に、俺は何が起こったのか分かった気がした。
その先輩のそばに寄って、「なんなんですかさっきの」と囁く。
俺のオカルトの師匠だ。この人だけが反応したということは、そういうことなのだろう。
「聞こえたのか」と言うので頷くと、「無視無視」と言ってゴロンと寝転がった。
気になる。
あんな大きな声なのに、ある人には聞こえてある人には聞こえないなんて普通ではない。
俺は立ち上がり、精神を研ぎ澄まして、悲鳴の聞こえてきた方角を探りながら部室のドアを開けた。
師匠がなにか言うかと思ったが、寝転がったまま顔も上げなかった。

ドアから出て汚い廊下を進む。
各サークルの当番制で掃除はしているはずなのだが、
長年積み重なった塵やら芥やらゲロやら涙やらで、どうしようもなく煤けている。
夜中の1時を回ろうかという時間なのに、廊下の左右に並ぶ多くの部室のドアからは光が漏れ、奇声や笑い声が聞こえる。
誰もドアから顔を出して悲鳴の正体をうかがうような人はいない。
その中を、確かに聞こえた悲鳴の残滓のようなものを追って歩いた。

そしてある階の端に位置する空間へと足を踏み入れた瞬間、背筋になにかが這い上がるような感覚が走った。
やたら暗い一角だった。
天井の電灯が切れている。もとからなのか、それとも、さっきの悲鳴と関係があるのかは分からない。
いずれにしても、ひとけのない廊下が闇の中に伸びていた。
背後から射す遠くの明かりと遠くの人のざわめきが、その暗さ静けさを際立たせていた。
かすかな耳鳴りがして、俺は『ここだ』という感覚を強くする。
このあたりには何のサークルがあっただろうと考えながら、足音を消しながら歩を進めていると、
一番奥の部室のドアの前に人が立っているのに気がついた。

向こうも気づいたようで、こちらを振り返った。
薄暗い中を恐る恐る近づくと、それは髪の長い女性で、不安げともなんともつかない様子で立っているのだった。
「どうしたんですか」と声を殺して聞くと、彼女はなにか合点したように頷いた。
たぶん彼女も反応したのだ。バカ騒ぎする不夜城のなかで、わずかな人にしか聞こえなかった悲鳴に。
顔色を伺うが、暗さのせいで表情まではわからない。
「俺も、聞こえました」
仲間であることを確認したくてそう言った。
「ここだと思いますけど」
女性のかぼそい声がそう答えて、俺は視線の先のドアを見た。
プレートがないので、何のサークルかはわからない。
頭の中でサークルの配置図を思い浮かべるが、この辺りには普段用もないので、靄がかかったように見えてこない。
ドアの下の隙間からは明かりも漏れておらず、中は無人のようだったが、
ビクビクしながらドアに耳をくっつけてみる。
なにも聞こえない。
地続きになっている遠くの部屋で、誰かが飛び跳ねているような振動をかすかに感じるだけだった。
頭をドアから離すと、無駄と知りつつノブを握った。
カチャっと音がしてわずかにドアが動いた。
驚いて思わず飛びずさる。
開く。カギが掛かっていない。このドアは開く。
後ずさる俺に合わせて、女性も壁際まで下がっている。
心音が落ち着くまで待ってから、「どうします」と小声で言うと、彼女は首を横に振った。
おびえているのだろうか。
しかし去ろうともしない。

俺はなにか義務感のようなものに駆られて、ふたたびドアへ近づく。
ノブに手をかけて深呼吸をする。
あの悲鳴を聞いたときの心臓が冷えるような感覚が蘇って、生唾を飲んだ。
このドアの向こうに悲鳴の主か、あるいは関係する何かがある。そう思うだけで足が竦みそうになる。
「開けますよ」と彼女に確認するように言った。
でもそれはきっと、自分自身に向けた言葉なのだろう。
目をつぶってノブを引いた。
いや、つぶったつもりだった。しかしなぜか俺は、目を開けたままドアを開け放っていた。
吸い込まれそうな闇があり、その瞬間、彼女が俺の背後で「キャーッ!!」という絶叫を上げたのだった。
寿命が確実に縮むような衝撃を受けて、俺はそれでもドアノブを離さなかった。
室内は暗く何も見えない。
暗さに慣れたはずの目にも見えないのに、一体彼女は何に叫んだのか。
じっと闇を見つめた。
中に入ろうとするが、磁場のようなものに体が拒否されているように動けない。
いや、たんにビビッていただけなのだろう。
俺はしばらくそのままの姿勢でいたが、やがて首だけを巡らせて後ろを向こうとした。
一体彼女は何に叫んだのか。
そのとき、あることに気がついた。
この廊下の一角はあまりに静かだった。やってきたときと変わらずに。
さっきの彼女の叫び声に、このサークル棟の誰も様子を見に来ない。

中途半端な位置で止まった頭のその視線の端で、彼女が壁際に立っているのが見える。
しかしその姿が、薄闇の中に混じるように希薄になって行き、
俺の視界の中で音も無く、さっきまで人だったものが『気配』になっていこうとしていた。
ドアの向こうの闇から、なにか目に見えない手のようなものが伸びてくるイメージが頭に浮かび、
俺はドアノブから手を離して逃げた。
背後でドアが閉じる音が聞こえ、彼女の気配がその中へ消えていったような気がした。

自分の部室に戻ると、みんなさっきと同じ格好で同じことをしていた。
胸を押さえて座り込むと、師匠が薄目を開けて「無視しろって言ったのに」と呟いてまた寝はじめた。
マリオはタイムオーバーで死んでいた。

その後、ときどきあのサークル棟の端の一角を気にして、通りすがりに廊下から覗き込むことがあった。
昼間は何事もないが、ひとけのない夜には、あのドアの前のあたりに人影のようなものを見ることがあった。
しかし、大学を卒業するまで、もう二度と近づくことはなかった。

 

 

『10円』

死ぬ程洒落にならない怖い話をあつめてみない?156
517 :10円  ◆oJUBn2VTGE:2007/01/28(日) 12:52:29 ID:STrJj++Q0

 

大学1回生の春。
休日に僕は自転車で街に出ていた。
まだその新しい街に慣れていないころで、古着屋など気の利いた店を知らない僕は、
とりあえず中心街の大きな百貨店に入り、メンズ服などを物色しながらうろうろしていた。

そのテナントの一つに小さなペットショップがあり、何気なく立ち寄ってみると、
見覚えのある人がハムスターのコーナーにいた。
腰を屈めて、落ち着きのない小さな動物の動きを熱心に目で追いかけている。
一瞬誰だったか思い出せなかったが、すぐについこのあいだオフ会で会った人だと分かる。
地元のオカルト系ネット掲示板に出入りし始めたころだった。
彼女もこちらの視線に気づいたようで顔を上げた。
「あ、こないだの」
「あ、どうも」
とりあえずそんな挨拶を交わしたが、
彼女が人差し指を眉間にあてて、「あー、なんだっけ。ハンドルネーム」と言うので、僕は本名を名乗った。
彼女のハンドルネームは、確か京介と言ったはずだ。少し年上で背の高い女性だった。
買い物かと聞くので見てるだけですと答えると、「ちょっとつきあわないか」と言われた。
ドキドキした。
男から見てもカッコよくて、一緒に歩いているだけでなんだか自慢げな気持ちになるような人だったから。
「はい」と答えたものの、「ちょっと待て」と手で制され、僕は彼女が納得いくまでハムスターを観察するのを待つはめになった。
変な人だと思った。

京介さんは「喉が渇いたな」と言い、百貨店内の喫茶店に僕を連れて行った。
向かい合って席に座り、先日のオフ会で僕がこうむった恐怖体験のことを暫し語り合った。
気さくな雰囲気の人ではないが、聞き上手というのか、
そのさばさばした相槌に、こちらの言いたいことがスムーズに流れ出るような感じだった。
けれど僕は、彼女の表情にふとした瞬間に浮かぶ陰のようなものを感じて、それが会話の微妙な違和感になっていった。

話が途切れ、二人とも自分の飲み物に手を伸ばす。
急に周囲の雑音が大きくなった気がした。
もともと人見知りするほうで、こういう緊張感に耐えられないたちの僕は、なんとか話題を探そうと頭を回転させた。
そして特に深い考えもなく、こんなことを口走った。
「僕、霊感が強いほうなんですけど、このビルに入った時から、なんか首筋がチリチリして変な感じなんですよね」
デマカセだった。
オカルトが好きな人ならこういう話に乗ってくるんじゃないかという、ただそれだけの意図だった。
ところが京介さんの目が細くなり、急に引き締まったような顔をした。
「そうか」
なにか不味いことを言っただろうかと不安になった。
「このあたりは」と、コーヒーを置いて口を開く。
「このあたりは、戦時中に激しい空襲があったんだ。
B29の編隊が空を覆って、焼夷弾から逃れてこの店の地下に逃げ込んだ人たちが大勢いたんだけど、
煙と炎に巻かれて、逃げ場もなくなってみんな死んでいった」
淡々と語るその口調には、非難めいたものも、好奇も、怒りもなかった。ただ語ることに真摯だった。
僕はそのとき、この女性が地元の生まれなんだとわかった。
「まだ夜も明けない時間だったそうだ」
そう言って、再びカップに手を伸ばす。

後悔した。無責任なことを言うんじゃなかった。
情けなくて気が滅入った。
京介さんは暫し天井のあたりに視線を漂わせていたが、僕の様子を見て「オイ」と身を乗り出した。
そして、「元気出せ少年」と笑い、「いいもの見せてやるから」と、ジーンズのポケットを探り始めた。
なんだろうと思う僕の目の前で京介さんは黒い財布を取り出し、中から硬貨を1枚出してテーブルの上に置いた。
10円玉だった。
なんの変哲もないように見える。
頷くので手にとってみると、表には何もないが、10と書いてある裏面を返すと、そこには見慣れない模様があった。
昭和5×年と刻印されているその下に、なにか鋭利なものでつけられたと思しき傷がある。
小さくて見え辛いが、『K&C』と読める。
「これは?」と問うと、「私が彫った」と言う。
犯罪じゃないかと思ったが突っ込まなかった。
「高1だったかな。15歳だったから、何年前だ……6年くらいか。
学校で友だちとこっくりさんをしたんだよ。自分たちは霊魂さまって呼んでたけど。
それで使い終わった10円をさ、持ってちゃダメだっていう話聞いたことあると思うけど、
私たちの間でも、すぐに使わなきゃいけないなんていう話になって、
確かパン屋で、ジュースかなにかを買ったんだよ」
僕も経験がある。僕の場合は、こっくりさんで使った紙も近くの稲荷で燃やしたりした。
「使う前にちょっとしたイタズラを考えた。
そのころ流行ってた噂に、そうして使った10円がなんども自分の手元に還って来るっていう怪談があった。
でも、どうしてその10円が自分が使ったやつだってわかるんだろう、と常々疑問だった。
だから還ってきたらわかるように、サインをしたんだ」

それがここにあるということは……
「そう。そんなことがあったなんて完璧に忘れてたのに、還って来たんだよ。今ごろ」
4日前にコンビニでもらったお釣りの中に、変な傷がついてる10円玉があると思ったら、
まさしくその霊魂さまで使用した10円玉だったのだと言う。
微妙だ。と思った。
10円玉が世間に何枚流通しているのか知らないが、所詮同じ市内の出来事だ。
僕らは毎日のようにお金のやりとりをしてる。6年も経てば、一度くらい同じ硬貨が手元に来ることもあるだろう。
普段は10円玉なんてものを個体として考えないから意識していないだけで、案外ままあることなのかも知れない。
ただ確かに、その曰くがついた10円玉が、という所は奇妙ではある。
「どこで使われて、何人の人が使って、私のところまで戻って来たんだろうなあ」
感慨深げに京介さんは10円玉を照明にかざす。僕はなぜか救われたような気持ちになった。
喫茶店を出るとき、「奢ってやる」という京介さんに恐縮しつつも、お言葉に甘えようと構えていると、目を疑う光景を見た。
レジでその10円玉を使おうとしていたのだ。
「ちょっとちょっと」と止めようとする僕を制して、「いいから」と京介さんは会計を済ませてしまった。
「ありがとうございました」とお辞儀した店員には、どっちが払うかで揉める客のように見えたかもしれない。

歩きながら僕は、「どうしてですか」と問いかけた。
だって、そんな奇跡的な出来事の証しなのだから、
当然自分自身にとって、10円どころの価値ではない宝物になるはずだ。
しかし京介さんは、「また還って来たら面白いじゃないか」とあっさりと言い放った。
聞くと、その10円玉が手元に戻って来た時から決めていたのだと言う。
ただ、10円玉を支払いに使う機会が今まで偶々なかっただけなのだと。

歩幅が僕よりも広い。少し早足で追いかける。
その歩き方に、迷いない生き方をして来た人だという、憧れとも尊敬ともつかない感情が沸き起こったのを覚えている。
追いついて横に並んだ僕に、京介さんは思いついたように言った。
「奢る必要があっただろうか」
そんなことを今さら言われても困る。
「私の方が年上だけど、私は女でそっちは男だ」
ちょっと眉に皺を寄せて考えている。
そして、哲学を語るような真面目な口調で言うのである。
「あのコーヒーだけだと、10円玉は使わなかったはずだ。
オレンジジュースが加わってはじめて10円玉が出て行く金額になる。
これはノー・フェイトかも知れない」
そんな言葉を呟いて苦笑いを浮かべている。
その意味はわからなかったけれど、彼女の口から踊るその言葉をとても綺麗だと思った。

思えば、『K&C』と刻まれた10円玉が京介さんのもとへと還って来たのは、
そのあとに起こったやっかいな出来事の兆しだったのかも知れない。

 

 

『葬式』

死ぬ程洒落にならない怖い話をあつめてみない?159
917 :葬式  ◆oJUBn2VTGE:2007/03/07(水) 19:59:41 ID:OPG460nV0

 

大学2回生の初秋。
サークルの先輩と二人でコンビニに食料を買いに行ったその帰り道。
住宅街の大通りから脇に入る狭い道があり、その手前に差し掛かった時に軽い耳鳴りに襲われた。
その直後、目の前の道路の上にぼんやりとした影が見えた気がした。
立ち止まりながら眼鏡を拭いたが、やはり人間くらいの大きさの影がくらくらと揺れている。
なんだか現実感が薄い。
4つか5つくらいの影が、揺れながら狭い道の方へ曲がっていった。
その向こうには、どこにでもある昼間の住宅街の光景が広がっている。
先輩がその辻に向かい、影が曲がっていった道の方を見る。
「あれか」
俺もそれを真似て、覗き込むように立ち止まる。
住宅が立ち並ぶ道の向こうに、鯨幕の白と黒の模様が見えた。
そしていくつもの影が、移ろうような頼りなさで途上にある。
なんだか気持ちが悪い。猫の礫死体を見たときのような。
「そういえば斎場がありましたね」
「うん……」
カラ返事が返ってきた。
この世のものではないものをごく日常的に見ている人にとって、この光景はあまり興味を惹かれないものなのだろうか。
「あれが見えるようになったのか。
去年の今頃は気がつかなかったのにな……」
そんな軽い侮蔑の調子に、自分のことを言われているのだとわかった。

半ば畏れ、半ば馬鹿にして師匠と呼ぶその人は、俺に見えていないものをあえて教えないスタンスだった。
嫌な性格だ。
「なんなんですか」
「あれは、まあ、幽霊の類だけど。光に群がる虫と言ったらしっくりくるかな」
虫とはあんまりだ。
そう思った瞬間、遠くの影がひとつ、表裏のないままこちらを向いたような気がした。
「葬式は死と密接につながっている、というイメージが日本人のメンタリティに存在する限り、
毎年毎年生産され続ける死者にとっても、やっぱり特別に気になる場なんだろう。
でもまあ虫だよ」
師匠は鯨幕の見える方へ歩き始めた。
俺も続いて狭い道へ入る。
少し歩きにくい気がする。
うっすらとした影が踏んでいった場所がねとつくような。

喪服を着た人たちが大勢出入りしている建物についた。
遠巻きに立ち止まる。
告別式が始まるのだろうか。
入り口で手招きする人に急かされて、おばさんが数人小走りに俺たちの前を通り過ぎた。
黒い服の人々に混じるように、輪郭の定まらない影たちも葬式場へ入っていく。
異物。そんな言葉が浮かび、ひどく気分が悪くなった。
師匠はつまらなそうな表情でその光景を眺めている。

ふと、子供の頃に体験した不思議な出来事を思い出した。

「お葬式にいくのよ」と母親に連れられて、人が沢山いる場所に行った記憶。
随分早く着いたようで、砂利が敷き詰められた敷地の中で、
初めて見るようなおじさんやおばさんたちと、挨拶を交わす母親について回っていたが、
それもだんだん退屈になり、「おしっこ」と言ってその場を抜け出した。
一人で歩いていると、立ち並ぶ大きな花の陰に手招きしている女の子がいる。
「遊ぼうよ」と言うのである。
そして二人してあちこちを探検して回った。大人の気づかない楽しい場所を探して。

やがて母親に見つかり、「お焼香あげるのよ」と連れ戻される。
あの子はどこに行っただろうと振り返るけれど、姿は見えなかった。

木屑みたいなものをチロチロ燃える灰の中に落として、顔を上げると、
匂いの強い花に囲まれた写真立ての中に、さっきまで遊んでいた女の子がいる。
死ぬということがよくわからなかったころ。
それでも、よくわからないままに、なぜか少し悲しかった。

そんな思い出に浸っていると、斎場がざわめき始める。
告別式が終わったようだ。まだ1時間も経っていない。
昔は坊さんのお経が延々と続いて、やたらと長かった印象ばかりあるが。これも時代性なのか。
俺と師匠が見ている前で、出棺のための霊柩車が回されてくる。
いつ見ても冗談としか思えないフォルムだ。
やがて見送りの多くの人々の前で白木の棺桶が車に積み込まれる。
その中でハンカチで涙を拭くおばさんが目に入ったが、横顔をじっと見ていると演技だとわかる。
溜息が出そうになったが、その時、
ハンカチを持ったその手に、うっすらと輪郭のまとまらない影が掻き付いているように見えた。
よく見ると、喪服姿の人々の手にあたりに多くの影がまとわりついている。

吐き気がして口を押さえる。
影はのろのろと動きながら、手の中でも指、それも親指をさわったり握りこんだりつまんだりしている。
されている人は気づかない。
これから発車しようする霊柩車を、思い思いの悲しみ方で見守っているだけだ。
師匠の顔を見ると、「くだらない」と一言いって肩を竦めた。
霊柩車を見たら親指を隠せ。
そんな迷信が確かにある。俺も小さい頃、いつの間にかすり込まれていた。
迷信だとばかり思っていた。
目の前の光景に棒立ちの足が震える。
師匠が俺を見て、「迷信だろうが、なんだろうが」と言った。
「日本人のコモンセンスになってしまったものは、死者にとってもそうなのさ」
辛うじて人の形を模している影たちが、昼ひなかの道路に蠢いている。
そして、居並ぶ人々の親指をひたすらいじっている。まるでどうしていいか分からない様子で。
なんだかとても悲しくなった。
「小山田与清っていう江戸時代の随筆家が、『松屋筆記』の中でこんなことを言っている。
親指の爪間から魂魄が出入りするために、畏怖の時には握り隠すってね。
昔からある迷信なのに、なぜ隠すのかって部分が忘れ去られてしまっている。
教えてやれば、きっと喜ぶよ。
喜んで、親指の爪の間から入りこもうとするよ」
気持ち悪い。
蠢く影。甲高いクラクションの音。白々しい涙。黒と白の幕。
耐え難い吐き気と俺は戦い続けた。

 

『雨上がり』

【謎の】師匠シリーズを語るスレ第3夜【失踪】
450 :雨上がり  ◆oJUBn2VTGE:2007/03/07(水) 23:05:24 ID:OPG460nV0

 

昨日から降っていた雨が朝がたに止み、道沿いにはキラキラと輝く水溜りがいくつもできていた。
大学2回生の春。梅雨にはまだ少し早い。
大気の層を透過してやわらかく降り注ぐ光。
軽い足どりで歩道を行く。

陽だまりの中にたたずむようにバス停があり、ふっと息を吐いて木目も鮮やかなベンチに腰を掛ける。
端の方にすでに一人座っている人がいた。
一瞬、知っている人のような気がして驚いたが、すぐに別人だとわかり深く座りなおす。
髪型も全然違う。それにあの人がここにいるはずはないのだから。
バスを待つ間、あの人に初めて会ったのは今ごろの季節だっただろうかと、ふと思う。
いや、確かもう梅雨が始まっていたころだった。1年たらず前。
彼女は別の世界へ通じるドアを開けてくれた人の一人だった。
そのドアを通して、普通の世界に生きている人間が、何年掛かったって体験できないようなものを見たり、味わったりしてきた。
もちろんドアなんてただの暗喩だ。けれどそれが、そこにあるもののよう感じていたのも事実だった。
そのドアのひとつが閉じた。もう開くことはないだろう。
春が来たころひっそりと仕舞い込まれる冬色の物のように、彼女は去っていった。
そのことを思うと、ひどく感傷的になる自分がいる。
結局、気持ちを伝えることはできなかった。
それが心の深い場所に澱のように溜まり、そして渦巻いている。

目の前でカラスが一羽、鳴いて飛び立った。
だれも通る者もいない春のバス停で、まどろむようにそんなことを考えている。
「夢を見るということは、   に似ているわ」
空からピアノの音色が聞こえた。そんな気がした。
ベンチの端に座っている女性が、前を向いたままもう一度言った。
「夢を見るということは、   にも似ている」
春のやわらかな地面から、氷が沸いてくるような感覚があった。
それがミシミシと心臓を締めつけはじめる。
急に錆付いたように動かなくなった首を、それでもわずかに巡らせて横を見る。
顔を覆うかのような長い黒髪の女性。
空色のワンピースからすらりと伸びた足が、かなりの長身を思わせる。
もう一度言った。
「夢を見るということは、    」
また一部分が聞こえない。
いや、聞こえているのに、頭の中で認識されないような、不思議な感覚。
彼女は目を閉じている。
「あなたは誰ですか」
わかっていた。
大脳のなかの古い動物的な部分が反応している。彼女が誰なのか知っていると。
「あの子が持っているものが欲しかった。手に入れても手に入れても、蜃気楼のように消えた。
これも、あの子と同じ長さにしたつもりだったのだけれど」
彼女は左手で髪に触れた。細く、しなやかな指だった。

「たったひとつしかないものを永遠に手に入れるには、方法はたったひとつしかない。
いちどはそれに届いたと思ったのに」
この雨上がりの清浄な空気に、あまりに似つかわしい涼やかな声だった。
「あの手ざわりがまぼろしだったなんて」
すっと手を下ろした。
目を閉じたまま前を向いている。
その横顔から目を逸らせない。
わかりはじめた。
同じ長さだったのだろう。彼女にとって。
あの日、あの人は自分の『半身』を失った。
その謎が今解けた。
「目が……」
見えないんですね。
そう言おうとして、言葉が宙に消えた。
喋っているのに、頭の中で認識されないような感覚。
肯定するように、白い手がベンチの上に寝かせている杖を引き寄せる。
「あの子のたったひとつしかないものは手に入らなかったけれど、かわりにすばらしい世界をもらったわ」
音楽のように言葉が耳をくすぐる。
まるで麻薬だ。
その声をもっと聞きたい。壊れやすい宝石のように会話は続く。
「夜がその入り口になり、わたしは恋を知った少女のように新しい世界を俟っている。
眠りが卵になり、わたしはそれを抱いてあたためる。そして夢を見るということは    」
言葉が消える。
けれどわかる。
彼女はあの人の悪夢を手に入れたのだ。

悪夢を食べるという悪魔が呼ぶ悪夢。あの人を苦しめてきた悪夢。
あの強い人が、どんなことがあっても、もう二度と、ただの一度でも見たくないと言った、その悪夢を。
彼女はなにかを呟いている。聞こえているのに聞こえない。まるで現実感がない。
太股を抓ろうとして躊躇する。彼女がそれを待っているような気がして。
あの人の『半身』は、彼女によって消滅させられた。彼女はそれをあの人だと思っていたのだ。
あの人が『少し若くみえる私』と表現していたのを思い出す。
つまり、あの人にしか見えず、触れず、知覚できなかった『半身』は、
いつか喫茶店の誰もいない椅子に座っていたその『半身』は、
髪が長かったころのあの人の姿をしていたのだろう。
目が見えず、手が触れられない場所にいた彼女は、
人知の及ばない何らかの方法でその『半身』を見、そして捕らえた。
あの人を手に入れたつもりで。
そして『半身』と『悪夢』は消えた。
あの人は、あの人を長年苦しめ惑わせたふたつのものから、同時に解き放たれた。
そして去っていった。
「ラ・マンチャの男はあいかわらずかしら」
美しい旋律のような声が踊る。すぐにその言葉の意味を理解する。
ナイトだと言いたいのだろう。あの人を守った人物のことを。
「あいかわらず法螺を吹いています」
少し上擦ってしまったその言葉に、彼女は満足したようにかすかに頷く。
今にして考えることであるが、彼女が彼のことをラ・マンチャの男に例えた裏には、
あの人の、ドルシネア姫でありながら、またアルドンサでもあるという2面性を暗に物語っている。
このことは、のちに彼の秘密に近づいたとき、その真の意味を知ることになるのだが、それはまた別の話だ。

沈黙があった。
少し前に飛び立ったカラスの気持ちがわかる。
いまこのバス停の周囲には、二人のほか動くものの影ひとつない。
ただやわらかな大気に包まれているだけだ。

彼女のいる方向を「空間が歪んでいる」と、以前あの人が語ったことを思い出す。
目を閉じたままでいると、まるで眠っているように穏やかな横顔だった。
彼女は少なくとも、高校時代には盲目ではなかったはずだ。
いったいなぜ視力を失うに至ったか、想像することも躊躇われる。
もし視力を失っていなければ、そして奇跡のような取り違えが起こらなければ、とてもあの人や彼が敵う相手ではなかった。
推測などではなく、わかるのである。
格などという言葉は使いたくない。使いたくはないけれど、つまりそういうことなのだった。

排ガスの匂いをまといながらバスがやって来た。
その瞬間に、このバス停を覆っていた不思議な膜のような空気が、霧消したような錯覚があった。
解放されたのだろう。
少し離れてバスは止まり、ドアが開いた。
自分が乗るつもりだったバスだろうか。
なぜか思い出せない。どこに行こうとしていたのか。
しかし、これに乗らなくてはならない。そんな気がした。
ベンチから立ち上がり、笑いそうな膝を奮い立たせて歩く。
「これを」
彼女がそう言ってすっきりと伸びた首元から、ペンダントのようなものを取り出した。
タリスマンだ。
あの人が以前、五色地図のタリスマンと呼んだ物。
「どこかに捨てて。もうわたしにはいらないものだから」
彼女がはじめてこちらを向いた。
足をとめ、正面からその顔を見る。

「さあ」と言って手を伸ばし、目を閉じたまま微笑を浮かべるその顔を、生涯忘れることはないだろう。
こんなに綺麗な人を見たことがない。
このあとの人生の中でどんなに美しい人を見たとしても、あれほどの深い感動を受けることはないと思う。
吸血鬼と謗られたことなどまるでとるに足りない。
そんな言葉では彼女の側面を語ることさえできない。そう思った。
「さあ」
もう一度彼女は笑うように言う。
震える手で受け取った。
ジャラリと鎖が鳴る。かすかに錆の匂いがした。
不思議な模様が円形のプレートの一面に描かれている。けれど、それだけだ。
『この世にあってはならない形をしている』と称された物とはとても思えない。
平面に描かれたどんな地図も、必ず4色以内で塗り分けられるという。
試すまでもなくわかる。きっとこれも4色ですんなりと塗り分けられるのだろう。
少なくとも彼女の手を離れた今は。
遠慮がちにクラクションが鳴らされる。
昇降口にそっと足を掛ける。2度と会うことはないだろう彼女に背を向けて。
乾いた空気の音とともに扉が閉まる。
別の世界へ通じるドアがまたひとつ閉じたのだった。

やがて間の抜けたテープの音が次の目的地を告げる。
動き出したバスに揺られ、衝動的に振り返った。
彼女がまるで最初からいなかったかのように消えてしまっている気がして。
けれど揺れる視界の中で、一枚の絵のように切り取られた窓の中で、遠ざかりつつある雨上がりのバス停に彼女はいる。
そしてベンチから立ち上がり、白い杖をついて、ゆっくりと、ゆっくりと歩き出そうとしている。
その細く長い足が、戸惑うような頼りない足取りで水溜りを跳ね、それが淡く銀色に輝いて見えた。
彼女を見た最後だった。

 

『ともだち』

死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?173
256 :ともだち  ◆oJUBn2VTGE:2007/08/22(水) 22:55:24 ID:B6d5URPx0

 

大学2回の冬。
昼下がりに自転車をこいで幼稚園の前を通りがかった時、見覚えのある後ろ姿が目に入った。
白のペンキで塗られた背の低い壁のそばに立って、向こう側をじっと見ている。
住んでいるアパートの近くだったのでまさかとは思ったが、やはり俺のオカルト道の師匠だった。
子どもたちが園庭で遊んでいる様子を、一心に見つめている20代半ばの男の姿を、いったいどう表現すればいいのか。
こちらに気づいてないようなので、曲がり角のあたりで自転車を止めたまま様子を伺っていると、
やがて先生に見つかったようで、「違うんです」と聞こえもしない距離で言い訳をしながらこっちに逃げてきた。
目があった瞬間、実に見事なバツの悪い顔をして「違うんだ」と言い、
そしてもう一度「違うんだ」と言いながら、曲がり角の塀の向こうに身を隠した。
俺もつられてそちらに引っ込む。
「あの子を見てただけなんだ」
遠くの園庭を指差しているが、ここからではうまく見えない。
「あの青いタイヤの所で、地面に絵を描いてる女の子」
首を伸ばしても、角度的に木やら壁やらが邪魔でさっぱりわからない。
なにより、なにも違わない。
「いつから見てたんですか」との問いに、「ん、1ヶ月くらい前から」とあっさり答え、ますます俺の腰を引かせてくれた。
「そんなにかわいいんですか」
言葉を選んで聞いたつもりだったが、
「かわいいかと問われればイエスだが、『そんなに』って頭につけられるとすごく引っ掛かる」
と、不快そうな顔をする。

「1ヶ月前、最初に足を止めたのはあの子じゃなく、あの子のそばにいた奇妙な物体のためだよ」
物体という表現がなんだか気持ち悪い。
「それは見るからにこの世のものではないんだけど、あの子はそれを認識していながら、怯えている様子はなかった。
他の子や先生には、見えてすらいないようだった」
その子はいつもひとりで遊んでいたという。
砂場あそびの仲間に誘われることもなく、かといって他の園児からからかわれることもなく、
ただひたすらひとりで絵を描いている。
親が迎えに来る時刻になるまでずっとそうしているのだという。
「他の子が帰っても、なかなかあの子の親は来ないんだ。
日が暮れそうになってから、ようやく若い母親がやって来るんだけど、なんていうか、まともな親じゃないね。
あの子の顔を見ないし、手の引き方なんて、地面に生えた雑草を引っこ抜くみたいな感じ。
虐待?まあ、服から見えてる部分には痕がないけど、どうだろうね」
気分の悪くなる話だ。だが、この異常なオカルト好きが、こんなに執着するからには只事ではないのだろう。
「イマジナリーコンパニオンって、知ってるかい」
聞いたことはあった。
「まあ、簡単にいうと、幼児期の特徴的な幻覚だね。頭の中で想像上の友だちをつくりあげてしまう現象だ。
ただ子どもには幻を幻と認識する力がなくて、普通の友だちに接するようにそれに接してしまい、
周囲の大人を困惑させることがある。
人間関係を構築するための、ある程度の社会性を身につけると、自然に消えていくものだけどね」

それならば俺にも経験がある。
と言っても覚えているわけではないが、両親いわく「お前は仮面ライダーと喋ってた」のだそうだ。
まだしもかわいい方だ。
『ゆうちゃん』とかありそうな名前をつけて、
誰もいないのに「ゆうちゃんもう帰るって」なんて言われた日には、親は気味が悪いだろう。

もう一度身を乗り出して、幼稚園の庭を覗いてみる。
帽子の色で年齢をわけているようだ。
青いタイヤのあたりには赤い帽子が見える。赤の帽子は年長組らしい。
目を凝らすと、おさげらしき髪型だけが確認できた。
師匠の言う奇妙な物体は見えない。
しかし、この異常に霊感の強い男に見えるということは、ただの想像上のともだちではないということなのか。
「いや、霊魂なんかじゃないと思う。
気味の悪い現われ方をしてるけど、あの子なりのイマジナリーコンパニオンなんだろう。
僕にも見えてしまったのは、何故なのかよくわからない。
ひょっとしたら彼女の感覚器がとらえているものを、
混線したように、リアルタイムで僕のアンテナが拾ってしまっているのか……
あの子は強烈な霊媒体質に育つかもね」
そう言って師匠は、慈しむような目で幼稚園児を見つめるのだった。
攣りそうなくらい首を伸ばしても、その女の子の輪郭以外には何も周囲に見あたらない。
追いかけっこをしている一団がタイヤの前を駆け抜けて、その子の描いている絵のあたりを踏んづけていった。

ここからでは表情は分からないが、淡々と絵を直しているようだった。
「で、その空想のともだちってどんなのです?今もあの子の近くにいるんですか」
師匠は「う~ん」と唸ってから、「なんといったらいいのか」と切り出した。
「2頭身くらいのバケモノだね。顔は大人の女。母親じゃない。実在の人物なのかもわからない。
けどたぶん、あの子になんらかの執着心を持っている。
体は紙粘土みたいなのっぺりした灰色。小さな手足はあるけど、あんまり動きがない。ニコニコ笑ってる。
あの子の絵の上でゆらゆら揺れている。今、僕らの方を見ている」
一瞬にして鳥肌が立った。誰かの視線をたしかに感じたからだ。
「普通、他の子どもが大勢いる場所では、イマジナリーコンパニオンは現れない。
本人にとって孤独さを感じる場面で出現するケースが多い。
だけどあの子の場合は、幼稚園という空間さえ、極めて個人的なものになってしまっているらしい。
今はあの物体に完全に捕らわれているように見える。
一度、迎えに来た母親の後をつけようとしたけど、少し離れたところに高そうな車をとめてあって無理だった」
と師匠は言った。
その時、白い壁の向こう側で、エプロン姿の若い先生と、園長先生らしき年配の女性がこちらを指差して、
何事か話しているのが目に入った。
焦った俺は、とりあえず自転車に飛び乗って逃げた。
あとから師匠が、手を振りながら走ってついて来ているのに気づいていたが、無視した。

部屋の外にいても、テレビがついているのがわかる。
音なのかなんなのかよくわからないが、とにかくわかる。
周囲の人に聞いても、「あ、わかるわかる」と同意してくれるので、たぶん俺だけではないはずだ。
だからそのときも、ただわかったからわかったとしか言いようがないのだった。

幼稚園から逃げ出したその日の夜である。
そのころ完全に電気を消して寝るくせがついていたので、ふいに目を覚ましたときも暗闇の中だった。
自分の部屋の見慣れた天井がうっすらと見える。
ベッドの上、仰向けのまま半ば夢心地でぼーっとしていると、テレビがついているのに気がついたのである。
部屋の中のテレビではない。薄いドアを隔てた向こうの台所で、どうやらテレビがついているようだ。
そちらに目を向けるが、ドアについている小さな小窓の輪郭がかすかにわかる程度で、
その小窓の向こうには光さえ見えない。
音でもない、光でもない。
けれど、テレビがついているのがわかるのである。
もちろん台所にテレビなどない。
俺は半覚醒状態のまま、ただただ不思議な気持ちでベッドからのそりと起き上がり、ふらふらと手探りでドアに向かった。
電気をつけるという発想はなかった。つけたら眩しいだろうなと、寝ぼけた頭で考えたのだと思う。
ゆっくりとドアのノブに手をかけ、向こう側へ押し開ける。
薄暗闇のなか、空中に女の顔が浮かんでいるのが見えた。
いや、顔だけではなかった。冗談のような小さな胴体と手足が、粘土細工のようにくっついている。

それがふわふわと台所のある空間に漂っているのだった。
そのとき、怖いと思ったのかは覚えていない。
ただ気がつくと俺は自分のベッドに戻っており、仰向けのいつもの姿勢で朝の目覚めを迎えたのだった。
夜の出来事を反芻して、鳥肌が立つような気持ち悪さに襲われ、“連れて来てしまった”んじゃないかと身震いした。

朝から師匠の部屋に転がり込んでそのことを話すと、「そんなはずない」と言って笑うのだ。
「幽霊じゃないんだから。
あの女の子の見ている幻を、その子がいない場所で、どうして別の誰かが体験できるっていうんだ。
夢でも見たんだろう」
師匠はそんな言葉を並べ立て、俺もだんだんとそんな気になりかけていた。
思いつきで、その女の顔がある芸能人に似ていたことを口にするまでは。
それを聞いたとたんに師匠の顔つきが変わり、その名前をもう一度俺に確認した。
どうやら師匠の見ていた顔と同じ印象を俺が持ったことに、納得がいかないらしい。
「そうか、わかった」
師匠はニヤリと笑うと説明した。
あの幼稚園の女の子も、その芸能人の面影にわずかに似ているらしい。
ということはつまり、自分自身のイマジナリーコンパニオンに似ているということだ。
女の子は想像上のともだちとして、自己を投影した理想的大人を仕立て上げ、
自分を愛さない母親の代わりに、いつもそばにいてくれる存在としたのだ。
母親のようにはならないという反発心から、母親とは違う大人に成長した自分をイメージして。
そして、“ともだち”として相応しい等身にして……
そんな仮説をスラスラと口にする師匠に俺は言った。

「俺、その子の顔なんて見てないですよ。あんな距離じゃ、全然。目が悪いの知ってるでしょ」
俺が女の子の顔からその芸能人を連想した、ということを言いたかったらしい師匠は沈黙した。
それからしばらくして、ゆっくりと顔を上げ、真剣な目をして言うのだ。
「あれがイマジナリーコンパニオンなんかじゃなく、霊的なものだとするなら、
おまえの部屋に出たってことが、どういうことかわかってるのか」
その言葉を聞いた瞬間、悪寒が全身を駆け抜けた。
あからさまに怯え始めた俺を見て、師匠は膝を叩いて言う。
「よし、なんだかわかんないものは、とりあえずブッ殺そう」
やたら頼もしい言葉に頷きそうになるが、穏便にお願いしますというジェスチャーで返す。
「冗談だ」
笑っているが、どこまで本当かわからない。
「まあ放っとこう。どうせとり憑かれてるのは、あの子だ。
なんならここに2,3日泊まってけばいい。たいていのヤツなら逃げてくよ」
そんなハッタリめいたことを言う。まるでこの安アパートが霊場のような言い草だ。
けれど少し気が楽になった。

結局その2頭身の女のバケモノは、2度と俺の前に現れなかった。
師匠も、その正体を結論付ける前に警察を呼ばれてしまい、2度とその幼稚園には近づけなかったらしい。
「警察は霊なんかよりずっと怖い」と、後に彼は語っている。

 

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