『なぞなぞ 』|洒落怖名作まとめ【短編・中編】

『なぞなぞ 』|洒落怖名作まとめ【短編・中編】 中編

 

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なぞなぞ

大学四回生の冬だった。俺は仲間三人と少し気の早い卒業旅行をした。
交代しながら車を運転し、北陸まわりで関東へと入った。宿の手配もない行き当たりばったりの旅で、ビジネスホテルに泊まれれば良い方。どこも満室で、しかたなく車の中で寒さに震えながら朝焼けを見たこともあった。

目的はない。ただ学生時代特有の怠惰で無為な時間の中に、もう少し全身を沈めていたかった。みんな多かれ少なかれそんな感傷に浸っていたのだと思う。
ある街に着いた時、俺はふと思いついた。知り合いがこのあたりに住んでいたはずだ。

携帯電話で連絡をしてみると、懐かしがってくれた。一時間くらいあとで落ち合うことにする。
並木道がきれいに伸びている新興住宅地の中を通り、路肩に下ろしてもらい「終わったら連絡くれ」と言って去っていく仲間の車を見送る。
都心から離れるとあの、人であふれた息の詰まるような町並みよりも、空間的にずいぶん余裕がでてくるようだった。

 

カラフルな煉瓦で舗装された道を自然と浮き足立つステップで進み、大きなマンションが群れるように立ち並ぶ方へ目をやる。
マンションというより、団地か。そこへ向かう道は軽く傾斜し、丘になっている。
その団地の入り口に公園があった。広い敷地には、わずかばかりの遊具とたくさんの緑、そして住民が憩うためのベンチがいくつかあった。
そこにその人は座っている。

小春日和の温かい日差しに目を細めながら、こちらに手を振る。
俺は照れ隠しに大げさな動作で手を振り返し、ことさらゆっくりと歩いていった。
「え~と、元気でしたか。……多田さん」
なんだか面映い。ここ数日、砕けた仲間同士の掛け合いしかしてなかったので、口が滑らかに動かない。
元気だとその人は言った。

以前より少しふっくらしたようだ。髪の毛も伸ばしている。なにより、あの真摯で鋭かった眼差しが柔らかくなっている気がする。
ベンチの隣に座って近況を報告した。

 

昼下がりの公園は自分たちのほか、時おり主婦らしき若い女性が通りがかっては去っていくだけだった。
「そうか、おまえも卒業か」
感慨深げな声に、うしろめたい気持ちで頷いた。卒業を待つ仲間たちと違い、俺だけは単位が足りずに留年することが決まっていたからだった。
旅行なんてしている場合ではない気がするが、捨て鉢になっていたというわけでもない。ただそのころの俺は、すべてなるようにしかならない、という達観めいた平静の境地にあったような気がする。

けれど格好悪いのであえてその事実を告げることはなかった。
風の凪いだ陽だまりの中、二人でいろいろな話をした。たかだか二、三年前の過去が遥か遠い昔の出来事のように色あせて、それでも仄かな輝きとともに蘇ってくる。
「智恵も結婚したんだってな」
「ええ。二次会に呼ばれましたけど、あの人も変わりませんねえ」
相手はどんなやつだと言うので、「やっぱり、ああいうタイプの人でした」と答えると「なるほど」と笑った。
チリ紙交換の車がどこか遠くを走っている音がする。

顔を上げ、ハッとした表情を見せて、なにか思い出そうという風情だったが、すぐに「まだいいか」とつぶやいた。その横で俺は胸に小さな針が刺さったような微かな痛みを覚える。顔を伏せ、その痛みの正体はなんだろうと自問する。
「そういえば、この団地にも七不思議があってな」
ふいにその人は切り出した。
「え。学校によくあるあれですか」
「ああ。まあ小中学生も多いし、同じノリで生まれたんだろう」
そう言って順番に教えてくれた。

団地への上り坂を時速百キロで駆け上るババア。
夜中C棟の前のケヤキの木の枝にぶらさがる首。
夕方E棟の壁に映った自分の影が勝手に動く。
団地内の公衆電話BOXにお化けからの電話が掛かってくる。
…………

「わりと、よく聞くような話ですね」
「そうだな。でもこの団地の七不思議は子どもだけじゃなくて、主婦連中にも信じている人たちが多いみたいだ。時どき噂が聞こえてくるよ。手のかかる小さい子どもを持ち、狭い空間に押し込められた大人たちにも心の病巣があるということかな」
あそこを見てみな。
指さす先に目をやると、ブランコのそばに小ぶりなジャングルジムがぽつんと建っている。
「あのジャングルジムに、いつの間にか小さい子どもが入って遊んでるっていう話もある。見通しがいいし、あんな細いパイプの骨組みのどこかに隠れられるはずもないのに、誰もいなかったはずのジャングルジムの中に気がつくと男の子がひとり入っているんだ。
パイプを上り下りしながら内側を這いまわってるらしい。見てしまっても気がつかないふりをしていると、またいつの間にかいなくなってるんだと」
「まるで妖怪みたいですね。怪異に出会ってしまった時の対処法とセットで存在する噂だなんて」
「確かにな」
二人ともジャングルジムを見ていた。男の子の姿はない。

あの遊具があんなに小さかっただろうかと思う。自分にもあんな狭いパイプの中を這い回って遊んだ時代があったということが、なんだか不思議だ。
「子どもと言えば、こんな話もある。ベビーカーを押して母親が団地の中を散歩していると、周りに誰もいないのに、声が聞こえるんだ。キョロキョロしているとまた聞こえる。
囁くような小さな声。ベビーカーの中からだ。まだ喋れなかったのに、とうとう赤ん坊が喋れるようになったんだと喜んで母親がベビーカーの中を覗き込む。なのに赤ん坊はぐっすり眠っている…… いったいなにが赤ん坊に囁いていたのか」
「それは」
「なんだ」
怖い話ですね、と素直に言えなかった。なにか合理的な解釈ができないかと考えたが、情報が少なすぎた。
仕方なく、「ノイローゼじゃないですか。育児ノイローゼ」と言うと、「かもな」と頷いた。
そしてそのまま少し、遠い目をした。

 

ふいにカチャリという音が聞こえる。
地面に鍵が落ちている。ジーンズのポケットから落ちたらしい。屈んで手を伸ばし、拾ってあげる。
「すまんな、こんな状態で」
その人は窮屈そうに手のひらを広げ、受け取った。渡すとき、指先が触れてなんだか照れたような気分になる。
照れ隠しにそのまま指を折ってみせる。
「むっつですね。ここまでで」
「うん? ああ、七不思議か。そうだな。最後のひとつは面白いぞ」
面白い? それはオチ的なものだということだろうか。
「面白いというか、怪談として珍しいというのかな。こんな話だ」
そうして丁寧に話してくれた。
この団地には「なぞなぞおじさん」という怪談がある。
A棟の702号室にいるおじさんらしい。
どうしてなぞなぞおじさんなのかというと、読んで字のごとくなぞなぞが大好きなおじさんだからだ。

噂を聞いた子どもが702号室のドアの前に立って、コンコンとノックしたあとドアについている郵便受けをカタリと内側に押してから、部屋の中に向かって話しかける。
「おじさん、おじさん、クジラよりも大きくて、メダカよりも小さい生き物な~んだ?」
おじさんはなぞなぞが大好きだけど、なかなか答えがわからない。ずっとずっと考えている。ドアの前で待っていても返事はない。
仕方がないので引き返して自分の家に帰る。
答えはイルカ。そんなのイルカ! だからイルカ。こんなに簡単なのに、おじさんは分からないのだ。
子どもの住む団地の一室で、家族は寝静まり自分も部屋でもう寝ようとしているころ、玄関のドアをコンコンと叩く音が聞こえる。
家族が誰も起きないので、ベッドから這い出し、恐る恐る真っ暗な玄関に向かうと、コンコンとドアを叩く音が止まる。

 

カタリとドアの郵便受けが開く音がする。
「クジラよりも大きくて、メダカよりも小さい生き物な~んだ?」
郵便受けから低い大人の声。その声は続ける。
「答えはね、泥。泥だよ」
子どもはどうしようもなく怖くなる。なぞなぞおじさんがやって来たのだ。こんな時間になって。
でもイルカなのに。答えはそんなのイルカ! なのに自分の声が出せない。
「泥だよ」
もう一度小さくつぶやいて、カタリと郵便受けが戻る。
ドアの向こうから気配が消える。おじさんが帰ったのだ。『泥』という意味のわからない答えを残して。
そんな噂。
団地の子どもたちはその噂を聞いて、面白半分に次々と702号室の郵便受けになぞなぞを放り込む。
「お父さんが嫌いなくだものはな~んだ?」
「公園で静かにそうっと乗るものな~んだ?」
「世界の真ん中にいる虫はな~んだ?」
……
答えはパパイヤ。パパが嫌だから。
答えはシーソー。シーッとソーッと乗るから。
答えは蚊。せ・か・いの真ん中は「か」だから。
けれどなぞなぞおじさんはそんな簡単ななぞなぞが分からない。
夜中まで考えて、家族の寝静まる子どもの家にやってくるのだ。郵便受けから低い声で。
「お父さんが嫌いなくだものはね。歯の生えた梨」
「公園で静かにそうっと乗るものはね。刳り貫かれた楡の木」
「世界の真ん中にいる虫はね。鼻歩き」
……

その気持ちの悪い答えを聞いても、絶対に「違う」と言ってはいけない。
「違う」と言っても別のもっと気持ち悪い答えを低い声で囁いてくる。それを繰り返していると、自分でも本当の答えが分からなくなってくるのだ。
答えが分かるまでなぞなぞおじさんは帰らない。なのに答えが消えてしまう……
「という話だ」
どうだ? というように見つめられる。
「それは」
確かに怖いが、まるで変質者だ。
「その702号室は無人なんですか」
「いや、おじさんが住んでるよ」
「え、じゃあ実在の人なんですか」
「そう。普通のおじさん。もちろんお化けなんかじゃない。団地の集会にも顔を出すし、近所づきあいも普通にしてる。むしろどうしてそんな噂が生まれたのか本人が一番首をかしげている」
「本人にも心あたりがないんですか」
「らしいよ。ただ、子ども好きでな。よく近所の子どもになぞなぞを出していたんだ。答えを当てられたら飴とかガムをあげていた。逆に子どもが出すなぞなぞに答えられなかったりしても、そういうお菓子を巻き上げられたりね」
それを聞きながら、俺はやっぱりそのおじさんがやってることなんじゃないかと感じた。ただ誇張されているだけで。

「奥さんがいるんだけど、ちょっと前まで共働きでな。昼間はたいていその家は留守なんだ。七不思議の噂ではその昼間に702号室に行くことになっている。それで郵便受けから部屋の中になぞなぞを一方的に話す。
肝心なことはそのなぞなぞおじさんは答えが分からなくて返事がない、ということがパターンになっていることだ。当たり前だな、誰も部屋の中にはいないんだから。でも夜にそのなぞなぞの答えを話しにやってくる、というところが変だろう。
なぜその誰も聞いていないはずのなぞなぞを知っているのか」

 

そうか。子どもにとっては昼間に誰もいない家だからこそ、ノックをしてドアの郵便受けからなぞなぞを投げ掛けるなんていうイタズラができるのだ。なのに、いないはずの誰かにそのなぞなぞを聞かれている。

これはいったいどういうことだろう。
「答えがないから七不思議なんだろう。その702号室のおじさんは変な噂が立ったせいで奥さんに怒られて、今なぞなぞ禁止になってるよ。というか、近所の子どもと遊ぶの自体自粛中」
子どもが好きな人だろうに、少しかわいそうな気がするが世間体というものがある。ほとぼりがさめるまで仕方がないのかも知れない。
ほとぼり?
ふと思う。そんなもの、さめるのだろうか。一度七不思議になったものが、そう簡単に。

なにかきっかけになった事件や事故があったとしても、一度そういう怪談になってしまったものは、延々と子どもたちのコミュニティーの中で一人歩きをし、生きながらえていくのではないだろうか。

「いや、それがな。最近奥さんが仕事を休んでて家にいるようになったもんだから、子どもが昼間来ても郵便受けからなぞなぞを出した時点で追い返されてる。奥さんは怖い人だから、いずれ子どもたちも懲りるだろう」
そうか。それなら確かにほとぼりはさめるかも知れない。
七不思議が消えるのか。
笑ってしまった。
「可笑しいか」
頷く。
「でも、直接本人から聞いた話で、笑えないのがあるんだ」
「本人というは、そのおじさんですか」
「そう。まだ共働きのころ、たまたま仕事を休んでて昼間一人でいたらしいんだ。密かに楽しみにしてたのは、噂につられた子どもが実際にドアをノックしてなぞなぞを出してくるんじゃないかってこと。
もしそんなことがあったら、どうやって脅かしてやろうかとニヤニヤしてたらしい」
「全然懲りてないじゃないですか」
でも子どもがやってくる気配はない。それはそうだ。普段留守をしている平日の昼間なら、子どもたちだって学校があるはずだ。たまたま休校だとか、水曜日で午後は授業がないとか、そういう日じゃないと。

 

子どもが来そうになかったので、近くのコンビニに買い物をしに行った。帰って来て702号室のドアの前に立った時、思いついてノックをしてみた。当然誰もいないから返事はない。ドアの郵便受けを親指で押し込んでみる。数センチ幅の隙間ができる。

屈んだまま子どもの真似をしてなぞなぞを出してみた。
『おじさん、おじさん、松の木の下ではお喋りしたかったのに、桜の木の下まで歩いたら綾取りをしたくなりました。な~ぜだ?』
……返事はない。こんな馬鹿なことをしているのが恥ずかしくなって廊下をキョロキョロしてしまう。子どもたちはこれのどこを面白がっているんだろうと思いながらドアを開けて部屋に入る。中に誰かいたら嫌だなと思ったけど、もちろん誰もいない。
ホッとしてコンビニで買ったものを袋から出して冷蔵庫にしまっていると、玄関のドアをノックする音が聞こえる。はあい、と返事をして冷蔵庫を後ろ足で閉め、はい、はい、と言いながら玄関に行き、サンダルを引っ掛けてドアの鍵を外そうと手を伸ばす。

すると視線の下、郵便受けがカタリと鳴る。外の音がほんの少し流れ込んでくる。ざわざわざわざわ……
あ、これは、と思った瞬間、声が聞こえる。
『おじさん、おじさん、松の木の下ではお喋りしたかったのに、桜の木の下まで歩いたら綾取りをしたくなりました。な~ぜだ?』
誰の声だ。鍵を外そうとした手が空中で止まる。
あれ? いつの間に夜になったんだろう。暗い。玄関が暗い。電気。電気をつけないと。

声は続ける。
『答えはね……』
木が変わったから。答えは気(木)が変わったからだ。心臓が激しく動いている。その、どこかで聞いたことのあるような、低い、男の声がささやくように言う。
『答えはね、桜の木の下には、死体が埋まっているから』
……ドカン、とドアを蹴った。声は黙る。すぐにドアの鍵を外し、開け放つ。光が溢れる。さっきまでまるで深夜のように暗かったのが嘘みたいに。外には誰もいない。誰かが走り去る気配もない。
なんだ今のは? 足がガクガクする。自分の声のようだった。さっきまでドアの向こうに自分が立っていたのか? なにがなんだか分からなくて、ひたすら震えていた。
って、いう話。

 

とおどけてみせるのを、俺は久しぶりにゾクゾクした気持ちで見つめていた。
「怖いですね」
完全に怪談だ。なぞなぞおじさんという七不思議に出てくる存在が、自分自身とは別個のもののように立ち現れている。まるで……
そこまで考えたとき、ハッとして横に座る人の顔を見た。
この人の周囲には、「それ」が多すぎる。
かつての自分の体験を記憶の底から呼び覚まそうとして、一瞬意識がこの場所から離れた。

その時だ。
俺の耳は子どもの声を拾った。ぐずるような声。近い。
ゾクリとしてジャングルジムに視線をやる。その中にさっきまでいなかったはずの子どもの姿を見てしまう気がして顔が強張る。
一秒、二秒、三秒……
俺のその様子を見てその人も緊張したようだったが、やがて俺がなにを考えたか分かったようで苦笑する。
ああ、そうか。
俺はあえて見えない振りをしていたのだ。冷静になれば、なにも怪談話などではないのに。
照れくさくなり、「ちょっとトイレに」と言って立ち上がる。
「あっちにある」
指で示された方へ歩くことしばし。小ぎれいな公衆トイレを見つけて用を足し、俺はその場で考えた。
行ってみるか。

トイレの前にはC棟という刻印がされたクリーム色の壁がある。A棟は近い。挙動不審に見られない程度にキョロキョロしながら何色かに色分けされた舗装レンガの上を歩き、Aの刻印のある巨大な建物の前に立つ。
玄関でのセキュリティーはなかったので堂々と正面から入り込み、エレベーターに乗る。「7」を押すと、途中で止まることもなく目的地で扉が開いた。
平日の昼ひなか。太陽の角度の関係か、妙にひんやりした空気が漂っている廊下に出る。
静かだ。ここまで住民の誰とも出会わなかった。

 

702号室は端の方だ。壁と良く似た色のドアが並んでいるのを横目で見ながら歩き、やがて702の表示を見つける。
ドアの両脇の壁に、自分で取り付けたのか、プラスチックの板があった。
『こどもたちのために禁煙を』
『喫煙は決められた場所で』
そんな活字が黒く刻まれている。

なぞなぞおじさんはどうやら、禁煙運動だか嫌煙運動だかをこの団地で推進している人らしい。団地の集会では、お母さんたちからは支持され、お父さん連中からは煙たがられているに違いない。
俺は小さく笑ってドアをノックする。
しばらく待っても反応はない。やはり仕事に出ているらしい。
ドアノブの横、下目の位置に横長の郵便受けの口がある。色は銀色。軽く屈んで右手の親指で押してみる。覗き込んでも部屋の中は見えない。ドアの内側に郵便物を受けるカバーがあるのだ。

少し大きめの声で言う。
「おじさん、おじさん、ヘビースモーカーがある朝急に禁煙したのはな~ぜだ?」
篭った声がそれでもカバーの向こう側に漏れて行くのが分かる。
けれど室内から人の気配はなく、なぞなぞに答える声もなかった。
しばらく待つ。静寂が耳に響く。耳鳴りがやって来そうで身構えているが、いつまで経ってもそれは来なかった。
カタリと郵便受けから指を離し、702号室を後にする。
一度廊下で振り返ったが、ほんの少しドアが開きかけている、なんてことはなかった。
A棟の玄関に降り立ち、出来るだけ遠回りして戻ろうと、来た方向の逆へ足を向ける。

なんとか迷わずに元の公園に戻ってくると、その人は逆方向から来た俺に、あれ? という表情をして、そしてすぐにニコリと笑った。
「気をつかわせたな」
ちょうど胸元をしまうところだった。
胸に抱いた赤ん坊はさっきまでぐずりかけていたのに、今は満足そうな顔で目を閉じている。赤ん坊の口をハンカチで軽く拭き、その人は俺に笑いかける。

「家に寄って行かないか」
その提案に一瞬迷ってから、遠慮をした。「友だちがもう迎えに来ますから」
「そうか、残念だな」とさほど残念そうでもなく言うと、その人は赤ん坊に向かって、「あぶぶ」と口をすぼめて見せた。
俺は、もう行って来ましたよ、と口の中で呟く。そうしながら、三桁の番号が印字された鍵があのタイミングでポケットから落ちたのは偶然なのかどうか考えている。
やがてその夢想も曖昧なままどこかに消え、ただ冬の合間に差し込まれた柔らかい小春日和の公園に立っている。

小春日和にあたる季節を、アメリカではインディアン・サマーと言うらしい。寒さの本格的な到来の前にぽっかりと訪れる、冬に向けた準備のための暖かな時間。春でも大げさだと思うが、夏とは凄い例えだ。
その時、ふいに思ったのだ。
数年前、人のいないプールで始まった自分の夏が、終わってしまったのはいつだろうかと。
思えば、ずっと夏だった。秋も、冬も、春も、またやって来た夏も。見たもの聞いたもの、やることなすこと、なにもかも無茶苦茶で、無茶苦茶なままずっと夏だった気がする。山の中に身を伏せて虫の音を聞いた秋も。寒さに震えた冬の夜の海辺でさえ。

やがて、別の世界に通じる扉がひとつ、ひとつと閉じて行き、気がつけば長かった夏も終わっていた。
『夏への扉』という小説がある。
その中でピートという猫は、十一もある家の外へ通じる扉を飼い主である主人公に次々と開けさせる。扉の向こうが冬であることに不満で、夏の世界へ通じる扉を探して主人公を急かすのだ。
何度寒さに失望しても、少なくともどれかひとつは夏への扉であると疑わずに。
俺は失望はしていない。そんな別の世界へ通じる扉などない方がいいということはよく分かっているからだ。
ただそのころ垣間見た、ありえない世界の景色に今さら感傷を覚えることはある。そんな傷が、胸に微かな痛みをもたらすのだろうか。
「じゃあ、さようなら」
手を振って公園を出る。

その人はベンチから立ち上がり、こちらを見送っている。
これからその人が帰る扉の向こうには、ありふれた生活があるのだろう。七不思議の世界などではなく。
俺はもう一度さようならと呟いて、歩きながらゆっくりと背を向けた。
小春日和のベンチと、ずっと抱いていた遠く仄かな輝きと、そしてかつて愛した夏への扉に。

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