『虐待を受けた過去』本当にやった復讐 – 修羅場【長編】

『虐待を受けた過去』本当にやった復讐 - 修羅場【長編】- 実際に行動した体験談

 

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虐待を受けた過去

 

私の家庭は母子家庭で、物心ついたときから父親という存在がいなかった。

私、弟、母の三人暮らしで、母は看護師をして私達を養っていた。

ただ、母は小さい頃虐待を受けた過去があった。

そのため子供の育てかたがわからなかった。関わりかたもわからなかった。何より男がいないとダメな人間だった。

私達のご飯はコンビニの弁当で、手作りの味は給食だった。

小さいころ、水筒がなくて、夏は水道水の水をのんでた。

えんぴつがあってもえんぴつ削りがなくてノートが書けなかった。

服もほぼ毎日同じだった。

お前んちのご飯いっつもローソンなん?

同級生の男子たちに言われて恥ずかしかった。

そんな私を見る担任や他生徒の親の目が冷たかったのを今も覚えてる・・。

怖い、見ないで。それ以来人の目を見ることができなくなった。

そんな母は、男のとこへ行けば当たり前に帰って来なかった。

小学生の頃の朝、私は母に電話を入れた。お腹が空いたって伝えた。

でも、受話器から聞こえたのは母の喘ぎ声だった。

受話器を耳につけたまま何も言えず、喘ぎ声を聞き続けた。

おかげで大人の男に近づくのが怖くなった。

母は怒ると暴力を振るった。

何度も足をいれられて、やめてとは言えずもうしません、もうしません。って泣きもって言いながら必死で許しをこうた。

耐えれずサンダル片足だけ履いて、待て!って怒鳴る母を背にして逃げたこともあった。

裸で外にも出され、うずくまって泣いたこともあった。

その時に隣に住んでた家の息子に見られた。

別の日に、その息子に会って性的嫌がらせを受けた。

他の子達より胸が成長してたから、興味があったのかもしれない。初めて胸を触られた。
気持ち悪かった。誰にも言えなかった。

本当のお父さんやお母さんがどっかにおって、いつかうちを迎えに来てくれるん。待っとるけんね。

自分がつくった空想の両親に何度も手紙を書いた。

母は私を顔の癌だとよく言った。

私は不細工。私は気持ち悪いって、いう気持ちが今もあって余計男に関われなくなった。

今もマスクで顔を隠してしまうとこがある。

母は私にごめん、ありがとう、そして誉めるってことはしなかった。

褒められ慣れてないから、褒められてしまったら、どう反応していいのかわからなかった。

小学生~中学生の間、担任や教師たちはこんな私を邪険にした。
大人が、大嫌いだった。

そんな私と仲良くしてくれたのは、不良のお姉さんたちだった。

いっぱい悪いことをした。パトカーにも乗った。あのときは寂しかった。かまってくれるみんなが、母みたいに頭を撫でてくれる先輩達が大好きだった。

こんな中、私にも夢があった。

デザイン関係の仕事につきたかった。だから、デザインの勉強をしたかった。

でも、デザイン高校を入るのに出席日数が足りなかった。

あ~、無理無理。出席日数足りん足りん。

金八が大好きな担任はそう言い軽くあしらった。

唯一いけたのは

一応看護科のある偏差値の低い高校だった。勉強だけはさせてもらってたから、そこの看護科に1位で入ることができた。

そのときは看護師になるつもりは、無かった。

でも、こんな私が誰かに必要とされ、癒すことができたら・・・

勉強する中でそう思った。

高校に入ってすぐにバイトを始めた。

でも一度バイト代を母に使われ、学費を滞納したことがあった。

みじめで泣けた。

そのとき、担任に自分の家庭がバレた。

担任も小学や中学の担任と一緒で、私を邪険に扱う。知られたとき、すぐによぎった。

それから逃げるようにして学校をサボり始めた。

だけど

担任は私を呼び出し、涙を流した。

そして泣きながら

あんたには看護師になってほしいんよ!

私を見てそういった。

それを聞いたあと

私も泣いてた。

担任の温かい気持ちが

嬉しくて泣いた。

頑張ります

泣きながら私も答えた。

そのあと、高校で様々なバイトをした。

年をごまかしてお水のバイトもした。

ただ、私は男の人が苦手だった。向いてないとおもうけど、お酒強いから頑張ってほしい。ママに言われ頑張った。

でも、バレないうちに辞めた。

お金に余裕ができたころ、好きな人もできた。

見るだけでよかったんだけど、友達がアドレスを私に教えてくれて、遊ぶことができた。

そのとき私がベッドで横になってたときだった。

その子が上に乗ってきた。

私は、思わず蹴落としてしまった。

淡い恋の終了だった。

そして高校過程を終了し、担任に教えてもらった奨学金制度を使い、専攻過程にうつった。

専攻過程にうつり、担任が変わった。

担任が変わったあと、またいつもの逃げる私に戻った。

その頃母も男と同棲し始め、私に何も言わず消えた。

今度は、光熱費を払わないといけなくなった。

ご飯代、光熱費・・そして実習。

いくら働いても、お金が追い付かなかった。

弟も不良の道に走り、家出をして、帰ってこなくなった。

家族がいなくなった。私、ひとりになった。

お金も無くなり、学校に行かなくなった。
もう疲れた。甘えも出た。初めて包丁で手を切った。もっと深く切れたらなって思うだけで死ぬ勇気は無かった。虚しいだけだった。

専攻過程のときの担任は、そんな甘えた私に冷たかった。

単位足りなくなるから来なさい。現実を突き付けられた。

それでも行かなかったら、夜に担任が自宅まで来た。

そして玄関先で、言いあいになった。

「何で学校に来ないの?」

「金がないけん」

「学費払ってるんだから行けるでしょ、明日から来なさい」

「いきません」

「みんな心配してるのよ」

「しとるわけないし」

「あなたのお母さんだって、心配してる」

私の母親・・・・その言葉に、線が切れた。

「じゃあ何でおらんのよ!心配しとったらここにおるやろが!勝手なこと言うな!(何でいないのよ!心配してたらここにいるでしょ!)」

担任に怒鳴りつけた。

初めて大人の人に対して怒鳴りつけた。

でもそのあと残ったのは虚しさだった。意味もわからず涙が出た。

担任に感情をぶつけたあと、しゃがみこんだ。

さみしい苦しい誰か助けて

しゃがんだままそれだけ言って静かに泣いた。

担任は私が泣き止むまで、黙ってそこにいてくれた。

それから担任は私の家に来るようになった。

担任が作ったご飯を持って。

手作りが嬉しかった。泣きながら食べた。なすびが嫌いだったけど、担任が作ったなすびの松前漬けは食べた。

やっぱりなすびおいしくないや・・・そう思いながら泣いて食べた。

母のように優しく、甘やかしてくれて、教師として厳しく扱うそんな担任が大好きになった。

母親とも思うようになった。

担任を見て、私も自炊をするようになった。

特売日、玉子が安い日。チラシをチェックするようにもなった。

どれだけ安く、おいしく、お腹いっぱいに食べれるか考え出した。

おかげで料理のレパートリーが増えた。

担任はそんな私を誉めてくれた。

バイトをしながら、実習も手を抜かなかった。

実習中のバイトを反対していた担任。

でも、頑張っていたら笑って喜んでくれた。

そして友達や担任や友達のママに支えられながら、私は看護師になることができた。

試験に受かったとき、泣いて喜んだのは高校と専攻の担任だった。

照れた。幸せだなって思った。

試験が受かってから母親とも再会した。

母親の苦労もわかるから、幸せになってほしいと、母親と彼氏を応援してる自分がいる。

私がどれだけ・・!って、苛つくけど。

看護師になって、はや4年ほど。
今は患者さんの心の支えになれる看護師を目指してます。

甘えたい気持ちも、寂しい気持ちも、苦しい気持ちもわかるから。

そのときに、支えてくれた人たちの優しさが嬉しかったから。

傷ついたぶん、人の痛みがわかるから。

なんでも受け入れる気持ちで、いるようにしてます。

たまにこのやろう。って思うときもあるけど。

周りに安い幸せやなあ!って笑われるときもあるけど、小さなことでも幸せと思える私は得だな~って思います。

男苦手も克服できるように、最近は2人!って言うのにも挑戦してます。

なんでか手が震えるけど。しゃべれなくなるけど。きょどるけど。

今は自分なりに前を向いて歩いてます♪

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