感動する話・泣ける話まとめ 短編5話【86】
アルツハイマーの祖母
今日、夜中の1時に、アルツハイマー病を患う祖母が急に起き上がり、父の車に乗って、勝手にどこかへ運転していきました。
私たち家族は心配で警察に連絡をしました。
しかし、警察が祖母を見つけるよりも先に、大学生2人が祖母を連れて帰って来たのです。
大学生のうち1人は父の車を運転し、もう1人は別の車で付いていくという形で家までたどり着いたそうです。
大学生の話だと、うちから16キロも離れたガソリンスタンドで
「迷子になった」と泣きわめく祖母の声を聞き、助けに来てくれたそうです。
祖母は家の住所を覚えていなかったので、自分の名前を教えたそうです。
大学生は名前からオンラインで住所を調べて、家を探し、祖母を無事に送ってくれました。
ベトナムの村の孤児院
あるベトナムの村に宣教師たちの運営する孤児院がありましたが、爆撃を受けてしまいました。
宣教師達と2人の子供達が即死し、その他の者も重傷を負いました。
重傷になったものたちの中でも8才の女の子は最も危ない状態でした。
無線で助けを求めると、しばらくしてアメリカ海軍の医者と看護婦が到着しました。
大量に出血したことにより危ない状態にあり、早く手当をしないと少女は命を落とすことになります。
輸血が必要でした。
しかしどうやってそれを行うことができるというのでしょうか。
言葉が通じないため、ジェスチャーを使って子供達を集め、何がおきていたのかを説明し、誰かが血液を提供することが必要であることを伝えようとしました。
沈黙の時間がしばらく続いた後、一本の細い腕が恐る恐るあがりました。
ヘングという名の少年でした。
急いで少年の準備をすると、苦しむ少女の隣に寝かせ、輸血ようの管をとりつけました。
少年は黙ったまま天井をじっと見つめていました。
しばらくすると、少年は自由になっている手で顔を覆うと、しゃくりあげるように泣いているのでした。
医師がどこか痛いのかと尋ねるとそうではないようでした。
しかし、しばらくするとまた、しゃくりあげ、今度は大粒の涙をこぼしていました。
医師は気になり、再び尋ねましたが、またもや彼は否定しました。
ときどきしゃくりあげていたのが、やがて静かに泣き出しました。
明らかに何かが間違っているようでした。
すると別の村からベトナム人の看護婦が現れました。
医師はその看護婦にヘングに何が起きたのか尋ねてくれるように頼みました。
すると少年の苦しそうな表情はゆるみ、しばらくすると彼の顔は再び平静を取り戻しました。
すると看護婦はアメリカ人の医師達に説明しました。
「彼はもう自分が死ぬのかと思っていたんです。あなた達が説明したことを理解しておらず、少女を助けるため、全ての 血液を提供しなければいけないと思ったようです。」
すると医師はベトナム人看護婦の助けを借り、少年にきいてみました。
「そうであればどうしてあなたは血液を提供しようと決心したんですか。」
すると少年は単純に応えました。
「あの子はぼくの友達なんです。」
女子って言葉が好き
前に祖母のいる老人ホームを尋ねたら80代のご婦人5人でお茶してたから
「あら女子会ですね」
と声をかけたらひとりのおばあちゃんがすごく喜んでくれて。
「ずっとその「女子」っていうのになりたかったの、女でも妻でも母でもない女子に…わたしも女子なの?嬉しい!」
って。
わたしは女子って言葉大好き。
バスの運転手さん
東京にいた今から16年程前の12月も半ば過ぎたころの話です
私は体調を壊し、週二回、中野坂上の病院に通院していました
その日は今にも雪が降り出しそうな空で、とても寒い日でした
昼近くになって、病院の診察を終えバス停からいつものようにバスに乗りました
バスは座る席はなく、私は前方の乗降口の反対側に立っていました
社内は暖房が効いていて、外の寒さを忘れるほどでした
まもなくバスは東京医科大学前に着き、そこでは多分病院からの帰りでしょう、どっと多くの人が乗りあっという間に満員になってしまいました
立ち並ぶ人の熱気と暖房とで先ほどの心地よさは一度になくなってしまいました
バスが静かに走り出したとき、後方から赤ちゃんの火のついたような泣き声が聞こえました
私には見えませんでしたが、ギュウギュウ詰めのバスと人の熱気と暖房とで、小さな赤ちゃんにとっては苦しく泣く以外方法がなかったのだと思えました
泣き叫ぶ赤ちゃんを乗せて、バスは新宿に向い走っていました
バスが次のバス停に着いた時、何人かが降り始めました
最後の人が降りる時、後方から、
「待ってください 降ります」と、若い女の人の声が聞こえました
その人は立っている人の間をかきわけるように前の方に進んできます
その時、私は、子どもの泣き声がだんだん近づいて来ることで泣いた赤ちゃんを抱いているお母さんだな、とわかりました
そのお母さんが運転手さんの横まで行き、お金を払おうとしますと運転手さんは
「目的地はどこまでですか?」と聞いています
その女性は気の毒そうに小さな声で
「新宿駅まで行きたいのですが、子どもが泣くので、ここで降ります」
と答えました
すると運転手さんは
「ここから新宿駅まで歩いてゆくのは大変です目的地まで乗っていってください」
と、その女性に話しました
そして急にマイクのスイッチを入れたかと思うと
「皆さん!この若いお母さんは新宿まで行くのですが赤ちゃんが泣いて、皆さんにご迷惑がかかるので、ここで降りるといっています。子どもは小さい時は泣きます 赤ちゃんは泣くのが仕事ですどうぞ皆さん、少しの時間、赤ちゃんとお母さんを一緒に乗せて行って下さい」
と、言いました
私はどうしていいかわからず、多分皆もそうだったと思います
ほんの数秒かが過ぎた時
一人の拍手につられてバスの乗客全員の拍手が返事となったのです
若いお母さんは何度も何度も頭を下げていました
今でもこの光景を思い出しますと、目頭が熱くなり、ジーンときます
私のとても大切な、心にしみる思い出です
私は強くなったよ
レミオロメンの「3月9日」という曲が流れる度に、私は泣きそうになります。
両親は、私が10歳の時に事故死しました。
あの日は家族旅行に行っていました。
帰り道、高速道路を走っていると、大型トラックがスリップしてぶつかって来て、私達の車は中央分離帯にガリガリと押し付けられました。
私は気を失っていて、気が付くと病院でした。
目が覚めたのに、何故お父さんとお母さんに会えないのか分かりませんでした。
暫くして、目を真っ赤にした祖母が入って来た時、小さいながら全てを悟りました。
会えない状況にあるのだと。
父と母は重症を負っていて、喋るのもやっとで、顔は原型を留めていませんでした。
そんな自分達に、私を会わせたくなかったのでしょう。
一週間ほど経ち、両親はほぼ同じ時刻に息を引き取りました。
私は最後まで、大人の事情で会うことが出来ませんでした。
お葬式には、沢山の人が居ました。
みんな揃って泣いていました。
私は終始泣きませんでした。
いいえ、泣けなかった。
そんな私を見て、親戚の人達は私を「頭がおかしいんじゃないのか?」などと言いました。
空っぽな家に帰った時『ああ、一人なんだ』と実感しました。
その夜、祖母が私に二人の携帯電話を差し出してきました。
ボイスメモのアプリを開いて、私は一つの項目をタップして聴き始めました。
1時間くらい、何度も何度も聴きました。
紛れもなく両親の声でした。
かすれた声で絞り出すように吹き込まれていました。
「れい~、元気ですか?お父さんもお母さんも、れいを置いて行く訳じゃないよ。
けど、居なくなっちゃってごめんね。
お父さんもお母さんも、れいが大好きです。
だから最後にれいをぎゅーってしたかったなぁ。
これからは、れいをぎゅーってしてあげる事が出来ません。
れいが泣いている時、慰めてあげることもね。
でもね、これだけは覚えておいて。
貴方は、私達の娘です。
貴方の笑った顔が大好きです。
だから、どんなに辛くても、笑ってね。
お母さん達は、ずっとずーっと大好きです。
私達の娘に産まれてきてくれて、ありがとね」
私は、泣きませんでした。
笑いました。
ありがとう!そう叫びました。
その時に誤って Apple Musicを開いてしまいました。
すると勝手にレミオロメンの「3月9日」が流れ始めました。
「3月9日」は、事故の時も聴いていた、二人が大好きな曲です。
その曲を聞いた途端、とめどない涙が溢れてきました。
うずくまって声を上げて泣きました。
今でも泣きそうになるけど、私は強くなったよ。
ありがと。
これからも大好きです。
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