感動する話・泣ける話まとめ 短編5話【1】
血がつながっていないこと
私が結婚を母に報告した時、
ありったけの祝福の言葉を言い終わった母は、
私の手を握りまっすぐ目をみつめてこう言った。
「私にとって、みおは本当の娘だからね」
ドキリとした。
母と私の血がつながっていないことは、
父が再婚してからの18年間、
互いに触れていなかった。
再婚当時幼かった私にとって
「母」の記憶は「今の母」だけで、
『義理』という意識は私にはなかった。
けれど、やはり戸籍上
私は「養子」で、
母にとって私は父と前妻の子なので、
母が私のことをどう考えているのか、
わからなかった。
気になってはいても
そのことを口に出した途端、
互いがそれを意識して
ちぐはぐな関係になってしまいそうで、
聞き出す勇気は私にはなかった。
だから、母の突然で
まっすぐな言葉に私は驚き、
すぐに何かをいう事ができなかったのだ。
母は私の返事を待たずに
「今日の晩御飯、張り切らなくちゃだめね」
と言い台所に向かった。
私はその後姿を見て、
自分がタイミングを逃したことに気がついた。
そして、
「私もだよ、お母さん」
すぐそう言えば良かったと後悔した。
結婚式当日、
母はいつも通りの母だった。
対する私は、
言いそびれた言葉をいつ言うべきか
を考えていて、少しよそよそしかった。
式は順調に進み、
ボロボロ泣いている父の横にいる、
母のスピーチとなった。
母は何かを準備していたらしく、
司会者の人に
マイクを通さず何かを喋り、
マイクを通して「お願いします」と言った。
すると母は喋っていないのに、
会場のスピーカーから誰かの声が聞こえた。
「もしもし、お母さん。
看護婦さんがテレホンカードでしてくれたの。
お母さんに会いたい。
お母さんどこ?みおを迎えに来て。
みおね、今日お母さんが来ると思って折り紙をね…」
そこで声はピーっという音に遮られた。
「以上の録音を消去する場合は9を…」
と式場に響く中、
私の頭の中に昔の記憶が
流水のごとくなだれ込んできた。
車にはねられ、
軽く頭を縫った小学校2年生の私。
病院に数週間入院することになり、
母に会えなくて、夜も怖くて泣いていた私。
看護婦さんに駄々をこねて、
病院内の公衆電話から自宅に電話してもらった私。
この電話の後、
面会時間ギリギリ頃に
母が息を切らして会いに来てくれた。
シーンと静まりかえる式場で、
母は私が結婚報告したのを聞いた時と同じ表情で、
まっすぐ前を見つめながら話し始めた。
「私が夫と結婚を決めたとき、
互いの両親から大反対されました。
すでに夫には2歳の娘がいたからです。
それでも私たちは結婚をしました。
娘が7歳になり、
私はこのままこの子の母としてやっていける、
そう確信し自信をつけた時、
油断が生まれてしまいました。
私の不注意で娘は事故にあい、
入院することになってしまったのです」
あの事故は、母と一緒にいるときに
私が勝手に道路に飛び出しただけで、
決して母のせいではなかった。
「私は自分を責めました」
「そしてこんな母親失格の私が、
娘のそぼにいてはいけないと思うようになり、
娘の病院に段々足を運ばなくなっていったのです。
今思えば、逆の行動をとるべきですよね」
そこで母は少し笑い、目を下におとして続けた。
「そんなとき、
パートから帰った私を待っていたのは、
娘からのこの留守番電話のメッセージでした」
「私は『もしもし、お母さん』
このフレーズを何度もリピートして聞きました。
その言葉は、母親として側にいても良い、
娘がそう言ってくれているような気がしたのです」
初めて見る母の泣き顔は、
ぼやけてはっきりと見えなかった。
「ありがとう、みお」
隣にいる父は、少しぽかんとしながらも、
泣きながら母を見ていた。
きっと、母がそんなことを考えているなんて知らなかったのだろう。
私も知らなかった。
司会者が私にマイクを回した。
事故は母が悪いわけじゃないことなど、
言いたいことはたくさんあったけれど、
泣き声で苦しい私は、
言いそびれた一番大事な言葉だけを伝えた。
「私もだよ、お母さん。ありがとう」
お婆さんと千円札
学生時代、貧乏旅行をした。
帰途、寝台列車の切符を買ったら、残金が80円!
もう丸一日以上何も食べていない。
家に着くのは約36時間後…。
空腹をどうやり過ごすか考えつつ、駅のホームでしょんぼりしていた。
すると、見知らぬお婆さんが心配そうな表情で声を掛けてくれた。
わけを話すと、持っていた茹で卵を2個分けてくれた。
さらに、私のポケットに千円札をねじ込もうとする。
さすがにそれは遠慮しようと思ったが、お婆さん曰く、
「あなたが大人になって、同じ境遇の若者を見たら手を差し伸べてあげなさい。社会ってそういうものよ」
私は感極まって泣いてしまった。
お婆さんと別れて列車に乗り込むと、同じボックスにはお爺さんが。
最近産まれた初孫のことを詠った自作の和歌集を携えて遊びに行くという。
ホチキスで留めただけの冊子だったので、あり合わせの糸を撚って紐を作り、和綴じにしてあげた。
ただそれだけなんだが、お爺さんは座席の上に正座してぴったりと手をつき、まだ21歳(当時)の私に深々と頭を下げた。
「あなたの心づくしは生涯忘れない。孫も果報者だ。物でお礼に代えられるとは思わないが、気は心だ。
せめて弁当くらいは出させて欲しい。どうか無礼と思わんで下さい」
恐縮したが、こちらの心まで温かくなった。
結局、車中で2度も最上級の弁当をご馳走になり、駅でお婆さんに貰ったお金は遣わずじまいだった。
何か有意義なことに遣おうと思いつつ、その千円札は14年後の今もまだ手元にある。
腹立たしい老人を見ることも少なくないけれど、こういう人たちと触れ合うことができた私は物凄く幸運だ。
あの時の貴方を忘れません
結婚当初、姑と上手く噛み合わなくて、会うと気疲れしていた。
意地悪されたりはしなかったけど、気さくで良く大声で笑う実母に比べ
足を悪くするまでずっと看護士として働いていた姑は、喜怒哀楽を直接表現せず
シャキシャキ・パキパキ黙々って感じで、ついこっちも身構えてしまっていた。
何となく「私、あまり好かれてないな」と思う時も有って、当たり障りなくつき合っていた。
その年は、私が秋に二人目を出産した事もあり、混雑を避けて一月中旬に帰省する事になった。
そして早朝、今まで感じたことの無い揺れと衝撃を感じた。阪神淡路大震災だった。
朝釣りに行くという夫達の為に、お弁当と朝食を作っていた私と姑は立っていること出来ずに座り込んだ。
食器棚が空いて、次々と皿やグラスが降ってきた。
名前を呼ばれた気がして目を開けると、姑が私に覆い被さっていた。
私を抱きしめる腕も肩も頭も血が出ていた。
夫と舅が子供達を抱いて台所に飛び込んできて、私達を廊下に連れだしてくれた。
歪んでなかなか開かない玄関ドアを開けると、街の景色は一変していた。
義実家はマンションの高層階だったが、エレベーターは止まり、階段にはヒビが入っていた。
呆然とする間にも、大きな余震が襲ってきた。
廊下の壁にも大きな亀裂が入り、揺れが襲う度に何かガラガラと大きな物が落ちていく音がした。
姑が「あなた達は早く逃げなさい!」と部屋に戻り皆の上着やマフラーを持ってきた。
泣きながら「あなた達って・・・お義母さんは?」と聞くと「後で逃げるから、良いから早く!」と恐い顔で言われた。
足が悪くて階段では逃げられない自分は、足手まといになると思っているんだと分かった。
夫が「母親を見捨てて逃げたら、俺はもう子供達に顔向けできない」と姑を背負おうとしたら
姑が夫をひっぱたいた「あんたの守るのは子供と嫁!産後で完全じゃない嫁を幼子二人を守ることだけ考えなさい!」
そして血だらけの手で、私の髪を撫でて「ごめんね。帰省させなきゃ良かったね。ゴメンね」と笑った。
結局舅が姑を連れて、後から逃げると説得され、私達夫婦は子供二人と先に階段を下りました。
避難所で無事に再会出来たときは、安堵のあまり「おうおうおう」と言葉にならない声で抱きついて泣いた。
マンションは数日後に全壊した。
避難所で再会して気が付いたが、姑は家族の上着を持って来てくれたが自分はセーターにエプロンという服装だった。
初めから、皆だけ逃がすつもりだったんだと思ったら、また泣いた。
未曾有の事態に母乳が出なくなったり、出ても詰まったり色が変だったりで
痛くて脂汗を流しながら、マッサージをしていると、産婦人科にいた事もある姑が
「熱を持ってるね。痛いね。でも出さないともっと痛いから。代わってあげられなくてゴメンね」と泣きながらマッサージを手伝ってくれた。
避難所では「ブランクがあって、知識が古いけど」と看護士として働いて、まわりを元気づけていた。
あの時、赤ん坊だった下の子はもう高校生で、舅は既に他界した。
福島の震災をみていると、どうしても阪神地震を思い出してしまう。
同居の姑は、今も喜怒哀楽をあまり出さないけど、今では何を考えているかちゃんと分かる。
ありがとう、おかあさん。あの時の血だらけの貴方を忘れません。
3才の娘が難聴と知らされた日
うちの娘3才は難聴。ほとんど聞こえない。
その事実を知らされたときは嫁と泣いた。何度も泣いた。
難聴と知らされた日から娘が今までとは違う生き物に見えた。
嫁は自分を責めて、俺も自分を責めて、まわりの健康な赤ん坊を産むことができた友人を妬んだ。
ドン底だった。
バカみたいにプライドが高かった俺はまわりの奴等に娘が難聴って知られるのが嫌だった。
何もかもが嫌になった。
嫁と娘と三人で死のうと毎晩考えていた。
ある晩、嫁が俺に向かってやたらと手を動かしてみせた。
頭おかしくなったんかと思ってたら、喋りながらゆっくり手を動かし始めた。
「大好き、愛してる、だから一緒にがんばろう」
手話だった。
そのときの嫁の手、この世のものじゃないかと思うくらい綺麗だった。
それで目が覚めた。
何日もまともに娘の顔を見てないことにもやっと気付いた。
娘は眠ってたが、俺が声をかけるとニタッと笑った。
あれから三年。
娘の小さな可愛い手は上手に動いてる。
喋ってる。
長女の絵
私は長女が3歳になった時に長男を出産した
長男が生まれるまで私と長女はほとんどずっと一緒にいた
夫がいない平日の昼間は2人だけの時間だった
でも子供が2人になるとどうしてもずっと長女だけという訳にはいかない
出来るだけ寂しくないように長女を見ているつもりでもどうしてもそれまでより長女と一緒に遊べなくなっていた
それでも長女はワガママも言わず長男の面倒を見たりしてくれていた
私が長男の面倒を見ている時は大人しく1人でお絵かきをしていた
それがとてもありがたく助かっていた
夫は育児に協力的だし、子供たちも良い子に育ってくれていた
ストレスが無い位に幸せな日々だったと思う
それでもきっと疲れが溜まっていたのだろう
ある日風邪で寝込んでしまった
夫は数日有給を取って子供の面倒を見てくれた
夫は元々結婚前は一人暮らしだったので家事全般こなすことが出来る
子供の世話も良く手伝ってくれていたので安心して任せられた
1日目は本当に起き上がれない状態でほとんどずっとうとうとしていた
熱が下がってきた2日目はあまり眠れず横になったままずっと生活音を聞いていた
ドアの向こうから夫や子供の声、遊んでいる音、食事の音などが聞こえていた
見えなくても3人の様子が目に浮かんだ
夫が持ってきてくれたお粥を食べながら早く元気にならなくちゃと思った
子供に移さないように、と数日子供に会っていないだけですごく寂しく感じた
1時間程経ってから夫が食器を下げに来てくれた
トレイを片手に持つと、左手に持っていた紙を私に渡して部屋から出て行った
私は夫から受け取った数枚の白い紙を見つめていた
画用紙のような真っ白な紙を裏返した
裏返すとそこには夫の字でメッセージが書かれていた
「ママ、早く元気になってね」
紙は3枚あった
次の紙を裏返すとそこには落書きのようなものが描かれていた
きっと長男に色鉛筆を持たせたのだろう
最後の紙はきっと長女からだ
そう思って紙を裏返した
「ママ だいすき」の言葉と家族4人の絵が描かれていた
長女の絵は一緒にお絵かきをしていた頃よりもすごく上手になっていた
元気になったら絵を飾るための額を買いに行こう
そんなことを考えて私は笑顔になった
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