感動する話・泣ける話まとめ 短編5話【19】
悲しい日記
私は16才で結婚しました。
夫の健くんは18才
若い二人に、ちゃんとした生活が出来るかどうか不安でしたが、二人で支え合って生活してきました。
そして、私が17才、健くんが19才のとき、赤ちゃんを授かりました。
毎日毎日貯金して、毎日毎日一つのお弁当を二人で食べ合って、慎ましく生活しました。
2005年8月29日
息子の陸が生まれました。
3人で楽しい生活を送っていました。
健くんとあたしの仕事が休みになると、必ず3人で出掛けました。
出来るだけ陸には欲しい物を買ってあげました。
毎日毎日笑って過ごしたあの日々、もう戻ってこないかな。
2006年10月
健くんの身体中に、あざがいっぱい出来てました。
私は心配になって、健くんを病院に連れて行きました。
健くんは白血病でした。
でも、健くんは
「必ず治す。支えてくれ。」
と言い、治療に励みました。
健くんは、見事に白血病を克服しました。
これでもう終わり。
全てが、また幸せな生活に戻ると信じていました。
2008年2月
健くんは、最近胸が苦しいと言いはじめました。
おかしいと思い、担当医の先生に診てもらったところ
再発
肺ガンでした。
もう手遅れでした。
健くん、いっぱいいっぱい我慢したんだろうね。
余命半年
残された時間、3人で楽しく過ごしたい。
健くんの願いでした。
健くんは、左の肺がつぶれている状態でした。
なので呼吸が難しく、苦しい毎日でした。
2008年6月
もう、健くんの鼻からチューブが取れる日なんてありませんでした。
チューブを取ると、苦しいと言って咳こんでしまいます。
どんどん話すことも辛くなってしまいました。
2008年8月28日
健くんが死んだ。
陸の3才の誕生日の前日。
最期、健くんはあたしと陸にこんな言葉を残しました。
辛いことがあったら、上を向いて空を見てごらん。
僕が二人を見守ってるから。
まみ・・・結婚してくれてありがとうな。俺ほんとに幸せだったよ。
まみ大好きだよ。ありがとう。
陸・・・パパとはお別れだ。
これからはママのこと陸が代わりに守ってやるんだぞ。
パパの為にもママを守るんだぞ。
陸、生まれてきてくれてありがとう。大好きだよ。
こんな俺でよかったら、また出会ったときに結婚してくれ。
まみ、陸ごめんな。
と言い、健くんは永遠の眠りにつきました。
あたしは、自然と涙が出てきませんでした。
あたし、健くんに出会えて
よかったよ
健くんと付き合えてよかったよ
健くんと結婚できてよかったよ
健くんとの子供、陸に会えてよかったよ
ほんとによかったよ
健くんだいすき
ありがとう
落とし物を拾った友人の話
以前、友人Aと歩いていたときに、Aが財布を拾った。
中身は5千円ほどだったけど、カードなども入っていた。
財布を拾った場所の近くに交番などが無かったので、私はAに、
「近くの店とかに預ければいいじゃん」と言ったのだが、
Aは「交番に届けた方が確実」と言った。
Aの言い分が正しいと私も分かってはいたので、しぶしぶそれにつきあった。
交番に行きがてら、友人は小さい頃の話をしてきた。
Aの家は、割と貧乏だった。
そして、親戚づきあいもあまりなく、お年玉をもらったことがなかった。
毎年、冬休みがあけて周りの友人が
「いくらお年玉をもらった」という話でもりあがっているのを、
彼女は悔しい思いで聞いていたらしい。
しかし、小学校5年になって、Aは初めてお年玉をもらった。
「Aちゃんももう高学年だもんね」
母親はそう言って、お年玉をくれた。中身は千円。
周りの友達に比べて額は少なかったが、
実はAがあこがれていたのはお年玉をいれるポチ袋。
年末に文房具屋さんなどに行くとかわいいものがけっこう売ってて、
スヌーピーやキティちゃんなどのキャラクターのポチ袋が欲しかったらしい。
で、母親が入れてくれたのは、
Aがその当時大好きだったケロケロケロッピのポチ袋だった。
Aはうれしくて、財布代わりの小さい巾着に、
千円とポチ袋を入れてランドセルにひっかけた。
お金を使うことなく、ずっとお守り代わりのようにそれを持ち歩いていたそうだ。
しかし、ある日その巾着をなくしてしまった。
巾着自体、小学校の友達が北海道土産にくれたもの。
巾着、千円、ポチ袋と、Aの当時の宝物三点セットをいっぺんになくしてしまい、 そりゃあもうパニクったそう。
とにかく、自分が歩いた道をくまなく探し歩いた。しかし、みつからない。
気がつくと、遅い時間になっていた。
そういうとき、タイミング悪く雨とか降ってくる。
巾着は布製で、もし見つかったとしても、
三点セットはぐちゃぐちゃになってしまっているだろう。
Aは泣きながら家に帰った。
家に帰る道すがら、交番の前を通った。
傘も差さずに遅い時間、とぼとぼ歩いている小学生に、
交番のお巡りさんが気づいて声をかけてきた。
「どうしたの?」
腰をかがめて聞いてくるお巡りさんに、Aは感極まって号泣した。
お巡りさんは交番に彼女を入れて座らせ、
タオルを貸してくれ、お茶をごちそうになった。
泣きやんだAにもう一度理由を聞いてくるお巡りさん。
彼女は切れ切れに、宝物であるきんちゃくをなくしてしまったことを告げた。
お巡りさんはそれを聞くと、どんな巾着かと聞いてきた。
どうしてそこまで聞いてくるのかと思いつつ、
彼女は「キタキツネの巾着」と答えた。
そしたら、お巡りさんは満面の笑みをAにむけた。
そして彼は、「ジャッジャジャーン」と口でファンファーレを言いながら、
机の上の箱からAの巾着を出してくれたそうだ。
Aが驚いていると、近所のおばあさんが散歩中、
道に落ちていた巾着を拾って届けてくれたらしい。
おばあさん曰く、「小さい子供にとっては、これが宝物かもしれないから」
まさにその通りだった。Aは目の前にある巾着が信じられなくて、
また号泣してしまったらしい。
「それ以来、落とし物は交番に届けることにしてる」
Aはそう言った。
次の日、母親と一緒に拾ってくれたおばあさんにお礼を言いに行ったそうだ。
おばあさんはお礼を言いに来たAをしきりに褒めてくれて、
孫にお年玉にあげる際に買って余ったからと、
キティちゃんのポチ袋をAにくれた。
交番に着いて財布をお巡りさんに渡した後に入ったスタバで、
Aはその時のケロッピとキティちゃんのポチ袋を、財布から大事そうに出して見せてくれた。
彼女はにこにこしながら、「今の彼氏、そのばあちゃんの孫」と言った。
なんか、繋がってるんだね。人って。
彼女が遺したビデオテープ
10がつ28にち・・・
どうしてかなあ、眠れないの。
明日が来るのが怖くて眠れないの。
あたし、・・・もうすぐ死ぬと思う。
あのね、わたし達、もう会わないほうがいいと思うの。
あなたと過ごした永遠の何分の一かの時間が、
わたしの生涯の宝物です。
あなたがいてくれて、幸せだった。
いいよね、わたしたちは今日でお別れ。
あなたが大人になって、結婚して、仕事をして、
未来を生き続ける事を想像しながら、今夜は眠ります。
目を閉じると、やっぱりあなたの顔が忘れられない。
思い出すのは、
焼きそばパンを頬張った大きな口。
顔をくしゃくしゃに崩して笑う笑顔。
ムキになってふくれるけど、
すぐに振り返って笑ってくれた時の優しさ。
夢島でのあなたの寝顔。
今もすぐ目の前にあって触れていたいょ。
バイクに乗せてくれたときの
あなたの背中のぬくもりが、一番大切だった。
あなたとのたくさんの思い出が、
あたしの人生を輝かせてくれた。
本当にそばにいてくれてありがとう。
忘れないよ。
あなたと過ごした大切な時間。
最後に一つだけお願いがあります。
あたしの灰をウルルの風の中に撒いて欲しいの。
そして、あなたはあなたの今を生きて。
あなたに会えてよかった。
・・・・・・バイバイ
患者としてばぁちゃんを見ていた
3年前にガンでばぁちゃんが亡くなった。
亡くなる前には痴呆も出てきて、嫁であるウチの母親からすれば
別人になったように人格が変わっていたそうだ。
俺は病院に勤めている関係で、そんなばぁちゃんに驚きつつも
母には「これは病気だから。」と話していた事を思い出す。
いよいよガンが末期のころ、俺は仕事も忙しく、また自分の家庭内の
ゴタゴタで実家に寄る事も殆どなくなっていた。
その頃には妙に冷静にばぁちゃんの容態について、親戚に説明なんか
して、家族というより患者としてばぁちゃんを見ていたように思う。
そして危篤の知らせがきて、長男である親父が看取る中、天国へ逝った。
その時、俺はやっぱり患者としてみていたのか、悲しみよりあまり苦しまず
に逝ったばぁちゃんにむしろホッとし、周りが悲しむ中、冷静だった。
けれど、いよいよ出棺という時、何故か子供の頃、いつも何があっても
かばってくれたばぁちゃんが急に思い出され、その場で泣き崩れた。
父親に殴られても、止めてくれたのはいつもばぁちゃんだった。
ひどい成績をとってきても、いつも誉めてくれる、ばぁちゃんだった。
ばぁちゃん自身がどんなに悪く言われても、絶対グチをこぼさなかった。
「人は誉めて育てる。」
「子供を怒るな、自分の来た道。年寄りをバカにするな、自分の行く道。」
いつもこの二言が口癖だったばぁちゃんがいなくなった事をその時実感した んだと思う。
兄貴も俺もグレる事無く、いまこうしていられるのもやっぱりばぁちゃんの お陰だと思っている。
ばぁちゃん、ありがと。
頑張ってお母さん!
私が9歳のときのお話です。
その日は、夏休みになったばかりの暑い日でした。
家族みんな休みということもあり朝からお庭で草むしりをしていました。
お昼になり、お母さんとお父さんがご飯を作り始めました。
その間に私は兄とお風呂に入りました。
出た頃にお母さんとお父さんは買い物に行っていていませんでした。
2人は昔の友達と会って帰ってくるのが遅くなりました。
待ちくたびれた私達は文句を言いながらご飯の手伝いをしました。
その日は豚骨ラーメンで、私達が食べてる時にお母さんは片付けをしていて、片付けが終わり食べ始めようとした時にお母さんは急に頭を押さえて「いたっ」と言いました。
私達が「どうしたの?」という暇も無いくらいの早さで、お母さんはラーメンの丼に顔ごと突っ込んで行きました。
私は初めお母さんが何をしているのか分かりませんでした。
だけど、皆が騒ぎ初めてやっとお母さんが倒れたことが分かりました。
お母さんをお父さんが抱き上げ玄関に連れていきました。
その間におばあちゃんが救急車に電話をかけました。
お母さんは急にいびきをかきはじめて救急車が家に到着しました。
お母さんは救急車に乗せられて、病院に運ばれました。
お父さんが一緒に救急車に乗り、残された私達は唖然とするしか出来なくて、やっと理解が出来たお姉ちゃんと私は涙がたくさん出てきて止まりませんでした。
その日、病院に行き、お母さんを見たら頭に包帯がぐるぐる巻にされて顔に沢山の機械がついていました。
お母さんが倒れたのは「くも膜下出血」と言う病気でした。
脳のくも膜と言う場所が破裂してしまう病気だそうです。
その病気は二十歳のときから進行していたらしくて、その時お母さんは39歳だったのでちゃんと検査を受けていれば治せたかもしれないのにと私は思いました。
それから手術は順調に進みお母さんはだんだん回復していきました。
そして、お見舞いにいくけど何が欲しいとお母さんに聞くと「パンとミルクティーがいいな?」と可愛らしい声で言いました。
その後、私達はご機嫌で帰りました。
そのすぐ後に病院から電話がかかってきてすぐに病院に行きました。
お母さんの病状が悪化し、もう既に3回目の出血だったそうです。
基本4回目で死んでしまうそうで私は怖くなりました。
その時、お父さんが「大丈夫ママは死なないよ!」と言ってくれて安心しました。
手術は無事終わりお母さんは助かったのですが、その後すぐに脳梗塞になってしまいました。
長い時間手術し、その手術も無事終わりました。
お母さんは手術のせいで喋れなくなってしまいました。
だけど、お母さんはリハビリを頑張りました。
でも長い時間眠った状態だったので、体が固まってしまい手や足が変な方向に曲がっていました。
お母さんの病状が変わらないまま倒れてから2年が経ちました。
お母さんは、たんが飲みこめなくて呼吸困難になってしまいました。
あまりにもそれが続くので喉を切ってしまうことになりました。
お母さんは沢山機械をつけているのにまた増えることになりました。
まだ病状がかわらないまま月日が流れて今年で四年目になりました。
私はもう中学生になってしまいました。
本当はお母さんに卒業式に出て欲しかったけど、出れなかったのでとても悲しいです。
皆がお母さんの話をしているときも話しに入れないのでとても悲しいです。
今もお母さんは病状が変わらず病気と戦っています。
私はいつまでもお母さんを応援しています。
頑張ってお母さん!大好きだよ!
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