感動する話・泣ける話まとめ 短編5話【30】
私宛のメールがたくさんあるのに気付いた
私が彼と最初に出会ったのは会社の懇談会でした。
ふとしたことから一緒に遊ぶようになり、付き合いはじめました。
私はもともと打たれ弱い性格だったので、彼にグチってしまうことが多かったのです。
でも、彼はそんな私に嫌な顔一つせずに、優しい言葉をかけてくれたり、励ましてくれていました。
彼はグチ一つこぼさず、明るい人だったので、
「悩みがないなんていいねー。」
なんて言ってしまったりすることもありました。
彼との別れは突然訪れました。
彼が交通事故で亡くなったのです。
彼のお葬式に行っても、まったく実感が湧きませんでした。
お葬式の後、彼の両親から彼の携帯を渡されました。
携帯をいじっていると、送信されていない私宛のメールが たくさんあるのに気付きました。
そのメールには仕事のグチや悩みごとなどがたくさん書いてありました。
その瞬間、私は彼の辛さに気付かなかった自分のくやしさや、無神経な言葉を言った自分への後悔、常に私を気遣っていてくれた彼への感謝で涙が止まりませんでした。
あの日からもう1年以上になりますが、その携帯は大切にとってあります。
あなたを育てあげた立派な勲章
「私を大学に通わせてくれた母へ」
あなたは私を産むまでずっと父の暴力に苦しんでいましたね
私が産まれて時、あなたは泣きながら喜んだんですね
私が一歳の誕生日に、借金を抱えたまま父が自殺しましたね
借金を返すために昼はパート夜は居酒屋で仕事の毎日でしたね
保育園では遠足のおやつは雑穀のおはぎでしたね
小学校の給食費を払えない月もありましたね
修学旅行のおみやげはご当地キーホルダーだけでしたね
中学の制服は親戚のおさがりでしたね
高校のお弁当はいつもご飯に梅干しと海苔でしたね
無理を承知で大学行きたいと頼んだ時、あなたは反論しませんでしたね
ごみ処理場から捨てる予定の参考書をもらいに行きましたね
お金がかかるから私立は受けられず、国立専願受験でしたね
センター試験の前日には初めて特上寿司を食べさせてくれましたね
センター試験に失敗したけど、あなたは最後まで諦めないよう励ましてくれましたね
前期に落ちて、一度私は自殺しかけましたね
あなたは怒ることもなく、ずっと私に謝り続けていましたね
私もあなたにずっと謝り続けましたね
そして私は気持ちを切り替えて後 私はその後も頑張って勉強して、なんとか後期に合格することが出来ましたね
あなたはずっと「おめでとう、おめでとう」と泣き続けてくれましたね
でもあなたは入学の準備の時に急に倒れて病院に運ばれましたね
医者が、癌が全身に転移していてこれから一週間が峠だと告げましたね
私がただただ泣き続けている時にあなたは
「この体の傷や癌の一つ一つが
あなたを育てあげた立派な勲章なのよ」
と微笑みながら言いましたね
あなたは最後まで泣くことも苦しむこともなく、静かにこの世を去りましたね
今私は医者になるために毎日一生懸命に勉強していますよ
あなたの命を奪った癌に苦しむ人々を治療して助けたいから
私が育った環境は決して恵まれてはいなかったけれど
あなたに生まれ、育てられて本当によかったよ
ありがとう、お母さん
兄についての衝撃の事実
両親は俺が中2の時、交通事故で死んだ。
俺には4つ上の兄と5つ下の妹がいる。
両親の死後、俺は母方の親戚に、妹は父方にひきとられて、 兄は母方の祖父母と住んでいた。
それから一年くらいたって、久しぶりに兄から電話があった。
そん時、高校を卒業して就職が見つかったから、兄弟3人で暮らさないかという旨を言われた。
俺はびっくりした。 兄は俺とは違い昔から頭が良くて、当然1流の大学に行くんだろうと思ってたからだ。
俺は兄に大学はいいのか?と聞いたが、兄は 「全滅やったから(笑)そこは触れんといて」なんて事を言ってた。
俺は中3だし、妹はまだ小3だったため当然、親戚中は反対してたが、 俺も妹も、ホントはまた兄弟一緒に暮らしたいと思ってたから 頼み込んで許してもらい、晴れて兄弟3人一緒に住むことができるようになった。
それからというもの、兄は俺らの為に働きまくった。俺らが貧乏なんて感じることないようにと、 ずっと皆一緒に暮らすんだと、昼と夜も別々の仕事して稼ぎまくって俺らに小遣いまでくれてた。
そんな兄が先月、交通事故で逝ってしまった・・・
葬式で俺も妹も泣きじゃくった。。 葬式も一通り片付き皆が帰った後、別室にいた俺と妹のところに、 叔母が夕飯をもってきてくれて、その際、俺らは兄について衝撃の事実を知ることになった。
両親の死後、兄が親戚中に土下座し、俺と妹の事よろしく頼むと言ってまわってたこと。
兄がバイト代を毎月送り、俺と妹の小遣いにしてやってくれと頼んでたこと。
京大を蹴って、俺らと一緒に住むために就職したこと。
・・・それきいた途端、もう分からんくらい泣いた。
立てんかった・・・ 色んな兄ちゃんとの思い出が駆け巡った。
小さい頃、俺の手をつないで、いっつも遊んでくれた・・・ 強くておもろくてやさしかった・・・
自分の小遣いからお菓子買ってくれてた・・・
俺が高校行かんって言ったらぶち切れて殴ってでも行かせるって言った・・・
いつもボロボロで疲れてても、俺らに八つ当たりなんてしなかった・・・
自分の夢を捨てて、俺らのために必死やった・・・
おとん、おかんが死んだ時、泣きじゃくる俺と妹を抱いて、 がんばれって言って俺らの前では涙ひとつ見せんかった・・・
俺ホントは兄ちゃんが夜中、泣き声をおしころして泣いてたの知ってたよ・・・
やべえ思い出して・・・もうこれ以上書けねえわ
何もできんかったわ・・・ ホントなんも・・・
最後に言わせて。
最強最高の兄ちゃん!!!
あんたに負けんこと俺がんばるけん!
妹のことも心配せんでいいけんね。
ありがとう。
ありがとう!!!
苦しみながら死んだ理由
三年前死んだ祖父は末期になっても、一切治療を拒み医者や看護婦が顔を歪めるほどの苦痛に耐えながら死んだ。
体中癌が転移し、せめて痛みを和らげる治療(非延命)をと、息子(父)や娘たち (伯母)が懇願しても絶対に首を縦に振らなかった。
葬式の後、親しかったご近所の将棋仲間が家族に宛てた祖父の手紙を渡してくれた。
祖父が生前用意していた物だそうだ。
手紙の中には自分が家族を悲しませ、苦しませるのを承知で苦しみながら死んだ理由が書かれていた。
20年近く前、孫の一人が生存率20%を切る難病で闘病していたとき、祖父は神様に誓ったのだそうだ。
自分は今後どんな病気や怪我になろうとも、絶対に医者にもかからないし薬も飲まない。
だから孫を助けてくれと願を掛けたのだそうだ。
幸いその孫は無事手術も成功し、成長して成人もした。
孫の成長を見届けることができたのだからもう思い残すことはない。
あとは神様との約束を果たすだけだ。
だから家族は悲しまないで欲しい。
自分は満足して一生を終えるのだから。
そう綴られていた。
孫は当時一歳にもならない赤ん坊で、病気だったことも覚えていない。
祖父は自分の決意を貫いて一生を終えた。
その孫である兄は葬儀でわんわん泣いていた。
もちろん、兄弟もみな泣いた。
うまく書けないのが悔しいなあ。
本当に祖父はすごい人だったんだよ。
私との関係に悩む継母の苦悩
私がまだ小学2年の頃、継母が父の後妻として一緒に住むことになった。
特に苛められたとかそういうことはなかったんだけど、なんだか馴染めなくて、いつまで経っても「お母さん」と呼べないでいた。
そんなぎくしゃくした関係だったけど、継母が私のために一生懸命だったことはよくわかってた。
小学校4年になった夏休み、私は継母の提案で二人で川に遊びに行くことになった。
あんまり気が進まなかったけど、断る理由もなく言われるままにしぶしぶついていった。
現地に着くやいなや、私は継母のことを放ったらかしで川に浸かって遊んだ。
しばらく水と戯れてた時、急に深みにはまって溺れて息が出来なくなった。
すごく苦しかった。
でもそのうち喉の奥が
「クッ、クッ・・・。」
と鳴ってだんだん苦しくなくなってきて、意識が飛んだ。
気が付くと、私は病院のベッドで寝ていた。
「一時心臓が止まって危なかったんだよ。」
と涙ぐんだ父が言ってた。
ベッドの傍に、継母はいなかった。
私は父に
「あの人は?」と訊いた。
父は一呼吸置いてゆっくりとした口調で教えてくれた。
私が溺れた時に継母が服のまま飛び込んで私を助けてくれ、そのまま力尽きて下流まで流された。
その後、救助されたものの、今も意識が戻らないのだ、と。
私は次の日に継母のいる病室に行った。
継母は機械に囲まれて、いっぱい管をつけられていた。
彼女は、そのまま我が家に戻ってくることなく・・・。
葬儀が終わって母の遺品を整理してたら、鍵のついた日記が出てきた。
私は父と一緒になんとか鍵を探し当てて、日記を読んだ。
そこには私との関係に悩む継母の苦悩など、私のことばかり書いてあった。
ずっと読み進めていくと最後のほうの日記に
「ちょっとはにかみ屋さんだけどとてもいい子。あの子なら、命かけてでも守れる自信がある。○○ちゃんを私に託してくれた△△(実母の名前)さん、本当にありがとうございます。」
継母は、あの日記を書いた数日後に命と引き換えに私を守ってくれた。
いつだってとても優しい目で私を見てくれていた。
いつも私の目線と同じ高さになるように中腰になって話し掛けてくれた。
そんな気持ちはちゃんと伝わってきてたのに私はあの人に何一つしなかった。
愛情をもらいっぱなしでそれに答えなかった。
私は愛情どころかあの人の命まで奪ってしまった。
日記を読んではじめて、私は
「お母さん!」
と大声で叫びながら錯乱状態になり、声が出なくなるまで
「ごめんね、ごめんね。」と言って泣いた。
ぐしゃぐしゃになって泣いても、後悔ばかりで気持ちは晴れなかった。
年月が過ぎても、私は未だに「母」に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
数十年経った今でも夏になるたびに思い出す。
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