『5枚の便箋 – 感謝の言葉』など短編5話【61】 – 感動する話・泣ける話まとめ

『5枚の便箋 - 感謝の言葉』など短編5話【61】 - 感動する話・泣ける話まとめ 感動

 

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感動する話・泣ける話まとめ 短編5話【61】

 

 

祖父の死

俺は小学生のころよく祖父と一緒に寝ていた
祖父は暖かくて祖父の手を枕にしてよく寝ていた、
祖父も俺のことをかなり可愛がってくれたと思う
中学生になってもよく一緒に寝ていたが、3年生くらいになると急に寝なくなった
というのも反抗期が来ていたため
祖父が「一緒に寝よう」と言って布団に入ってきたりするとよく蹴り飛ばしていた
そんなことがあっても祖父は俺を可愛がってくれたが、
俺はうざくてよく死ねとか言っていて段々と祖父も何も言わなくなっていった

そして祖父がある日脳梗塞で倒れた
しかし俺はその時高校2年生で不良のような感じになっていたためお見舞いは1回しか行かなかった、
がその1回を祖父はとても喜んでくれていた

そんな関係を続け俺も大学に入り祖父の存在なんか忘れていた頃、
父から祖父が死んだとの連絡が入りさすがの俺も病院に急行した
本当に祖父は死んでいた
俺は泣かずに涙をこらえていたが、
そんな俺を見て父があるものを渡してきた

それは小学4年生くらいの頃祖父と東京タワーに行ったときに描いてもらった俺の絵である
そんなに古いものを祖父は大事に持っていてくれた
俺は涙が止まらずどーしてもっとお見舞いに行かなかったんだろうとか八つ当たりしたのかと悔やんだ

祖母によると祖父はいつも俺の話をしてくれたらしい
元気か?とか受験受かったか?
とか色々と心配してくれていたとのことだった

俺は祖父の手をとって自分の頬に当てた、その手は昔のような暖かさは無く冷たかった
でもその手のおかげで俺の心は昔の暖かさを取り戻したと思う、じいちゃん大好きです

 

 

間に合わなかった

数年前に母方の祖母が亡くなった。

私たちが住んでいたのは岩手で、母の実家は新潟だった。
遠いので頻繁に向こうの親戚には会えなかったが、毎年夏に車を走らせ家族4人、父、母、兄、私で会いにいっていたし、年に数回は互いに梨やお菓子、手紙などを送りあっていた。
私が高校生になった頃、いつもは夏休みを使って新潟へ行っていたけれど、夏休みも忙しく、
「高校生だから、もう少したったらまた皆でいこう」と母は言った。
そんな時、向こうの祖母が倒れた。

一度家族で病院へ見舞いに行った時、祖母は私の制服を見て
「セーラー服なんだねぇ、可愛い、可愛い」と言ってくれた。
祖母は去年会った時より見違えるほど痩せていて、髪の毛もなかった。
年に何度も会いには行けず、母は頻繁に電話をするようになっていた。

その次の年に祖母の体調が急変し、急遽母は休みを取って次の週に一人で会いに行くことになった。
母は私たちに携帯を向けて
「おばあちゃんに聞かせるから、何か喋って」と、嬉しそうにムービーを撮った。
慣れないことに少し恥ずかしくてろくなことも言えなかった気がする。
「おばあちゃん、頑張って」ぐらい。

祖母が亡くなったのはその週末だった。
葬式は祖母が褒めてくれたセーラーの制服を着て出た。
葬式が始まる前、部屋で母と二人でいると、
「声…聞かせてあげれなかったね、間に合わなかったね…」
と今まで聞いたことのないようなか細く、涙ぐんだ声で話した。
つい先日、嬉しそうに、声を聞かせてあげれるとムービーを撮っていた母の姿を思い出し、涙が出た。

そのムービーがまだ母の携帯に残ってるかは分からない。
でもそれから母がふと祖母の話をする度にあの時の姿が浮かび、私は涙をこらえるようになった。

 

私の一生の保護メール

去年3月に定年を迎えた父に兄と私で携帯電話をプレゼント。
退職前は携帯などいらんと言っていたがうれしそうだった。

使い方に悪戦苦闘の父に一通り教えてまずメールを送ったが返事はこなかった。
その6月に脳出血で孫の顔も見ずに突然の死。
40年働き続けてホッとしたのはたったの2ヶ月。

葬式後父の携帯に未送信のこのメールを発見した。
最初で最期の私宛のメール。
私は泣きながら送信ボタンを押した。

私の一生の保護メールです。

「お前からのメールがやっと見られた。
返事に何日もかかっている。
お父さんは4月からは毎日が日曜日だ。
孫が生まれたら毎日子守してやる。」

 

 

感情を出しやすくしてくれた

小学校1~2年生まで自分は感情の起伏の無い子供だったらしく、
両親がとても心配してよく児童相談所や精神科みたいな所に連れていかれていた。
その時も面倒くさいとも楽しいとも思った事は一切無く、自閉症気味と診断されていたそう。

今親に聞くと、赤ん坊の時からめったな事では泣いたり笑ったりする事も無かったとか。
でもきちんと人の話は聞くし、知能も高かった事から親以外からは大人しい良い子だという風に受け入れられていて、上手く言い表せない自分の両親は心配しながらも、少し不気味に感じることもあったそうだった。

でも自分の爺さんは、そうやって不安がる両親に対して
「こいつにはこいつのペースがあるんだ。放っておけ」
と言うだけだった。
別段爺さんは自分を甘やかす事も無く、だからと言って無視したり虐待するでも無かったけれど、婆さんと両親は爺さんを冷たいと怒っていた。

ある日、爺さんが風邪をこじらせて肺炎になり入院した。
母親に連れられて見舞いに行ったとき、母親が花を花瓶に入れる為に病室を出て行った。

自分と爺さんが二人だけで病室にいて、何も話す事は無く物音一つしなくて二人共動く事も無かった。
ふと自分の頬の側の空気が動き、見ると爺さんが青い小さなみかんを自分に差し出していた。
それをそのまま機能的に受け取って、爺さんも自分も何事も無かったように母が来るまでじっとしていた。
そのみかんをどうしたかは記憶が無い。
きっと家族の誰かが食べたんだろうとは思うけれど。

爺さんはそれから少しして死んでしまい、お通夜も葬式の時も何も感じる事は無かった。
初七日が過ぎ、爺さんの仏壇に供えていた青いみかんを何の気なしに母親が自分に与えて、自分も受け取ってその皮を剥いた。
青いみかんのしゅわっという香りとみかんの水分が自分の周りに漂った瞬間、自分の喉の奥が急に詰まったように痛くなり、胃が固まって震えるような感覚に襲われた。

生まれて初めての感覚に驚き、声を上げようとしたけれど喉が潰れたような感じになってうめくような声しか出てこない。
その時初めて「助けて」と思い、うずくまっていると顔が濡れている事に気がついた。
触ると目からぼたぼたとどんどん涙が出てくる。
自分のうめき声に驚いた母親が慌てて自分に駆け寄ってきたのがわかった。
母親に必死にしがみ付き、自分の世界が壊れていくような恐怖を感じ、身体を硬くして叫び続けていた。
母の暖かい腕が自分に巻きついているのを感じ、温かい手のひらが頭や顔や体を撫でてくれているのを感じ、
そしてだんだん落ち着いていくのが判った。

どこか痛いのかと心配する母と父と婆さんの顔を見て、口が自然に開いて、しゃくりあげながら「ありがとう」と言葉を発していた。
顔の筋肉が引きつって、あんなに苦しかった胸の中がだんだん温かく柔らかくなっていくのがわかった。

両親と婆さんが驚いた顔をして、とたんに皆が今度は泣き出した。
「ありがとう」と言って自分は笑ったらしい。

爺さんが、感情を出しやすくしてくれたんだと婆さんと母親が言っている。
父親も自分もその事がどうとか何も言わない。
でも爺さんの仏壇に毎日毎食、皆が食べるものと同じお膳を備える事を一日も欠かす事は無い。

 

 

ママ、ありがとう。ママ、大好き

子供が2人いる。
でも、本当は、私は3人の子持ちだ。

18歳の春に娘が生まれた。
結婚してくれると言った父親は、結局認知すらしてくれなかった。
若い私にとって未婚のシングルマザーは大変な役割だった。
何で産んだんだろう、どうして子育てなんかしてるんだろうと、そんな格闘の毎日だった。
それでも、娘はすくすくと成長してくれた。
初めて書いてくれた私の顔、赤いランドセル。

それは秋の日の突然の出来事だった。
前夜、やけに娘がべたべたしてきた。
大して寒くない日なのに、寒い寒いと言った。
熱を測っても熱はない。
早く寝なさいと添い寝した。
「ママ、ありがとう。ママ、大好き」
娘は私に抱きついたまま眠りに落ちた。
やっと開放されたなと、正直私はホッとした。
少しテレビを見て、私も娘の横で寝た。

翌朝、娘は目を覚まさなかった。
起こしても起こしても目を開けなかった。
解剖、そして、事情聴取。
事件性なしと判断され、原因不明の突発的な心臓発作と説明された。

火葬場では、焼かないでくれと棺にすがりついた。
娘の焼却炉の前で、半狂乱で泣き喚いた。
小さな骨が娘のものだとは到底思えなかった。
突然の独身貴族。突然与えられた年相応の自由。
けれど価値観はまるで違っていた。

そのうち笑うようになり、けれど夜になると涙もこぼす。
小学生を見ると辛かった。

けれど、親と言うのは勝手なものだ。
娘の死から2年で結婚し、去年3人目の娘を産んだ。
幼稚園児と赤ん坊の育児にへこたれそうになる。
あの子がいてくれれば、今頃話し相手になってくれただろうと、
今頃何歳になってるはずだと、この頃毎日考える。

あの子がいなかったら、こんなにも娘たちを愛せなかった。
あの子がいなかったら、子供がこんなに大切と思えなかっただろう。
あの子が死ななかったら、私はもっともっと自分勝手な親だったろう。

ありがとう。ありがとう。生まれてくれて、ありがとう。
いなくなって寂しいよ。今でも寂しいよ。

辛くて辛くてずっと封印してきた言葉をこうして書けるのは、
この子達が生まれてくれたおかげだ。

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