藍物語シリーズ【15】
『約束』
上
少し開けた窓から流れ込む潮風、微かに混じるディーゼルエンジンの排気臭。
この街では比較的大きな港に俺は車を停めた。渡船や船宿の看板が幾つか見える。
地元では釣り場としてもメジャーな港らしい。途中の釣具屋で買った釣り情報誌を開く。
見知らぬ土地ではあるが、久し振りの釣りに俺の心は浮き立っていた。
『上』から指示された研修、平たく言えばある場所で修行をするために、
俺はその街に一ヶ月ほど滞在することになっていた。今まで滞在した中で一番大きな街。
藍が生まれてまだ四ヶ月、どうにも気が乗らないが、こればかりは仕方ない。
術の修行だけならSさんや姫に指導して貰えば済む話。
しかし、この土地にある期間滞在して修行することが必要なのだとSさんは言った。
「術者の個性によって、どの場所で修行するかは違う。縁の深い神様の下で修行すれば、
比較的短時間で感覚が研ぎ澄まされるし、基礎的な能力も高まる。それにね、この修行の
指示が来たのだから、『上』があなたを一人前の術者として認めたということ。
これから仕事の依頼も少しずつ増えてくるわよ。頑張って修行して来てよね、『お父さん』。」
一ヶ月もの間ホテルや旅館で生活するのは不経済だし、どうしても食事に不満が出る。
俺はいわゆるマンスリーアパートを借りて自炊する生活を選んだ。
修行の場所は町外れにある古い神社とその周辺、毎日朝6時から約3時間の行を修める。
アパートと神社の間、移動は徒歩(これも修行の一部)、往復で約2時間。
朝食抜きで5時には出発、行を終えてアパートに戻るのが10時頃、食事をしたらしばらく昼寝。
数日してその生活に慣れてくると、俺は次第に時間を持て余し気味になった。
特に昼寝から覚めた後、夕食までの時間が長くてどうにもならない。
早めに夕食を食べて朝まで寝てしまおうかとも思ったが、昼寝の後ではそうそう眠れない。
もちろん修行の間は深酒も出来ない。そこで思いついたのが釣りだった。
この港でタチウオが釣れているという情報と、ポイントの地図を確かめた後で車を降りた。
途中の釣具屋で買い揃えた釣り具一式を持ってポイントの防波堤を目指す。
平日の午後、釣り人の姿は多くない。これなら防波堤のどこでもルアーが投げられそうだ。
その時。
突然の寒気と耳鳴り。反射的に『鍵』を掛け、立ち止まって辺りの様子を窺う。
目指す防波堤の方向から、何かが俺の意識を探っている。
『何処へ消えた?』 『勘違いか?』 『そんな筈はない』 『さっき確かに』
ねっとりと絡まり合う、複数の気配を感じる。次第に濃度を増す粘液質の悪意。
ああ、此所は駄目だ。メジャーな釣り場かもしれないが、俺には合わない。
いわゆる心霊スポットでも、何かを『感じる人』と『感じない人』がいるのと同じ。
ここにいる『それら』は俺に強く反応した。当然何かの目的が有って干渉しようとした訳だ。
本格的に対処するには情報が足りないし、そもそも俺の術が通じるかどうか分からない。
悪い噂が無いのだから恐らく実害は出ていない。今後俺が近づかなければ問題ないだろう。
無理をする必要もないので取り敢えず放置。相手の様子に注意しながら車に戻る。
情報誌には他の港の情報も幾つか載っていたが、移動の時間を考えると現実的では無い。
『暇潰しと食材確保に釣り』という計画は、いきなり躓いた。
げんなりしてアパートに戻る途中、海岸線の道路脇に小さな漁港を見つけた。
灯台もと暗し。此所なら車を出さなくても徒歩でOK、駐車場に車を停めて様子を見る。
寂れた感じはするが荒んだ感じはない。トイレも綺麗に掃除されている。
少し歩くと防波堤が見えた。 足場も良いし、暇潰しの釣りにはぴったりだ。
一度アパートに戻り、駐車場に車を停めてから再度漁港に向かった。歩いて約15分。
防波堤の先端近くに数人の釣り人が見える。地元の常連さんだろう。
邪魔にならないよう十分に距離を取り、防波堤の真ん中辺りで釣りを始めた。
薄暗くなるとすぐにアタリが出て、1時間程で良型のタチウオを2尾釣り上げた。
タチウオの刺身と吸い物を加えた豪華な夕食。これからも気合いを入れて釣りが出来る。
タチウオ以外の魚が釣れるかも知れないし、食べきれない分は冷凍してお土産にすれば良い。
夕食後お屋敷に定時の電話を掛け、Sさんと姫、そして翠の声を聞いた。
自然に笑みが浮かぶ。最初の港での出来事はすっかり忘れて気分良く眠りについた。
翌日、昼寝の後夕食の下準備をしてから釣りに出掛けた。
前日と同じで、薄暗くなるとアタリが出る。小型は丁寧にリリースし、
良型が釣れたらキープ。一尾毎に血抜きをし、レジ袋に入れる。
のんびりと釣りを続け、3尾目をキープしたところで終了。しばらく夕日を眺めた。
その気になれば毎日でも釣りは出来るのだし、欲張る必要も無い。
ゆっくり釣り具をまとめて立ち上がると軽い目眩がした。立ち眩みか。
修行を始めて既に一週間、疲れも出る頃だろう。
深呼吸をしてから防波堤の上を歩く。10月下旬、既に夕方の風は涼しい。
ふと、風とは違う冷気を感じた。20m程前方に人影が見える。
違和感。自動的に拡張した感覚が警報を告げている。緊急度MAX。
そのあり方自体が俺とは違う。それはおそらく、人の形をした何か。
しかし其処を通り過ぎなければ帰れない。『鍵』を掛けて歩を進めた。
近づくと人影がルアーを投げているのが分かる。釣りをする、霊?
紺のジーンズにクリーム色のパーカー。俺より背は低い。
更に近づき、通り過ぎる直前に横顔が見えた。思わず息を呑む。
少女だ、そして。その白い横顔を伝う一筋の鮮血。
桃色の唇の脇を流れた血は、細い顎の先端から滴って、
パーカーの胸元に大きな赤い染みを作っていた。
通り過ぎる瞬間、少女は俺を見たが、すぐに海面へと視線を戻した。
そして俺が通り過ぎたタイミングを見計らうようにルアーをキャストする。
通り過ぎてから10m程、俺は立ち止まり海面を見るふりをして少女の様子を窺った。
短めの竿、小さなリール。リールのスプール(糸巻き部分)に肉抜き穴が並んでいる。
特徴的なデザインが懐かしい。S社のリール、『星座』の名を冠したフラッグシップモデルだ。
間違いなく95年型、父親から借りて使った時の感激を昨日のことのように思い出す。
もっと近くから見れば製品名や型番のロゴも確認出来る筈。
おそらく少女が父親か兄から借りて使っていたリールの記憶を再現しているのだろう。
死者が自ら望む姿で現れるのは知っている。
以前関わった事件では、女子高生の霊が持っていた刺繍入りのハンカチが手懸かりになった。
しかし服だけでなく、持ち物=釣り具をこれ程細部まで再現するなんて。
それにしても、この少女に感情が感じられないのは何故だろう。
恨みや憎しみ、あるいは悲しみ。およそ感情らしいものは何一つ伝わってこない。
先日の港で感じた姿の無い悪意と憎悪の塊。この少女の存在はその対極にある。
一心に釣りをする姿を暫く眺めた後、俺はアパートに戻った。
明日からもあの港で釣りをするべきか、それとも二度と近付くべきではないのか。
夕食を作り、部屋に備え付けのTVを見ながら夕食を食べ終えても結論は出ない。
風呂から出た所でケイタイが鳴った。しまった、定時の電話を。
「どうしたのよ。30分も過ぎたら心配するでしょ?」 Sさんの声だ。
怒っている様子は無いのでホッとする。
「済みません。近くの港で釣り人の幽霊を見て、どうしようかと考えていたらつい。」
「釣り人の幽霊?」 「はい、顔に血が、真っ赤な血が流れていました。」
「...何か嫌な感じはした?恨みとか憎しみとか。」
「いえ、ただ一心に釣りをしているようで、特に何の感情も。」
「血が見えたなら、恐らく何かの事件か事故に関わってる。
十分に注意して、手に負えないと分かったら深入りしちゃ駄目よ。」
「え、でもまだどうするかは」
声を潜めてSさんが囁いた。
「あなただけに見えるなら縁があるって事だし。
第一あなた、あんな綺麗な女の子、絶対放ってはおけないでしょ?」
!?どうしてそれが少女だと...そうか、電話越しに俺の意識を。 思わず俺も声を潜める。
「ちょっと待って下さい。綺麗な女の子だからどうこういう訳じゃ」
「あ、L、電話来たわよ。翠もおいで。」 呼びかける声が聞こえたあと、Sさんはまた囁いた。
「今の話、Lと翠には内緒よ。絶対心配すると思うから。」 「了解です。」
姫と翠の声を聞いてから俺は眠りに就いた。
明日も朝早いし、修行は休めない。また、明日考える、それで良い。
翌日、結局俺は港へ出掛けた。
防波堤、昨夜少女を見た場所の近くに陣取った。時折ルアーを投げながら時間を潰す。
そして夕日が海面に沈み掛けた時、唐突に少女は現れた。
俺の左側、数m離れた場所に立って海を眺めている。昨夜と同じ服、同じ釣り具。
未だ明るいので赤金カラーのミノーも確認出来た。これは恐らくD社の製品。
そして白い横顔を伝う一筋の鮮血。やはり恨みも憎しみも感じない、一体何故?
ふと、少女の足元から長い影が伸びているのに俺は気付いた。
少女が釣りを始めるとその影も動く。幽霊に影があるなんて聞いたこともない。
そして、一心に釣りをするその姿が、何より俺の胸に痛かった。
翌日、俺は昼寝の前に電話を掛けた。姫が大学に行っている間にSさんと話がしたかった。
「やっぱり、そろそろ電話が来るんじゃないかと思ってたわ。あの釣り友達のことね?」
「釣り友達どころか、まだ話もしてませんよ。」
「でも、放っておけないならまず話をして、友達にならないといけないでしょ。」
「放っておいた方が良いんでしょうか?でもあのまま放って置いたら、
そのうち『不幸の輪廻』に取り込まれてしまいますよね?」
「恨みや憎しみを感じないとしても、血を流しているとすれば...ねぇ昨夜はどうだったの?
やっぱり女の子の顔には血が?」 「はい、血が流れてました。」
「血は乾いてた?」 「いいえ、頬を伝って顎から胸に。それと。」
「それと?」 「影がありました。」 数秒間の沈黙
「本当に影?間違いない?」
「はい、僕と同じ濃さで同じ方向に伸びる影です。影のある霊なんて、変ですよね。」
「何度か見たことがあるわ、影のある霊。
もしそれと似たケースなら、血を流し続けているのも納得できる。」
思い出した。初めて姫と2人きりで泊まった温泉旅館。
そこに現れた女性の生霊は、月の光を背にしてはっきりした影を障子に映していた。
「あの子の体は、まだ、死んではいないということですか?」
「事件か事故に巻き込まれて大怪我をした。それで意識がない状態だと思う。」
「もし、あの子と話をして、魂を体に戻す事ができたら。」
「もちろん魂が体に戻らなければ回復は望めない。
でも、魂が体に戻っても回復するとは限らないわ。逆の結果もあり得る。」
魂が戻った事が引き金になって、体が死んでしまうこともあり得るということか。
「もし逆の結果になったとしたら、あなたは耐えられる?」
「正直、分かりません。」
話をして記憶を戻した途端、恨みや憎しみの感情が爆発する可能性もある。
そうなればあの子の魂は『不幸の輪廻』に取り込まれてしまう。残った体は抜け殻だ。
しかし、放っておいても遅かれ早かれ同じ結果になる。それならば。
「でも、やっぱりあのままにしてはおけません。綺麗な女の子だからと言う訳ではなくて。」
「分かってる。相手が誰でも、あなたはきっとそう言うと思ってた。
でも、気を付けて欲しいことがあるの。」 「何でしょう?」
「あまり長くあの子と一緒にいるのは良くないわ。そうね、1日30分以内にして。
記憶を取り戻す前にあの子があなたに依存してしまったら、その後の対応が難しい。」
「分かりました。何か他には。」
「事件や事故の関係だとすれば、あの子の身元を突き止めるのは難しくないはず。
榊さんに頼んで調べて貰うつもりだけど、あなたはその結果を知らない方が良い。
事前に情報を知っていると、無心に会話することが出来なくなるから。」
「僕はあの子との会話だけに集中するということですね?」
「そう、それから。」 「はい。」
「もしあの子の感情に恨みや憎しみの気配を感じたら対応を一旦中断して。
電話してくれたらすぐに私が其処に行く。」
お屋敷からこの街までは車で半日近くかかる。出来ればそんな事態になって欲しくはないが、
あの子の魂が『不幸の輪廻』に取り込まれるのを術で防ぐことができるのはSさんだけだ。
「ありがとう御座います。頑張ってみます。」
「其処で修行してる間にあなたの力は強くなっていく。
強力な言霊が予期せぬ事態を招くかも知れない。くれぐれも言葉に気を付けて。」
「はい、肝に銘じます。」
中
Sさんと電話した日の午後から降り始めた弱い雨が翌日も降り続き、
その日少女の姿は現れなかった。再び少女が現れたのはSさんと電話で話した2日後。
そろそろ時間だろうと思って車から降り、防波堤に視線を戻したら既に少女が立っていた。
夕暮れの茜空を背景に立つ、スタイルの良い細身のシルエットが鮮やかだ。
釣り具を持って防波堤を歩く、次第に少女の姿が近づいてくる。『鍵』は掛けていない。
「あの、済みません。此処で釣り、させてもらっても良いですか?」
少女はゆっくりと体を向けて俺を見た。冷たく透き通った黒い瞳。
やはり恨みや憎しみどころか、何の感情も感じ取れない。
しかし、その瞳には吸い込まれるような、抗いがたい不思議な魅力があった。
「お前は、此処で釣りをしたいと言ったのか? 私に。」
まさかの男言葉。 外見と言葉遣いのギャップに驚いて俺はしどろもどろになった。
「え? あ、そうです。ルアーの釣りを、此処で。」
「それは構わない。だが。」 「はい。」
「私は釣りが下手だから、皆の邪魔にならないように此処で釣りをしている。
魚を釣りたいなら、お前はもっと別の場所を探した方が良い。」
俺を警戒している訳ではなく、心から忠告してくれているのは分かる。
しかしこの言葉遣い...高校生だとすれば5つは年下だろうに、俺を全くの子供扱い。
これではまるで時代劇のお姫様と従者の会話だ。思わず笑みが浮かぶ。
相手の気を悪くさせてしまっては元も子もないし、ここは従者を演じた方が良いに決まってる。
「実は昨日、此処で魚を釣ったんです。」 「本当か?」
「はい、良い型のタチウオを2尾、それで今日も此処でと。」
「そうか、なら好きにすると良い。」 「ありがとう御座います。」
少女はそれきり黙ったままルアーを投げ続けた。自分で言うほど下手には見えない。
そこそこ飛距離も出ている。これなら何時魚が釣れてもおかしくない。しかし彼女は...
その時俺にアタリが来た。重い引き、90cmクラスか。釣り上げたタチウオを手早く処理して
持参したレジ袋に入れる。鋭い歯で袋を破らないように魚体を丸めるのがコツだ。
「本当に、釣れるのだな。」
少女が手を止めて俺を見ていた。その口元に微かな笑みが浮かんでいる。
「お陰様で。」 少女は再びルアーを投げ始めた。少女の隣で俺もルアーを投げる。
ゆっくりと過ぎてゆく時間。霊を相手にしているとは思えない、のどかな釣りの風景だ。
ただ、この美しい少女の額から頬へと伝う、一筋の鮮血を除けば。
釣りを始めて25分、俺は釣りを切り上げた。少女がルアーを投げながら呟く。
「帰るのか?」 「はい、今日はこれで帰ります。ありがとう御座いました。」
釣りを続ける少女を港に残し、俺はアパートに戻った。
話ができたとはいえ情報はほとんど得られなかった。
事情が分からない以上、Sさんの忠告を守るに越したことはない。
「榊さんに調べてもらったんだけど、ここ数年の間では
それらしい事件や事故の記録が見つからないの。今はもっと前の記録を調べてもらってる。」
Sさんから電話が来たのは少女と初めて話した翌日の昼過ぎだった。
「病気、って可能性もありますかね?」
「病気で頭から血...脳外科とか?病院の入院患者も調べてもらうように頼んでおくけど、
事情が分かるまではくれぐれも用心してよね。そう、あの短剣、港にも持って行って。
もしあなたに何かあったら、私。」
受話器の向こうで涙を堪える気配。そうだ、4年前とは何もかもが違う。
Sさん、Lさん、翠、そして藍。俺にはもう、何よりも大切な家族がいるのだから。
受話器の向こうで心配してくれるSさんの姿を思うと胸が痛む。ここは何とか。
「大丈夫です。絶対に無茶はしません。それより。」 「なあに?」
「病院関係者に伝があるなら、手に入りませんか?本物の白衣。」 「白衣?」
「見事にこの修行を終えて帰れたら、ご褒美にSさんの」
「馬鹿! ...忘れたの?セーラー服の時、ホントに大変だったんだから。」
電話越しでなければ頬か太股を思い切りつねられていただろう。
しかしそれでSさんの涙が乾くなら、つまらない自虐ネタも充分役に立つ。
その日の夕方も俺は港へ出掛けた。
買い物帰りなので車を駐車場に停め、そこから防波堤に向かって歩く。
Sさんの指示通り、△木野の主様から授けられた短剣は背中のリュックの中。
防波堤の真ん中辺りで時を待つ。少女の姿が現れた所で歩み寄り、声を掛けた。
「失礼します。今日も此所で釣りをさせてもらっていいですか?」
「構わない。」 口調はそっけないが少女の表情は穏やかだった。
釣りを初めて数分、俺は小さなタチウオを釣り上げた。丁寧にリリース。
「何故、私には釣れないのだろう。いくら下手でも一尾くらい...」
初めて少女が『興味』を示した。これでようやく事態が動く、これからが本番。
ただ、他人から見れば俺は虚空を見つめて独り言を言うことになる。
それとなく辺りの様子を窺う。人影は殆ど無い。防波堤先端に数人の釣り人。
数人、正確には4人。左端の釣り人の青い上着に見覚えがある。
そこで初めて気が付いた。
俺が此所に来る度に、あの人影が4つ。何故かそれ以外に人影は無い。
いつも全く同じ景色。しかも少女が現れるのは晴れた日だけ。それも同じ。
そして、初めて少女を見る前に感じた、軽い目眩。
俺の世界に少女が現れたのではなく、俺が少女の世界に踏み込んでいるとしたら。
あの幻の川での釣り。記憶がフラッシュバックして、腹の底が冷たくなる。
もしかしたら少女に影があるのは、生き霊だからでは無いかも知れない。
「ルアーの違いかも知れませんよ、ほら。」
俺が使っているのはバイブレーションタイプのルアー。小魚を模しているのは同じでも、
ボラのような細長いシルエットのミノーとは違う。アイゴやメッキのような、平たいシルエット。
「ああ、これは見たことがある。だが、今は持っていない。」
一か八かの賭けにはなるが、俺の疑問を解くのには最高のチャンスだ。深呼吸。
「もし良ければ私の釣り具を使ってみませんか?」
「大事な釣り具だろう。良いのか?」 「もちろんです、どうぞ。」
少女は自分の釣り具を防波堤に置き、俺に右手を差し延べた
出来るだけ平静に、手が震えないように釣り具を差し出す。
...あっけないほど無造作に少女は釣り具を受け取った。
やはり生き霊ではない。俺の知っている術とは桁違いの力。服や釣り具どころか、
その『領域』までも作り出す程の力はともかく、この少女は生身の、生きている人間だ。
少女の力が作り出したこの領域に、少女自身が囚われている。
恐らくこれが、『神隠し』。姫の言葉通りだとすれば此処では時の流れが止まっている。
一体どのくらい前から、いや待て、あのリールは95年型。少女が18歳だとすれば...
「この竿は、軽いな。その分ルアーが重く感じるが。」
「あ、実際、小さい割に重いですよ。飛距離が出るので広く探れます。」
「投げても良いか?」 「当然です。」
少女が投げたルアーは今までよりも遠くに飛んだ。飛距離10%UPといったところか。
「確かに飛ぶ。とても、良い釣り具だ。」 少女は楽しそうにルアーを投げ続ける。
その頬を伝う鮮血は、乾きかけているように見えた。
腕時計を確認しながら、俺はルアーを投げた。少女もルアーを投げ続ける。
突然、少女の竿が大きく曲がった。あの時と、同じだろうか。幻の川で釣った川魚。
やがて少女はタチウオを釣り上げた。80cmを軽く越える良型。
タチウオの傍らで立ち尽くす、少女の影。
「釣れた。初めて。」
この機を逃してはならない。慎重に言葉を選ぶ。そして深呼吸。
「あなたは、その魚を食べるのですか?」
「食べる?」 少女は驚いたように俺を見た。
「はい、私は釣った魚を食べるために釣りをします。あなたは?」
防波堤の上で身を捩るタチウオの姿が急速に薄れ、やがて、消えた。
「私は、待っているのだ。釣りをしながら。」
「何を、それとも誰を、待っているのですか?」
少女が右手で頭を押さえて俯いた。大量の鮮血が防波堤に散る。
「駄目だ。思い出せない。思い出そうとすると、いつもこうだ。」
「怪我を、しているのですか?」
少女はパーカーのフードを脱ぎ、血濡れの髪をかき上げた。
「此処だ。何が見える?」
額の右上、髪の毛の中に異様なものが見えた。高さ3cm、幅2cm位。
厚みは5~6mm、やや斜めになった断端。白っぽい材質が血を吸って赤黒く染まっている。
何かの破片...これは鏃(やじり)、か。動物の骨から削りだした鏃が折れたのだろう。
恐らくは飛んできた矢が頭骨に刺さった衝撃で。しかし、なんという酷いことを。
「多分、鏃だと思います。鏃の、破片かと。」
「鏃、か。」 少女は一瞬遠い目をした。
「出来れば、抜いてほしい。私には出来ないから。」
少女は無造作に左手でそれを掴んだ。ジリジリという音、肉の焼ける匂い。
「私が触るとこうなる。火傷は直ぐに治るが...何か、抜く方法はないか?」
少女の左手、酷くただれていた親指から中指が見る間に修復されていく。
しかし、俺の手ではこうは行かない。とても素手では。
だからといって、外科で処置してもらう訳にもいかないだろう。
一体、少女がこの領域から出られるのかどうか。
出られないとして、この領域内に病院があるかどうかも分からない。それなら。
「試してみたいことがあります。ちょっと待って下さい。」
俺はリュックの中から短剣を取りだした。あの年の大晦日、△木野の主様から授けられた短剣。
姫は此の短剣を『理由無く抜いてはいけない』と言った。『収まりがつかないから』と。
それなら、この剣を使う以外に方法を思いつかない今こそ、その時だ。
深呼吸をして短剣を鞘から抜いた。滑らかな感触。
微かに黒みがかった銀色の刃が、月の光を反射して光っている。
短剣を一目見て、少女の表情が変わった。
「何故、人間がその短剣を持っている。お前は、何者だ?」
「陰陽師です。まだ駆け出しですが。この剣ならあるいは、その鏃を抜けるかもしれません。」
少女は黙って俺を見詰めた。じぃん、と、胸の奥が痺れる。今、少女は俺の心を。
「精妙な術を使い、天地の精霊の力を借りるものたちか。 面白い、やってくれ。」
少女は防波堤に腰を下ろし、両足を海面に向かって垂らした。
そしてパーカーのフードの端を噛み、眼を閉じる。最後に小さく頷いた。準備完了という意味だ。
「失礼します。」 俺は背後から少女の頭頂部に左手の甲でそっと触れた。
短剣の切っ先を左掌に置く。そのまま刃の中程を鏃の破片に当て、力を込めて右手を引く。
ギッ、と硬い感触。刃が鏃の破片に食い込んだ。いける。
「抜きますよ。」 声を掛けてから、俺は一気に右手を引き上げた。
抜けた鏃の破片が足元に落ちるのと同時に、深い傷口から鮮血が吹き出した。
ぐらりと傾いた少女の体を抱き止めて傷口を押さえる。
直ぐに出血は止まり、傷口も見る間に塞がっていく。しかし、少女の意識が戻らない。
心なしか周りの景色が存在感を失いつつあるように見える。
少女の意識が戻らないままこの領域が消滅したら、少女はどうなる? そして俺は?
ますます景色の存在感が薄れていく。これ以上考えている暇はない。
短剣を鞘に収めてリュックにしまい、まとめた釣り具もリュックに縛り付ける。
タオルで鏃の破片をつかみ、そのまま丸めてこれもリュックに放り込む。
少女を両手で抱き上げて俺は急いだ。一刻も早く駐車場へ。そして車に。
下
それから十数分後、少女は俺の部屋の布団に横たわっていた。
何とかあの領域が消滅する前に脱出出来たようだが、やはり少女の意識が戻らない。
鏃の破片を抜いたのがまずかったのか。しかし少女は。
その時、ケイタイが鳴った。
「何だか胸騒ぎがして電話したの。今、Lは翠とお風呂に入ってるから。
今日榊さんから電話があって、それらしい行方不明者の資料が見つかったって...
あなた、一体どうしたの?あの子に、何か変わったことがあったのね?」
「誤解されることはないと思いますが、彼女は今、僕の部屋で寝てます。」
数秒間の沈黙。
「...寝てる、あなたの部屋で。一体どういうこと?」
「あの子の頭に鏃の破片が食い込んでいました。出血はその傷からで、
思い出そうとするとひどく出血するから抜いてほしいと言われました。それで短剣を。」
受話器の向こうでSさんが息を呑む気配。 「本当に、あの短剣を、抜いたの?」
「はい。鏃に彼女が素手で触ると火傷するんです。火傷がすぐに治るのも見ましたが、
素手で抜けないならあの短剣を使うしか無いと、そう思って。」
「どうやら本当にただ事じゃなさそうね。鏃の破片を抜いた後、短剣は鞘に収まった?」
「はい。ただあの子が意識を失ったままなので、急いで連れ出したんです。」
「連れ出した、って。何処から?釣りをする港からってこと?」
「あ、それを最初に説明するべきでした。多分、あの幻の川での釣りと同じです。
彼女は特別な領域の中にいて、其処に踏み込んでいたのは僕の方でした。」
「あの子は幽霊じゃなく、神隠しにあった人間だったのね。
それなら榊さんが見つけた資料が行方不明者の...R君、あの子他に何か言ってなかった?
なぜ自分が此処にいるのか、なぜ頭に矢を受けたのか、そんなこと。何でも良いから。」
「矢の事は分かりません。でも『何のために釣りをするのか』と聞いたら、
『待ってる』って言ってました。」
「何を待ってるって聞いたら、傷が痛んで出血が酷くなるのね?」 「はい、そうです。」
「R君、落ち着いて良く聞いて。あとで簡単な術も教えるからメモの用意もしてね。
彼女の傷口が完全に塞がったのを確認したらその術を使う。それで彼女は多分目覚める。
目覚めたらもう一度話を聞いて。忘れていた記憶が戻ったかどうか。此処までは良い?」
「はい、メモの用意も出来ました。」
「うん、良い返事。答えがNoなら、そのまま寝かせて朝まで様子を見る。
答えがYesなら...」 「はい、答えがYesなら?」
「話の途中で何が起きても慌てないで。絶対に悪い事は起きないから。
でも、ただ事じゃないと思ったら眼を伏せて、絶対に見ては駄目。絶対に。」
「見てはいけないって、一体何故ですか?」
「調べてみないとハッキリしないし、具体的に何が起こるかは言えないけど、
『人間が見てはいけないこと』が起こる可能性があるの。
だからお願い。私の言うとおりにして。ね、絶対に、見ては駄目よ。」
Sさんの声は微かに震えていた。もともと、俺がSさんを信じるのに細かい説明など要らない。
それにあの子がただの人間ではないことは俺が一番良く知っている。
『人間が見てはいけないこと』が起こるとすれば、俺が感じた通りだということだろう。
「分かりました。ただ事でないと思ったら眼を閉じて絶対に見ません。約束します。」
受話器の向こうでSさんが小さく息を吐いた。
「じゃあ、術を教える。メモを取って。」 「はい、お願いします。」
俺は説明を聞きながらメモを取った。特別な代も要らないシンプルな術、これなら俺にも使える。
「もうLと翠がお風呂から出るし、私もこの件を調べてみる。だから電話、一旦切るわよ。」
「はい、ありがとう御座いました。」
電話を切り、時折少女の傷の様子を確かめる。
指の火傷ほどでは無いが、順調に傷口は治りつつあり、出血も止まっていた。
傷口が完全に塞がったのは夜中前、午後11時過ぎ。
傷のあった場所がやや赤みがかってはいるが、既に髪の毛も再生されていた。
これなら大丈夫。傷の様子を確かめながら準備は済ませてある。
大丈夫。今が、その時。
術を使って数分すると少女は目を覚ました。
枕元に座る俺を暫く見詰めた後、ゆっくりと上体を起こした。
もちろん白い頬に血の跡はなく、唇の色にもやや生気が戻っている。
「お前のお陰で全部思い出した。礼を言う。」 微笑む少女に俺は黙って頭を下げた。
「生まれた時から私は奇妙な質で、父母は相当に苦労したようだ。
小学校に入学しても友達一人作れない私を、父は良く釣りに連れて行ってくれた。
そしてあの日、私たちは出逢った。」
少女が語る言葉は暖かく、しかし一抹の後悔を含んでいるように思えた。
「あの方と共に過ごす時間が愛しくて、私は父にせがんで度々釣りに出掛けた。
そして私が中学生になった年、私たちは約束をした。
16歳になったら、私はあの方の嫁になると。」
やはり、ただの神隠しでは無かった。信じられないが、これは、現在進行形の異類婚説話。
「父は黙って許してくれた。母は少し泣いたが、やはり許してくれた。
『このまま人の世に住んでもお前は幸せには慣れないから』と。それなのに。」
少女は言葉を切って俯いた。両手で握りしめた布団の端に落ちた涙が染み込んでいく。
「何が、有ったんですか?」 少女は右手の中指で涙を拭ってから顔を上げた。
「あの方が私を迎えに来た時、言いつけを守らずに目を開けてしまった。
あの方の、本当の姿を見てはいけなかったのに。」
「もしかしてそれは、あの鏃のせいだったのではないですか?」
「どんな言い訳も意味が無い。私は言いつけを守れなかったのだから。
それから私にはあの港がただ1つの居場所になった。
重なり合う2つの世界の狭間、『何処でもない場所』が。」
「でも、昨夜あなたは彼処から出ました。これから、どうするつもりですか?」
少女は再び俯いた。小さな肩が震えている。
「詫びが、言いたい。 一言、あの方に。」
少女が呟いた途端、俺の部屋をその存在が満たした。厳かな、何処か懐かしい気配。
俺は正座をして頭を下げ、畳に手を着いた。硬く目を閉じる。
そう、これは、決して『人が見ることを許されない』場面。
『詫びを言うべきなのは、私だ。お前の気持ちがあまりに嬉しくて、油断した。
だから、あの忌まわしい呪いの矢から、お前を、護れなかった。
しかし今日その傷が癒えたからには、お前の望みを叶えたい。
そのまま人の世に居たければ、一生の幸せを約束する。
父母始め、お前の縁の者に不自由はさせないし、もう、決して油断はしない。』
「人の世に、私の幸せは無い。何度も言った筈だ。」
『本当に、人の世に帰る気は無いのか?』
『無い。許されないならあの港に戻る。許されるなら、約束通り、お前の嫁になる。』
少女の声の響きが変わっていた。
ただ一本の呪いの矢によって長く中断していた魂の変容が、完成しようとしている。
『許すも何も、悪いのはあの矢。お前は何一つ悪いことはしていない。
私が、臆病だったのだ。本当の姿を見られて、お前に嫌われるのが怖かった。
それで『目を閉じていてくれ』と。もしその目を閉じていなかったなら、
お前があの矢を受けるなど万に一つも有り得なかったのに。』
『矢を受けても、目を開けるべきではなかった。だから、私が悪い。許してくれ。』
『私の本当の姿を見たのに、嫁に来てくれるのか?』
『何度も言わせるな。私は約束を守りたい。お前の下へ、行きたい。』
『R、大体の事情は分かったな?』
「はい。」 慌ててさらに頭を低くする。一体何故、俺の名を。
『此所で修行を始めて直ぐに、お前ならこの役目を任せられると思った。
そして、その働きは期待以上だった。ずっと、待っていた甲斐がある。』
そうか、今、俺の部屋を満たしている存在は俺が修行している神社の...
俺と同じ適性を持つ術者は久しくいなかったとSさんは言った。
それなら俺が今年此処に修行に来たのも、遠い『約束』の1つなのだろう。
「気付かぬ内にお役目を果たす事が出来ていたなら幸いです。」
『最後にもう1つ、頼みたいことがある。』
「私に出来る事なら何なりと。」
『この娘を私の社まで連れて来てくれ。晴れて、嫁として迎えたい。』
「仰せの通りに。」
『頼む。』
その言葉を最後に、その存在は俺の部屋を去った。
『顔を上げてくれ。』 少女の声だ。
少女は俺の前に立っていた。パーカーとジーンズではない、目が覚めるような純白の着物。
儀式の時にSさんや姫が着る着物に良く似ている。
『悪いが、一刻も早くあの方の下へ行きたい。頼む。』
少女の頬はほんのりと紅に染まっていた。そしてあの鮮血と同じ色の紅をさした唇。
本当に、何もかもが美しい。穏やかに微笑む少女を見て、俺は心からそう思った。
参道に続く階段の手前、狭い駐車場に車を停め、助手席のドアを開けて跪く。
今年、桃花の方様をある場所にお送りした時、Sさんから習った作法。
俺に出来る最上の礼を尽くさねばならない。そう思った。
差し出された手を取って車を降りる補助をする。 「ありがとう。」 鮮やかな笑顔。
少女が参道の方向に向かって歩き始めたのを確認してから、俺は振り向いた。
これは...
参道の入り口に篝火が焚かれ、参道の両側には五色の幟がたなびいている。
俺が毎朝通ってきた時の寂れた感じとは全く違う、厳かで華やかな雰囲気。
目が慣れてくると階段の上り口に白装束の人影が跪いているのが見えた。
上り口の両側に3人ずつ、計6人。巫女さんのようだ。巫女さんどころか、
普段の社務所には管理をしている年老いた男性が一人いるだけだというのに。
俺は少女の後を、少し離れて歩いた。未だ役目は終わっていない。
少女は階段の上り口の手前で立ち止まった。ゆっくりと振り返る。
『此処までで良い。色々と苦労をかけたな。』
少女の前でもう一度跪く。この任を解いて頂く時だ。
「いえ、私は何も。むしろ、このようなお役目を頂き光栄でした。」
『一緒に釣りが出来て楽しかった。あのタチウオ、絶対に忘れない。
旅立つ前に良い思い出ができた。心から、感謝する。』
「はい...」
それは、一体どれほど重い決心だったろう。
少女が辿ってきた道程とその苦難を想うと、言葉が出ない。
無力だ。俺の力も、言霊でさえも。 ただ涙だけが溢れる。
頭を下げた俺の目の前で向きを変えた少女の足が、もう一度向きを変えた。
『人間だった時の名を、憶えておいてくれないか。縁あって私が人の世に生まれた、その証に。』
「は、今何と?」
少女の膝が曲がるのが見えた。俺の耳にかかる温かな吐息、爽やかな芳香。
『 い ず み 』 『万物を育む、清らかな水の源、『泉』。』
信じられぬ思いで俺はその言葉を聞いていた。まさか、こんな事が。
「誓って、忘れません。」 やっとの思いで言葉を絞り出す。
少女の足は向きを変えた。遙かな世界へ向かう、軽やかな足取り。
「何時までそうしてるの?」
聞き覚えのある声。振り向いた俺の直ぐ前にSさんが立っていた。
「Sさん、どうして?」
「どうしてって。あなたの電話で事情が分かったから直ぐに飛んできたの。
先回りして神社の祭主と連絡を取ったって訳。必ずこうなると思ったから。
祭主は神隠しの件を憶えていたから話が早かったわ。
あ、駐車場の車、気付かなかった?まあ、あんな状況なら無理もないけど。」
「でも、彼女が別の選択をする可能性だって。」
Sさんは両手で俺の頬を挟んだ。温かい感触。
「この私に2人も子供を産ませて、未だ女の気持ちが分からないの?
別の選択をするつもりなら自分を神隠しにする必要なんか無いでしょ。
記憶もないのに、そして文字通り血を流しながらでも待ち続けられたのは、
こうなることを彼女が心から望んでいたからじゃないの。
そしてあなたの適性なら成功すると信じたある御方が、この御役目をあなたに任せた。
そうでなければ、これ程の御役目、とても人間に担えるものじゃない。
あなたには、いつも本当に驚かされる。でも、とても誇らしいわ。御役目、御苦労様。」
事の重さに気が付いてから、その重圧に負けまいと張り詰めてきた気持ちの糸が、
Sさんのその言葉をきいてプツリと切れた。
「Sさん。僕は。」 また、涙が溢れた。止められない。
俺は、跪いたままSさんの胸に顔を埋めて泣いた。
哀しいのではない、嬉しいのでもない。でも、どうしても、涙が止まらなかった。
「全く、子供みたいね。誇りに思いこそすれ、泣く事じゃ、無い、でしょ。」
Sさんの涙声が、俺が経験したことの不思議さと、その重さを示している。
どれ位そうしていただろう。いつの間にか辺りは薄明るくなっていた。
「もう、落ち着いたでしょ。さ、立って。それから、あの鏃を頂戴。」
「鏃?」 「そう、これは私の役目。さ、上着の胸ポケットよ。」
俺は言われるままに上着の胸ポケットに触れた。柔らかな感触、その中心の固い芯。
あの、鏃の破片を包んだタオルの包みだ。一体、何時の間に?
Sさんは俺のポケットから包みを取り、無造作にそれを解いて矢尻の破片を左掌に置いた。
「Sさん、それを素手で」 Sさんは右手の人差し指で俺の唇を押さえた。『黙って』の合図。
目を閉じて深く息を吸い、小声で何事か呟いた。
Sさんの集中力が高まっていく、チリチリという音が聞こえるようだ。
やがて、目を開けた。左掌の上、鏃の破片をボンヤリとした光が包んでいる。 これは。
次の瞬間、Sさんの左手が一本の矢を握っていた。 赤黒い鏃、真っ黒な軸と矢羽根。
「返れ・・・の矢は射手へ。」
Sさんが掌を開くと、呪われた矢は、まるで手品のように、消えた。
「はい、これでお終い。荷物まとめて、一緒に帰りましょ。」
「でも、まだ修行がまだ一週間以上残ってますが。」
「これ程の御役目を果たした時点で、祭主の印可は降りてる。もう修行は終了。
それとも、新婚さんのお社に毎日毎日早朝からお邪魔するような真似をするつもり?」
いや、確かにそれはまずいだろうけれど、俺の借りたアパートは。
「え~っと、アパートの駐車場は一台だけしか。」 「ロータスは此処へ置いていくわ。」
成る程、そういうことか。一度2人で荷物をまとめて。
「後で取りに来るんですね?」 「違う。この社に納めるの。」 「へ? 車を?」
「そう、神様のお嫁さんを乗せてお送りしたのよ。デザインや材質は違っても、
この車は立派な御神輿。今後この車は社宝として祀られる。一般には公開されないけど。」
「でも、Sさんはこのロータス気に入ってたんじゃ?」
「あらゆる人外に、優れた術者が此処にいますと宣伝して歩くようなものよ。
幾ら何でも目立ち過ぎる。どのみち今後私たちの仕事では使い物にならない。」
そうか、神社の駐車場、『本体』が近過ぎて今は見えないが、おそらく光塵の数と明るさは。
「そう、それにね。」 Sさんは悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「当然『上』が社宝として買い上げる訳だから損はしない。
それどころか多分同じ車何台か買ってもお釣りが来る。帰ったら直ぐに検討しなきゃね。」
結
少し開けた窓から晩秋の冷たい風が吹き込んで来る。
Sさんが運転する車の助手席で、俺は紅葉に染まり始めた山の景色を眺めていた。
『少し仮眠をしたら』とSさんは言ったが、未だ興奮が醒めず、とても眠れたものではない。
「やっぱり、眠れない?」 「はい。何だかテンションが上がり気味で。」
「あの御方に恋、しちゃったかな? あんなに綺麗じゃ、忘れられなくても仕方無いけど。
嫉妬する気にもなれない位だったし。」
「恋、じゃありませんよ。人間が神様のお嫁さんになるなんてことが、
どうして起こるんだろうと、それを考えていたんです。」
「お嫁さんだけじゃなくてお婿さんもいる。神婚説話、知ってるでしょ?」
確かに、相手が神なら、それは異類婚説話ではなく神婚説話だ。
「はい、ただ、それは。」
「単なる言い伝えで、本当にあるとは思わなかった?」 「そうです。」
「何の具合なのか、極く希に起こるみたいなの。神に近い魂が人の体に宿ることが。
本人も家族も、とても辛い境遇に置かれることになる。特に近代以降はね。
実は、Lの母親もそう言われていたみたい。『後々は神の嫁になる娘』って。
でもあの人は、人の世に生きる事を選んで、Lを産んだ。
その魂と『強すぎる力』が生み出す負荷に耐えられず、早死にすることは承知の上で、ね。
そうか、姫の母親の『強すぎる力』とは。
あの少女と比肩する力を持っていたのなら、人間の体が長く耐えられる筈がない。
少女があの御方を待ち続けるためには、時間の流れの止まったあの領域が必要だったのだ。
『Lの母親と同じく、あの御方も自分の望みを叶えたのだから幸運だったのよ。
あの御方を支えたあなたの適性、修行の時期、それら全てが『約束』だったって事ね。」
それはあの時、俺が感じたのと同じ感覚だ。
「おいおい話が出来ることはあると思うけど、今はここまでにして。OK?」
「はい、正直これ以上聞いても、今の僕には理解出来ないと思いますから。」
「ありがと。そういえば未だお土産買ってないでしょ?翠、楽しみにしてるわよ。」
「あ、済みません。県境を越える前に何処かで土産品店に寄って下さい。」
「修行が早期終了したんだから仕方ないわよね。」
Sさんは路肩に車を停めた。悪戯っぽい笑顔。
「私とLの分もお土産買ってよね。私はちゃんとあなたの望みのものを手に入れたんだから。」
「あの、望みのものって。」 Sさんの頬が見る見る真っ赤に染まった。
「自分で言っておいて、まさか忘れたんじゃ無いでしょうね。」
冷たい汗が流れた...もしかしてあの自虐ネタを本気に?
「あの、本当に手に入れてくれたんですか?白衣。」
「そうよ。頼む時、すごく恥ずかしかったんだから。感謝してよね。」
一体、Sさんはどんな顔をして頼んだんだろう。思わず笑みが浮かぶ。
「もちろん、感謝感激雨霰ですよ。ところで。」 「何?」
「今夜、着て見せてくれるんですよね。どのみち光塵のお陰で寝不足は決定だし、
光塵の灯りで見る白衣はきっとロマ、あ痛たたたた。」
「馬鹿!」
「だって、僕に見せてくれるために」 「知らない!!」 「痛いですってば。」
「あ、そうだ。最後に1つだけ教えて下さい。」 「なあに?」
「あの矢です。あれは『呪い返し』ですよね。」 「そう、私が頂いた御役目。」
「あの矢は、誰に返したんですか?」 「本当に、知りたいの?」
「それはもちろん、誰が彼女に矢を射たのか、知りたいですよ。」
Sさんは深呼吸をして目を閉じた。
「海岸、今はあの街の北側にある大きな港になってる。
かなり力の強い邪神だったみたいね。もう既に始末は付いたけど。」
街の北側の大きな港。それはおそらく、俺が最初に訪ねた港。
なら、あの気配こそが。そして、俺に干渉しようとした理由も何となく分かった。
「ねぇ、どうしたの?」 「何でもありません。運転、変わりましょう。」
俺の中で変わったこと、変わっていないこと。
俺は今更のように、『出会い』から過ぎた時間の重さを感じていた。
『約束(結)』 完
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