タクシーを拾う男
タクシー運転手をしております。長いことこの仕事をしていると、ちょっとやそっとのことじゃ驚かなくなりますよ。
酔っ払いが車内で吐いたり暴れるのなんて、日常茶飯事です。
この職業は色んな出来事に遭遇しますが、いまだに気味が悪いなぁ…後味が悪いなぁ…と思った出来事が一つだけありますね。
思い出してみても、あんまり気持ちの良い話じゃありませんよ。
あれは確か、10年くらい前だったかな……
夏の夜のことでした。
飲み屋街で拾ったお客さんを、A駅まで乗せてった帰りのことです。
週末でしたので、また飲み屋街に戻ってお客さんを拾おうと思っていたんですよ。
飲み屋街とA駅の間に交通量の多い交差点があって、そこのすぐ近くにコンビニがありました。昼間は近所の高校に通う子供たちが、弁当や菓子を買う場所として賑わっていますが、夜になると寂しいもんで、そこまで人は入ってません。
この交差点を過ぎれば、飲み屋街までもう少しだ。
時刻は22時…私たちにとっては稼ぎ時です。
交差点付近のコンビニに差し掛かった時、歩道から身を乗り出す人影を見つけました。
中年男性が、真っ直ぐに手を挙げて私の方を見つめていたのです。
あぁ、乗りたいんだな…
すぐに察した私は、タクシーを停めて彼の前でドアを開けました。
「どうぞ。お乗りください」
くたびれたスーツ姿の男性は、ノロノロと後部座席に乗り込みました。
「どちらまで行かれますか?」
私がそう聞くと、男性は考え込むように小さく唸りました。
「B町スポーツセンター辺りまで、とりあえずお願いします。そこら辺からは行ってから説明しますので…」
「分かりました。じゃあ、とりあえずその付近まで行きますね」
目的地のB町スポーツセンターは、今いる場所からは少し離れている。歩いて行こうと思うと、かなり時間がかかるため、タクシーを拾おうと考えた男性は賢明な判断だったと言えます。
メーターをセットし、発進しました。
ルームミラーに写る男性の顔は、歳の割りには白く、どこか病的な雰囲気を醸し出していました。中年くらいだと、日焼けしてる人多いじゃないですか。
着ているスーツも一世代くらい前に流行したデザインで、現代のスーツ売り場には無さそうな代物です。
いかにも、時代遅れな疲れたおじさん…といった感じでしたが、少し困ったような表情から人の良さが滲み出ている気がしました。
「お仕事帰りですか?」
「えぇ、まあ。急ぎなもんでタクシー通らないかな…って待ってたんですよ」
「ははぁ、そうでしたか。今日は週末だから、タクシー通っても空車じゃなかったりしたでしょう」
「そう、そうなんですよ。いやぁ、良かったです。あの場所だと捕まりそうで捕まらなくて…」
彼の言う通りだ。交差点に近く、交通量もそらなりに多い。コンビニくらいしか無いので、なかなか空車のタクシーに出会うことが少なかっただろう。通っても、飲み屋街から誰かを乗せている。
この人は、何度タクシーを見送ったのだろうか…
「お急ぎなら、なおのことヤキモキしてたでしょう。ご自宅はB町スポーツセンターの近くですか?」
「えぇ、女房が待ってるもんですから…」
柔らかい声の愛想の良いお客さんでした。他愛ない話にも付き合ってくれて、そのうちB町スポーツセンター辺りに着いて、道案内をしてもらいました。住宅街の中をすり抜けて、ある家の近くで停まるよう言われました。
「この辺りでいいです」
私は料金を受け取り、彼を下ろすと適当な場所でUターンをして住宅街を出ることにしました。
帰り際に男性がある家の前に佇んでいるのを見かけました。
一瞬見えた顔は、寂しげで…虚ろなものでした。
ぞくり…と背中が粟立つほどの……
その後、ちょっと妙なことがありました。その時受け取ったはずのお金、どこを探しても無かったんですよ。
お金を入れておく小箱を見ても、領収証入れておくポーチを見ても、おかしなことに彼からもらった金は見当たらない…まるで最初からもらっていなかったかのように…
それから2日くらい経った頃、お昼過ぎにあの交差点付近を通ることがありました。この日は少し忙しく、昼食をとることが出来ていなかったので、コンビニでおにぎりでも買って遅めの昼食にしようと思いました。
コンビニの駐車場へ向かってハンドルを切ったその時、チラッと視界の端に交差点の角に花が映りました。
駐車場にタクシーを停め、降車してから交差点の角をよく見ると、花だけでなくペットボトルの飲み物も置いてありました。
置いてある…いいえ、あれは供えられていたのです。よく見ると花は少し枯れています。
交通事故で亡くなった人がいるのだろうか。不幸なことです。
私はコンビニでおにぎりを買うついでに、店員に少し話しかけてみました。
「あそこで事故でもあったんですか?」
バイトと思われる若者なにこやかに答えてくれました。
「あぁ、結構前ですよ。ここで轢き逃げがあって一人亡くなったんです」
轢き逃げ…なんだろう、背中に冷たいものが走りました。
そうだ…あのお供えものの辺り。夜だから気が付かなかったけれど、あの男性をタクシーに乗せた場所でした。
若者は私の表情に違和感を覚えたのか、お客さん大丈夫ッスか?と聞いてきた。
「大丈夫だよ。前にあそこでお客さんを拾ったことがあって、ちょっと怖いな~危ないな~って考えていただけさ」
「え?お客さんを拾った…?それってさ、だせぇスーツ着た、くたびれたおっさんじゃなかったッスか?」
何故この若者は、あの男性を知っている…
そうだ、彼だ。くたびれた時代遅れなスーツを着込んだ、歳の割りには白い顔の中年男…
「そのおっさん、今度見掛けても乗せない方がいいッスよ。あそこで死んだ人なんで…」
若者の言葉に、ぞくり…と全身に悪寒が走った。
あの夜私は、死人を乗せて走っていたのか…。
このコンビニの従業員たちの間では有名な話らしい。週末の夜になると、あの男性が手を挙げてタクシーをずっと待っている…と。少し目を逸らすと、いつのまにか居なくなっていたりする…と。
長くコンビニに勤めている者は、彼があそこで轢き逃げで亡くなった男性と知っているだけに、どうも嫌な気持ちになってしまうそうです…
それを聞いてしまった私もまた、鬱々とした気持ちを引き摺って午後も仕事をすることになってしまいました。
しかし金曜日の夜、偶然私はあのコンビニ前を通り掛かりました。
またいるのではないか…いても絶対に乗せないぞ…そう心の中で呟いていました。
コンビニ前に差し掛かった時、誰かが手を挙げているのが見えました。
あの中年男です…
相変わらず疲れた白い顔で、くたびれた時代遅れなスーツを着ています…
彼は、私の目をじっと見つめていました。
停まれ…と訴えるように。
自然と、私はタクシーを停めてしまいました。あれほど乗せまいと思っていたのに…
ドアを開くと、彼は乗り込んで来ました。
「おや、以前の運転手さん。またお会いしましたね」
「え、えぇ…そうですね」
「同じ方に当たるとは珍しいですね。では、またB町スポーツセンター辺りに行ってください。急いで帰らないと…女房が待ってるんですよ」
私は言われるがままに走り出しました。
以前はよく話をしましたが、今夜は怖くて何も話せませんでした。
いつもよりスピードが出ていたと思います。後部座席から伝わってくる冷たい空気は、確かに生きている人間のものとは思えませんでした。
道案内をされながら入り込んだ住宅街は、前に来たところと同じでした。
指示された場所で停車をし、ドアを開け、
「お客さん、すみません。メーターをセットするの忘れてしまいましてね…料金が分からないんですよ。今回は私のミスなので、お代は頂きません」
「そうですか…ありがとうございます。では、失礼しますね。早く帰らないと…」
穏やかにそう言って、彼はゆっくりとタクシーを降りて行きました。
最後に私が見た彼の姿は、ある家の前に寂しそうに佇んでいる姿でした…
彼の奥さんは気付いていないでしょう…
もう帰らぬ人となった旦那が、死んでも女房のためにタクシーに乗って急いで帰ってきていることに……
あれから私は、あのルートを極力走らないようにしました。
それでも職業柄、まったく通らないというわけにはいかないもんでして…この間また見掛けましたよ。
あのコンビニの前で…手を挙げてタクシーを拾う中年男を…
まだ彼は、女房のところに帰ろうとしてるんでしょうね…
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