藍物語シリーズ【1】
『出会い』
上
誰でも一生に一度は、その後の人生を左右する事件に遭遇するだろう。
俺は大学生の時、ある事件に巻き込まれたのがきっかけで3人の女性に出会い、
それが俺の人生の進路をそれまでと全く違う方向に変えるきっかけになった。
その事件の大切な記憶の数々は、今でも俺の心の底できらめいている。
ただ、どんなに大切な記憶でも、時間が経つにつれて少しずつ色褪せてゆくものだ。
全ての記憶が色褪せてしまう前に、俺の人生の真の出発点とも言うべき事件について
大切な記憶の断片を幾つか、備忘録替わりに、ここに書き残して置こうと思う。
改めて思い返すと、もう7年も前の事になる。
当時俺は大学2年生で、定期で某外食チェーンのバイト(週3・深夜・主に皿洗い)と
不定期でいわゆる「何でも屋」のバイトを掛け持ちしていた。掛け持ちといっても
「何でも屋」の方は大学入学直後に学部の先輩の伝で登録してただけなんで、
月に2・3回仕事受けてちょっとした臨時収入があればラッキーって程度。
プチ人材派遣みたいな形態で、時々ヤバイ仕事やデカイ仕事もあったみたいだが、
もちろんそんな仕事の依頼が無資格の大学生に廻ってくる事はない。
年寄りの家の草刈りとか、小学生の宿題とか、テレビとビデオの設置・配線とか。
当地区事務所のボスで配置係のNさん(男性・40代?)から電話があった時に
自分の予定と相談して仕事を受けるかどうか決める。
時給換算で大体1000円前後のショボイ仕事ばっかりだし
Nさんが気さくで話しやすい人だったんで、気が向かない時は
「済みません、大学のレポートの締め切りが近くて。」とか言い訳して断ったりしてた。
ただ、受けた仕事は全身全霊でやってたから、Nさんに「おまえ評判良いぞ。」って
食事奢ってもらうこともあったし、少し特別扱いされてる?とか思ってたが、それにしたって
今考えると、かなり縛りがゆるかった。案外人材豊富で優良経営だったのかもしれない。
さて、前置きが長くなった。
変な出来事が始まったのは、大学2年の夏。学期末が近づいてきた頃だ。
一応は真面目な苦学生だったんで、安アパートの部屋で夜遅くまで
テスト勉強やらレポート作成に頑張ってた訳だが、決まって1時過ぎた頃から
部屋の外に妙な気配を感じる事が多くなった。俺の部屋は3階で
エアコンなんて無いし、部屋にいる時は毎日窓開けっ放しで生活してた。
もともと霊感なんて全く無く、怖い体験なんかした事が無かっただけに
窓の外に妙な気配を感じると怖くて勉強は滞るし、窓閉めたら暑くて寝られないし
テストが終わる頃にはすっかり寝不足と夏バテで、体調はもう最悪。
で、夏休みも目前に迫ったある日、大学サボって寝てたらNさんから電話が来た。
夏バテでかったるかったから、またいつもの言い訳で断ろうとしたら様子が違う。
「...R、今回は下手な言い訳は聞かないぞ。」←まあこれは想定内。
「それに今回はおまえを名指しで依頼が来てるんだよ。」←これは全くの想定外。
「話聞いてから断るにしても、事務所に来てくれんと困るんだ。」←で完全に???モード。
ヤバイ仕事か?ってビビったが、Nさんは「事務所で話す。」の一点張り。
いつに無く凄みのあるNさんに日時を指定され、渋々了承。
全く気は進まなかったが仕方ない。指定された日曜日の午後、
俺は卒業した先輩から譲り受けたボロい軽自動車で郊外の事務所に出かけた。
ノックして事務室に入ったら、Nさんが渋い顔して一人でソファに座っていた。
挨拶して「依頼人はまだなんですか。」と聞いたら
「もうおいでだ。奥の応接室(防音・エアコン完備=通称VIP室)でお待ち頂いているが、
約束の時間まで間がある。依頼の内容を説明してからの方が良いだろう。」と言う。
散々ビビらせておいて「バーカ、ガキの自由研究だよ。」って展開を期待していたが
これはどうも本当にヤバイらしい。恐る恐る「断れないんですか?」って聞いてみた。
「言い難いが、断るのはかなり難しいんだ。お前、○◇会は知ってるな。」
もちろん知ってる。この地域の住民なら誰だって知ってる怖い団体の名前だ。
「その○◇会の偉い人の口利きで依頼が来た。こういう商売してると、どうしても
ああいう団体とのトラブルが起きるもんだが、○◇会側はこの依頼を受けてくれたら
過去のトラブルは水に流すし、今後はうちの商売に一切干渉しないと言ってる。
依頼者は○◇会に随分大きな貸しがあるらしいな。」 これ、一体何のフラグだよ?
頭の中がグルグル廻り、右の瞼がピクピク震える。
それでも必死に考えて食い下がってみた。
「いや、おかしいですよ。自分、今まで○◇会に関わる仕事なんか...」
そこでNさんが口の前に人差し指を持ってきて「R、声がでかい。」と遮った。
「あたりまえだ、大学生にそんな仕事廻すわけないだろ。5月の仕事だよ。
Sさんって依頼人、憶えてるか。」そう言うと、ソファから立ち上がり
書類の保管庫から依頼カルテを取り出して来てテーブルの上に置いた。
電話で受けた依頼の内容を 記録しておくA4の様式。
Nさんは眼鏡を額の上にずらし、目を細めてページをめくる。「ほら、これ。」
走り書きされた依頼人の住所と仕事の内容、それで一気に全部思い出した。
山の中の大きなお屋敷、自転車の修理、美形の依頼人。
その年のゴールデンウィーク、土曜日の午後に俺は自転車修理の依頼を受けた。
Nさんから「おまえ自転車詳しいだろ。修理もできるか?」って電話があった。
「フレームが逝ってたらさすがに無理ですけど、それ以外なら何とか。」って答えたら
「できるだけ早く事務所に来てくれ。」と言うので、午後一番で事務所に行った。
Nさんが事務所の電話で依頼人のSさんに取り次いでくれて、直接話してみると
Sさんは女性、自転車には詳しくない。とりあえず自転車のメーカーと型番、
トラブルの内容を聞いたら、大した修理じゃなさそう。部品も手持ちでОKっぽい。
ただ、Sさんの家の近くに自転車が無く、事情が有って長く家を空けられないので
電話帳で探した自転車屋に出張修理を頼んだけど断られたって話だった。
声と話し方が何か良い感じ。翌日の日曜に少しウキウキしながら仕事にでかけた。
約束の時間は午後2時、近くのコンビニで時間調整してピッタリに到着した。
指定の住所にはえらく大きな別荘、というよりお屋敷みたいなデカイ家。
玄関脇のウッドデッキに、女性向きのクロスバイクが立て掛けてある。
インターホンのボタンを押すと、「はーい、ただいま。」って聞き覚えのある声がして
20台半ば位の女性が出てきた。長い髪を首の後ろで軽く束ねている。
Sさんは、隙が無くキリッとした、文字通りの美人。微かに良い匂いがした。
内心「こりゃラッキーな日曜じゃん。」とか思いながらクロスバイクの状態を確認。
トラブってるのは変速関係だと聞いていた。自転車自体の状態は悪くないんだけど
何故か変速ワイヤの端がほどけて止め具から外れ、変速ができない状態。
しばらく使ってなかった自転車を、最近倉庫から出してきたのかなって感じ。
「変速ワイヤの交換と調整、ブレーキのワイヤも変えたほうが良いですね。」と言うと
「どのくらいかかりそうですか?」と聞かれたので「1時間もあれば。」と答えた。
そしたらSさんは「いいえ、あの、部品代です。」と言ってくすっと笑った。
あのね、ふわっと花が咲いたような笑顔。もう俺すっかり骨抜き。
咄嗟に「あ、聞いてませんか?うちは一件いくらで仕事受けますから。
基本、ワイヤみたいな消耗品は無料なんですよ。」と胸張って答えた。 ←馬鹿。
正直な所、Sさんが自転車関係で常連になってくれたらという下心満々だった。
「じゃ、普通の自転車屋さんに頼むよりお得なのね。」と言うSさんの笑顔を
思い出しながら、気合入りまくりで作業に取り掛かった。
クロスバイクの変速ワイヤ交換・調整なんて難易度は★☆☆☆☆、楽勝の作業。
まあ、でも事情が事情なんでそれはもう丁寧に作業を進める、それこそ没頭。
そろそろ作業も山場って所で、ふと背後にヒンヤリした気配を感じて振り返った。
麦藁帽子を目深にかぶって俯いた白いワンピースの女の子が立ってる。
一瞬ビビったが、麦茶のグラスとお菓子が乗ったお盆を持ってたので一安心。
細身でSさんより背が高い。顔は良く見えないがショートカット、中学生くらい?
Sさんの娘さんにしては明らかに年齢が近すぎるような気がするし
妹さんにしては年齢が遠すぎる?まあそれはさておき、関係者なのは間違いない。
なら愛想良くしてたほうが良いに決まってる。明るく声を掛けてみた。
「え~と、君はこの家のお嬢さん?」 → 黙って頷く。 → オレ?
「それ、もしかして僕に持ってきてくれたの?」 → 黙って頷く。 → オレ??
「今手汚れてるからデッキに置いといてくれる?」 → 黙ってお盆を置く。 →オレ???
「ありがとね。」 → 黙って頷く。 → オレ????
女の子は腰の後ろで手を組み、俯いたまま黙って立っている。
かなり微妙な空気になったが、「自転車好きなの?」とか言いながら作業を続けた。
背後から見つめられたまま作業するのは慣れてない。結構照れくさくて参った。
「ずっと立ってたら疲れるでしょ?座ったほうが良いんじゃない?」
女の子は頷いて、さっき置いたお盆の隣、デッキに腰掛けた。こ、これは長期戦か?
「僕も自転車乗るんだよ。ロードバイク。」 「ほら、ハンドルがこんな感じに曲がってる奴。」
「でも街中だと、こういうクロスバイクとかマウンテンバイクのほうが使い易いんだよね。」
女の子が黙ったままなので、もうほとんど独演会状態。でも、もしドン引きされてるなら
自分から家に戻るだろうし、喋ってると不思議に気分が良かったんで、喋り続けた。
作業は順調に進む、あとは変速の微妙な調整が済めば作業終了。
女の子はやっぱり俯いて、黙ったままデッキに座っている。
しばらくして、ふと気が付いた。振り向いて聞いてみる。
「あのさ、もしかしてこの自転車、君が使うのかな?」 → 黙って頷く。
「それだと、ちょっと乗りにくくない?」 → 黙って頷く。
この女の子が乗るとしたらサドルが低すぎるし、明らかにポジションが合ってない。
「身長とかに合わせて少し調整しても良いかな?」 → 黙って頷く。
思春期の難しい時期だろう。直接体に触れたりするような無神経な真似はできない。
それに何より、あのSさんの関係者だ。失礼の無いように質問主体で調整する。
「君の身長って155センチくらい?」 → 黙って首を振る。
「じゃあ、160センチに近い?」 → 黙って頷く。
「ちょっと両手を横に広げてみて?」 → 口元が少し笑って手を広げる。
大まかだけと、ポジション調整が終わって「これで完了!」 → 口元がまた少し笑う。
そうこうしてるとSさんが出てきた。女の子が駆け寄ってSさんの耳元に何か囁く。
女の子の横顔が思っていたよりずっと美形だったので驚いていると
Sさんが「オプションの作業もして下さったのね。」と声を掛けてくれた。
「あ、これも無料です。」
「一件いくらで仕事を受けてくれるから?」
「今後も何でも屋○○○を宜しくお願いしま~す。」
Sさんの笑顔を見ながら、凄く充実した気分で俺は幸せだった。
今になって思えば、これが、フラグの予兆だったのかもしれない。
しかし今は感慨に浸っている場合じゃ無い。必死で食い下がる。
「でも、Sさんが依頼者なら、うちに直接依頼すれば済む事じゃないですか。」
Nさんはますます暗い顔になって呟くように言った。
「絶対断れないように圧力を掛けたんだよ。あの人は、なぁ、怖いぞ。」
「断るにしても、それなりの理由が要るし、今回は代役を立てる訳にもいかん。
そういう事情だ。済まんが、これは事故だと思ってあきらめてくれ。」
軽い眩暈と耳鳴りがして、気分が悪くなった。何もこんなに入念にフラグ立てなくても。
「これが今回の依頼の内容だ。」テーブルの上に新しい依頼カルテが置いてある。
依頼内容の欄に目を移した時、信じられない文字が飛び込んできた。
苛立ったような無数の斜線の後に続いて書かれた、小さく乱雑な文字。
『模擬恋愛の相手(期間は半年毎に更新)』
公平に見て、俺はイケメンの部類じゃない。むしろ地味で目立たない風貌だ。
自慢じゃないが、物心ついてから現在まで、女運には全く恵まれていなかった。
なのに『模擬恋愛の相手』ってのは一体どういう事だ。幾ら何でも不自然すぎる。
そりゃあの時は下心満々だったし、たとえ模擬でも相手がSさんなら本望、そんな気もする。
しかし今までの人生に付きまとってきた沢山の惨めな記憶から学んだ事もある。
Sさんみたいな美人から指名されたって聞いて、ホイホイ有頂天になる程馬鹿じゃない。
「何で俺がSさんの相手に指名されるんですか、不倫だから後腐れの無いように...。
いや、それでもやっぱり変です。ホントの目的は絶対別ですよね?何か犯罪関係、とか?」
Nさんは眼鏡を外して俯き、左手の親指と中指でこめかみを押さえながら言った。
「正確に言うと不倫でも犯罪でもない。それは顧問弁護士のA先生にも確認済みだ。
うちとしては全力でお前を支援する。あとは依頼主と直接話してくれ。」
もう滅茶苦茶だ、混乱したままの俺を先導して、Nさんは応接室のドアをノックした。
上座のソファから、見違えるようなスーツ姿のSさんが立ち上がって軽く会釈をした。
Sさんの右隣にもう一人、洋服姿の女性がいるが見覚えは無く、確かめる余裕も無い。
俺とNさんも会釈をしてSさんたちの正面に腰を下ろした。
「単刀直入に聞きます。引き受けて頂けますか?」Sさんの凛とした声が響く。
「返答は本人から直接お聞き下さい。」Nさんの声は微かに震えていた。
Sさんはもう一度尋ねる。「Rさん、如何ですか?」これはもう、覚悟を決めるしかない。
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