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『出会い』藍物語シリーズ【1】◆iF1EyBLnoU 全40話まとめ – 怖い話・不思議な話

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『出会い』藍物語シリーズ【1】◆iF1EyBLnoU 全40話まとめ - 怖い話・不思議な話 シリーズ物
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藍物語シリーズ【1】

 

藍物語シリーズ【全40話一覧】

 

 

『出会い』

 

誰でも一生に一度は、その後の人生を左右する事件に遭遇するだろう。
俺は大学生の時、ある事件に巻き込まれたのがきっかけで3人の女性に出会い、
それが俺の人生の進路をそれまでと全く違う方向に変えるきっかけになった。
その事件の大切な記憶の数々は、今でも俺の心の底できらめいている。
ただ、どんなに大切な記憶でも、時間が経つにつれて少しずつ色褪せてゆくものだ。
全ての記憶が色褪せてしまう前に、俺の人生の真の出発点とも言うべき事件について
大切な記憶の断片を幾つか、備忘録替わりに、ここに書き残して置こうと思う。
改めて思い返すと、もう7年も前の事になる。

当時俺は大学2年生で、定期で某外食チェーンのバイト(週3・深夜・主に皿洗い)と
不定期でいわゆる「何でも屋」のバイトを掛け持ちしていた。掛け持ちといっても
「何でも屋」の方は大学入学直後に学部の先輩の伝で登録してただけなんで、
月に2・3回仕事受けてちょっとした臨時収入があればラッキーって程度。
プチ人材派遣みたいな形態で、時々ヤバイ仕事やデカイ仕事もあったみたいだが、
もちろんそんな仕事の依頼が無資格の大学生に廻ってくる事はない。
年寄りの家の草刈りとか、小学生の宿題とか、テレビとビデオの設置・配線とか。
当地区事務所のボスで配置係のNさん(男性・40代?)から電話があった時に
自分の予定と相談して仕事を受けるかどうか決める。
時給換算で大体1000円前後のショボイ仕事ばっかりだし
Nさんが気さくで話しやすい人だったんで、気が向かない時は
「済みません、大学のレポートの締め切りが近くて。」とか言い訳して断ったりしてた。
ただ、受けた仕事は全身全霊でやってたから、Nさんに「おまえ評判良いぞ。」って
食事奢ってもらうこともあったし、少し特別扱いされてる?とか思ってたが、それにしたって
今考えると、かなり縛りがゆるかった。案外人材豊富で優良経営だったのかもしれない。

 

さて、前置きが長くなった。

変な出来事が始まったのは、大学2年の夏。学期末が近づいてきた頃だ。
一応は真面目な苦学生だったんで、安アパートの部屋で夜遅くまで
テスト勉強やらレポート作成に頑張ってた訳だが、決まって1時過ぎた頃から
部屋の外に妙な気配を感じる事が多くなった。俺の部屋は3階で
エアコンなんて無いし、部屋にいる時は毎日窓開けっ放しで生活してた。
もともと霊感なんて全く無く、怖い体験なんかした事が無かっただけに
窓の外に妙な気配を感じると怖くて勉強は滞るし、窓閉めたら暑くて寝られないし
テストが終わる頃にはすっかり寝不足と夏バテで、体調はもう最悪。

で、夏休みも目前に迫ったある日、大学サボって寝てたらNさんから電話が来た。
夏バテでかったるかったから、またいつもの言い訳で断ろうとしたら様子が違う。
「...R、今回は下手な言い訳は聞かないぞ。」←まあこれは想定内。
「それに今回はおまえを名指しで依頼が来てるんだよ。」←これは全くの想定外。
「話聞いてから断るにしても、事務所に来てくれんと困るんだ。」←で完全に???モード。
ヤバイ仕事か?ってビビったが、Nさんは「事務所で話す。」の一点張り。
いつに無く凄みのあるNさんに日時を指定され、渋々了承。
全く気は進まなかったが仕方ない。指定された日曜日の午後、
俺は卒業した先輩から譲り受けたボロい軽自動車で郊外の事務所に出かけた。

 

ノックして事務室に入ったら、Nさんが渋い顔して一人でソファに座っていた。
挨拶して「依頼人はまだなんですか。」と聞いたら
「もうおいでだ。奥の応接室(防音・エアコン完備=通称VIP室)でお待ち頂いているが、
約束の時間まで間がある。依頼の内容を説明してからの方が良いだろう。」と言う。
散々ビビらせておいて「バーカ、ガキの自由研究だよ。」って展開を期待していたが
これはどうも本当にヤバイらしい。恐る恐る「断れないんですか?」って聞いてみた。
「言い難いが、断るのはかなり難しいんだ。お前、○◇会は知ってるな。」
もちろん知ってる。この地域の住民なら誰だって知ってる怖い団体の名前だ。
「その○◇会の偉い人の口利きで依頼が来た。こういう商売してると、どうしても
ああいう団体とのトラブルが起きるもんだが、○◇会側はこの依頼を受けてくれたら
過去のトラブルは水に流すし、今後はうちの商売に一切干渉しないと言ってる。
依頼者は○◇会に随分大きな貸しがあるらしいな。」 これ、一体何のフラグだよ?

頭の中がグルグル廻り、右の瞼がピクピク震える。
それでも必死に考えて食い下がってみた。
「いや、おかしいですよ。自分、今まで○◇会に関わる仕事なんか...」
そこでNさんが口の前に人差し指を持ってきて「R、声がでかい。」と遮った。
「あたりまえだ、大学生にそんな仕事廻すわけないだろ。5月の仕事だよ。
Sさんって依頼人、憶えてるか。」そう言うと、ソファから立ち上がり
書類の保管庫から依頼カルテを取り出して来てテーブルの上に置いた。
電話で受けた依頼の内容を 記録しておくA4の様式。
Nさんは眼鏡を額の上にずらし、目を細めてページをめくる。「ほら、これ。」
走り書きされた依頼人の住所と仕事の内容、それで一気に全部思い出した。
山の中の大きなお屋敷、自転車の修理、美形の依頼人。

 

その年のゴールデンウィーク、土曜日の午後に俺は自転車修理の依頼を受けた。
Nさんから「おまえ自転車詳しいだろ。修理もできるか?」って電話があった。
「フレームが逝ってたらさすがに無理ですけど、それ以外なら何とか。」って答えたら
「できるだけ早く事務所に来てくれ。」と言うので、午後一番で事務所に行った。
Nさんが事務所の電話で依頼人のSさんに取り次いでくれて、直接話してみると
Sさんは女性、自転車には詳しくない。とりあえず自転車のメーカーと型番、
トラブルの内容を聞いたら、大した修理じゃなさそう。部品も手持ちでОKっぽい。
ただ、Sさんの家の近くに自転車が無く、事情が有って長く家を空けられないので
電話帳で探した自転車屋に出張修理を頼んだけど断られたって話だった。
声と話し方が何か良い感じ。翌日の日曜に少しウキウキしながら仕事にでかけた。

約束の時間は午後2時、近くのコンビニで時間調整してピッタリに到着した。
指定の住所にはえらく大きな別荘、というよりお屋敷みたいなデカイ家。
玄関脇のウッドデッキに、女性向きのクロスバイクが立て掛けてある。
インターホンのボタンを押すと、「はーい、ただいま。」って聞き覚えのある声がして
20台半ば位の女性が出てきた。長い髪を首の後ろで軽く束ねている。
Sさんは、隙が無くキリッとした、文字通りの美人。微かに良い匂いがした。
内心「こりゃラッキーな日曜じゃん。」とか思いながらクロスバイクの状態を確認。
トラブってるのは変速関係だと聞いていた。自転車自体の状態は悪くないんだけど
何故か変速ワイヤの端がほどけて止め具から外れ、変速ができない状態。
しばらく使ってなかった自転車を、最近倉庫から出してきたのかなって感じ。
「変速ワイヤの交換と調整、ブレーキのワイヤも変えたほうが良いですね。」と言うと
「どのくらいかかりそうですか?」と聞かれたので「1時間もあれば。」と答えた。
そしたらSさんは「いいえ、あの、部品代です。」と言ってくすっと笑った。
あのね、ふわっと花が咲いたような笑顔。もう俺すっかり骨抜き。
咄嗟に「あ、聞いてませんか?うちは一件いくらで仕事受けますから。
基本、ワイヤみたいな消耗品は無料なんですよ。」と胸張って答えた。 ←馬鹿。
正直な所、Sさんが自転車関係で常連になってくれたらという下心満々だった。
「じゃ、普通の自転車屋さんに頼むよりお得なのね。」と言うSさんの笑顔を
思い出しながら、気合入りまくりで作業に取り掛かった。

 

クロスバイクの変速ワイヤ交換・調整なんて難易度は★☆☆☆☆、楽勝の作業。
まあ、でも事情が事情なんでそれはもう丁寧に作業を進める、それこそ没頭。
そろそろ作業も山場って所で、ふと背後にヒンヤリした気配を感じて振り返った。

麦藁帽子を目深にかぶって俯いた白いワンピースの女の子が立ってる。
一瞬ビビったが、麦茶のグラスとお菓子が乗ったお盆を持ってたので一安心。
細身でSさんより背が高い。顔は良く見えないがショートカット、中学生くらい?
Sさんの娘さんにしては明らかに年齢が近すぎるような気がするし
妹さんにしては年齢が遠すぎる?まあそれはさておき、関係者なのは間違いない。
なら愛想良くしてたほうが良いに決まってる。明るく声を掛けてみた。
「え~と、君はこの家のお嬢さん?」 → 黙って頷く。 → オレ?
「それ、もしかして僕に持ってきてくれたの?」 → 黙って頷く。 → オレ??
「今手汚れてるからデッキに置いといてくれる?」 → 黙ってお盆を置く。 →オレ???
「ありがとね。」 → 黙って頷く。 → オレ????
女の子は腰の後ろで手を組み、俯いたまま黙って立っている。
かなり微妙な空気になったが、「自転車好きなの?」とか言いながら作業を続けた。
背後から見つめられたまま作業するのは慣れてない。結構照れくさくて参った。
「ずっと立ってたら疲れるでしょ?座ったほうが良いんじゃない?」
女の子は頷いて、さっき置いたお盆の隣、デッキに腰掛けた。こ、これは長期戦か?
「僕も自転車乗るんだよ。ロードバイク。」 「ほら、ハンドルがこんな感じに曲がってる奴。」
「でも街中だと、こういうクロスバイクとかマウンテンバイクのほうが使い易いんだよね。」
女の子が黙ったままなので、もうほとんど独演会状態。でも、もしドン引きされてるなら
自分から家に戻るだろうし、喋ってると不思議に気分が良かったんで、喋り続けた。
作業は順調に進む、あとは変速の微妙な調整が済めば作業終了。
女の子はやっぱり俯いて、黙ったままデッキに座っている。

しばらくして、ふと気が付いた。振り向いて聞いてみる。
「あのさ、もしかしてこの自転車、君が使うのかな?」 → 黙って頷く。
「それだと、ちょっと乗りにくくない?」 → 黙って頷く。
この女の子が乗るとしたらサドルが低すぎるし、明らかにポジションが合ってない。
「身長とかに合わせて少し調整しても良いかな?」 → 黙って頷く。
思春期の難しい時期だろう。直接体に触れたりするような無神経な真似はできない。
それに何より、あのSさんの関係者だ。失礼の無いように質問主体で調整する。
「君の身長って155センチくらい?」 → 黙って首を振る。
「じゃあ、160センチに近い?」 → 黙って頷く。
「ちょっと両手を横に広げてみて?」 → 口元が少し笑って手を広げる。
大まかだけと、ポジション調整が終わって「これで完了!」 → 口元がまた少し笑う。
そうこうしてるとSさんが出てきた。女の子が駆け寄ってSさんの耳元に何か囁く。
女の子の横顔が思っていたよりずっと美形だったので驚いていると
Sさんが「オプションの作業もして下さったのね。」と声を掛けてくれた。
「あ、これも無料です。」
「一件いくらで仕事を受けてくれるから?」
「今後も何でも屋○○○を宜しくお願いしま~す。」
Sさんの笑顔を見ながら、凄く充実した気分で俺は幸せだった。
今になって思えば、これが、フラグの予兆だったのかもしれない。

 

しかし今は感慨に浸っている場合じゃ無い。必死で食い下がる。
「でも、Sさんが依頼者なら、うちに直接依頼すれば済む事じゃないですか。」
Nさんはますます暗い顔になって呟くように言った。
「絶対断れないように圧力を掛けたんだよ。あの人は、なぁ、怖いぞ。」
「断るにしても、それなりの理由が要るし、今回は代役を立てる訳にもいかん。
そういう事情だ。済まんが、これは事故だと思ってあきらめてくれ。」
軽い眩暈と耳鳴りがして、気分が悪くなった。何もこんなに入念にフラグ立てなくても。
「これが今回の依頼の内容だ。」テーブルの上に新しい依頼カルテが置いてある。
依頼内容の欄に目を移した時、信じられない文字が飛び込んできた。
苛立ったような無数の斜線の後に続いて書かれた、小さく乱雑な文字。
『模擬恋愛の相手(期間は半年毎に更新)』

公平に見て、俺はイケメンの部類じゃない。むしろ地味で目立たない風貌だ。
自慢じゃないが、物心ついてから現在まで、女運には全く恵まれていなかった。
なのに『模擬恋愛の相手』ってのは一体どういう事だ。幾ら何でも不自然すぎる。
そりゃあの時は下心満々だったし、たとえ模擬でも相手がSさんなら本望、そんな気もする。
しかし今までの人生に付きまとってきた沢山の惨めな記憶から学んだ事もある。
Sさんみたいな美人から指名されたって聞いて、ホイホイ有頂天になる程馬鹿じゃない。
「何で俺がSさんの相手に指名されるんですか、不倫だから後腐れの無いように...。
いや、それでもやっぱり変です。ホントの目的は絶対別ですよね?何か犯罪関係、とか?」
Nさんは眼鏡を外して俯き、左手の親指と中指でこめかみを押さえながら言った。
「正確に言うと不倫でも犯罪でもない。それは顧問弁護士のA先生にも確認済みだ。
うちとしては全力でお前を支援する。あとは依頼主と直接話してくれ。」
もう滅茶苦茶だ、混乱したままの俺を先導して、Nさんは応接室のドアをノックした。

上座のソファから、見違えるようなスーツ姿のSさんが立ち上がって軽く会釈をした。
Sさんの右隣にもう一人、洋服姿の女性がいるが見覚えは無く、確かめる余裕も無い。
俺とNさんも会釈をしてSさんたちの正面に腰を下ろした。
「単刀直入に聞きます。引き受けて頂けますか?」Sさんの凛とした声が響く。
「返答は本人から直接お聞き下さい。」Nさんの声は微かに震えていた。
Sさんはもう一度尋ねる。「Rさん、如何ですか?」これはもう、覚悟を決めるしかない。

 

「あの、俺、Sさんはすごく綺麗な人だと思います。最初にお会いした時、
正直俺は浮かれてましたし、常連になってくれないかなって下心もありました。」
「今日もこの話を聞いた時、結果がどうなっても、これはラッキーじゃないかって
思ったくらいです。でも、絶対そんな筈ありません。どうして俺なんですか?
貴方みたいな人が、こんな地味な男を不倫の相手に選ぶなんておかしいです。
教えてください。本当の目的は一体何なんです?」
何度かNさんが息を呑む気配があったが、そんな事に構っている余裕は無かった。

少しの沈黙の後、Sさんは困ったような笑顔を浮かべて小さく溜息をついた。
「早とちりはRさんらしいけど、説明を聞いていないんですか?」ちらりとNさんを見る。
「まず、これは不倫相手の依頼じゃないし、相手も私じゃありません。」
え、じゃあ一体?俺もNさんを見たが、腕を組んだまま目を閉じて微動だにしない。
「依頼した模擬恋愛の相手はこの娘です。」 Sさんの隣に座っている女性。
俺はその時、それが誰だか気付いた。あの時の、麦藁帽子の女の子。

「この娘の名はLといいます。私はLの後見人、つまり法的には私がLの保護者です。」
「今、全てを詳しく話す事は出来ませんが、この娘は特殊な環境で育てられました。
身近に年の近い男性が全くおらず、もちろん恋愛感情も知らないままでした。
もし、このまま16歳の誕生日を迎えてしまえば、取り返しのつかない事情があります。
そんな時、たまたま転居したこの土地で、この娘の前にRさんが現れたんです。」
「この娘を普通の娘に戻すために、どうか協力して下さい。お願いします。」

俺は改めてSさんの隣に座っている少女を見た。今日は麦藁帽子をかぶっていない。
良く見れば、Sさんとはタイプが違うが、見た事も無いような美少女だ。
大きく、深く澄んだ双眸が、まっすぐに俺を見つめている。
模擬とはいえ、バイト代貰ってこんな女の子とつきあえるなら、それはそれで...

俺は眼を閉じて頭を振った。いや、これではダメだ。相手が替わっただけで
全く意味が分からない状況は何ひとつ変わってはいない。

「済みませんが、どうして相手が俺なのか、やっぱり全然判らないし、
本当は別の目的があるんじゃないかって思えて仕方ありません。
それに、さっきもお話したように、俺は下心アリアリの、ただの下品な男です。
こんな綺麗な女の子と一緒にいて、間違いを起こさないって自信もありません。」

 

その時、細く涼しい声が響いた。あの少女が頬を紅潮させている。
「この話をお願いしたのは私です。それにRさんは下品な人じゃありません。」
そう言ったきり、少女はSさんの右肩に顔を埋めて泣き出してしまった。

少女の背中を撫でながらSさんが話を続けた。
「さっきもお話しましたが、今、全ての事情を説明する事はできません。
でもRさん、あなたを選んだのは、紛れも無くこのL自身なんです。それに。」
小さく深呼吸して、Sさんはまたもや信じられない事を言った。
「それに、これが模擬恋愛でなくなるなら、それこそ私達の望む所です。」
「つまり、二人の同意の下であれば、間違いが起きてもそちらの責任は問いません。」

この人は一体何を言ってるんだろう?絶句する俺の隣でNさんが口を開いた。
「二人の同意の下であればと仰いますが、コイツを選んだのはそのお嬢さんなんですよね。」
「そうです。」Sさんが淡々と応じる。「ですから、同意でないという事態は事実上有り得ません。」
「この模擬恋愛の結果、例えばお嬢さんが妊娠しても、コイツを犯罪者にはしない、と?」
今度は俺が息を呑む番だった。
「そうです。」Sさんがまた淡々と応じる。「それも全て二人の同意の下という事になります。」
「好意を寄せる男性と模擬恋愛の関わりを持ち続けるだけで十分な効果があるはずですが、
もし本当の恋愛に発展すれば効果が永続し、Lを普通の娘に戻せる可能性が高くなります。」

ますます混乱する俺を尻目に、この後はSさんとNさんの間で条件確認が続いた。
二人の連絡用にSさん側が携帯を用意して俺に貸与する。料金はSさん側が全額負担。
月極めの基本給に加え、デートは別計算で一回毎に臨時給を計上する。
この場合の飲食費やガソリン代等はやはりSさん側が全額負担。
契約期間は半年、経過を見て随時更新。更新の判断は依頼主の意向を元にSさんが行う。
如何なる事態が生じても両者同意の下とし、一切の責任を問わない旨の念書を作成・保管。
あれよあれよという間に相談は進み、気が付けば、真新しい携帯がテーブルの上に置かれ
顧問弁護士のA先生が作成したという念書と契約書に署名していた。

そこまで来て、初めて俺は何かがおかしいと感じた。ちょっと待て、何か変だ。
ここにこの携帯があるって事は、事前に手配が済んでいたって事だよな。
何でこんなに手際が良いんだ?もしかして俺はハメられたのか?
あまりに非現実的な事態に呆然としていると、Nさんがニコニコ笑いながら言う。
「こっちの相談もあるから、後は若い者同士で、な。」SさんとNさんが応接室を出た。
くそ、これじゃまるで見合いじゃないか...え、見合い?
そう、応接室には俺と少女、二人だけが取り残されていた。

 

再び応接室に細く涼しい声が響く。少女はもう泣き止んでいた。
「いきなりこんな面倒な話を持ち込んでしまって、ホントにごめんなさい。」
そしておずおずと続けた。「でも、引き受けてくれて、嬉しいです。」
ほんのり頬を染めた綺麗な女の子が俺の目の前で一生懸命喋ってる。
この事態に萌えずして、一体何に萌えるというのか。
まずい、もう間違いを起こしそうだ。だから俺は駄目だと言ったのに。

しかし、次の言葉で俺は現実に引き戻された。

「あの、今日は私からRさんに連絡をした方が良いですか?
それともRさんからの連絡を待っていた方が良いですか?」

ああ、そうなのだ。同年代の男性と接触した事が無いというこの少女は
事もあろうに、この俺に理想の男性像を重ねて見ている。
俺の部屋、PCの傍に積まれたアダルトDVDの山なんか知らないだろう。
もし、PCのあの画像・動画フォルダの中を見たらどう反応するだろうか。
幻想の恋愛しか知らない少女が「妊娠」なんて言葉に実感を持ってる筈もない。
それに、一緒に街を歩けば、もっとマシな男がぞろぞろいるのがイヤでも判る。
そしたら彼女の幻想は一瞬で...また、数々の惨めな記憶が甦ってきた。
これから半年間、どうやって彼女の幻想を守れば良いというのか。
それにもし、失敗したら俺はどうなる?Nさんは?この何でも屋は?
耐え難い重圧が、ずしりと肩にのしかかって来るのを感じた。

「今日はこれからバイトなので、終わってから連絡します。多分10時頃です。」
とりあえず時間を稼いで、今後の方針を考えなきゃならない。
「はい。私、待っています。」無邪気な、嬉しそうな笑顔。
「では、これで失礼します。」 貸与された携帯をポケットにしまい
応接室のドアを閉めながら、重圧に押しつぶされそうな自分を感じていた。
事務室のソファでは、SさんとNさんがまだ何事か話をしている。
会釈するとSさんは笑顔で応えてくれたが、笑い返すことはできなかった。
「あの人は、なぁ、怖いぞ。」帰り道、軽自動車を運転しながら
耳の中でNさんの台詞が何時までも響いていた。

 

送信日時 6/19 22:05:18
Lさんへ Rより
こんばんは、Rです。少し遅くなってご免なさい。
電話にしようかとも思いましたが、緊張して話ができないと困るのでメールにしました。
実は、僕は今まで女性ときちんとお付き合いしたことがないのでかなり戸惑っています。
もう少し落ち着くまで、メールでの連絡という形にさせてください。
それから、一日一個で良いので、Lさんの事を知るために質問に答えて欲しいんです。
ОKもらえたら最初の質問を送信します。それでは。

いきなり電話して想定外の話題に飛んだら対応できず、馬脚を現しかねない。
話題を限定し、返信までに時間を稼げるメールでの連絡は最善の策だろう。
そしてしばらくの間はメールでの質問であの娘についての情報を得る。
それが3時間あまり考えて捻り出した、俺なりの戦略だった。

着信日時 6/19 22:25:51
Rさんへ Lより
こんばんは、Lです。メールありがとうございます。すごく嬉しいです。
待っている間、電話でちゃんと話せるか心配で私もドキドキしていたので
しばらくメールで連絡を取り合うのは良い考えだと思います。
もちろんRさんからの質問には出来るだけお答えします。
それでは失礼します。

送信日時 6/19 22:34:03
Lさんへ Rより
こんばんは、Rです。返信ありがとうございます。
じゃ、早速最初の質問いきますね。→質問 Lさんは僕のどこが気に入ったのですか?
何故僕が選ばれたのか今でも判らなくて、半信半疑。夢でも見てる気分です。
質問の回答は明日でも構いません。もう遅いので今日はこれで最後のメールにしますね。
明日は今夜より少し早く、9時頃にはメールできると思います。それでは。

着信日時 6/19 22:55:12
Rさんへ Lより
こんばんは、Lです。ご質問にお答えします。
私はRさんの魂が好きです。心、と言った方が良いかもしれません。
私は他者の心を感じ取れます。
自転車の修理をしてもらったとき、Rさんの温かくて穏やかな心を感じました。
だから私がRさんのことを好きなのは現実です。夢なんかじゃありません。
Rさんの心遣いに感謝して、私ももう寝ます。私、実は寝呆助なんです。
明日のメール待ってます。今日は本当にありがとうございました。
それではおやすみなさい。

 

『私はRさんの魂が好きです。』
『私は他者の心を感じ取れます。』
俺はベッドに腰掛けたまま、しばらくフリーズしていた。
って、これ、一体どう反応すれば良いんだ?薮蛇になっちまったぞ。
そうは見えなかったが、電波ちゃんなのか?うーん、そう言えば確かにそんな感じも。
いや、でもこれは外見の優先順位は高くないって言ってる訳だから
上手く立ち回れば半年くらいは何とか、いやいやいや、やっぱ無理だろ、どう考えても。

ふと、窓の外に気配を感じた。時計を見ると1時15分。
もう勘弁してくれよ。慌てて窓を閉め電気を消して布団に潜り込んだ。
気疲れしたせいか、すぐに眠気が襲ってきた。よし、考えるのはまた明日だ。

暑い、あ~、窓閉めてたんだっけ。少し開けて...ありゃ、体が、動か。
その時、窓の外で何かの気配が動いた。窓に視線を移すと、窓が少しずつ開いてる。
窓の隙間に見える白い毛の塊のようなもの。隙間は次第に大きくなっていく。
何だよ、ここ3階だぞ。家主金縛りにして侵入するのは反則だろ。怖いよー。

10cm位に開いた窓の隙間から白いフェレットみたいなのがそろそろと入ってきた。
大きさは30センチくらい、律儀に窓を元通りに閉めて、突然こっちを振り向いた。
視線を外すことが出来ず、睨み合いになる。相変わらず金縛りで体は動かない。
「見えるのか。」って声が聞こえた瞬間、意識が飛んだ。

翌朝、朝陽が眩しくて目が覚めると、夢で見たとおりに窓は閉まってた。
あのフェレットみたいなのは一体何だ。夢にしては妙にリアルだったが。
そんな覚えはないのに、窓に鍵が掛かっているのも不思議だ。
だが、そんな事をいつまでも気にしてはいられない。
昨夜のメール。上手い返信を考えておく必要がある。
大学はサボれば良いし、バイトの予定もない。出来れば今日の内に
3~4日分位はメールの下書きを用意しておきたい。
何を聞けば一番役に立つ?好きな食べ物か、好きな音楽か。それとも
行ってみたい場所か、いや馬鹿、そんな事聞いたらデートの相談になっちまう。
あの娘と会う前に、できるだけ沢山の情報を手に入れておこう。

 

送信日時 6/20 20:58:31
Lさんへ Rより
こんばんは、Rです。
今日は大学での用事とバイトで忙しい一日でした。
7月からは待ちかねた夏休みなので、もう一頑張りってところです。
バイト先の店も先週から「夏本番」って感じで、入り口と店内の窓際とかに
貝殻とか浮き輪とかを飾ってます。なかなか良い雰囲気ですよ。
あ、写真撮ってくれば良かったですね。今度撮ってみます。
それから昨日の質問の答、嬉しかったです。
僕は自分の容姿に少しコンプレックスがあるんですが、
Lさんが僕の心を好きでいてくれるなら、容姿はあんまり関係ないような気がして。

それじゃ、今日の質問です。→質問 Lさんの好きな花は何ですか。
僕は白い百合の花とか昼咲月見草の花が好きです。
昼咲月見草の花はとても綺麗で可愛いですよ。
何となくLさんの雰囲気に似ています。
回答は明日でもかまいません。明日の連絡も今日くらいだと思います。
それでは。

着信日時 6/20 21:20:19
Rさんへ Lより
こんばんは、Lです。ご質問にお答えします。私は桜と藤の花が好きです。
何回かSさんにお花見に連れて行ってもらって、それがすごく綺麗な景色で
いっぺんに好きになりました。でも他の花の事はあまり知りません。
昼咲月見草の花も知りませんでしたが、メールを読んだら花が見えました。
(メールに織り込まれていたRさんの記憶から、花の映像が見えるんです。
Rさんの心を覗いたんじゃないので気を悪くしないで下さいね。)
ピンク色の可愛い花。私の雰囲気がこんな素敵な花に似てるって、本当ですか?
私は嬉しいけど、花の方が気を悪くしないかと、少し心配になりました。
誰かに褒めてもらうのって、とても嬉しいですね。ありがとうございます。

明日のメールも楽しみに待っています。
それでは。

 

『メールを読んだら花が見えました』
『メールに織り込まれていたRさんの記憶から、花の映像が見えるんです』
『ピンク色の可愛い花』
またもや俺はベッドに腰掛けたまま、しばらくフリーズする事になった。
まさか、また藪蛇か?本当にピンクの花が見えたとしたら、これは電波じゃなくて
本物のテレパシー、いや、俺が零感なんだからこの場合は透視とか読心術か。
そしたらメール書きながら俺が考えた事はあの娘に...いや、待て。
彼女がもともと昼咲月見草の花を知っていれば簡単なトリックだ。
ググるって手もあるよな。でも一体何のために?
それにメールの文章は嘘ついてるような感じじゃないぞ、全然。
どう対応すれば良いのか、俺はかなり混乱していたが、同時にメールの
飾らない率直な文章を読む度に、あの娘に惹かれていく自分を感じていた。
叢生する昼咲月見草に囲まれて微笑む白いワンピースと麦藁帽子のお姫様、
俺の中のあの娘のイメージが次第にくっきりと形になっていった。

送信日時 6/21 19:59:11
Lさんへ Rより
こんばんは、Rです。
昨日のメール、とても驚きました。
前に「他者の心を感じ取れます。」って書いてくれましたが
どんな感じか全然想像できなくて。でも昨日のメールで、どんな感じなのか
何となく分かりました。でも、これって例えば僕が他の女の人の事を考えながら
Lさんにメール書いたら、その女の人の事も見えちゃうって事ですよね。
あ、その心配をする必要が全然ないって事も、既に伝わってるのかな?
少し混乱してますが、そのうち慣れると思います。これからもLさんの感じた事を
そのまま書いて下さいね。その方がお互いの事を早く理解できると思いますから。

それじゃ、今日の質問です。→質問 Lさんは犬と猫、どっちが好きですか。
実家では犬を飼っているので、僕は犬が好きです。
毎度の事ですが、回答は明日でもかまいません。
明日も今日くらいにメール書きます。
それでは。

着信日時 6/21 20:35:33
Rさんへ Lより
こんばんは、Lです。ご質問にお答えします。と言いたいところですが
私は犬も猫も飼った事が無いので、今回の質問にははっきり答えられません。
でも、Rさんの実家で飼っている白い大きな犬が見えて、とても可愛かったので
どちらかというと今は犬の方が好きかも知れません。
それから私が他者の心を感じ取れるといっても、普段はその人が強く思っている事や、
私に対して思っていることが何となくわかる位です。
昼咲月見草や白い犬(名前は判らないのでごめんなさい)はRさんの記憶が鮮明で
私に対して『伝えたい』って気持ちがあったから見えたんだと思います。
Sさんは「誰にでも『他者の心を感じ取れる』とか言っちゃ駄目よ。」と教えてくれましたが
Rさんにお話しするのは『誰にでも』じゃないから良いですよね。
でも、もしあんまり変な事書いてたら教えて下さい。頑張って直します。
毎日、メール書いて貰ってとても嬉しいです。
明日のメールも楽しみに待っています。
それでは。

 

『Rさんの実家で飼っている白い大きな犬が見えて』
実家で飼っている犬は白い秋田犬の雌。あの娘、L姫様は、本物だった。
心底驚いたし、どう対応すれば良いのか迷ったが、その後すぐに気持ちが楽になった。
俺がL姫様に伝えたいと強く思っている事が伝わるのなら、言葉での誤解や行き違いは
まず生じないだろう。疚しい事がなければ、俺はただ素直な気持ちでメールを書けば良い。
まあ、大学2年にもなって全く疚しい事が無いってのは、悲しむべき事なのかも知れないが。
読心・透視能力を持つお姫様とさえない大学生、奇妙な組み合わせのメール交換は
翌日も、またその翌日も続いた。そして週末、金曜日の夜。

 

送信日時 6/24 20:48:19
Lさんへ Rより
こんばんは、Rです。
今日も暑かったですね。大学へは自転車で通ってるので暑さは強敵です。
Lさんも暑さで体調崩さないように気を付けて下さいね。
ところでLさんって高校生なんですか、もしかして中学生だったりして。
どっちにしてもうちの大学よりも夏休みに入るのは遅いですよね。
あ、これは今日の質問じゃないですよ。今日の質問は最後に書きます。
夏休みになったら僕はどこか涼しい所に行ってみたいです。万年雪のある山とか。
そういえば実家で飼っている白い犬の名前は「雪」です。
雪の降る寒い日に貰われてきたのと、色が真っ白だから。気立ての良い、可愛い犬です。

それじゃ、今日の質問です。→質問 Lさんの好きな本は何ですか。
ちなみに僕は日本の近代小説が好きです。図書館にも良く行きます(夏は涼しいですしね)。
明日は休日でバイトの予定も無いので、今夜はもう一通くらいメール書きたいです。
それでは。

着信日時 6/24 21:20:46
Rさんへ Lより
こんばんは、Lです。ご質問にお答えします。私、普通の本はあまり読んでいません。
小さい頃から学校には行った事がないし、本を読む機会もほとんどありませんでした。
今は家でSさんと一緒に勉強していて、Sさんに薦められた普通の本も少しずつ読んでます。
不思議の国のアリスとか、セロ弾きのゴーシュとか、他にも少し。
書いた人の心がとても素敵だなぁって感じる本は好きです。
でも、こんなんじゃRさんに笑われちゃうんじゃないかなって、少し心配になりました。

それから、もし、今夜もう少しメール書いてもらえるなら、
私の質問にも答えてもらえますか?ОKをもらえたら質問を送信します。
それでは。

送信日時 6/24 21:38:10
Lさんへ Rより
こんばんは、Rです。
Lさんの事情も知らずに失礼な質問をしちゃったかな?って心配してます。
共通の話題を 探したかっただけなので、どうか気を悪くしないで下さい。
もちろんLさんの質問にもお答えしますよ。明日は特に予定がないので
今夜は遅くまで起きてます。沢山の質問お待ちしてます。

 

着信日時 6/24 22:05:53
Rさんへ Lより
こんばんは、Lです。
Rさんからメールもらえるのはとても嬉しいので気を悪くしたりしないです。
ОKをもらえたので、ひとつだけ質問を送信します。私も起きてお返事待ってます。

→質問 会えなくて寂しいです。今度、いつRさんに会えますか。

変な質問でごめんなさい。

送信日時 6/24 22:23:32
Lさんへ Rより
こんばんは、Rです。
Lさんに嫌われないように工夫したつもりが、逆に寂しくさせてしまいましたね。
寂しさがじーんと伝わってきて、ちょっと涙が出そうになりました。本当にごめんなさい。
Lさんが正直に書いてくれたので、僕も自分に正直になろうと思います。
明日は休日で、バイトの予定もないので、Lさんと一緒にいたいです。
(実際に会って、色々話して、それでホントの僕に幻滅しても責任は持てませんよ。)
都合がつくようでしたら、ご指定の時間に車で迎えに行きます。何時でもОKです。
それじゃ今日の質問②です。→質問 明日、何色の服を着て迎えに行けば良いですか。
お返事、お待ちしてます。

着信日時 6/24 22:51:41
Rさんへ Lより
こんばんは、Lです。
わがまま言って本当にごめんなさい。でも、とっても嬉しいです。
できるだけ長く一緒にいたいので、9時半に迎えに来て下さい。
Sさんにも話して、朝ご飯食べたらお出掛けできるように準備して待ってます。
それから私は水色の服を着るので、青系か緑系の服を着てくれると嬉しいです。
Rさんが迎えに来てくれた時に眼が腫れてると恥ずかしいのでもう寝ます。
おやすみなさい。

あまりに寒くて目が覚めた。
寒っ、何でこんな寒いんだよ。窓開けてたか、いや、今真夏だろ。ありゃ、体が。
眼は動かせるけどあとは指一本動かない。金縛りは昨夜と同じだが今夜は気配がヤバい。
窓の辺りに何かいるのを感じる。目だけ動かして窓に視線を移すと...これは夢か?
窓の外に赤い目玉が2つ浮かんでボンヤリ光ってる。何あれ?怖いよ~。やっぱ夢?
で、窓の内側にはあの小さいフェレットみたいな白い奴の後姿。
窓の外側に向かって威勢よく唸ってる。窓の外の眼と睨み合ってるらしい。
俺は相変わらず金縛りで体が動かない。一体何なんだよ、このシリーズものの夢は。
「夢じゃねーよ、こっちは任せて寝てろ。」って声が聞こえた瞬間、意識が飛んだ。

 

 

アラームが鳴ったので眼が覚めたが、体が冷え切ってて動きが鈍い。
窓を開けるとムッとした熱気が流れ込んでくる。エアコンも無いのに、どうなってんだ?
トーストと卵、ハムを焼きながら、クローゼットから青のポロシャツを探し出した。
昨夜洗濯しておいた紺のジーンズ、スニーカーは白地に青と緑のライン。
まあ、これならL姫様ご指定の「青系」の範疇だろう。
朝食を食べ終え、シャワーから出て時計を見る。8時30分過ぎ、良い時間だ。
部屋を出てドアの鍵を閉めたら少し吐き気がした。きっとあの冷気と夢のせいだ。
ただでも体調悪いのに、毎晩あんなだとそのうち本当に体壊すな。
お屋敷までの移動中、車のエアコンはつけないほうが良いかもしれない。

思ったより早く着きそうだったのでコンビニで時間調整、9時27分にお屋敷到着。
L姫様が玄関先から手を振っている。ずっと外で待っててくれたのだろうか。
車を止めて外に出るとL姫様がすぐ傍に立っていて、その後ろにはSさんがいた。
「R君、今日はLを宜しくね。それで、頼みがあるんだけど。」ちょっとビビる。
「事情があって、今日はうちの車を使って欲しいの。」
「後でちゃんと事情は説明するから。」いや、その位なら説明無しでも全然ОKっす。
「分かりました。あの車ですか?」庭のガレージに白いスポーツカーが停まっている。
外車だ。デカイ、俺の軽の2倍位の大きさに見える。それに滅茶苦茶カッコ良い。
「あんな良い車には乗った事が無いのでラッキーな感じですが、本当に良いんですか?」
「ええ、じゃ、これが鍵。君のと交換ね。」車の鍵を交換したあと、Sさんは真面目な顔で言った。
「話したい事も色々あるから、今夜はうちで夕食を食べていって。準備しておくから。」
え~っと、多分これは、断るとマズいんですよね。
「了解です。」
「うん、良い返事。じゃL、楽しんで来てね。」 Sさんは踵を返して玄関の方へ歩き出した。
今日はここに帰ってきてからが...いや、今それを考えるのは止めよう。
「出掛けましょうか。」 「はい。」 一点の曇りもない、輝くような笑顔だ。
そう、この笑顔を受け止めるために、今日はこの女の子と本気で向き合わなきゃならない。

 

「どこに行くとか、全然考えて来なかったんです。Lさんの希望を聞いてからと思って。」
「え~っと、海、海が良いです。出来るだけ遠くの海に連れて行って下さい。」
「出来るだけ遠くって、ここからだと一番近い海でも片道3時間くらいかかりますよ。」
「それでも良いです。海に着くまでRさんといっぱいお話できますから。」
白いスポーツカーは意外な程に運転しやすく、とても快適なドライブになった。
海に着くまで、二人で色々な事を話した。他愛の無い話ばかりだったと思う。
何を話したかはほとんど思い出せないが、L姫様は良く笑い、俺も笑った。
二人が出会うまでに過ぎてしまった時間を、取り戻そうとしていたのかもしれない。
窓から吹き込む風に潮の香りが混じるようになった頃には、
自分の中で彼女がとても大きな、大切な存在になっているのを感じていた。
もう模擬じゃない。笑顔、声、話し方、仕草、俺は彼女の全てに恋をしている。
しばらく海沿いの道を走り、海岸を見下ろす崖の上の小さな駐車場に車を止めた。
L姫様はもう5分近く、駐車場の手摺りにもたれたまま眼を閉じ、黙って波の音を聞いている。
俺はL姫様の傍で、強い潮風に飛ばされないよう、預かった麦藁帽を捧げ持っていた。
「あんまり長い間外にいると日焼けしますよ。」 「平気です。」
「心配なので、もう車に戻って下さい。」 「なぜ心配するのですか?」
「好きな人の事を心配するのは当たり前です。」 「私の事が好きですか?」
「前から好きでしたが、今日、大好きになりました。車に戻って下さい。」
「はい。」 車のドアを開けて待っていると、L姫様が戻ってきた。
しかし、彼女は車には乗らず俺の胸に身を預けた。
細い体をそっと抱きしめると、何故か涙が出た。

帰り道、海岸近くのコンビニでおにぎりとペットボトルのお茶を買い、L姫様は上機嫌だった。
「前の家の周りにはコンビニが全然無かったんです、本当に一軒も。」
「今の家の近くにはコンビニがありますけど、買い物はあんまりしないんです。」
「Sさんは料理が上手だから、コンビニのお惣菜とか買わなくても良いみたいで。」
「そういえばRさんはSさんの事、好きなんですよね。」 ...突然雲行きが変わった。
「Sさんは私よりずっと綺麗だし、それに大人だし。」 いきなりの大ピンチ?何で?

 

「麦藁帽子で顔を隠していなかったら
きっとあの日、貴方に一目惚れしていたと断言できますが。」
「本当に?」 「僕の心が感じ取れると書いてくれましたよね。あれは嘘ですか?」
「嘘ではないです。でも、Sさんが『好きな人の心を覗いてはいけない』って。」
「心を覗くというのがどんな感じなのか僕にはまだ良く解りません。」 「はい。」
「感覚の違いを承知の上で聞いてもらえますか?」 「はい。」
「『好き』には、色々な種類と大きさがあると思うんです。」 「それは解ります。」
「例えばある女性の心の中で一番大きな『好き』の相手が彼女の子供だとしても、
それを知った彼女の夫が落胆するとは思えません。」 「それも解ります。」
「それなら、今ここで僕の心を覗いても、貴方が悲しむ事はありません。」
「...Rさんの心の中で、一番大きな『好き』の相手が、私、だからですか?」
「そうです。今は、間違いなく貴方が一番好きです。」
L姫様は小さく息を吐き、ハンカチで目頭を押さえた。「今、解りました。」
「こうして直接『好き』と言ってもらう方が、きっと何倍も嬉しいから
Sさんは『好きな人の心を覗いてはいけない』と教えてくれたんですね。」
「確かめないと、人の言葉が本当かどうかは判りませんよ。騙されてるかも。」
「Rさんに好きと言ってもらえるなら、私、騙されていても構いません。」
車を路肩に停めて、もう一度細い体を抱きしめた。
「嘘じゃありません。」 「はい、信じます。」

そろそろ街に帰り着くという頃、L姫様の携帯にメールの着信があった。
「『予定変更。宿泊の用意をしてから帰るように伝言して。』と書いてあります。」
「夕食をご馳走してもらった上に泊めてもらうなんて、ちょっと気が引けますね。」
「今の家にはお部屋が沢山があるから大丈夫。それに私も嬉しいです。」
4時前には街に到着、「一緒にウィンドウショッピングがしたい。」というL姫様に付き添って
郊外の大きなショッピングモールに出掛けた。さすがに週末だから駐車場が混んでいて
駐車するのにかなり気を遣った。店内に入ると、フロアでもエスカレーターでも
それこそ遠近から、L姫様の後をざわめきと感嘆の声がさざめく波のように追いかけて来る。
そんな声が聞こえているのかいないのか、L姫様は時折俺の腕に両手を絡ませる。
そして気後れする俺に「何だか失礼な人が沢山。私、あんな人達キライです。」と囁いた。
「貴方が綺麗なので仕方ありません、税金みたいなものです。我慢して下さい。」
それにしても、当然予想していた俺に対する嘲笑や嫉妬の空気を、何故か全く感じない。
「じゃあ、今度から二人で出掛ける時はドライブだけにしましょう。」L姫様が得意そうに言う。
「それは嬉しいですが、一緒に買い物が出来ないのでは、そのうち困ると思いますよ。」
「でも買い物はSさんに頼んで...」 「はい?」 頬を膨らませてL姫様はツンと横を向いた。
「必用な時だけ、我慢します。」 人目を憚らず抱きしめたくなる衝動を、俺は必死で抑えた。
アパートの鍵は車の鍵と同じキーホルダーに付けてあり、Sさんに渡していたから
アパートに寄って着替えを準備する事は出来ない。宿泊用の着替え等を速攻で買い、
Sさんからの追加メールで頼まれたイタリアンドレッシングとアンチョビの缶詰も買って
別荘に帰り着いたのは7時前になっていた。

 

 

 

 

姫の後にシャワーを使わせてもらい、買った服に着替えて出て来ると
ダイニングルームのテーブルに豪華な夕食が並んでいた。
「ね、Sさんは料理が上手でしょ。」 「はい、レストランのフルコースみたいです。」
本当は料理のあまりの見事さに死ぬほど驚いたのだが、料理の出来を褒め過ぎて
昼間のような災難(?)の種になると困るので、極力控えめな表現にしておいた。
でも、最近続いている妙な出来事のせいで体力を消耗している俺にとって
Sさん手作りの美味しい夕食はまさに天の恵みで、本当に有り難かった。

食事が終わり、姫と2人でワイワイ言いながら食器を洗って片付けている間に
Sさんがリビングルームに食後のコーヒーとデザートを用意してくれていた。
ソファに姫と並んで座り、デザートのケーキを姫に半分進呈してコーヒーを飲んでいると
向かいのソファに座ったSさんが少し言い難そうに切り出した。
「さて、じゃあ一通り事情を説明しようかな、ダイジェストで。」
「是非宜しくお願いします。」 「色々と、信じ難い事もあると思うけど。」
う~ん、信じ難いといえば、既に今この事態がかなり信じ難いのですが。

「まず、車を交換してもらった事だけど。」 「はい。」
「君とLがデートしている間に、君の車に結界を張らせて貰いました。」
これ、どんな顔で聞けばいいんだ? 「結界って、あの、吸血鬼撃退用とかの、あれですか?」
「昨夜、君が窓の外で見たものと関係があると言ったら、少しは信じてもらえるかな?」
いきなり心臓を冷たい手で鷲掴みされたように体全体がゾクッとして、思わず立ち上がった。
「ちょっと待って下さい。何故あなたがそれを、あれは一体!」
姫が俺のTシャツの裾を掴んで、心配そうに俺を見上げている。
「少し落ち着いて。順番に説明するから。」 「...はい。」仕方なく腰を下ろした。
「実は、Lが君を好きだと分かった時から、式を飛ばしてずっと君の部屋を監視してたの。」
「そして無事に契約が成立したから、まず式を使って君の部屋に結界を張らせて貰いました。」
「遅かれ早かれ、アイツ等が君の存在に感づくのは分かってたから。」
この人は何を言ってるんだろう? 「あの、式って、アイツ等って、一体何ですか?」
「君、見えたんでしょ?君の部屋に飛ばした式はあれ。」
Sさんの視線の先、ソファの端に、一瞬だけ白い毛の塊が見えた気がした。
「フェレットじゃなくて管(くだ)っていうんです、管狐。可愛いでしょ?」姫が微笑む。
以前あれをフェレットみたいだと思ったのが、既に姫には伝わっていたようだ。
「アイツ等っていうのは、Lの体を手に入れようとしている人々と、その式達。」
とても信じられないが、俺が一言も喋っていないのにSさんは既に俺が見たものを知ってる。
窓を開けて入ってきた白くて小さいフェレットみたいなもの。そして窓の外に浮かぶ目玉。

 

「そして予想してたよりずっと早く、アイツ等は君の存在に気付いて部屋を突き止めた。
君がLを大事に思う気持ちが強かったから、メールの電波を辿られたのかもしれない。」
「じゃあ昨夜、窓の外に浮かんでた目玉は?あれがアイツ等の式なんですか?」
「あれは朽縄(くちなわ)、簡単にいうと蛇の化け物。かなり厄介な部類の式ね。
結界があるから部屋には入れないけど、あなたが部屋から出たらかなり危ない。
特に車で移動している時には狙われやすいの。注意力が運転に向いてるから。」
「だから僕の車に結界を ...今日の車には前もって結界が張ってあったんですね?」
「今日は今朝から管を護衛に着けたけど、毎度毎度それじゃ管の力が活かせない。」
「決まった『場所』を護る方が得意なんですか?」 「君、中々勘が良いわね。」
「寝不足が続くと体調を崩しやすいし、結界越しでも妖気は身体に悪いそうですよ。」
姫は俺の右肩にもたれて眼をぱちぱちしながら喋っているが、かなり眠そうだ。
「君が此処で暮らしてくれれば楽なんだけど、いきなりそれは抵抗あるでしょ?
明日の夜までにはできるだけの手を打っておくつもりだから一応は大丈夫。
でも、いよいよって時には此処で暮らしてもらう事になるわ。覚悟はしておいて。」
姫の頭が俺の右肩からかくっとズレた。もう意識が朦朧としているようだ。
「L、もう寝なさい。久し振りに遠出したし、人ごみも歩いたから疲れてるんでしょ。」
「は~い。Rさん、おやすみなさい。」 俺の頬に軽くキスして立ち上がると
危なげな足取りで姫はリビングを出て行く。その後ろを小さな白い影が追いかけていった。

Sさんは姫を見送ると優しく笑い、テーブルの上にお酒と氷、
炭酸水の瓶、そしてグラスを2つ並べた。そして小さな溜息をつく。
「ふう、たまに沢山喋ると喉が渇くわ。お酒、付き合ってくれるでしょ、もう大人の時間。」
Sさんは慣れた手つきでグラスに氷を入れ、ウイスキーを注いだ。
「あ、俺がやります。」 「変な気を使わないで座ってなさい。」 「はい。」
炭酸水でグラスを満たして軽くステアする。プレーンなハイボールだ。
マニキュアをしていない細い指先が美しい。思わず見惚れてしまう。
「ますます、訳が分からないと思うけど、説明を続けます。」 「お願いします。」
「私とLは、古い陰陽道の家系に生まれたの。陰陽師、知ってる?」 「一応映画とかで。」
「自分達で言うのもなんだけど、結構力がある家系です。え~っと、術の方面だけじゃなく
なんていうか、社会的な影響力という面でも。」 はい、それは先日身を以って知りました。
グラスのハイボールを一口、ぐっと飲んでSさんは話を続けた。俺にもグラスを勧める。
「Lの母親は特に強い力を持っていたけれど、Lを産んで暫くして亡くなったの。
もともと体が弱くて、強すぎる力とLの出産に耐えられなかったから。Lが成長して
母親の力の一部を受け継いでいる事が判ると、アイツ等がLを狙って動き出した。
アイツ等はうちとは分家筋にあたる一族だけど、外法に手を染めてから交流は絶えてた。
それは、もう何十年も前の事だったから、皆、油断してたのね。
でも、Lの父親が殺されてLが奪われた時、それがアイツ等の仕業だと判った。」
「陰陽師はそんな簡単に人を殺す、というか、人を殺せるんですか?」
「あら、もしLを弄んで泣かせるような男がいたら、私も躊躇なくソイツを殺すけど。」
ハイボールをもう一口飲んでSさんは微笑んだ。
あの、眼が笑ってませんよ。やっぱりそれって、俺への警告なんですよね。
「冗談よ、今日はLを大事にしてくれたし。」
「もちろん、これからもLさんを大切にします。」 俺もハイボールを一口飲んだ。

 

「何とかLを取り戻したけれど、あの娘には既に厄介な術が仕込まれていた。
16歳になるまでに術を無効にしないと、Lはアイツ等の傀儡として代にされてしまう。」
「あの、それは...」 「16歳になった瞬間からLの心は術に喰い尽くされていって、
空っぽになったLの体が、凶悪な鬼神をこの世に呼び出すための媒体に使われるって事。」
また思わず立ち上がった。「ちょっと待って下さい。その術はどうしたら!」
「だから落ち着いて。ちゃんと説明するから。」 「...はい。」今度も仕方なく腰を下ろした。
「16歳までにLを普通の女性に戻せば良いの。そのために君達と契約した。」
「あの、Sさんの力でLさんの術を解いてあげられないんですか?
それにLさんの相手は僕でなくても良かったのでは?」
「そんなに簡単なら、こんな苦労はしません。」
Sさんはグラスを揺らしながら溜息をついた。氷がカラカラと音を立てる。
「効力が長期間持続するような術を使う時には、あるものを代に使うの。
人型だったり水晶だったり、ね。術の元になる『力』を代に封じて術の効力を持続させる。
人の体内に仕込むような10年単位の術では特に代が重要。
それを壊すか燃やすかした後でないと術を解く事は出来ない。
でもLの体に仕込まれた術の代は回収されていないし、回収の見込みも無い。」
「だからあの子が誰かに恋愛感情を持ってくれる以外に術を抑える方法が無かった。
それで色々と手を尽くしたけれど、全然駄目。あの子は異性に全く反応しなかったから。」
「仕込まれた術の影響でLの体は女性的な機能の発達が抑えられてるし、精神的にも
異性に関する感受性とか、性的な事に関する興味は、ほとんど欠落してた。」
「皮肉な話だけど、あの娘が反応したのは君が初めてだったの。それが何故かは判らない。」
「でもLが君を好きでいる間その術は無力だし、妊娠経験者を代に使うことは出来ないから
もしあの娘が母になれたら、その場で術は解ける。今のLの体では妊娠は無理だけど
君を好きでいる間に時間を稼げれば、Lの体も心も普通の女性に近づいていくはず。」
「術が完全に解けるまでは、16才になった後でも安心は出来ない、という事ですか?」
「本当に勘が良いのね。君、素質あるかも。」

 

「君をこんな事に巻き込むのは心苦しいけど、例えばアイツ等が今君を殺したら
Lが君を慕う気持ちが、より強固な状態で、おそらく何年間かは固定されてしまう。
だから、多分アイツ等は君に直接的な危害を加える事は無いと思う。
せめて、これからの半年間、術の最初の期限が過ぎるまでは、契約通り
あの娘の模擬恋愛の相手を続けてもらって、その間に次の手を考えたいの。
君とLが自然に再会して恋愛に発展って筋書きに出来れば良かったけれど、
それじゃどれだけ時間がかかるか分からないし上手くいく保証もない。
だから『模擬恋愛の相手』なんて、少し、ううん、かなり強引なやり方しか無かった。」
「一緒に過ごしたのは1日だけですが、僕は今、Lさんが好きだし、とても大切に思っています。
だから僕の中では、もうこれを『模擬恋愛』だとは思っていません。」
「もし、このまま2人の関係が進展してくれたら、とても有難いと思ってるわ。」
「だからこそ、一応聞いて置きたいんですが。」
「この際だから何でも聞いて頂戴。」
「アイツ等が、僕に直接の危害を加えないだろうという事は解りました。
でもSさん達にとって、確実に目的を達成したいのなら、むしろ僕を」
「やめなさい!」
突然Sさんが俺の言葉を遮った。
「何て事を...」
それから力無くソファの背もたれに体を沈め、深呼吸をしてから静かに呟いた。
「君は、Lに似てる。」
「正直、一族の中には、そういう考え方の者もいる。それは否定しない。
でも、私はそれが根本的な解決方法だとは思っていないし、第一、そんな事したくない。
それに、Lが君の事を好きなままで君を放置すれば、遅かれ早かれアイツ等が君に辿り着く。
そうなれば間違いなく君にも悪影響があるから、そのまま放置する訳にもいかなかった。」
Sさんはもう一度グラスを揺らした後、少しだけハイボールを飲んだ。
「Lはこれまで、あまりに理不尽な不幸を背負わされてきた。だから私は、出来れば
将来あの娘が幸せな女性として暮らせるようにしてやりたいと思ってるの。」
「どんな形であっても、これ以上Lさんに辛い思いはさせたくないという事ですね。」
「そう、だから私は全力で君を守る。信じてくれる?」
Sさんの弱さを見たのは初めてだった。
「もちろん信じます。」

 

「今できる説明はこれでお終い。他に質問は?」 「いいえ、ありません。」
グラスに少し残っていたハイボールを一気に飲み干してSさんは立ち上がった。
「じゃ、5分後に此処で。寝室に案内するわ。洗面所の場所は分かるでしょ。」 「はい。」
頭の中を整理しながら顔を洗い、念入りに歯を磨く。鏡を見た、「酷い顔だな。」
窓の外にあの目玉が現れないとしても、やっぱり今夜は眠れない。そんな気がした。

リビングに戻ると、紺色のパジャマに着替えたSさんが待っていてくれた。
「こっちよ。」
階段を上る。それにしても大きな家、オカルト映画に出てくる貴族のお屋敷みたいだ。
明日の朝、案内無しで歩いたら迷子になってしまうかも。何だか可笑しくなった。
「はい、どうぞ。」Sさんがドアを開けてくれる。「失礼します。」と言って中に入った。
綺麗に片付いた部屋の壁にカレンダー、その横に女物のコート、えっ!?
慌てて振り向いた。「あの、此処は?」 「私の寝室、さっき言ったでしょ。」
「今夜は私と此処で寝て貰います。もちろん朝まで。」 「いや、だってそれは。」
Sさんは左手の薬指を舐め、何か小声で呟きながらその指で俺の額に触れた。
途端に体が硬くなる。 体が金縛りのようになって自由に動かない。
「あの日、私の事を『綺麗だ』って言ってくれたでしょ。『下心もあります』って。」
「そりゃ言いましたけど。」 俺はゆっくりとベッドに引き倒された。
Sさんもベッドに潜り込み、俺を見つめて艶やかに微笑んだ。
「君、『妹(いも)の力』って知ってる?」

「知りません。」 やっとの思いで答えると、Sさんはまた微笑んだ。
「こうして一晩、一緒に過ごす事で、私の力の一部を君に分ける事が出来るの。」
「いくら強力な式を使っても、場所を特定しなければ効力が弱まるし、
だからと言って君の活動範囲全体に結界を張るのは現実的じゃない。」
「それなら君の体そのものに結界を張るしかない。つまりこれが、最善の方法。
さっき、全力で君を守るって約束したでしょ。」
「でも、だからって好きでもない男と、一晩過ごす、なんて。」
「あら、私も君が好きよ。あんなに大切にされて、正直あの娘が羨ましいもの。」
「でも、こんな事。Lさんに知られたら。」 姫の笑顔が脳裏に浮かんだ。
「今夜一緒に寝る事はあの娘にも話してあります。」
「何をするか詳しく話した訳じゃないけど。それに。」 Sさんは悪戯っぽくウィンクした。
「私への『好き』より、あの娘への『好き』の方が大きいなら、何も問題無いでしょ?」
一気に顔に血が上る。 「何故それを。」 それでもやっぱり体が動かない。
Sさんは問いには答えず、俺の耳元で囁いた。「だから余計に羨ましいの。」

 

暗闇の中で全身にSさんの体温を感じている。
Sさんの肌はしっとりと滑らかで、百合の花に似た良い香りがした。

「ね、朝よ。もうすぐLが起きるわ。」 そして右の肩を優しく揺する感触。
飛び起きると、既に着替えてぱりっと身支度を整えたSさんが枕元で微笑んでいた。
「良く眠れた?」 「はい、とても。」 「そう、良かった。じゃ朝食を食べる支度して。」
「あの、昨夜は。」 Sさんは唇に人差し指を当てて片目を閉じた。
「私が良いというまで、その話は禁止。ОK?」 「はい。」 「うん、良い返事。」
本当に温かくて、優しくて、少女のように華やかな笑顔を見送りながら
俺は心の奥に溜まっていた大学入学以来の疲れやストレスが、
すっかり解けて流れていくのを感じていた。

リビングで待っていると、暫くして姫が起きてきた。
立ち上がって姫を迎え、そっと抱きしめておでこにキスをした。 「おはよう。」
「おはようございます。夢じゃ無くて良かった。」 姫も俺の頬にキスしてくれた。
「昨日の事が、夢だと思ったんですか?」 「夢だったら寂しい、と思いました。」
もう一度、今度は少し強く姫を抱きしめた。「ほら、夢じゃないです。」 「...はい。」
疚しさや後ろめたさは無く、真っ直ぐ姫の眼を見て話すことが出来る。
そうだ。姫も、Sさんも、既に俺の中でかけがえの無い存在になっている。
それだけで良い。他に望むものなど、ある筈も無かった。

皆で朝食を食べ、後片付けが終わって暫くすると
Sさんは「はい、勉強の時間。」と言って姫と一緒に図書室(?)に入っていった。
駄々をこねそうな姫の背中を押し、「頑張って下さい。」と見送ってから
俺は不足している睡眠時間を取り戻すため、リビングのソファで仮眠を取った。

 

「おい、若いの。」 いきなり誰かに声を掛けられた。
体を起こすと、ソファの背もたれの上に白いフェレット、じゃなくて管狐が丸くなっている。
「管狐さん、で良いんですか?」 「管さん、の方が良いかな。どちらかと言うと。」
「じゃ、管さん。これまで僕を守って下さってたみたいで、ありがとうございます。」
「お前に義理はないが、これが俺の仕事だからな。」
「ずっとSさんに仕えておられるのですか?」
「敬語とは、何かこそばゆいが。○△姫にお仕えして、もう12年目になる。
○△姫が13歳になられた年だった。」
「それで管さんは、私に何か大事な話があるのでしょうか?」
「確かにお前、勘の良い奴だな。」
「実は折り入って頼みがある。○△姫は、そのお力ゆえ常に重い荷を背負ってこられた。」
「感情を押し殺し、ひたすら役目を果たされる御姿をして『氷の姫君』と揶揄する者も多い。」
「しかしこの件ではその清き御心を露にし、まるで少女の如くであられる。」
「その鍵はおそらくお前だろう。だからこの件が済んだ後も、あのお方を支えて貰いたい。」
「僕はSさんが好きですから異存はありませんよ。この件が無事に済んだら、の話ですが。」
「心配無用。わし等も力の限りお前を守る。おそらく良き理の御加護もあるだろう。」
「しかし、忘れるな。恐れ多くも○△姫の寵愛を受けておきながら
万が一にも裏切るような事があれば、絶対に許さん。
その身八つ裂きにして、魂ごと灰も残さず焼き尽くしてくれる。」
「憶えておきます。それはそうと、僕も管さんに質問があるのですが。」 「何だ?」
「昨夜の事を知っているのは当然として、」 管さんの姿が急速に薄れ始めた。
「Lさんと僕の会話がSさんに筒抜けなのは、あ、ちょっと」 消えた、跡形も無く。
「それも仕事の内だ。許せ。」 あのタヌキ野郎、逃げたな。
「狐、だ。」
妙に律儀な声だけが、あたりにふわふわと漂っていた。

仮眠から醒めた後も、「○△姫」という名前を覚えていたが、俺みたいな者が
軽々しく口にしてはいけない名前だという気がして、聞いてみるのはやめた。
「Rさん、お昼ご飯です。今日は私が作ったんですよ。」
姫が嬉しそうに呼びに来てくれたので、一緒にダイニングに移動した。
パスタとサラダにスープが添えてある。「うわ、Lさんも料理が上手なんですね。」
「ふふふ、Sさんに教えて貰っているのです。先生が良いのですよ。」
「何言ってんの、R君に食べて欲しいから久し振りにやる気になったんでしょ。」
Sさんが入ってきて、元気良く宣言した。 「さっさと食べて今後の作戦会議!」
姫がそっと囁いた。「これからは一杯やる気出しますから。」 「期待しています。」

 

作戦会議はリビングで開かれた。
「L、まずはアレを持ってきて。」 「はい、ただいま。」
クッキーの空き缶に白い紙で作られた人形が沢山入っている。
姫が神妙な顔で言う。「今日の勉強の時間に私が作りました。24体あります。」
Sさんが指示を出す。「これはR君の『身代わり』、これを色々な所に配置して貰います。」
「アパート、バイト先、大学、車の中、その他君が立ち回る所に数体ずつ。」
「見付かり難い所に配置しておけば、アイツ等の式達を撹乱できるから。」
「これ、髪の毛とかを入れて作るヤツですか、藁人形みたいに?」
「髪の毛じゃないけど、君の一部を使わないと効果が弱いし。」
何を使ったのか聞こうかと思ったが、イヤな予感がしたので止めておいた。

アイツ等からの接触・攻撃方法とその対応策に話題が移った。
Sさんの指示が淡々と続く。「氷の姫君」という言葉が脳裏をよぎる。
「Lの場合、絶対に殺されることは無いし、薬物の使用や式の憑依は
代としての器を損なう。だから、この家にいる間はまず安全。
外出した時に拉致して、私たちの手の届かないところに監禁しても、
Lの気持ちが変わらなければ何の意味もない。考えられるのは
意識に干渉してLの気持ちを変えようとする事くらい。」
姫は平然としていた。鈴を振るような声に身が引き締まる。
「たとえ何をされても、私の気持ちは変わりません。絶対に。」
「そうね。Lは強いから、きっと大丈夫。でも、気を緩めちゃ駄目よ。」 姫が頷く。
「R君の場合はかなり難しい。まず、君と関わる沢山の人々のうち、どのルートから
アイツ等が接触してくるのか予想できない。大学の同期生経由かもしれないし、
バイト先の同僚経由かもしれない。それよりもっと判り難いルートかもしれない。」
チラリと俺の顔を見て、Sさんは話を続けた。
「ただし、逆にLの気持ちを強固にしてしまう可能性もある訳だから、
R君を殺そうとするとは思えない。何とかして誘惑しようとするでしょうね。」
「僕に浮気させて、Lさんの気持ちを僕から離すのが一番簡単な方法なんですね?」
「そう、その為には君に薬を盛ったり式を憑依させたり、何でもやると思う。」
姫が心配そうに俺を見つめている。「大丈夫、何とか頑張りますよ。」
そう、大切な姫のために、自分の気持ちをしっかり持っていなければ。

 

姫の誕生日が今日からほぼ五ヶ月後の11月26日である事、
「やり直し」の機会を無くすため、誕生日に近くなる程接触や攻撃の可能性が
高くなる事など、詳しい説明が続いた。説明に納得できない点は無かったが
一通り説明を聞いた後で、ふと、一つの疑問が湧いた。本当に軽率だった。
「もし、失敗してLさんがアイツ等の手に落ちたら、
アイツ等はLさんを使って一体何をするつもりなんですか?」
Sさんと姫は顔を見合わせた後少し黙っていたが、やがてSさんが口を開いた。
「それは私も予想できない。でも、ひとつだけ確かなのは、
『もし失敗しても絶対にLをアイツ等に渡してはならない』と言うこと。」
まずい、これはまずい。
とてつもなく嫌な予感と猛烈な寒気が、ザワザワと背中から首に這いあがって来た。
耳の奥がキーンと痛くなり、部屋がぐるりと回転するような感覚に囚われる。
聞くんじゃなかった。何故、これを聞いてしまったんだ。答えは判っていた筈なのに。
「失敗が確実になったら、この手でLを殺す。それが、『上』から私への指示。」
やめてくれ。眼を閉じ、両手で両耳を覆ったままで、もう何も分からなくなっていた。
そうだ。俺はどこかで舐めていた。敢えて眼を閉じ、見ないふりをしていたのだ。
Sさんと姫の鮮烈な言動や立ち居振る舞い、そして命を燃やし尽くすような愛し方は
二人が共に立つ、その極寒の地平を静かに受け入れる覚悟に裏打ちされている。
俺には、この戦いに参加する資格も、覚悟もありはしない。俺は弱い、弱すぎる。

「おい、若いの。」 誰かにいきなり声を掛けられた。
「生意気に狐をタヌキ呼ばわりしておいてそのザマは何だ。裏切りどころか敵前逃亡か、え?」
眼を開くと、闇の中に緑色の燐光が浮かんでいた。そして隣に渦巻く小さな紅い光の渦。
「裏切りは許さんと言った時、『憶えておく。』と、そう言ったな。」
「管さんか。見ての通り俺は駄目だ、どんな報いでも受ける。いっそひと思いに始末してくれ。」
「お前は既に一度、自分が死ねばこの件が解決するのではないかと考えた。」
「その時、○△姫は何と仰せか。忘れたとは言わせん。」
「...俺が、Lさんに似ていると。」
「では何故、その『Lさん』は、お前を愛しつつ今後も生きていこうと考えているのだ?」
「何故○△姫は、『失敗が確実になったら、この手で』と仰せなのだ?」
「おい管。」 「言うな。それ以上、一言も言うなよ。」
全身から湧き上がる激しい怒りが紅蓮の炎となって俺の体を包んでいた。
鼻の奥で火薬の匂いがする。「一言でも言えば。」
「人間風情が生意気な。『一言でも言えば』どうする?おまえの恐れるその言葉。」
「今、此処で聞かせてやろう。お前の大切な『Lさん』を、」
「貴様ぁああああああああああああああああああああああああ」
灼熱の業火が爆発して俺の体を焼き尽くし、意識が急激に薄れていく。
「命が、生きようとして戦うは、それが命であればこそ。限りある人の身なら尚更。」
「ならば何故、お前は戦わぬ?直向で一途な命が、哀しくはないか。」
律儀な声が、いつまでも暗い虚空を漂っている。

 

気が付くと、俺はリビングのソファで横になっていた。
傍の床に横座りした姫が俺の右手を握り、真っ赤に泣き腫らした眼で覗き込んでいる。
「良かった。もし、あのまま...」見る見るうちにその眼から大粒の涙が溢れた。
左手で姫の髪と頬を撫でた。「ゴメンなさい、もう大丈夫、心配ありません。」
そう、心配ない。体を起こし、姫を抱き寄せた。姫も俺を強く抱きしめてくれた。
「顔を洗って来ます。Sさんを呼んで来て下さい。」 「はい。」
リビングに戻ると、Sさんが俺を待っていてくれた。 「心配をかけました。」
「気が付いたのね。良かった。」Sさんの声はほんの微かに震えている。
「話があります。聞いて下さい。」
「熱いお茶を淹れて来ます。」姫はそう言って席を外した。
「弱虫でごめんなさい。」と言うと、Sさんは立ち上がって俺を抱きしめた。
頬を伝う一筋の涙を中指で拭って呟く。「戻ってきてくれて、ありがとう。」
俺は彼女の耳元で囁いた。「貴方のお陰です。○△姫様。」
「どうしてその名を?」 「僕は、どうも白いお狐様とは腐れ縁があるようなので。」
彼女は驚いた顔をしたが、やがて優しく微笑んだ。「覚悟を決めてくれたのね。」

俺はその日からお屋敷で暮らす事を決めた。
翌日の日曜日まではたっぷり食事と睡眠を取って体調を整える。日曜の夜はバイト。
そして月曜日は朝から夕方遅くまであちこちを飛び回り、とても忙しい一日になった。

実家に電話し、大学を休学して半年程外国を旅行するから今年中は帰れないと伝えた。
俺の性格を熟知している母は、特に不審がる事も無く「じゃ父さんにもそう言っとくから、
戻ったら直ぐに知らせなさいよ。」と言ってあっさり電話を切った。相変わらずだ。

大学には後期始めからの休学届けを出し、親しい友人には「人生について考えたいから
田舎へ帰る。当分戻らないと思うが心配無用。」とメールを出しておいた。

何でも屋のNさんには、事務所で「何か失敗するとマジでヤバイみたいなので、
半年間はこの仕事に専念します。」と伝えた。Nさんは「済まんな、俺達は何も出来んが
これは半年間の資金だ。取っとけ。」と俺の尻ポケットに厚い紙封筒をねじ込んだ。
丁寧に礼を言い、後で開けてみると30万入っていた。これは正直とても助かった。

バイト先には「一度田舎に帰って見合いするんです。」と言い、近々バイトを辞めると伝えた。
店主は「そうか、見合いがまとまらなかったらいつでも戻って来いよ。」と言ってくれた。

荷物を整理しながら、バイト先の更衣室やトイレ、大学の教室や食堂やトイレなど
思いつくあらゆる場所に俺の身代わりを隠した。物好きな誰かが見つけて処分するまで
アイツ等の式を撹乱して俺の居場所を判り難くしてくれるだろう。

そして最後に、当座の荷物をまとめてアパートを出た。賃貸契約自体は残しておくが
少なくとも半年間は、あのお屋敷に居候だ。もちろんあらゆる場所に身代わりを隠してきた。
Sさんは毎晩式を飛ばすと言っていたが、管さんが毎晩俺の身代わりを守るのだろうか。
しかも半年間。ちょっと可哀想になったが、同時に少しだけ「良い気味だ。」とも思った。

その夜、遅い夕食を済ませてからコーヒーを飲んでいると、姫がポツリと言った。
「Rさんに、ここまでして貰って、何だか悪い事をしている気がします。」
「最初は、Rさんが私のために色々頑張ってくれて、嬉しいと思ってたんですけど。」
「ご両親や、大学まで...」 そこまで言うと、涙が溢れて止まらなくなった。
Sさんは、そんな姫の姿を見て優しい笑顔を浮かべている。でも、声は掛けない。
俺はSさんの顔を見た。Sさんは眼を閉じ、黙って小さく頷いた。
「Lさん、昨日、僕は貴方が一番好きだと言いましたよね。」
「はい。」 涙を拭きながら、姫は小さい声で答えた。
「好きな人のために僕にも出来る事がある、そう思うと今日はすごく幸せでした。」
「でも、もうひとつ、出来る事があるのかなぁと思ってます。聞いてくれますか?」
「はい。」 姫はまた、小さい声で答えた。Sさんは黙って眼を閉じたままだ。
「もし、術を無効に出来なくて貴方が空っぽになっても、僕は一生貴方を守ります。」
「それが駄目ならSさんに頼んで、僕をLさんと一緒に殺してもらいます。」
「絶対に、僕がいない所で貴方を死なせたくないんです。」

「Rさんの腕の中で死ねるのなら、それはとても幸せだと思います。でも。」
まだ眼は赤かったけれど、姫はもう泣いていなかった。俺を真っ直ぐ見つめている。
「Rさんの腕の中で私が死ぬような事態は、絶対に起こらないと思います。」
「Rさんが空っぽの私を守らないといけないとしたら、私の心が死んでしまった時だけど、
Rさんを好きでいる間、私の心は死なない。だから、Rさんが私の抜け殻を守る必要は無い。
Rさんの心が私から離れてしまったら、私の心は死ぬかもしれないけれど、
その時はRさんが私の抜け殻を守る理由がありません。」
「あ~あ。」Sさんの声だ。
「貴方たち、本当に良く似てるわね。羨ましくて、ちょっと嫉妬しちゃう位。」
「え?」姫は眼を丸くしている。
「RさんはSさんが好きなのに、なぜ嫉妬するんですか?」
Sさんは暫く唖然としていたが、やがて笑い出した。本当に楽しそうだった。
つられて俺も笑ってしまった。「そう言えば、確かに僕はSさんが好きですね!」
「何で笑ってるんですか? 私、何か変なこと言いましたか? もう、2人とも!!」

 

バイトを辞めてからは街へ出掛ける事も無く、お屋敷の図書室にある本を読んだり、
姫と2人でお屋敷の周りをサイクリングしたりして過ごした。
お屋敷の周りの土地は、その土地自体に特別な力があるから、
巨大な結界となってアイツ等の式から俺たちを守ってくれるとSさんは言った。
「でも、アイツ等がこの場所を突き止めたら、物理的な強行突破でLやR君を
拉致しようとするかもしれない。もしこの場所が突き止められたら外出は禁止。」
それは当然の処置だし、第一そうなれば俺自身外出する気にはならないだろう。

お屋敷の1階、姫の部屋の斜め向かいに俺の部屋は割り当てられていたが
2人で夜を過ごす時は、俺が姫の部屋を訪ねた。2人で夜を過ごすといっても
姫の体の事を考えて、2人並んで寝るだけだったが、2人とも、それで十分幸せだった。
姫が寝付くまで、手を繋いで話し合う事もあった。2人の事、将来の事。
姫の誕生日を無事に乗り越えたら、その先に広がっているはずの明るい未来。
そして月に一度か二度は、Sさんが「妹の力」で結界を張り直してくれた。

静かに、本当に不思議なほど静かに、日々は過ぎて行った。
時が経つにつれ、姫は益々美しくなった。10月の終わり頃になると、
胸や腰も少しふっくらとして、体のラインが少しずつ女性らしくなってきていた。
Sさんは「そろそろ初潮が来るかな、楽しみだね。」と喜んだ。

しかし、それは同時に『その日』が近づいている事を意味していた。
姫を守れるかどうか、つまり俺の気持ちが本物かどうか、それを試される日が。

 

 

 

「何か変。」買い出しから帰ってきて車を降りるなり、Sさんが言った。
「見慣れない車、ですか?」 後部トランク一杯の買い物袋を両手に下げ、運びながら尋ねる。
10月の終わり頃から、この辺りの交差点など要所要所を何台かの車が巡回している。
昼間はあまり見かけないが、夜間は頻繁に巡回して他の車の出入りを監視しているらしい。
Sさんが「あれは『上』に頼んだの。強行突破の可能性もゼロじゃないし。」と言っていたので、
いよいよ不審な車の報告があったのかと思ったのだ。 「ううん、そうじゃない、ただ。」
「このあたり一帯の土地で『地脈』が乱れてるの。そのせいで結界の力が弱まってる。」
「アイツ等の仕業ですか?」 「それはまだ判らない。だけど、用心しておいた方が良さそう。」
「アイツ等の式が此処に来る事もありますか?」 俺はあの不気味な目玉を思い出していた。
「式なら此処には近づけない筈だけど...変わったことがあったら何でも知らせて。」
「あと、この話、Lには暫く黙っててね、心配すると思うから。」 「了解です。」
後で考えると、これがアイツ等からの接触と干渉の始まりだったのかも知れない。

窓際の椅子に座り、暇潰しにアパートから持ってきた文庫本を読んでいた。
カチ、と音がして電子カレンダーの日付が切り替わった。11月11日0時0分。
「あと2週間か。」 カーテンを閉めてベッドに潜り込む。
姫はとうに部屋で寝ている時間だ。
前から良く眠る娘だと思っていたが、最近は更に良く眠るようになった。
女の子から女性へと体を作り変えていくには、たっぷりの睡眠が必要なのか。
そんな事を考えながら電気を消し、眠りについた。

微かに話し声が聞こえる。これは夢か、あれは誰だ。あの女の子は一体?

 

小さなテーブルを挟み、初老の男と若い男が向かい合って椅子に座っている。
初老の男の背後には若い女が立っていた。そして部屋の隅、フローリングの床の上で
小さな女の子が遊んでいる。その手には小さな茶色のクマのぬいぐるみ。
若い男の顔には、額から右の頬にかけて目立つ大きな傷跡があった。
初老の男が若い男に話しかけた。感情を押し殺したような低い声。
「この子は『あの力』を受け継いでいる。力が発現してからでは手遅れだ。」
「出来るだけ早く、始末しなければならん。できるだけ早く、な。」
「Lの力を封じる事は、出来ませんか?」若い男の声は震えていた。
「封じることはできん。抑えておけるのも15歳までだ。16歳になれば必ず発現する。」
「...判りました。せめてLは私の手で...お願いします。」
15歳? 16歳? L? これは何だ。俺は何を見ている?嫌な予感がした。
突然、初老の男が小さく呻いて胸を押さえ、床に倒れた。若い男は驚いて立ち上がったが
やはり呻いて床に倒れた。2人とも、もう動かない。女の子はボンヤリと2人を見ている。
「おじいちゃんとおとうさん、どうしたの?」無邪気な笑顔を浮かべて女の子が尋ねる。
「寝ちゃったみたいね。Lちゃんも、もう寝なきゃ。お姉さんと一緒にお部屋に行こうね。」
知ってる。この声は、確かに聞いた事がある。誰の声だったか。
「うん。」女の子が返事をすると、若い女が女の子を抱き上げた。
「良いお返事。」 その時、若い女の顔が見えた。 Sさんだ。かなり若いが、間違いない。
「折角持って生まれた力なのに、勿体ないわよね。力は、使うためにあるんだから。」
「ふふふ、ふふふふふ。」笑い始めた。心底楽しそうな、ゾッとする笑顔。
「ははははは。あははははははははははははは。」 変だ。これは本当にSさんなのか。
突然、女の子がこちらを向いた。整った目鼻立ちに姫の面影が重なる。
「おにいさんも、いっしょにいこう、ね。」 「あら、良い考えね。」 全身が総毛立つ。
「おにいさんも、いっしょにいこう。 わたし、おにいさんのこと、すきよ。」
意識が途切れた。

 

気が付くと、時計は5時半を指している。ひどい寝汗をかいていた。
ベッドから出て服を着替えていると、小さなノックの音がする。
「起きてる?」Sさんの声だ。 「はい。」ドアを開けると、
パジャマに厚手のカーディガンを羽織ったSさんが立っていた。
「話があるの。良い?」 俺は黙って頷いた。

11月中旬、朝方の空気はもうかなり冷たい。
Sさんはダイニングで熱いコーヒーを淹れ、両手をカップで温めながら話し出した。
「さっき、嫌な感じがして目が覚めたら、この家の中に入り込んでた。」
「式じゃなくて、本体が。」 カップを持っていても、寒気がして手が震える。
「君が動揺してるのを感じたから、君の意識に干渉してるのが判った。」
一度言葉を切って、真っ直ぐ俺を見つめる。 手の震えが止まった。
「さっき、何を感じた?」 Sさんの微笑。体がゆっくり温まるのを感じていた。
「感じた、って言うか。変な夢を見ました。」 「どんな夢?」
俺は夢の内容を出来るだけ詳しく話した。初老の男、顔に大きな傷跡のある若い男。
笑われるかもしれないと思ったが、若いSさんや姫の面影がある女の子の事も全部話した。
そして、彼女たちの最後の言葉も。
Sさんはずっと俺の眼を見ながら、黙って話を聞いてくれていたが、
俺が話し終えると、一つだけ質問をした。「その男性2人に見覚えはある?」
「いえ、全然見覚えはありません。知らない人達でした。」
Sさんは暫く黙った後で呟いた。「う~ん、思ってたより、ずっと難しいな。」 溜息をつく。
アイツ等がここまで侵入したとすれば、当然それは。「悪い兆候って事ですか。」
「悪い兆候もあるけど、良い兆候もある。」
「式は此処に侵入できない。当然、君に干渉することもできない。だからアイツ等の1人が
直接此処に侵入してきた。力のある相手なら、結界を抜けて直接君に干渉できるから。」
「でも『本体』なら、こちらも侵入経路の痕跡を辿ってアイツ等の居場所を特定できる。
そのリスクを冒して侵入してきたって事は、私たちの方針と作戦は間違っていないし、
相応の効果を挙げているって証拠。これは良い兆候。」

 

「じゃ、悪い兆候は?」
「君は、さっきの夢を見てどう思った?正直に聞かせて。」
「...もしあれが真実なら、Lさんを守るのは正しい事なのか、そう思いました。」
「君、本当に優しいのね。『Sさんに騙されているんじゃないか?』って思ったんでしょ?」
「正直、騙されているのかも知れない、とは思いました。済みません。」
「謝る必要は無いわ。細かい事まで全部説明していなかったのは私の方だもの。
でも、結局は君が何を信じるかって所に行き着く。それを承知の上で聞いてね。」
俺は黙って頷いた。
「君の心がLから離れれば、Lは直ぐにそれを感じ取る。そしてLの心は君に出会う以前、
いや、それよりも悪い状態に戻ってしまうし回復の時間も無い。それがアイツ等の狙い。」
「じゃ、その為にはどうすれば良い?」 また、背中にそろそろと悪寒が這い上がってくる。
「1つ、君を誘惑して君の心をLから引き離す。これは予想が簡単、レベルⅠ。」
「2つ、Lを守ることが正しいのかどうか、君の心に疑問を忍び込ませる。これはレベルⅡ。」
「それじゃ、あれは。あの夢は。」 「意識に干渉されて幻視を見せられた。その内容は...
同じテーマで無数のシナリオが書ける、それこそ無数に。だからいちいち否定はしない。」
「でも、直接相手に手を下せない時には、相手の意識に干渉して心のあり方を変えていく。
それがアイツ等の常套手段。相手の記憶も、嗜好も、隠されているトラウマも、それこそ
利用できるものは全て利用する。今後、初恋の相手が夢に出てきたら、用心してね。」

 

「それから、始めに『難しい』といったのは...君と、アイツの意識の共振が強過ぎるから。」
Sさんが「アイツ等」でなく、「アイツ」と単数形で呼ぶのを初めて聞いた。
「侵入したのが誰なのか、判ってるんですか?」 「相変わらず冴えてるわね。」
「そう、99%間違いない。アイツ等の中でも飛び抜けた力の持ち主。
普通の結界ではまず止められないし、意識への干渉力も桁違い。恐ろしい相手。」
「でもね、どんな術師でも、初めての接触で、さっき聴かせて貰った夢みたいに
細部に到るまではっきりしたイメージを相手の意識に送り込むのは無理なの。
最初の接触の段階では、まだ『通い路』が確立できていないから。」
「さっきの話みたいなイメージの場合、登場人物の顔や声は相手の記憶に任せる事が多い。」
「でも、君が見て声を聞いた男性2人は君が知ってる人じゃなかった。私とLだって、恐らく
何年も前の姿だから、君の記憶の中の映像や声じゃない。とくに幼い頃のLについてはね。
いくら有力な術師だとしても、いきなりこんな大掛かりなイメージを共有するなんて、
意識がよほど強く共振して通い路が確立されていなければ不可能だわ。」
「意識の共振というのは?」
「多分、君とアイツには何か共通点があるのね。」 「何故、僕の何処が。」
「具体的にはまだ判らない。でも、Lとアイツには血縁がある。」
「Lが君に強く反応したように、恐らくアイツも君に強く反応している。そして。」
「気を悪くしないでね。」 ちょっとだけためらってからSさんは続けた。
「そして君もアイツに強く反応したから、2つの意識が信じられない程強く共振した。」
「僕は『その人』の姿を見ていないし、声も聞いていません。それなのに。」
「意識は人の内面のエネルギーだから、意識同士の共振に姿や声は関係ないわ。
文字通り、『波長が合う』としか言いようがない。それから、憶えておいて。」
「君はもう、感じているようだけど、アイツは女性。名前はK、年齢は多分21。」
「どんな術でも、そしてそれが強い術であればある程、術には術師の個性が滲み出る。
相手が女性だと判っていれば、術に対応する方法を選択する手がかりになるかも知れない。」
「あの、今後はああいうのが何度も起こるんですか?」 想像するだけで気が滅入る。
「度々『本体』を侵入させたら確実に居場所を特定されるから、
そんなに何度も起こるとは思えない。でも、対応策は必要ね。」

 

その日の午後、姫の勉強の時間に俺も図書室に呼ばれた。Sさんが教えてくれたのは
常に意識の一部をコントロールし、不用意に他人の意識と共振するのを防ぐ方法だった。
「意識の中で、他人との共感、例えば思いやりとか空気を読むとか、そういう事に関わる部分を
コントロールして『鍵』を掛けてしまえば相手との共振は起こらない。」と、Sさんは言った。
姫と2人で、全く会話として成り立たない言葉をやり取りをする実習を何度も繰り返す内に
何とかコツが掴めてきた。相手の話を全く聞かない人同士の噛み合わない会話のイメージ。
しかし、本来は相手との接点を探し、共感を基盤にして会話するのが普通なのに
相手との共感を封印して会話を続けるのは、えらく骨の折れる作業だ。
「君、本当に素質あるのね。今回の件が片付いたら本気で術を勉強してみたら?
きっとそこらの占い師なんかより、沢山お金を稼げるわ。」
Sさんが褒めてくれたので、「考えておきます。」と返事はしたものの
これではとても割りに合わないというのが正直な感想だった。
そしてこの方法は、当たり前だが、俺が寝ている間は効果が無い。
姫の誕生日まで、俺と姫はSさんの部屋で寝ることになった。
当然Sさんと姫は2人でベッドに、俺はソファで寝ることになる。
「ベッドは広いんだから、3人で寝ましょうよ。」と姫は無邪気に言ったが、
こちらの体の都合も有る事なので、さすがにそれは遠慮した。
慌てて断る俺を見て、Sさんは必死で笑いを噛み殺していた。
「特別な結界を張るので、私の傍にいればアイツ等があなた達の意識に直接干渉する事は
出来ない。」とSさんは説明していたが、俺は最初の夜に自分が眠れなかったので、
本当はSさんが夜通し起きていて、アイツ等の干渉から俺たちを守っている事に気付いた。
実際、その翌々日辺りからSさんは目に見えてやつれてきたので、俺はSさんに
昼過ぎから夕方までの間に睡眠を取り、体を休めて貰うように頼んだ。
夕食の準備は俺と姫でやれば良いのだし、長丁場になるなら、最後は体力勝負だろうから。

 

その週末、背の高い男がSさんを訪ねてきた。季節外れの大きなサングラスをかけていて
表情は読み取れないが、身のこなしや雰囲気からして只者でないのは明らかだった。
男はリビングルームで一時間程Sさんと話してから帰ったが、帰り際に玄関先で
一緒に自転車の手入れをしていた姫と俺を見て立ち止まり、「確かに。」と呟いた。
どこか人を見下したような、珍しい物でもみるような視線を感じる。それに、血の匂い。
バイト先の厨房で大量の魚を捌いた時のような、血と内蔵の匂いがする。不吉だ。
姫は俺のシャツの裾を掴んでしばらく俯いていたが、男の車が遠ざかると
「あの男の人、嫌い。」と呟いて俺の背中に抱きついてきた。俺も嫌いだ、あんな奴。
その日の夕食の後、男の事を尋ねると、Sさんは「あれは『上』との連絡係、大きな作戦だし。
それに、この間の侵入経路を辿ってアイツ等の居場所が特定できそうだから。」と言った。
「居場所が特定できたら、どうなるんですか?」 何か不吉な予感がしていた。
「外法を使う者達は放置できない。 ...今回は『上』が対策班を送り込むでしょうね。
それに、対策班がアイツ等を完全に始末してくれたら、こっちの仕事量も半分以下になる。」
さっきの男から感じた血の匂いの記憶が、ゆっくりと、しかし確かに蘇ってきた。
「あの、始末って...?」 あるいはこれも、軽率な質問だったかもしれない。
「術師も人間だから。居場所さえ判れば、刃物でも銃でも、方法は幾らでもあるって事。」
そう言ったSさんの横顔には、悲しげな翳りが貼り付いていた。

それから数日間は特に変わった事も無く、無事に過ごす事が出来たが、
姫の誕生日まで一週間を切った11月20日、俺は再び干渉による幻視に巻き込まれた。
その日も朝から特に変わったことは無く、ずっと集中して意識をコントロールしていたためか、
夕方になっても異変は無いまま、いつも通りの夜を迎えるのだと思っていた。しかし。
夕食の前に、俺はシャワーの着替えを取りに1人で部屋へ戻った。それがまずかった。
着替えを持って振り返った時、PCデスクの脚に躓いて一瞬意識のコントロールが途切れた。
その刹那、『鍵』が外れて通い路が開き、膨大なイメージが一気に流れ込んできた。

 

俺は、暗い大きな部屋の中にいる。両手をロープで後ろ手に縛られ床に転がされていた。
部屋の中央のテーブルには燭台が2つあって、大きな蝋燭が3本ずつ燈っている。
さらにその奥のソファには女性が寝かされていた。何とか体を起こして息を呑んだ。
姫だ。間違いなくソファに寝かされているのは姫だ、どうやら意識がないらしい。
ここは何処だ? 俺は気を失っていたのか? 何故こんな事に?
混乱していると、不意に足音がした。部屋に入ってきたのはセーラー服の少女だ。
21才には見えなかったが、何故か俺には判った、この少女がKだ。
「気が付いたようね。思ったより手間がかかって、本当にイライラさせられたわ。」
何時の間にか、少女の傍らに大きな黒い蛇がとぐろを巻いていた。
大きく、燃えるように赤い目玉。あの日、俺の部屋の窓の外にいた奴に間違いない。
少女が近づいてきた。姫に良く似ている。あるいは姫が成長するとこうなるのか、
そう思わせるような美貌だ。しかも年上の分だけ、女性的な魅力は姫を上回っている。
「君がKか?」 「...そうだけど、何故判ったの?」
「相手が若い女性だというのは聞いていたし、それに。」 「それに?」
「この前、干渉された時と同じ感じがする。 とても冷たくて、寂しい感じ。」
少女の右頬が微かに動いた。 「あなた『気紋』が識別出来るの?不思議ね。」
「君に頼み、いや、お願いがある。」 「敵に頼み事って、一体どういうつもり?」
「君はとても強い力を持っていると聞いた。その力でLさんの術を解いて欲しい。」
「あなた、馬鹿なの? 術を解いたら、その場で私たちの計画はお終いじゃないの。」
「そんな計画が実現しなくても、君は自分の好きなように生きられる筈だ。」
「ますます何が言いたいのか解らないわね。」
「君ほど美しく、しかも強い力を持っている女性なら、誰かを不幸にしなくても
生きていけるし、誰にも頼らずに自分の幸福を実現できる。そうだろう?」
「...仲間を裏切れって言うの? 馬鹿馬鹿しい。これは私が生まれる前から
進められてきた計画なのよ。今更私一人の考えで、どうこう出来るものじゃ無いわ。」
「計画したのが君でなくても、術を掛けたのが君なら、解く事も出来るんじゃないのか?」
「解けないなんて言ってない。それに、あんな悪趣味な術、私は使わない。」
「やっぱり、そうか。」 心が乾涸らびて行くような哀しみが、俺の胸を貫いていく。

 

彼女は怪訝そうに眉をひそめた。 「何が『やっぱり』なの?」
「前に干渉された時の幻視で、幼い女の子を俺は見た。『L』と呼ばれていたが、違う。
確かにあの子にはLさんの面影があった。でも、あの子はLさんじゃない。」
「それで?」 彼女の顔色が蒼白く変わり、眼には刺すような光が宿っていた。
「あれは、あの女の子は、君だ。幼い頃、Lさんと同じように肉親を殺され、君は拉致された。」
彼女が左手を握りしめた、その手が小さく震えている。
「同じ哀しみを経験した君なら、Lさんの辛さが判るはずだ。頼む、彼女の術を解いてくれ。
術を解いてくれるなら、俺はどうなっても」
「...黙りなさい。」
少女の全身から、青い炎がユラユラと立ち上るのが見えた。
熱い。まるであたりの空気が燃えているようだ。チリチリと俺の髪と服が焦げる匂い。

「不愉快ね。」
「あなたの欲望に細工をすれば簡単だと思ってたけれど、それじゃ気が済まない。」
少女は俺を見下ろして微笑んだ。
「あなたの気持ちを変えるより、彼女の気持ちを変える方が面白そうだわ。
あなたの目の前で散々慰み物にされても、彼女は気持ちを変えずにいられるかしら。
どのみち妊娠の心配は無いし、楽しみね。」 腹の底から怒りが湧き上がってきた。
「やめろ!やめてくれ。そんな事をして何になる。不幸と憎しみの連鎖を生むだけだぞ。」
「『力』が手に入るわ。長い間、虐げられてきた私達の望みを叶える『力』が。」
「それは君達の組織の望みであって、決して君自身の望みではない筈だ。
他人の心や命を犠牲にしてまで叶える望みなんて、哀しすぎる。間違ってるよ。」
「あら、あなたはあの娘を救うためなら、私たちを犠牲にしても良いとは思わないの?」
「まあ、今はそんな事どうでも良いわ。そろそろお楽しみの時間よ。ほら。」
2人の男が部屋に入ってきた。ゆっくりと部屋の奥に歩いていく。

その時、俺の背後、手首の上で何かが動いた。
ふわふわの毛と、ロープを齧るような感触。管さん?

ロープが解けた。
俺は跳ね起きて走り、男たちに飛び掛った。管さんはシェパードほどの大きさになって
大蛇と睨み合っている。俺は何発か殴られたが、怒りのためか痛みは感じなかった。
1人を殴り倒し、もう1人に飛び掛った。倒れる男になぎ倒されるように少女も倒れた。
馬乗りになって殴り続けると、やがて男は動かなくなった。
菅さんは大蛇を部屋の外に追い出したのか、双方とも姿が見えなくなっている。

管さんのお陰で形勢は一気に逆転していた。
床に倒れた少女は上半身を起こしているが、男たちはぴくりとも動かない。
少女が悔しそうな表情でこちらを睨む。倒れた拍子にスカートが捲れたのか
白い太腿が露になっている。少女を見下ろしていると、激しい怒りに眼が眩む。
「Lさんにしようとしてた事、君にしてあげようか。どんな気持ちかな、自業自得だね。」
少女は俺の視線を辿り、あわててスカートを整えた。怯えた眼で俺から距離を取ろうとする。
俺は少女を押さえつけ、馬乗りになってセーラー服を引き裂いた。
下着をずらすと形の良い乳房が露わになる。少女は小さく悲鳴を上げた。
白く美しい裸体が目の前で震えている。激しい怒りが、暗く歪んだ欲望に変わっていた。
少女の乳房に手をかける。 「お願い、止めて。許して。」
一筋の涙が少女の頬を伝った。
その時、俺の心の中で何かが崩れた。俺は、一体何をするつもりだった?
それこそ、不幸と憎しみの連鎖を生むだけだ。狂った欲望は、既に哀しく醒めていた。
俺は少女から離れてのろのろと立ち上がり、上着を脱いで少女の体に掛けた。
「嫌な思いをさせて悪かった。あの娘を助けられれば、俺はそれで良いんだ。
君を酷い目に合わせるつもりなんて、全然無かった。本当に済まない。」
俺は部屋の奥に向かって歩き出した。姫が寝かされているソファへ。早く姫を。

「ふふふ。」背後で笑い声が響いた。
少女が、俺の上着を肩から羽織って立ち上がっていた。
「もう少しだったのに。あなた、面白いわね。」
激しい眩暈がして床に手をついた。
そこは俺の部屋で、目の前に着替えが散らばっていた。
壁の時計を見ると、どうやら「それ」は僅か1~2分間の出来事だったようだ。
幻視から醒めても、眩暈は一向に治まらなかった。

 

廊下を走る足音が近づいてきて、Sさんが俺の肩に手を掛けた。
「大丈夫?今、アイツの気配を感じたから。」 「...今回のはキツかったです。」
遅れて駆けつけてきた姫に俺を任せて、Sさんはホットウイスキーを作ってきてくれた。
それを飲むと眩暈が少し治まったので、リビングに移動してソファで横になった。
俺の顔色が相当に悪かったのか、あるいは夕食のためにダイニングへ移動しようとして
再びよろけて転んだのが悪かったのか、涙目の姫を説得することができず、夕食は
リビングのソファに横になったまま、姫に一匙ずつ食べさせて貰う羽目になった。
Sさんは姫と一緒に「はい、アーンして。」とか言って面白がっていたが、そのうち
先に1人で部屋に戻ってしまい、今回は俺の幻視の内容を聞かれる事はなかった。
俺は自分で食べられる事を何とか姫にアピールしたかったのだが、一生懸命で必死な
姫の顔を目の前にすると、先ほど判明した自分のセーラー服嗜好が後ろめたくて、
結局「スプーン食」を完食した(させて頂いた)。照れくさくて、辛い罰ゲームだった。

翌日、朝食後のコーヒーを飲みながら、Sさんが言った。
「昨夜の侵入経路を辿って、アイツ等の居場所を特定したわ。
既に『上』にも報告済みだし、今日中に対策班が踏み込むでしょうね。」
「アイツ等の計画は挫折して、Lさんを守りきれる、という事ですか?」
「対策班がアイツ等を完全に始末できれば良いんだけど、アイツ等だって
何とか逃げ延びて計画を完成させようとする筈だわ。だからおそらく今夜までが
山場になる。もう侵入の痕跡を残すのを怖れる必要も無いし、
一か八かで、R君に最大の干渉を仕掛けてくる筈。」

 

「だから罠を掛ける。」とSさんは言った。
「夕方から夜にかけて敢えて意識のコントロールを外す時間を作り、
アイツからの干渉を待って反撃する。」と。
「怪しまれませんか?第一、最大の干渉に僕の意識が耐えられるかどうか。」
前回の干渉を受けた時のダメージを考えると、正直全く自信が無かった。
「コントロールを外す時間をランダムにすれば怪しまれないし、
今度は私が付いてる。君の意識に私の意識を繋げておいて、
干渉があった瞬間に全力で反撃する。一気に決着を付けるわ。」
「干渉があるまでは、待っていなければいけないのでしょう?」 姫が問い掛ける。
「当然、そうなるわね。」 「じゃ、私の意識も繋げてお手伝いします。
そういうのは得意だし、2人より3人の方が、お互いの負担は小さくなりますよね。」
「あの、SさんとLさんの意識を僕の意識に繋げたとしたら、干渉を受けた時の、え~と
その、幻視は2人にも見えるんですか?」 もしそれだと俺のセーラー服嗜好が2人に。
「見えるけど、君が見ているものと全く同じかどうかは...」 Sさんが口ごもる。
「全く同じように見えた方が好都合ですよね。その方が反応し易いし。」 姫が微笑む。
これはもう覚悟するしかないんだな、と心を決めた。そう、色々な意味で。

昼食を済ませた後、俺は部屋で本を読んでいた。ふと、時計を見る。
2時40分だ、俺は読みかけの本を置いて部屋を出た。いつも3時頃には
皆でお茶かコーヒーを飲むことになっていて、その日は俺が当番だった。
リビングでカップやポットの準備をしていると、Sさんが駆け込んできた。
「あれ?」 「え?」 「君、何ともないの?」 「はい。」 Sさんは戸惑った顔だ。
「何かあったんですか?」 「確かにアイツの気配を感じたんだけど、おかしいわね。」
「僕は何も」と言いかけてハッとした。いつもなら俺の当番を手伝ってくれる姫がいない。
「あああ、あの、姫、いやLさんが。」 Sさんがものすごい勢いで走り出した。
俺も慌てて後を追う、姫の部屋へ。何故俺ではなく姫が...
Sさんがドアをノックして「L!L!」と呼び掛ける。返事がないと見るや
Sさんはドアを開けて中へ飛び込んだ。俺も続いて部屋の中に入る。

 

姫はベッドに横たわっていた。顔がいつにも増して蒼白く見える。
俺は姫のベッドに駆け寄った。寝ているだけか、息はしているか。
俺の頬に姫の吐息を感じた、息をしてる。大丈夫、なのか?
「息をしてます。」 「そうね、良かった。」 姫が身じろぎをして眼を開けた。
「あれ、Rさん。Sさんも。私、寝過ごしちゃいましたか?」
「L、あなた何ともない?」 Sさんの顔はまだ緊張したままだ。
「本を読んでいたら急に眠くなって、いつの間にか寝ちゃいました。
でも、何だかすごく良い気分です。」 姫は小さく伸びをして体を起こした。
「とってもお腹がすきました。昨日のケーキ、残ってましたよね。」
俺とSさんは顔を見合わせた。Sさんは一言だけ「どういう事?」と呟いた。

俺とSさんはホットコーヒー、姫はミルクティーと大きく切り分けたケーキ。
お茶の時間を終えて暫くすると、いよいよ俺たちはリビングで臨戦態勢に入った。
姫は未だ眠気が完全に覚めていないのか、時々小さく欠伸をしていたが、
Sさんの指揮の下、皆で「気配」が侵入してくるのを待ち続ける。
意識をコントロールする時間、コントロールを外す時間。ランダムに繰り返す。
ひたすら繰り返し、そしてKが干渉してくるのを待つ。只、じっと待つ。
何度それを繰り返したのか、不意に姫がSさんを人差し指でそっと突付いた。
「さっきから微かに気配を感じます。それに、段々気配が濃くなってる気がします。」
「多分、間違いない。...R君、あと2分経ったらコントロールを外して。」 「了解。」
Sさんが眼を閉じて深呼吸をする。意識を集中し、『力』を貯めているのが分かる。
じりじりと時間が過ぎていく。あと1分30秒、1分、30秒、20秒、10秒。
時計の秒針が直立した瞬間、俺は辺りに漂う気配に注意を向ける。『鍵』を外した。
通い路が開き、イメージが一気に流れ込んで来る。
その時、Sさんが叫んだ。「駄目、『鍵』を掛けて!アイツはもう」 しかし、遅かった。

 

そこは暗い部屋の中ではなく、草原の中の小さな公園だった。青い空が眩しい。
目の前に彼女、Kが立っていた。白いワンピースに麦藁帽子、
両手を腰の後ろで組んで、黙って俯いている。
「そうしていると、区別がつかない。君はあの娘と、どんな関係なんだ?」
麦藁帽子を取り、彼女はゆっくりと顔を上げた。真っ直ぐに俺を見つめている。
前回の少女の姿ではなく、成人した大人の女性の姿だ。言葉を失うほど美しい。
「今日も私を、『君』と呼ぶのね?」
「年下の女性は皆、『君』と呼ぶ事にしてる。今日は年上みたいだけど。」
「年上でも年下でも、私はあなたの敵なのよ。」
「この前は済まなかった。つい、逆上した。
でも、それぞれの生まれを選べない以上、敵対するしか無かった。」
「生まれが違っていたら、敵対する事は無かったと言うの?」
「絶対無かったなんて言えない、でも、出来れば君とは敵対したくない。
この前、君の肌に触れ、涙を見た時に、俺はそう思った。君は?」
彼女は傍らのブランコに乗り、もう一度俯いた。ブランコが静かに揺れる。
「何故、私はこんな風に生まれたのかしら?」
「何故、あの娘はあんな風に、生まれたのかしら?」
「何故、あの娘だけが、あなたに守られて、幸せに、なるの、かしら?」
「今の、あの娘の状態は、君が一番良く知っている筈じゃないのか?
あの娘だって、長い長い不幸な時間を過ごして」
「止めて!」
「あの娘は、あなたに会えたし、あなたに愛された。 私は、会えなかった。」
「私は、愛され、なかった。 誰にも。」
彼女の激情がチリチリと空気を焼く。しかし、それはあっけなく、弱まっていく。
ああ、そうだったのか。君は。涙が溢れてきた。
「もう、無理しなくて良いよ。今の君に、俺が出来るだけの事をさせてくれ。」

 

暗い小さな部屋で、体の半分を血に染めて、彼女は冷たい床の上に横たわっていた。
眼を閉じたまま、もう、呼吸音は途切れ途切れで、左胸から出血が続いている。
これではもう、助かるはずがない。静かに、彼女の傍らに膝をつく。
「こんな状態で、何故、無理をしたんだ?俺たちが罠を仕掛けている事くらい、
君なら予想できた筈なのに。どうして?」 涙が止まらない。
震える右手で彼女の頭を支え、左腕をゆっくり背中に廻して上半身を抱き起こした。
左掌で彼女の胸の傷を押さえ、小さな肩をそっと抱き締める。
彼女は目を開いた。「どうせ、死ぬのなら、あなたに、もう一度だけ、会いたかった。」
「お願いが、あるの。」 「何だ?何でも言ってくれ。」
「寂しい、の。私と、一緒に来て。あの娘の術は、もう、解いた、から。」
「私の事、愛してくれなくても、良い。一緒に来て頂戴、お願い。」

 

小さく咳き込んで、彼女は真っ赤な血を少し吐いた。
俺はシャツの袖口で彼女の口元を拭った。おそらくは、深く傷ついた肺からの喀血。
幼くして肉親を殺され、自分は拉致され、自分の生き方を選ぶことも出来ず
術師として生きてきて、年頃の女性らしい楽しみや幸せを感じる事も出来ないまま
それでも、凛として「悪趣味な術は使わない」と言い切った、誇り高く美しい人。
そんな人が、俺みたいなさえない男に、こんな事を...
何故、この人は、最後までこんな辛い思いをしなければいけないのか?
分からなかった。どんなに考えても、俺には分からなかった。でも、もう時間が無い。
恐らく、彼女に残された時間はもう極く僅かだ。俺は涙を拭った。
自分の顔に微笑が浮かぶのを感じる。
「分かった。行くよ、一緒に。」
息を呑んで彼女は俺の眼を見詰めた。沈黙の中、静かに時間が過ぎていく。
「馬鹿、ね。本気でそんな事、言うなんて。ちゃんと、あの娘を守って、愛して、あげて。」
彼女が僅かに左手を持ち上げた。その手をしっかりと握る。
ぎゅ、と俺の手を握る彼女の左手に力がこもった。
次の瞬間、景色が元に戻っていた。眩しい青空、草原の中の小さな公園。
彼女は微笑んでいる。「綺麗ね。 こんな場所で、あなたに、出会いたかった。」
俺は彼女の耳に囁いた。「.. ..... ......」 彼女だけのための、言葉。
彼女はゆっくり目を閉じた。目尻から一筋の涙が流れて、 ふっ と左手の力が抜けた。
何時の間にか、俺はリビングのソファに座り、じっと両手を見つめている。
べっとりと俺の両手と左胸を染める真っ赤な血。彼女の血。
「やっぱり、幻視じゃ無かった。」 俺は呆然と呟いた。
「こんな事って。」遠くでSさんの声が聞こえた後、
俺の意識は深い闇に吸い込まれた。

 

 

 

夢を見ていた。 暗闇の中、誰かが俺の耳元で囁いている。
女性の声だ。 ああ、俺は知っている。 これは、誰の声だったろう。

「ごめんなさい。2人の意識を同調させたままだったから、
あの時、あなたも引き摺られてしまったのね。でも、もう、戻って。
ここはあなたのいるべき所じゃない。あなたを待っている人の所へ、戻って。」

俺を待っている人? ふと、瞼の裏に姫の顔が浮かんだ。
泣き虫のあの娘は、俺を待っていてくれるのだろうか。
いや、待て。 一体、今日は何日だ?
姫の誕生日は? 姫は無事か?

 

慌てて体を起こすと、俺はベッドの上にいた。 左腕の点滴、真っ白いシーツ。
そして消毒薬の匂い。「病院?」 その時、ドアが開いて何かが落ちた音がした。
床のレジ袋、ペットボトルが回転しながら転がって来る。
「R君!」 病室の入り口にSさんが立っていた。
ベッドの横の椅子に腰を下ろし、Sさんは俺の両手を握った。「良かった。ずっと、待ってた。」
そうだ、思い出した。 Sさんなら、きっと知ってる。 「あの、今日は? Lさんは?」
「大丈夫。確かにKは術を解いてくれていたし、誕生日も無事に過ぎたわ。
とても強い術だから後の手当てが必要だったけど。でも、きっと、もう直ぐ戻れる。」
「それ位ならSさんが。」 Sさんは寂しそうに首を横に振った。「私は、失格だもの。」
「失格?」
「私、あなたを死なせる所だった。あの時、Kが最後にあなたの意識に干渉した時
もう既にKは瀕死の状態で、ただ一途にあなたに会いに来ていたの。
あの干渉にはひとかけらの邪気も無くて、だから私には反撃の方法が無かった。
もし、Kが本当にあなたを連れて行く気だったら、私には止められなかった。
あの時、あなたが連れて行かれていたら、私は。」
一気にそこまで喋るとSさんは黙った。そして俺の両手を握ったまま俯いている。
いつも背筋を伸ばして「うん、良い返事。」と言うSさんらしくないのが、とても哀しかった。
「軍師の作戦を信じたのに、僕は犬死にの、死に損ないですか?」 「え?犬死にって。」
「Sさんを信じて、自分を信じて、僕は必死でした。ただ、Lさんを助けるために。
その為なら死んでも良いと思って頑張ったのに、軍師が自分の作戦を間違ってたと言ったら
作戦を信じて、戦って死んだ兵士はそれこそ犬死にです。
それでもあの作戦が間違っていたと言うんですか。あれが最善の策では無かったと?」
「...あの時の事で、あれ以上の結果は望めなかった。でも、それはあなたが。」
「結果が良かったのなら、作戦が正しかったという事です。作戦が正しかったからこそ
僕は、今ここで生きてます。Sさんのお陰です。失格だなんて、言わないで下さい。」
「ありがとう。でも、『上』に頼んで、暫く休むことにしたの。もう、哀しいだけの戦いは嫌。」
Sさんは何だかとても疲れているように見えた。

俺が昏睡から覚めたのは12月1日だった。月が替わっていて、何か損した気分になった。
担当医からは、俺があの日からずっと昏睡状態で体力はかなり消耗しているが、
意識さえ戻れば特に問題は無いという診断が出ていたそうで、直ぐに退院の許可が下りた。

 

翌日俺は退院して、Sさんの車でお屋敷に帰った。木々の中にそびえる大きな建物は、
初めて此処に来た時と全く変わっていなかった。それが何だかとても、懐かしかった。
あの白いスポーツカーで俺を迎えに来てくれたSさんは幾らか元気になっていて、
消耗した俺に気を使い、入浴や食事、色々と世話を焼いてくれて有難かった。
その夜、Sさんはベッドの中で一晩中俺に寄り添っていてくれたが
何かの拍子に小さくすすり泣く声が聞こえて、あの時に受けたSさんの心の傷が
癒えるのには、まだまだ長い時間が必要なんだろうなと思った。
きっと『あの人』の最後の姿が、Sさんの考え方を変えつつあるのだろう。
でも、俺にはそれが悪い変化だとは思えなかった。
明け方、Sさんが眠ったままで涙を流した時、
昔、母が歌ってくれた子守唄を口ずさみながら、俺はSさんの髪を撫でた。
この優しい人が、せめて暫くの間でもゆっくり休めると良い。そう思いながら。

翌朝、遅い朝食を食べていると、Sさんが「Lは明日帰れるって。」と教えてくれた。
俺の意識が戻って直ぐに知らせたけれど、誕生日から一週間は様子を見てからでないと
帰れないらしい。「『直接話すと帰りたくなるから電話は繋がないで』って言ってたわ。」
「あの娘らしくて、可愛いわね。」とSさんは笑った。 また少し元気になっていた。

姫がお屋敷に帰ってきたのは、12月3日の午後だった。
車の音に気付いて玄関まで迎えに出ると、
脱いだ靴を揃えて立ち上がり、振り向いた姫と眼が合った。
わずか10日余りの間に見違える程大人っぽくなり、
既に大人の女性としての魅力を漂わせ始めていた。そして、
その姿は否応なく『あの人』の記憶を呼び覚まし、俺の胸は痛んだ。

 

Sさんが姫の荷物を持ってさっさと奥へ引っ込んでしまったので、
何となく気まずい雰囲気の中、2人、玄関先で見つめ合っていた。
黙っているのに耐えられなくなって、俺が先に声を掛けた。
「お帰りなさい。」 「...ただいま。」 ぎこちない会話だが、それは仕方無い。
「無事に帰って来てくれたんですから、あの時の事で言い訳する必要は無さそうですね。」
「馬鹿っ!」
平手が飛んで来た。左頬が派手な音を立てる。
「痛。」

「『あの人』を、あんなに優しく抱き締めて。」
「私を、置いて行こうとして。」
「『あの人』に、最後はあんな言葉を囁いて。」
「誕生日も、一緒にお祝いしてくれなくて。」
「こんなに長く、私を独りぼっちにして。」
「こんなに、心配させて。」
「ちゃんと...言い訳して下さい。」

姫の大きな目に、涙がいっぱい溜まっていた。
俺は姫を抱き寄せた。姫は俺の首に両腕を廻し、声を殺して泣いている。
小さくしゃくりあげる泣き声が、愛しくて愛しくて堪らなかった。

 

「あの時、僕に出来た全ての事を誇りに思っています。後悔はありません。
最初から、『あの人』が貴方の術を解いてくれるなら、何でもすると決めていました。
『あの人』の姿と言葉に心が動きましたが、それを疚しい事だとは少しも思いません。
僕はそうするべきだったし、心からそうしたいと思っていましたから。
そして、貴方が『一番好き』だからこそ、あの時、僕にそれが出来たと思っています。」

姫は両腕を離して真っ直ぐに俺を見つめた。涙に濡れた、澄み切った綺麗な瞳。
その瞳は今、俺の心の中を見ている。じぃん、と、俺と姫の心の一部が重なる。
「本当に私が『一番好き』ですか?」 「はい、貴方が一番好きです。」
「私を置いて行きませんか?」 「はい、何処にも行きません。」

「ごめんなさい、私、Rさんの...信じるって...」
また、姫の目から大粒の涙が溢れてきた。
「謝る必要なんてありません。」俺はもう一度姫をしっかり抱きしめた。
「僕の心を覗いても、貴方が悲しむ事は無いと言った筈です。言ったとおりでしょ?」
姫は俺の左肩に顔を埋めたまま何度も何度も頷いた。
温かく、柔らかな感触。もうこの人と離れる事は無い、そんな予感がした。

 

 

出会い 完

 

藍物語シリーズ【全40話一覧】

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