バイトを辞めてからは街へ出掛ける事も無く、お屋敷の図書室にある本を読んだり、
姫と2人でお屋敷の周りをサイクリングしたりして過ごした。
お屋敷の周りの土地は、その土地自体に特別な力があるから、
巨大な結界となってアイツ等の式から俺たちを守ってくれるとSさんは言った。
「でも、アイツ等がこの場所を突き止めたら、物理的な強行突破でLやR君を
拉致しようとするかもしれない。もしこの場所が突き止められたら外出は禁止。」
それは当然の処置だし、第一そうなれば俺自身外出する気にはならないだろう。
お屋敷の1階、姫の部屋の斜め向かいに俺の部屋は割り当てられていたが
2人で夜を過ごす時は、俺が姫の部屋を訪ねた。2人で夜を過ごすといっても
姫の体の事を考えて、2人並んで寝るだけだったが、2人とも、それで十分幸せだった。
姫が寝付くまで、手を繋いで話し合う事もあった。2人の事、将来の事。
姫の誕生日を無事に乗り越えたら、その先に広がっているはずの明るい未来。
そして月に一度か二度は、Sさんが「妹の力」で結界を張り直してくれた。
静かに、本当に不思議なほど静かに、日々は過ぎて行った。
時が経つにつれ、姫は益々美しくなった。10月の終わり頃になると、
胸や腰も少しふっくらとして、体のラインが少しずつ女性らしくなってきていた。
Sさんは「そろそろ初潮が来るかな、楽しみだね。」と喜んだ。
しかし、それは同時に『その日』が近づいている事を意味していた。
姫を守れるかどうか、つまり俺の気持ちが本物かどうか、それを試される日が。
下
「何か変。」買い出しから帰ってきて車を降りるなり、Sさんが言った。
「見慣れない車、ですか?」 後部トランク一杯の買い物袋を両手に下げ、運びながら尋ねる。
10月の終わり頃から、この辺りの交差点など要所要所を何台かの車が巡回している。
昼間はあまり見かけないが、夜間は頻繁に巡回して他の車の出入りを監視しているらしい。
Sさんが「あれは『上』に頼んだの。強行突破の可能性もゼロじゃないし。」と言っていたので、
いよいよ不審な車の報告があったのかと思ったのだ。 「ううん、そうじゃない、ただ。」
「このあたり一帯の土地で『地脈』が乱れてるの。そのせいで結界の力が弱まってる。」
「アイツ等の仕業ですか?」 「それはまだ判らない。だけど、用心しておいた方が良さそう。」
「アイツ等の式が此処に来る事もありますか?」 俺はあの不気味な目玉を思い出していた。
「式なら此処には近づけない筈だけど...変わったことがあったら何でも知らせて。」
「あと、この話、Lには暫く黙っててね、心配すると思うから。」 「了解です。」
後で考えると、これがアイツ等からの接触と干渉の始まりだったのかも知れない。
窓際の椅子に座り、暇潰しにアパートから持ってきた文庫本を読んでいた。
カチ、と音がして電子カレンダーの日付が切り替わった。11月11日0時0分。
「あと2週間か。」 カーテンを閉めてベッドに潜り込む。
姫はとうに部屋で寝ている時間だ。
前から良く眠る娘だと思っていたが、最近は更に良く眠るようになった。
女の子から女性へと体を作り変えていくには、たっぷりの睡眠が必要なのか。
そんな事を考えながら電気を消し、眠りについた。
微かに話し声が聞こえる。これは夢か、あれは誰だ。あの女の子は一体?
小さなテーブルを挟み、初老の男と若い男が向かい合って椅子に座っている。
初老の男の背後には若い女が立っていた。そして部屋の隅、フローリングの床の上で
小さな女の子が遊んでいる。その手には小さな茶色のクマのぬいぐるみ。
若い男の顔には、額から右の頬にかけて目立つ大きな傷跡があった。
初老の男が若い男に話しかけた。感情を押し殺したような低い声。
「この子は『あの力』を受け継いでいる。力が発現してからでは手遅れだ。」
「出来るだけ早く、始末しなければならん。できるだけ早く、な。」
「Lの力を封じる事は、出来ませんか?」若い男の声は震えていた。
「封じることはできん。抑えておけるのも15歳までだ。16歳になれば必ず発現する。」
「...判りました。せめてLは私の手で...お願いします。」
15歳? 16歳? L? これは何だ。俺は何を見ている?嫌な予感がした。
突然、初老の男が小さく呻いて胸を押さえ、床に倒れた。若い男は驚いて立ち上がったが
やはり呻いて床に倒れた。2人とも、もう動かない。女の子はボンヤリと2人を見ている。
「おじいちゃんとおとうさん、どうしたの?」無邪気な笑顔を浮かべて女の子が尋ねる。
「寝ちゃったみたいね。Lちゃんも、もう寝なきゃ。お姉さんと一緒にお部屋に行こうね。」
知ってる。この声は、確かに聞いた事がある。誰の声だったか。
「うん。」女の子が返事をすると、若い女が女の子を抱き上げた。
「良いお返事。」 その時、若い女の顔が見えた。 Sさんだ。かなり若いが、間違いない。
「折角持って生まれた力なのに、勿体ないわよね。力は、使うためにあるんだから。」
「ふふふ、ふふふふふ。」笑い始めた。心底楽しそうな、ゾッとする笑顔。
「ははははは。あははははははははははははは。」 変だ。これは本当にSさんなのか。
突然、女の子がこちらを向いた。整った目鼻立ちに姫の面影が重なる。
「おにいさんも、いっしょにいこう、ね。」 「あら、良い考えね。」 全身が総毛立つ。
「おにいさんも、いっしょにいこう。 わたし、おにいさんのこと、すきよ。」
意識が途切れた。
気が付くと、時計は5時半を指している。ひどい寝汗をかいていた。
ベッドから出て服を着替えていると、小さなノックの音がする。
「起きてる?」Sさんの声だ。 「はい。」ドアを開けると、
パジャマに厚手のカーディガンを羽織ったSさんが立っていた。
「話があるの。良い?」 俺は黙って頷いた。
11月中旬、朝方の空気はもうかなり冷たい。
Sさんはダイニングで熱いコーヒーを淹れ、両手をカップで温めながら話し出した。
「さっき、嫌な感じがして目が覚めたら、この家の中に入り込んでた。」
「式じゃなくて、本体が。」 カップを持っていても、寒気がして手が震える。
「君が動揺してるのを感じたから、君の意識に干渉してるのが判った。」
一度言葉を切って、真っ直ぐ俺を見つめる。 手の震えが止まった。
「さっき、何を感じた?」 Sさんの微笑。体がゆっくり温まるのを感じていた。
「感じた、って言うか。変な夢を見ました。」 「どんな夢?」
俺は夢の内容を出来るだけ詳しく話した。初老の男、顔に大きな傷跡のある若い男。
笑われるかもしれないと思ったが、若いSさんや姫の面影がある女の子の事も全部話した。
そして、彼女たちの最後の言葉も。
Sさんはずっと俺の眼を見ながら、黙って話を聞いてくれていたが、
俺が話し終えると、一つだけ質問をした。「その男性2人に見覚えはある?」
「いえ、全然見覚えはありません。知らない人達でした。」
Sさんは暫く黙った後で呟いた。「う~ん、思ってたより、ずっと難しいな。」 溜息をつく。
アイツ等がここまで侵入したとすれば、当然それは。「悪い兆候って事ですか。」
「悪い兆候もあるけど、良い兆候もある。」
「式は此処に侵入できない。当然、君に干渉することもできない。だからアイツ等の1人が
直接此処に侵入してきた。力のある相手なら、結界を抜けて直接君に干渉できるから。」
「でも『本体』なら、こちらも侵入経路の痕跡を辿ってアイツ等の居場所を特定できる。
そのリスクを冒して侵入してきたって事は、私たちの方針と作戦は間違っていないし、
相応の効果を挙げているって証拠。これは良い兆候。」
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